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第二幕 斬心 -Heart of Slashing-
4.本能寺の変
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──10年前。京都、本能寺にて。
「信長様! どうかお逃げくださりませ! あなた様だけでも生き延びれば、まだ希望は残されます……!」
「──帰蝶。もはやこの本能寺、何処にも逃げ場などはない」
本能寺の仏堂の中央にてあぐらをかいて座る信長に対して、帰蝶は必死で訴えるも信長は覚悟を決めたように動かなかった。
火の手は凄まじい勢いで周囲を包み込み、信長の背後に鎮座する阿弥陀如来の鉄製の仏像すら溶かさんばかりの凄まじい熱風が二人に吹き付けた。
「帰蝶、すまぬ。明智の謀に気づけなかった、我の落ち度だ」
「そんなことはありませぬ……! あの明智が、憎き明智の光秀が……! ああ!」
帰蝶は涙を流しながら信長の胸に倒れ込む。
信長はそんな帰蝶の濡烏のような長い黒髪を撫でると、肩をぐっと掴んで引き離した。
「──帰蝶、介錯を頼む」
「……っ」
信長は帰蝶の目を強く見ながら言うと、懐から短刀を取り出した。
「帰蝶、お主は日ノ本一の薙刀の使い手だ。一思いに頼むぞ」
帰蝶は自身の傍らに置かれた薙刀をちらりと見た、そして信長の首を刎ねる自身の姿を想像して血の気が引いた。
「む、無理にございます! 私にはとても……!」
「ならば我は、苦しみ悶えながら冥府魔道に堕ちようか」
顔面蒼白で拒絶する帰蝶に対して、信長は自嘲しながらそう言うと、短刀の鞘を抜き捨てて、両手で構える。
そして、刃の切っ先を己の左脇腹にあてがった。
「──人生五十年、これが天下人、織田信長の最期ならば、それもまたよし……ふんぬッ!」
「いやぁぁあああッッ!!」
信長は覚悟を決めると、一気に左脇腹に短刀を深々と突き刺す。帰蝶はその様を見て絶叫した。
「うッぐ……ぐッ……ぐぐっ……!」
「信長様……! 信長様ぁ……!」
左脇腹から右脇腹へ向かって自らの手によって突き刺された短刀の刃がジリジリと動く、額に血管を走らせた信長は飛び出さんばかりに目を見開き、歯が砕けんばかりに喰いしばった。
そして信長は、絶望の表情を浮かべながら後退りした帰蝶をじろりと見て告げた。
「──帰蝶……我、先に……冥府、魔道にて、待つ……」
「──……信長様ぁ……!」
信長はあぐらをかき、両手で短刀を力強く握りしめたまま絶命した。
「う、ううう……ううう……!」
帰蝶は、目を見開いたまま物言わぬ亡骸となった信長と対峙する。嗚咽を零しながら涙を流し、背後から迫りくる炎に身を焦がした。
「これが、私の最期、これが……いやだ……」
帰蝶は涙を流しながら首を横に振った。自分の運命を否定するために、薙刀を握って、立ち上がる。
「いやよ、いや……! ──こんな終わり方いやよォオオオッッ!!」
帰蝶は叫びながら振り返ると、仏堂に迫る猛火の中に飛び込んだ。
「イヤァァアアアアッッ!!」
帰蝶は絶叫し、全身を火に飲まれ、しかし全力でがむしゃらに薙刀を振るいながら前進した。そして──。
「──おや、これは驚いた。帰蝶殿ではございませぬか」
偶然、火の手がまだ回っていない廊下に飛び出して、勢いよく全身から倒れ込んだ帰蝶。
火の粉が着物に付きまとい黒焦げた帰蝶の耳元に聞き覚えのない老人のしゃがれた声が届いた。
「……ひゅー……ひゅー……」
帰蝶の喉からは微かに空気の漏れる音、目は焼けて白濁しており何も見ることは出来ず、思い通りに動くことも喋ることも叶わかなった。
