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第二幕 斬心 Heart of Slashing
17.天照大御神
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「──ぽぉーん、ぽぉーん、ぽぉーん……」
降りしきる雨の中、桃姫が蹴鞠をしていた。
村の片隅にある桃の木の下でずぶ濡れになった桃姫が集中して鞠を蹴り上げ続ける。
「50回……! 50回突破……! 60まであと10回っっ!!」
「──桃姫っ! 桃姫、あなたどしゃぶりの中で何やってるのッ!」
「……っ!? 母上っ!?」
桃姫が連続して蹴り上げた回数と目標の回数を叫んだとき、番傘を差した小夜が桃姫に向かって驚きの声を上げた。
「雨なのに帰ってこないから、まさかと思って来てみれば……! 母上が話してるでしょ! 蹴鞠やめなさい! 桃姫っ!」
「ちょっと待って……! いま、本当にいいところだから! 最高記録更新できそうなのっ!」
怒気を込めた言葉を発しながら小夜が近づいてくると、桃姫は鞠を蹴り上げる足を止めずに言った。
「いい加減にしなさい! こんな大雨の中で蹴鞠なんてしてたら、風邪ひいちゃうでしょッ!」
「……母上ッ! 明日の風邪より、今の蹴鞠だよッ!」
大声で注意した小夜に対して、桃姫は真剣な表情で雨水を顔から垂れ流しながら叫んだ。
「なにをバカなこと言ってるのッ! 今すぐ帰るわよッ!」
小夜はいよいよ呆れたように声に出すと、桃姫の腕を強引に掴んで蹴鞠を中止させた。
「……あああああっっ!! 蹴鞠がぁっっ!!」
桃姫が鞠を蹴るのを止めると、赤い蹴鞠はころころと桃の木の根本へ転がり、ぶつかって止まった。
「明日取りに来ればいいから、今日は帰るわよ!」
そういった小夜の手に引きずられるようにして、桃姫は自宅へと帰った。
「まったく、無我夢中になると止まらなくなるんだから……一体誰に似たのかしらね……」
「最高記録更新が……」
桃姫は小夜によって長い桃色の髪を手ぬぐいで拭かれながら恨めしそうに言った。
「蹴鞠なんていつでも出来るんだから、無理して雨の中やることないじゃない」
「ちがう……集中できるときと、できないときとがあるんだよ……」
桃姫の言葉を小夜は聞き流しながら髪を乾かし続けた。
「ただいまぁ……いやぁ、濡れた濡れた……ひどい夕立だね。仕事にならないから途中で切り上げてきたよ」
玄関から桃太郎の声がすると、桃姫がそちらを見る。
そして、のれんを開けて濡れた顔を見せた桃太郎に対して、桃姫は元気なく口を開いた。
「……父上、おかえりなさい」
「ははは、桃姫もずぶ濡れか……! 私と同じだな。あははは……!」
自身と同じく濡れそぼっている桃姫に対して、桃太郎が明るい笑顔を浮かべながら快活に言って笑った。
その様子を見ていた小夜が桃姫の長い髪を櫛で梳かしながら声を出す。
「あなた……! のんきに笑ってないで聞いてくださいな! 桃姫ったら大雨の中でね──」
──天照神宮にて。どしゃぶりの中、全身が濡れた桃姫が参道にぽつんと立っていた。
「…………」
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
光が失われ、暗くなった濃桃色の瞳で地面を見下ろすと、水たまりの中に倒れ込んだ雉猿狗が苦悶の表情を浮かべながらかすかに浅い呼吸を繰り返していた。
「……雉猿狗」
"神力"が尽きて、倒れ伏す雉猿狗に向かって、桃姫が呟くように言った。
「私……終わりたくないよ……私、こんなところでなんか……終わりたくないんだよ……」
桃姫はそう言うと、目から涙をこぼした。その涙は雨水の水滴と混じり合い、頬を伝って足元の水たまりにぽつっと落ちる。
「──桃姫ちゃん」
桃姫はその時、懐かしい親友の声を聞いた。
「……おつるちゃん」
