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第二幕 斬心 Heart of Slashing

10.仏炎

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 今まさに、鬼蝶の無慈悲な一撃が雉猿狗に対して放たれる、その寸前。
 爆風によって辺り一帯が残骸と化した路地裏にサァッ……! と場違いな心地よい春風が吹き込んだ。

「……っ」

 今の状況に全く不釣り合いな清涼な春の夜の風をその身に受けた雉猿狗は濃翠色の瞳を思わず見開いた。
 開けた瞬間、ほんの一瞬、天界で見た天照大御神の微笑みが雉猿狗の記憶に呼び覚まされた。

 ──この"春の風"は……"神の風"。

 雉猿狗はそのような想いを思考に走らせた。
 そして、焼き裂けた雉猿狗の着物の胸元から大切に仕舞っていた"お守り"の桃姫の髪の毛がふわぁっ……と大気中に舞い上がり、風に運ばれて鬼蝶の顔にピトリ──と付着する。

「──えっ」

 鬼蝶は突然の出来事に気の抜けた声を漏らした。そして次の瞬間──。

「──ヤッッ!! イヤアアアアアアアアッッ!!」

 ボワアァッ──と静かに燃え上がる"白い炎"に顔を焼かれて、この世のものとは思えないおぞましい絶叫の声を張り上げた鬼蝶。
 鬼蝶の顔に付着した桃姫の髪の毛が瞬く間に発火して燃え上がり、鬼蝶にまとわりつく"白い炎"と化したのであった。
 大気中に舞っている桃姫の髪は、まるで意思を持っているかのようにピトッピトッ──と鬼蝶の全身に吸い付くと次から次へと発火して、摩訶不思議な"白い炎"へと転じていく。

「──何よこれッ!? イヤッ! 熱いッ! ギャアアアアアッッ!!」

 鬼蝶は全身を襲う熱傷の激痛に耐えきれず地面に倒れ込むと、白い火だるまになってのたうち回りながら咆哮を上げた。

「──何をしたッッ!! 雉猿狗ッッ!! あなたッッ!! 何をしたのよォッッ!!」

 "白い炎"に包まれながら憎々しげに顔を上げて雉猿狗に向かって叫ぶ鬼蝶。

「……何を……私は一体、何をしたのでしょうか……」
「雉猿狗っ、何したの……!?」
「いえッ、わ、わかりませんっっ!! ただ、桃姫様の髪の毛がっ……私の"お守り"が鬼の体を燃やして……!」

 雉猿狗と桃姫は地面をのたうち回って苦しむ鬼蝶を見ながら一体何が起きたのか困惑しながらも互いに桃源郷と桃月を拾い上げた。

「雉猿狗……! とにかくトドメを刺そう! この悪い鬼はここで殺さないといけないよッッ!」
「……はいっ、桃姫様……!」

 桃姫は疲労困憊しながらも雉猿狗の隣に立ち並ぶと、桃月を構えて鬼蝶に対峙する。雉猿狗もそれに呼応して桃源郷を両手で構え直した。
 地面に倒れ伏し、戦意喪失しているようにも見える白く燃える鬼蝶は哀れにも思えるが、鬼に対して情けをかけられる状況ではなかった。

「──やるよ、雉猿狗……!」
「はい……!」

 桃姫と雉猿狗が銀桃色の仏刀の刃の切っ先を鬼蝶に向け、"鬼殺し"の覚悟を決めると、篠笛の旋律が高らかに周囲に響き渡った。

「──みにくい虫ども……! さっさと私を助けなさいな……ッ!」

 丸めた胴体の中で篠笛を吹き鳴らした鬼蝶は、鬼の身を焼き焦がす"白い炎"を背中から噴き上げながら必死の形相で言った。
 そして、即座に篠笛の旋律を聞き届けた三匹の鬼虫が夜空から鬼蝶を目掛けて飛来してくる。

「性懲りもなく……! また虫を呼んだのですかッ!」

 夜空を見上げた雉猿狗が叫ぶ。三匹の鬼虫は鬼蝶を護るように着地すると、桃姫と雉猿狗は鬼蝶と距離を取らざるを得なくなった。

「くっ……虫と戦う力はもう残ってないよ……!」
「……桃姫様、逃げましょう……! あの鬼は"白い炎"に焼かれて死にますッッ!!」

 歯噛みする桃姫に対して雉猿狗は言うと、桃姫は頷いて返した。そして、二人は鬼蝶に背を向けると、爆風によって崩壊した路地裏を走り去っていく。

「──逃げるなッ! 桃姫ッ! ……雉猿狗ッッ!! 逃げるなぁッ!」
「……雉猿狗っ! 鬼が何か言ってるっ!」
「鬼の言葉を聞いてはなりません! 桃姫様ッ! 振り返らず走り続けてくださいッ!」

 去っていく二人の背中に向けられて発せられる、燃えて苦しむ鬼蝶の強い憎悪の込められた地獄の叫び。
 桃姫と雉猿狗は鬼の怨念の言葉を聞かぬようにしながら、懸命に走って堺の都を離れた。