自分はもうすぐ死ぬんだと、ただそれだけが帰蝶にはわかった。
「──信長公に会いに来たのだが……そうか、もう終わったのだな」
老人は燃え盛る仏堂のほうをちらりと一瞥して呟くと、変わり果てた姿となった帰蝶を見下ろした。
「──お初にお目にかかるが、わしはそなたのことをよォく知っておる……わしの名は役小角。信長公の古い友人じゃよ」
役小角と名乗った老人の言葉は微かに帰蝶の耳に入るが、しかし、死の暗闇が眼前まで迫っており、帰蝶からすればもはやどうでもよいことであった。
先程まで感じていた全身の火傷による激痛すらも、脳が感じない状態にまで極まっていたのだ。
「──そうだのう。この"八天鬼薬"……信長公に飲ませようと思うたのだが、手遅れならば仕方があるまい……帰蝶殿、そなたまだ"生きたい"か?」
役小角は黒焦げた帰蝶の前にしゃがむと手に持った"燃羅"と書かれた赤い液体の入った小瓶を帰蝶の口元に寄せた。
「──ほれ、まだ"生きたい"か? どうだ、答えよ」
「──……い……き……た……い……」
役小角の問い掛けに、帰蝶は最後の、本当に最後の力を振り絞って一つ一つの言葉を声に出すと、口の中にどろりとした液体が流れ込むのを感じた。
帰蝶の喉は、その液体に対して本能的かつ受動的に動き、この世のものとは思えないおぞましい味を舌全体に感じながらゴクッゴクッと音を立てて飲み下す。
「──帰蝶殿……そうよな。鬼の字を冠した"鬼蝶"という新しい名などは……どうじゃ?」
役小角のしゃがれ声が、先ほどより良く耳に聞こえた。
そして、黒焦げていた皮膚がみるみるうちに再生していき、焦げた長い黒髪も新しく生え変わっていき、黒を通り越して深緑色に染まった。
額の左側からは皮膚を割るようにして、赤く細い鋭利な角が反るようにズズズ……と伸びた。
更に、白濁して失明していた瞳に光が戻る。視力が回復していくと同時に、黄色く染まっていく両方の瞳に真っ赤な"鬼"の文字がぼうっと浮かび上がった。
「──のう、鬼として生まれ変わった……鬼蝶殿よ」
満面の笑みを浮かべた役小角の顔が、鬼女と化した鬼蝶が目にした最初の光景であった。
「信長様! どうかお逃げくださりませ! あなた様だけでも生き延びれば、まだ希望は残されます……!」
「──帰蝶。もはやこの本能寺、何処にも逃げ場などはない」
本能寺の仏堂の中央にてあぐらをかいて座る信長に対して、帰蝶は必死で訴えるも信長は覚悟を決めたように動かなかった。
火の手は凄まじい勢いで周囲を包み込み、信長の背後に鎮座する阿弥陀如来の鉄製の仏像すら溶かさんばかりの凄まじい熱風が二人に吹き付けた。
「帰蝶、すまぬ。明智の謀に気づけなかった、我の落ち度だ」
「そんなことはありませぬ……! あの明智が、憎き明智の光秀が……! ああ!」
帰蝶は涙を流しながら信長の胸に倒れ込む。
信長はそんな帰蝶の濡烏のような長い黒髪を撫でると、肩をぐっと掴んで引き離した。
「──帰蝶、介錯を頼む」
「……っ」
信長は帰蝶の目を強く見ながら言うと、懐から短刀を取り出した。
「帰蝶、お主は日ノ本一の薙刀の使い手だ。一思いに頼むぞ」
帰蝶は自身の傍らに置かれた薙刀をちらりと見た、そして信長の首を刎ねる自身の姿を想像して血の気が引いた。
「む、無理にございます! 私にはとても……!」
「ならば我は、苦しみ悶えながら冥府魔道に堕ちようか」
顔面蒼白で拒絶する帰蝶に対して、信長は自嘲しながらそう言うと、短刀の鞘を抜き捨てて、両手で構える。
そして、刃の切っ先を己の左脇腹にあてがった。