「──桃姫ちゃんなら、できるよ」
桃姫が足元の水たまりを見る。その水たまりにはおつるの顔が映っていた。
「……本当に……?」
「──うん。桃姫ちゃんなら、できる。私を信じて、桃姫ちゃん」
おつるはほほえみ、穏やかで優しい声でそう勇気づける。
「……信じる……信じるよ、おつるちゃん」
桃姫の瞳に光が戻り始めると、水たまりにはおつるのかんざしを付けた桃姫の顔が映っていた。
「……雉猿狗、行けるところまで行こう……」
桃姫は覚悟を決めると、水たまりに倒れ伏す雉猿狗の体を持ち上げて、背中に背負い上げた。
桃姫よりも遥かに長身の雉猿狗の体である。
しかし、桃姫は全身全霊を込めて担ぎ上げると、ぐっと歯を食いしばって筋肉に力を入れた。
「……行くよ……雉猿狗、たすけるからね……」
桃姫は、背中で浅い呼吸を繰り返し、死者の顔色をしている雉猿狗に声をかけると、一歩、また一歩と拝殿の後ろにある"千歩階段"に向けて歩みを進めた。
雨水に濡れた石造りの階段はよくすべる。桃姫の木製の雪駄が何度もすべり、桃姫はその都度、手をついて体をふんばらせる。
雉猿狗を落とさないように、空いた手で担ぎ直して、そして、一歩、一歩、踏みしめるようにして"千歩階段"を登りつめていく。
「はぁッ! はぁッ! はぁッ!」
全身ずぶ濡れとなった桃姫は、荒い呼吸音を繰り返しながら、山頂近くにある本殿へと続く無限のようにも感じる長い階段を、一歩、一歩、まるで祈るような気持ちで足を前に進めた。
「……雉猿狗……雉猿狗……」
いつしか桃姫は、背中に背負う瀕死の女性の名を繰り返し口にしていた。
"雉猿狗"とは、自分にとって一体なんなのであろうかと桃姫は階段を登りながら考えた。
あの日、あの時、深い絶望に打ちひしがれ、自刃しようとした刹那に現れた、命の恩人である、"雉猿狗"。
時には頼もしい戦友であり、時には親しい姉であり、時には優しく包み込む母であり、そして時には、桃姫と一心同体であった。
しかし、桃姫にとっての"雉猿狗"を一言で言うなれば運命共同体。
"雉猿狗"がいなければ、この旅路は終わってしまう。絶対に"雉猿狗"を死なせるわけにはいかない。
「──桃姫、もうだめだって思ったときに……胸の奥底から不思議な力が湧いて出てきた経験はないかい?」
小夜が炊事場で夕飯の支度をしているとき、桃太郎が桃姫に語りかけた。
「……心臓のこと?」
「いや。心臓じゃないんだ……それはなんていうか、もっとこう……胸の奥底の……"心"の話、なんだ」
桃姫の返答に対して、桃太郎はそう言ってはにかむように微笑んだあと、遠い目をして話しだした。
「父上はね……御師匠様と厳しい山ごもりの修行をしているとき、それに鬼退治のとき……不思議な力が胸の奥底から湧き出ることがあったんだ。こんちくしょぉ……! って感じのね」
「……ふーん」
桃太郎は言ってちゃぶ台越しに桃姫のほうを見ると桃姫は軽い返事をした。
「桃姫は私の娘だから、これからの長い人生で、きっと不思議な力が湧いて出てくるときがあるはずだ」
桃太郎は濃桃色の瞳で、同じく濃桃色の瞳を見つめて言った。
「そのときは叫ぶんだ。思いっきり、大事な人の名前、護りたい人の名前を……きっと、信じられないような力が湧き出てくるよ──」
桃姫は、ふと、その何気ない日々の記憶。味噌汁の匂いが香る、二度と取り返せない大切な記憶の一片を思い出した。
「……雉猿狗……死ぬな……」
そして、呟いた。大事な人の名前を。護りたい人の名前を。
「……雉猿狗……死ぬな……」
桃姫が石造りの階段をダンッ! と力強く左手で突いた。そして、右手で背中におぶった雉猿狗をがっしりと担ぎ上げると、グッと顔を上げて、500段以上先の煙雨で白くかすむ本殿を決死の形相で睨んだ。
そして、力強く叫んだ。
「──雉猿狗ォオオオオオッッ!! 死ぬなァァアアアアアアアッッ!!」
