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第二幕 斬心 Heart of Slashing

15.伊勢湾颶風

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 桃姫と雉猿狗が河童の領域を立ってから1ヶ月が経ち、季節が春から夏に移り変わろうとしている頃。
 二人は紀伊半島を旅して紀伊から伊勢へと到着し、海沿いの手近な宿屋にて休息を取っていた。

「……今朝からずっと雲行きが悪いですね……明日は相当の大雨になりそうです」

 雨戸を開いた二階の窓から海上の空の様子を観察していた雉猿狗が呟く。
 分厚い鈍色の雲が地平線から迫ってきており、まだ雨こそ降っていないものの、明日からの天候の悪さを物語っていた。

「そっか……じゃあ、明日はこの部屋で寝て過ごそう」

 桃姫はちゃぶ台の上に置かれたみかんを食べながら雉猿狗に向かって返した。

「……あまり、このような天気が続いてほしくはないのですが」

 雉猿狗は困ったような顔で言いながら木製の雨戸を閉めると、桃姫と対面する位置に置かれた座布団の上に座った。

「雉猿狗の栄養になる、お日様の光が吸収できないから……?」
「……はい。特に分厚い雨雲が空にあると、体の奥底から力が抜けていくような感じがしてしまいます……」

 桃姫の言葉に力なく返した雉猿狗。ふう……と息を吐きながら額に手を当てて目を閉じた。
 珍しく具合の悪そうな雉猿狗の様子を見て桃姫も心配になった。

「雉猿狗。みかん、食べて。お日様の力が少しは貰えるかもしれないよ?」

 そう言った桃姫が籠の中に入ったみかんを一つ手にとって雉猿狗に差し出す。

「ははは……そうですね。あまり、食欲はないのですが、桃姫様のみかんは断れません」

 雉猿狗は微笑みながらみかんを受け取り、そして桃姫と二人で食べた。
 その日の夜になって、天候は一気に悪化した。
 ビュウビュウと吹き付ける突風が閉じられた雨戸を激しく揺らし、猛烈な豪雨が二階建ての古びた木造の宿屋に対して容赦なく叩きつけられた。

「……ごほっ……ごほっ、けほっ」
「……雉猿狗、大丈夫……?」

 行灯の薄明かりに照らされる部屋で布団に横になった雉猿狗が苦しそうに咳を繰り返した。

「大丈夫、です。ちょっと……息苦しくて……けほっ」

 雉猿狗は口元を手で抑えながら桃姫に言うと、布団から起き上がってちゃぶ台の上に置かれた急須から湯呑みに水を出してゆっくりと飲んだ。

「……すみません、桃姫様。私の咳がうるさくて、眠れませんよね……」
「違うよ、雉猿狗。寝れないのは雉猿狗のせいじゃなくて、この強い雨と風のせいだよ」

 謝る雉猿狗に対して、桃姫は布団から上半身を持ち上げて否定した。

「こんなに凄い雨は生まれて初めてだよ……」

 桃姫は不安げな表情でガタガタと揺れる雨戸を見た。

「……この雨を伴った暴風は、颶風(ぐふう)と呼ばれているものです……日ノ本の南の海からやってくる渦を巻いた大風だそうです」

 雉猿狗はそう言うと苦しそうに目を閉じて重い溜息を吐いてから口を開いた。

「……耐えましょう、桃姫様。きっと、すぐに通り過ぎるはずですから……」
「……うん」

 雉猿狗の言葉に桃姫は頷いて返した。
 しかし、翌朝になっても豪雨は止まず、宿屋に叩きつける風はむしろその強さを増していった。

「──失礼するよ、お二人さん」

 宿屋の年老いた女将がそう言いながら引き戸を開けると、ちゃぶ台に対面して座る桃姫と雉猿狗が女将のほうを向いた。

「大変なことになったねぇ……こんなに強い風は、伊勢にずっと暮らしてるあたしでも記憶にないよ。ご覧の通り、この宿屋は年季が入っててね……万が一があるかもしれないんだよ」
「……万が一、ですか」

 腰の曲がった女将の言葉を聞いた雉猿狗が眉根を寄せて呟く。

「そうだ……だから、明るいうちにもっとしっかりしたところに避難しておいたほうがいいと思ってねぇ……泊まってるお客さんは、あんたら二人だけだからさ」
「……女将さんがそうおっしゃるなら、避難するべきなのでしょうね……桃姫様、行きましょう」
「うん」