「──よもや、このようなことが起きるとはのう……くかかかかっ!」

 二人の姿が鬼蝶の視界から消えた頃、相変わらずの満面の笑みを顔面に貼り付けた役小角が黄金の錫杖の金輪をチリンチリンと鳴らしながら虫の息となっている鬼蝶に歩み寄った。

「行者様……どういうこと、です……! 私は"燃羅の力"……"火の力"を手に入れて……! もう二度と燃えない体になったはず……それ、なのに……!」

 全身を焼き焦がした鬼蝶は地面に倒れ込んだまま、全身を襲う熱傷の激痛に苦しみ悶えながら役小角に向かって訴えるように告げた。
 鬼蝶を包んでいた"白い炎"は、火勢こそ大人しくなっているものの、いまだに鬼蝶の体をじわじわと焼き焦がし続けていた。

「鬼蝶殿、この"白い炎"は、ただの炎ではない。この炎は──鬼を燃やす仏の炎、"仏炎"よ」
「……っ!?」

 役小角の言葉を聞いた鬼蝶が絶句する。

「"仏炎"を前にしては、八天鬼"燃羅の力"を持つ鬼蝶殿といえど、どうすることもかなわん」

 役小角はそう言うと、黄金の錫杖の金輪が付いた頭を鬼蝶の体に向けて差し伸ばした。
 そして、片手で合掌しながら火天のマントラを詠唱する。

「──オン──アギャナエイ──ソワカ──」

 役小角のマントラを聞き届けた"仏炎"は、鬼蝶の全身からススス……と黄金の錫杖の頭の先端へと移動して集まっていく。
 役小角は鬼蝶に向けていた錫杖の頭を持ち上げると、"仏炎"をすくいとるように空いた左手の上にふわり……と浮かばせて移動させた。

「……見事じゃ。ほんに見事な、"仏炎"よ……これを、あの桃の娘が……のう」

 役小角は深淵の闇を内包した漆黒の眼を細め、手のひらに浮かぶ"仏炎"を愛おしそうに眺めながら低い声で呟いた。

「──桃の娘……"力"を受け継いだか……あるいは桃よりも、もっと強力に……」

 役小角は感慨深く言ったあとに"仏炎"に向かって息を強く吹きかけて夜空に向かって飛ばした。

「──フゥウウッ……!」

 空中に舞った"白い炎"の塊は、ぱらぱらと小さくなって散らばり、そして赤く燃える堺の夜空に霧散して消えた。

「──まったく、これから先が楽しみだ……のう、桃よ?」

 消える"仏炎"を見届けた役小角が笑みを浮かべながら満足気に呟く。
 その言葉を聞いた鬼蝶が怒りを込めた形相で声を荒げた。

「何が、何が楽しみだというのですか……! 私の体はあの小娘のせいで焼け焦げたというのに……!」
「──黙れいッッ!!」

 不満の声を上げた鬼蝶に対して、"一喝"の怒声と共にギンッと睨みつけた役小角。

「……ひっ」

 千年の時を生きた役小角の"一喝"のあまりの迫力に鬼蝶は思わず悲鳴を上げた。
 その"一喝"は巌鬼の"鬼の睨み"よりも遥かに恐ろしいものであった。

「……これは、わしと桃太郎との"心の対話"じゃ。おぬしの出る幕ではないわ」

 役小角は鬼蝶に対して冷たく言い放つと、くるりときびすを返した。

「それに鬼蝶殿、此度の堺の"血祭り"……温羅坊とではなく、おぬしが一人でやりたいと申したのだぞ。忘れたわけではあるまい?」
「……それは、確かに……ですが、まさかこんなことになろうとは……!」

 役小角の言葉を聞いた鬼蝶が、見るも無惨に黒く焼け焦げた自身の両手を見ながら言う。

「安心せい、鬼蝶殿。おぬしは八天鬼人、その火傷も癒えるわいの……ちィと時間は、かかるだろうがな……しばし、体と頭を冷やすがよろしい……くかかかかかッッ!!」

 役小角は鬼蝶に対して背を向けたまま笑ってそう告げると、チリンチリンと金輪を鳴らしながら歩き去っていった。
 鬼蝶は去っていく役小角の背中を見たあと、仰向けに地面に転がって夜空を見上げた。

「ああ……! 隅々にまで走るこの痛みは……まるで本能寺の……あの夜のよう……! 悔しい……私、悔しいですわ、信長様……!」

 苦痛に顔を歪ませた鬼蝶は信長への想いを募らせ、そして憎悪に顔を歪めた。

「……許せない……この私の体を再び焼いた……! ……殺す……必ず殺す……! ──桃姫! ──雉猿狗っっ!!」

 鬼蝶は、夜空に浮かぶ"仏炎"のように白い満月に向かって呪詛を吐くように憎しみの相手の名を叫ぶのであった。
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