"心"から叫んだ桃姫の全身から"白い熱気"があふれ出ると、一歩、一歩、先程より遥かに早く、力強く歩を進めていく。
その小さな体からは想像できないような力で、少女とは思えぬ決死の形相で、一歩、一歩、死にものぐるいで一心不乱に登りつめていく。
残り300段、残り100段、どんどんと本殿の姿があらわになっていき、そして、最後の一段を登りきって古びた赤い鳥居をくぐったところで桃姫はどさっと倒れ込んだ。
「……ハァ……ハァ……ハァ……」
桃姫の体から"白い熱気"が霧散していく。そして、豪華で大きい拝殿より遥かに地味で小さな本殿の姿をじっと見た。
これが、死の淵に立たされながら"千歩階段"を登り、追い求めて辿り着いた本殿の姿であった。
そのあまりにも質素な姿に満身創痍の桃姫は、ふっとおかしさすらわいてきて笑みをこぼした。
「──桃姫ちゃん、あと少しだよ」
そんな桃姫の耳元におつるの優しい声が届き、桃姫は顔を上げた。
おつるが穏やかなほほえみを浮かべながら桃姫を見下ろしていた。
「……うん……おつるちゃん……最後まで……応援してくれる……?」
「──がんばれ、がんばれ、桃姫ちゃん」
「……ははは……元気出た」
おつるの能天気で優しすぎる声音に桃姫は思わず笑ってしまい、そして思ってたことを言葉に漏らした。
「……おつるちゃん……私、おつるちゃんに……会いたいよ……」
「──うん……会おうね。いつか、会おうね。桃姫ちゃん」
「……がんばったら……会える……?」
「──うん。だから、今は立って、桃姫ちゃん──」
桃姫に向かって差し伸ばされるおつるの小さな手。その手を握って、雉猿狗を背負った桃姫がグッと立ち上がる。
「──ぐ、うおおおお……ッッ!!」
本殿に向かって怒声にも似た声を発しながら桃姫が参道を歩く。
そして、ついに、桃姫は本殿の前へと辿り着くのであった。
「……ハァ……ハァ……祈るよ……祈る……雉猿狗。祈るからね……」
桃姫は雉猿狗を背中から降ろすと、本殿の扉に向かって、二礼二拍手をした。
そして、着物の胸元に手を差し入れて河童の形代を取り出すと、両手でギュッと握りしめて目を固く閉じて祈願した。
「日ノ本最高神で御わせられる天照大御神様。桃太郎の娘、桃姫。いま、こうして"千歩階段"を登りきり、河童の形代を届けに参りました。よろしければ、大雨を止め、大風を止め、天を晴れさせてくださいませ。なにとぞ……なにとぞ……」
桃姫は心の中で強く念じ、お願いします、雉猿狗を助けてください、お願いします……と繰り返した。
不意に、桃姫は辺りがシンと静まり返っていることに気づいた。
いつからかはわからない。
目を閉じてあまりにも強く念じすぎていたため、そもそも雨風の音が桃姫の耳には入っていなかったのだ。
「…………」
桃姫は恐る恐る目を開く。そうすると、質素な本殿の木製の扉がゆっくりと開いていくことに気づいた。
そして、中から姿を表したのは黄金に装飾された鏡。その鏡に桃姫の顔が映るとカッとまばゆい白い極光が辺りを包みこんだ。
「──桃姫、ご苦労さまでした。そなたの願い、確かに天界まで届きました」
桃姫の頭の中に響く声。それは、天女の鳴らした鈴のような、この世ならざる清浄なる声音であった。
「……天照様」
鏡から顔を上げ、空を見上げた桃姫が声に漏らす。
分厚い曇天を割って黄金の光の柱が本殿の鏡へと降り注ぎ、そして、白く極光する天衣をまとった見目麗しい黒髪の女神、天照大御神がゆっくりとこちらへ舞い降りてくるのであった。
「──雉猿狗、いつまで寝ているのです。目覚めなさい」
「……ん、んん」
黄金色の瞳をした天照が言うと、桃姫の足元に寄り掛かるように倒れていた雉猿狗の顔色が良くなっていく。
そして雉猿狗は静かに目を開いて立ち上がると、天から姿を現した天照に対して濃翠色の瞳を大きく見開いて口を開いた。
「……あ、あ……天照様……!」
そんな雉猿狗の様子を見て、天照はくすりとほほえむといよいよ桃姫と雉猿狗の手の届く距離まで降りてきた。