 雉猿狗はそう言って桃姫に目配せすると、桃姫と一緒に立ち上がった。そして、二人は荷物をまとめて宿屋の玄関まで移動する。

「女将さん、どこか行く宛てはありますでしょうか……?」
「そうだねぇ……隣村に漁師をやってる甥っ子がいてねぇ。喜兵衛ってんだけど……あの子の家なら頑丈かもしれないねぇ」
「……わかりました」

 女将の言葉を聞いた雉猿狗が頷いて返すと、女将に向かって背中を向けてしゃがみこんだ。
 そして、女将の顔を横目で見る。

「な、なんだい……?」
「この暴風雨の中を歩くのは危険です。私の背中にしがみついてください。そして、どちらに向かえばいいのか私に教えて下さい」

 女将は雉猿狗の突然の行動に驚きながらも、その真摯な眼差しと声を聞き、覚悟を決めて口を開いた。

「わかった。背中、失礼するよ……よい、しょ……と」

 年老いた女将は雉猿狗の肩に腕を回し、小さな体で背中にしがみついた。

「桃姫様も、決して離れないように私の後を追ってきてくださいね」
「うん……!」

 雉猿狗の言葉に桃姫が頷いて答えて返すと、雉猿狗は玄関の引き戸をガラガラ……と開け放った。
 その拍子に猛烈な雨風が宿屋の玄関に吹き込む。雉猿狗は一瞬怯むも、外に向けて一歩二歩と足を踏み出し、豪雨と暴風の中にその身を晒した。

「……そこ! その分かれ道を右だよ……! そっちが村の入口だ……!」

 ずぶ濡れになりながらも懸命に雉猿狗の背中にしがみついた白髪の女将が指示の声を出す。
 その声を聞きながら視界の悪い中を懸命に前に進む雉猿狗。

「桃姫様……! ご無事ですか……!」
「……うん!」

 雉猿狗が後方にいる桃姫に声を掛けると、桃姫が答えて返した。
 桃姫は小さな体を荒れ狂う暴風に吹き飛ばされないように気をつけながら雉猿狗から離されないように雨風の中を進んだ。
 そして、なんとか隣村まで辿り着き、女将が甥っ子の家と言った頑丈そうな家の戸を叩くと、中から出てきた喜兵衛に三人は迎え入れられるのであった。

「──ああ、あのオンボロの宿屋じゃあこの大風には耐えらんねぇだろうなぁ。今頃は潰れてるかもわかんねぇ……がははは」

 茶色く焼けた肌をして頭に手ぬぐいを巻いたガタイの良い漁師である喜兵衛はそう言って笑うと、囲炉裏の前で火にあたって体を温める女将が不満そうに口を開いた。

「オンボロってぇねぇ……あたしのおとっつぁん……あんたの爺さんが苦労して建ててくれた立派なお宿なんだよ……」
「そりゃあ昔の話だっぺよ。大昔の」

 女将の言葉を聞きながら、あぐらをかいて酒を飲む喜兵衛。屋内では暴風や豪雨の音こそ聞こえるが家屋が揺れることもなく、宿屋よりは遥かに静かで快適であった。
 桃姫と雉猿狗も温かい部屋の中で休ませてもらっていると、喜兵衛の妻が魚のつみれ汁が入った御椀を乗せたお盆を台所から運んでくる。

「口にあうかわかんねけど、よかったら飲んでくだせ、あったまりますから」

 そう言って微笑みながら桃姫と雉猿狗の前に湯気が立つ御椀を置き、その上に箸を置いた。

「ありがとうございます……!」
「…………」

 体が冷えて空腹でもあった桃姫は嬉々として感謝の言葉と共に頭を下げてから御椀と箸を手に持つ。
 具合の悪そうな雉猿狗はそのあとに黙って力なく頭を下げた。

「……すみません、桃姫様。私の分も頂いてください……私は少し、休ませて……頂きます……」

 雉猿狗は苦しそうに桃姫にそう言うと、その場にパタリと倒れ込んで浅い呼吸を繰り返した。

「……雉猿狗」
「喜兵衛や、この方はね、あたしを背負ってここまで運んできてくれたんだよ。疲れてるから、布団で寝かせてやっておくれ」

 心配そうに雉猿狗を見つめる桃姫。女将の話を聞いた喜兵衛は頷くと、部屋に布団を敷いてその上に雉猿狗を寝かせた。
 雉猿狗は白い肌を赤く火照らせながらハァ……ハァ……と辛そうに浅い呼吸を繰り返した。
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