「──犬、猿、雉の姿のほうが私には見慣れておりますが、雉猿狗としての姿も"様"になってまいりましたね」
天照がそう言うと、雉猿狗はただ平伏したと言うばかりに頭を深々と下げた。
「──日ノ本最高神として、現し世に強く干渉することは許されませんが、二人の苦難の旅路に対して神の御業を授けましょう」
「──雉猿狗、こちらへ」
天照が雉猿狗の顔に手をかざすと、雉猿狗の濃翠色の瞳に波打つような緋色の波紋が宿った。
「──神術"御雷光(ごらいこう)"……苦難の旅路の折、有効にお使いなさい、雉猿狗」
「はい……有難き、神の御業……」
雉猿狗は天照に感服しながらお辞儀をした。
「あの……天照様、一つだけおたずねしてもよろしいですか」
桃姫はそんな様子を見届けたあと、天照に怖ず怖ずと声をかけた。
「──はい。申し上げなさい、桃姫」
「ありがとうございます……あの、その……父上と、母上……おつるちゃんは、天界で幸せに暮らしていますか……?」
快く了承した天照に桃姫は、あの村での惨劇以来、ただ一つだけ聞きたかった質問を投げかけた。
「──はい」
太陽神としての暖かなほほえみでしっかりと頷いて答えた天照。
「……よがっだぁ……」
その返答を聞いた瞬間、桃姫の濃桃色の瞳にぶわっと大粒の涙が浮かび、桃姫は感嘆の声を漏らした。
「──天界より二人の旅路、皆が見護っておりますよ。臆さず前に進みなさい、桃姫、雉猿狗。この天照が、祝福しましょう」
天照はそう言って天に登っていくとバァッと黄金の光の粒子となって曇天を盛大に吹き飛ばした。
そして、空は晴れ渡り、太陽が"千歩階段"の頂上に立つ桃姫と雉猿狗の姿を祝福して照らし出した。
降りしきる雨の中、桃姫が蹴鞠をしていた。
村の片隅にある桃の木の下でずぶ濡れになった桃姫が集中して鞠を蹴り上げ続ける。
「50回……! 50回突破……! 60まであと10回っっ!!」
「──桃姫っ! 桃姫、あなたどしゃぶりの中で何やってるのッ!」
「……っ!? 母上っ!?」
桃姫が連続して蹴り上げた回数と目標の回数を叫んだとき、番傘を差した小夜が桃姫に向かって驚きの声を上げた。
「雨なのに帰ってこないから、まさかと思って来てみれば……! 母上が話してるでしょ! 蹴鞠やめなさい! 桃姫っ!」
「ちょっと待って……! いま、本当にいいところだから! 最高記録更新できそうなのっ!」
怒気を込めた言葉を発しながら小夜が近づいてくると、桃姫は鞠を蹴り上げる足を止めずに言った。
「いい加減にしなさい! こんな大雨の中で蹴鞠なんてしてたら、風邪ひいちゃうでしょッ!」
「……母上ッ! 明日の風邪より、今の蹴鞠だよッ!」
大声で注意した小夜に対して、桃姫は真剣な表情で雨水を顔から垂れ流しながら叫んだ。
「なにをバカなこと言ってるのッ! 今すぐ帰るわよッ!」
小夜はいよいよ呆れたように声に出すと、桃姫の腕を強引に掴んで蹴鞠を中止させた。
「……あああああっっ!! 蹴鞠がぁっっ!!」
桃姫が鞠を蹴るのを止めると、赤い蹴鞠はころころと桃の木の根本へ転がり、ぶつかって止まった。
「明日取りに来ればいいから、今日は帰るわよ!」
そういった小夜の手に引きずられるようにして、桃姫は自宅へと帰った。
「まったく、無我夢中になると止まらなくなるんだから……一体誰に似たのかしらね……」
「最高記録更新が……」
桃姫は小夜によって長い桃色の髪を手ぬぐいで拭かれながら恨めしそうに言った。
「蹴鞠なんていつでも出来るんだから、無理して雨の中やることないじゃない」
「ちがう……集中できるときと、できないときとがあるんだよ……」
桃姫の言葉を小夜は聞き流しながら髪を乾かし続けた。
「ただいまぁ……いやぁ、濡れた濡れた……ひどい夕立だね。仕事にならないから途中で切り上げてきたよ」
玄関から桃太郎の声がすると、桃姫がそちらを見る。
そして、のれんを開けて濡れた顔を見せた桃太郎に対して、桃姫は元気なく口を開いた。
「……父上、おかえりなさい」
「ははは、桃姫もずぶ濡れか……! 私と同じだな。あははは……!」
自身と同じく濡れそぼっている桃姫に対して、桃太郎が明るい笑顔を浮かべながら快活に言って笑った。
その様子を見ていた小夜が桃姫の長い髪を櫛で梳かしながら声を出す。
「あなた……! のんきに笑ってないで聞いてくださいな! 桃姫ったら大雨の中でね──」
──天照神宮にて。どしゃぶりの中、全身が濡れた桃姫が参道にぽつんと立っていた。
「…………」
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
光が失われ、暗くなった濃桃色の瞳で地面を見下ろすと、水たまりの中に倒れ込んだ雉猿狗が苦悶の表情を浮かべながらかすかに浅い呼吸を繰り返していた。
「……雉猿狗」
"神力"が尽きて、倒れ伏す雉猿狗に向かって、桃姫が呟くように言った。
「私……終わりたくないよ……私、こんなところでなんか……終わりたくないんだよ……」
桃姫はそう言うと、目から涙をこぼした。その涙は雨水の水滴と混じり合い、頬を伝って足元の水たまりにぽつっと落ちる。
「──桃姫ちゃん」
桃姫はその時、懐かしい親友の声を聞いた。
「……おつるちゃん」
「──桃姫ちゃんなら、できるよ」
桃姫が足元の水たまりを見る。その水たまりにはおつるの顔が映っていた。
「……本当に……?」
「──うん。桃姫ちゃんなら、できる。私を信じて、桃姫ちゃん」
おつるはほほえみ、穏やかで優しい声でそう勇気づける。
「……信じる……信じるよ、おつるちゃん」
桃姫の瞳に光が戻り始めると、水たまりにはおつるのかんざしを付けた桃姫の顔が映っていた。
「……雉猿狗、行けるところまで行こう……」
桃姫は覚悟を決めると、水たまりに倒れ伏す雉猿狗の体を持ち上げて、背中に背負い上げた。
桃姫よりも遥かに長身の雉猿狗の体である。
しかし、桃姫は全身全霊を込めて担ぎ上げると、ぐっと歯を食いしばって筋肉に力を入れた。
「……行くよ……雉猿狗、たすけるからね……」
桃姫は、背中で浅い呼吸を繰り返し、死者の顔色をしている雉猿狗に声をかけると、一歩、また一歩と拝殿の後ろにある"千歩階段"に向けて歩みを進めた。
雨水に濡れた石造りの階段はよくすべる。桃姫の木製の雪駄が何度もすべり、桃姫はその都度、手をついて体をふんばらせる。
雉猿狗を落とさないように、空いた手で担ぎ直して、そして、一歩、一歩、踏みしめるようにして"千歩階段"を登りつめていく。
「はぁッ! はぁッ! はぁッ!」
全身ずぶ濡れとなった桃姫は、荒い呼吸音を繰り返しながら、山頂近くにある本殿へと続く無限のようにも感じる長い階段を、一歩、一歩、まるで祈るような気持ちで足を前に進めた。
「……雉猿狗……雉猿狗……」
いつしか桃姫は、背中に背負う瀕死の女性の名を繰り返し口にしていた。
"雉猿狗"とは、自分にとって一体なんなのであろうかと桃姫は階段を登りながら考えた。
あの日、あの時、深い絶望に打ちひしがれ、自刃しようとした刹那に現れた、命の恩人である、"雉猿狗"。
時には頼もしい戦友であり、時には親しい姉であり、時には優しく包み込む母であり、そして時には、桃姫と一心同体であった。
しかし、桃姫にとっての"雉猿狗"を一言で言うなれば運命共同体。
"雉猿狗"がいなければ、この旅路は終わってしまう。絶対に"雉猿狗"を死なせるわけにはいかない。
「──桃姫、もうだめだって思ったときに……胸の奥底から不思議な力が湧いて出てきた経験はないかい?」
小夜が炊事場で夕飯の支度をしているとき、桃太郎が桃姫に語りかけた。
「……心臓のこと?」
「いや。心臓じゃないんだ……それはなんていうか、もっとこう……胸の奥底の……"心"の話、なんだ」
桃姫の返答に対して、桃太郎はそう言ってはにかむように微笑んだあと、遠い目をして話しだした。
「父上はね……御師匠様と厳しい山ごもりの修行をしているとき、それに鬼退治のとき……不思議な力が胸の奥底から湧き出ることがあったんだ。こんちくしょぉ……! って感じのね」
「……ふーん」
桃太郎は言ってちゃぶ台越しに桃姫のほうを見ると桃姫は軽い返事をした。
「桃姫は私の娘だから、これからの長い人生で、きっと不思議な力が湧いて出てくるときがあるはずだ」
桃太郎は濃桃色の瞳で、同じく濃桃色の瞳を見つめて言った。
「そのときは叫ぶんだ。思いっきり、大事な人の名前、護りたい人の名前を……きっと、信じられないような力が湧き出てくるよ──」
桃姫は、ふと、その何気ない日々の記憶。味噌汁の匂いが香る、二度と取り返せない大切な記憶の一片を思い出した。
「……雉猿狗……死ぬな……」
そして、呟いた。大事な人の名前を。護りたい人の名前を。
「……雉猿狗……死ぬな……」
桃姫が石造りの階段をダンッ! と力強く左手で突いた。そして、右手で背中におぶった雉猿狗をがっしりと担ぎ上げると、グッと顔を上げて、500段以上先の煙雨で白くかすむ本殿を決死の形相で睨んだ。
そして、力強く叫んだ。
「──雉猿狗ォオオオオオッッ!! 死ぬなァァアアアアアアアッッ!!」
"心"から叫んだ桃姫の全身から"白い熱気"があふれ出ると、一歩、一歩、先程より遥かに早く、力強く歩を進めていく。
その小さな体からは想像できないような力で、少女とは思えぬ決死の形相で、一歩、一歩、死にものぐるいで一心不乱に登りつめていく。
残り300段、残り100段、どんどんと本殿の姿があらわになっていき、そして、最後の一段を登りきって古びた赤い鳥居をくぐったところで桃姫はどさっと倒れ込んだ。
「……ハァ……ハァ……ハァ……」
桃姫の体から"白い熱気"が霧散していく。そして、豪華で大きい拝殿より遥かに地味で小さな本殿の姿をじっと見た。
これが、死の淵に立たされながら"千歩階段"を登り、追い求めて辿り着いた本殿の姿であった。
そのあまりにも質素な姿に満身創痍の桃姫は、ふっとおかしさすらわいてきて笑みをこぼした。
「──桃姫ちゃん、あと少しだよ」
そんな桃姫の耳元におつるの優しい声が届き、桃姫は顔を上げた。
おつるが穏やかなほほえみを浮かべながら桃姫を見下ろしていた。
「……うん……おつるちゃん……最後まで……応援してくれる……?」
「──がんばれ、がんばれ、桃姫ちゃん」
「……ははは……元気出た」
おつるの能天気で優しすぎる声音に桃姫は思わず笑ってしまい、そして思ってたことを言葉に漏らした。
「……おつるちゃん……私、おつるちゃんに……会いたいよ……」
「──うん……会おうね。いつか、会おうね。桃姫ちゃん」
「……がんばったら……会える……?」
「──うん。だから、今は立って、桃姫ちゃん──」
桃姫に向かって差し伸ばされるおつるの小さな手。その手を握って、雉猿狗を背負った桃姫がグッと立ち上がる。
「──ぐ、うおおおお……ッッ!!」
本殿に向かって怒声にも似た声を発しながら桃姫が参道を歩く。
そして、ついに、桃姫は本殿の前へと辿り着くのであった。
「……ハァ……ハァ……祈るよ……祈る……雉猿狗。祈るからね……」
桃姫は雉猿狗を背中から降ろすと、本殿の扉に向かって、二礼二拍手をした。
そして、着物の胸元に手を差し入れて河童の形代を取り出すと、両手でギュッと握りしめて目を固く閉じて祈願した。
「日ノ本最高神で御わせられる天照大御神様。桃太郎の娘、桃姫。いま、こうして"千歩階段"を登りきり、河童の形代を届けに参りました。よろしければ、大雨を止め、大風を止め、天を晴れさせてくださいませ。なにとぞ……なにとぞ……」
桃姫は心の中で強く念じ、お願いします、雉猿狗を助けてください、お願いします……と繰り返した。
不意に、桃姫は辺りがシンと静まり返っていることに気づいた。
いつからかはわからない。
目を閉じてあまりにも強く念じすぎていたため、そもそも雨風の音が桃姫の耳には入っていなかったのだ。
「…………」
桃姫は恐る恐る目を開く。そうすると、質素な本殿の木製の扉がゆっくりと開いていくことに気づいた。
そして、中から姿を表したのは黄金に装飾された鏡。その鏡に桃姫の顔が映るとカッとまばゆい白い極光が辺りを包みこんだ。
「──桃姫、ご苦労さまでした。そなたの願い、確かに天界まで届きました」
桃姫の頭の中に響く声。それは、天女の鳴らした鈴のような、この世ならざる清浄なる声音であった。
「……天照様」
鏡から顔を上げ、空を見上げた桃姫が声に漏らす。
分厚い曇天を割って黄金の光の柱が本殿の鏡へと降り注ぎ、そして、白く極光する天衣をまとった見目麗しい黒髪の女神、天照大御神がゆっくりとこちらへ舞い降りてくるのであった。
「──雉猿狗、いつまで寝ているのです。目覚めなさい」
「……ん、んん」
黄金色の瞳をした天照が言うと、桃姫の足元に寄り掛かるように倒れていた雉猿狗の顔色が良くなっていく。
そして雉猿狗は静かに目を開いて立ち上がると、天から姿を現した天照に対して濃翠色の瞳を大きく見開いて口を開いた。
「……あ、あ……天照様……!」
そんな雉猿狗の様子を見て、天照はくすりとほほえむといよいよ桃姫と雉猿狗の手の届く距離まで降りてきた。
「──犬、猿、雉の姿のほうが私には見慣れておりますが、雉猿狗としての姿も"様"になってまいりましたね」
天照がそう言うと、雉猿狗はただ平伏したと言うばかりに頭を深々と下げた。
「──日ノ本最高神として、現し世に強く干渉することは許されませんが、二人の苦難の旅路に対して神の御業を授けましょう」
「──雉猿狗、こちらへ」
天照が雉猿狗の顔に手をかざすと、雉猿狗の濃翠色の瞳に波打つような緋色の波紋が宿った。
「──神術"御雷光(ごらいこう)"……苦難の旅路の折、有効にお使いなさい、雉猿狗」
「はい……有難き、神の御業……」
雉猿狗は天照に感服しながらお辞儀をした。
「あの……天照様、一つだけおたずねしてもよろしいですか」
桃姫はそんな様子を見届けたあと、天照に怖ず怖ずと声をかけた。
「──はい。申し上げなさい、桃姫」
「ありがとうございます……あの、その……父上と、母上……おつるちゃんは、天界で幸せに暮らしていますか……?」
快く了承した天照に桃姫は、あの村での惨劇以来、ただ一つだけ聞きたかった質問を投げかけた。
「──はい」
太陽神としての暖かなほほえみでしっかりと頷いて答えた天照。
「……よがっだぁ……」
その返答を聞いた瞬間、桃姫の濃桃色の瞳にぶわっと大粒の涙が浮かび、桃姫は感嘆の声を漏らした。
「──天界より二人の旅路、皆が見護っておりますよ。臆さず前に進みなさい、桃姫、雉猿狗。この天照が、祝福しましょう」
天照はそう言って天に登っていくとバァッと黄金の光の粒子となって曇天を盛大に吹き飛ばした。
そして、空は晴れ渡り、太陽が"千歩階段"の頂上に立つ桃姫と雉猿狗の姿を祝福して照らし出した。
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(こちらとミッドナイトノベルズでの同時掲載です)
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主人公の直接復讐する要素は、あまりありません。
相手方の、あまりにも酷い自堕落さから出てくる、ざまぁ要素は、少しづつ出てくる予定です。
ハーレム要素は、不明とします。
復讐での強制ハーレム要素は、無しの予定です。
追記
2023/07/21 表紙絵を戦闘モードになったあるヤツの参考絵にしました。
8月近くでなにが、変形するのかわかる予定です。
2024/02/23
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