「──人生五十年、これが天下人、織田信長の最期ならば、それもまたよし……ふんぬッ!」
「いやぁぁあああッッ!!」
信長は覚悟を決めると、一気に左脇腹に短刀を深々と突き刺す。帰蝶はその様を見て絶叫した。
「うッぐ……ぐッ……ぐぐっ……!」
「信長様……! 信長様ぁ……!」
左脇腹から右脇腹へ向かって自らの手によって突き刺された短刀の刃がジリジリと動く、額に血管を走らせた信長は飛び出さんばかりに目を見開き、歯が砕けんばかりに喰いしばった。
そして信長は、絶望の表情を浮かべながら後退りした帰蝶をじろりと見て告げた。
「──帰蝶……我、先に……冥府、魔道にて、待つ……」
「──……信長様ぁ……!」
信長はあぐらをかき、両手で短刀を力強く握りしめたまま絶命した。
「う、ううう……ううう……!」
帰蝶は、目を見開いたまま物言わぬ亡骸となった信長と対峙する。嗚咽を零しながら涙を流し、背後から迫りくる炎に身を焦がした。
「これが、私の最期、これが……いやだ……」
帰蝶は涙を流しながら首を横に振った。自分の運命を否定するために、薙刀を握って、立ち上がる。
「いやよ、いや……! ──こんな終わり方いやよォオオオッッ!!」
帰蝶は叫びながら振り返ると、仏堂に迫る猛火の中に飛び込んだ。
「イヤァァアアアアッッ!!」
帰蝶は絶叫し、全身を火に飲まれ、しかし全力でがむしゃらに薙刀を振るいながら前進した。そして──。
「──おや、これは驚いた。帰蝶殿ではございませぬか」
偶然、火の手がまだ回っていない廊下に飛び出して、勢いよく全身から倒れ込んだ帰蝶。
火の粉が着物に付きまとい黒焦げた帰蝶の耳元に聞き覚えのない老人のしゃがれた声が届いた。
「……ひゅー……ひゅー……」
帰蝶の喉からは微かに空気の漏れる音、目は焼けて白濁しており何も見ることは出来ず、思い通りに動くことも喋ることも叶わかなった。
自分はもうすぐ死ぬんだと、ただそれだけが帰蝶にはわかった。
「──信長公に会いに来たのだが……そうか、もう終わったのだな」
老人は燃え盛る仏堂のほうをちらりと一瞥して呟くと、変わり果てた姿となった帰蝶を見下ろした。
「──お初にお目にかかるが、わしはそなたのことをよォく知っておる……わしの名は役小角。信長公の古い友人じゃよ」
役小角と名乗った老人の言葉は微かに帰蝶の耳に入るが、しかし、死の暗闇が眼前まで迫っており、帰蝶からすればもはやどうでもよいことであった。
先程まで感じていた全身の火傷による激痛すらも、脳が感じない状態にまで極まっていたのだ。
「──そうだのう。この"八天鬼薬"……信長公に飲ませようと思うたのだが、手遅れならば仕方があるまい……帰蝶殿、そなたまだ"生きたい"か?」
役小角は黒焦げた帰蝶の前にしゃがむと手に持った"燃羅"と書かれた赤い液体の入った小瓶を帰蝶の口元に寄せた。
「──ほれ、まだ"生きたい"か? どうだ、答えよ」
「──……い……き……た……い……」
役小角の問い掛けに、帰蝶は最後の、本当に最後の力を振り絞って一つ一つの言葉を声に出すと、口の中にどろりとした液体が流れ込むのを感じた。
帰蝶の喉は、その液体に対して本能的かつ受動的に動き、この世のものとは思えないおぞましい味を舌全体に感じながらゴクッゴクッと音を立てて飲み下す。
「──帰蝶殿……そうよな。鬼の字を冠した"鬼蝶"という新しい名などは……どうじゃ?」
役小角のしゃがれ声が、先ほどより良く耳に聞こえた。
そして、黒焦げていた皮膚がみるみるうちに再生していき、焦げた長い黒髪も新しく生え変わっていき、黒を通り越して深緑色に染まった。
額の左側からは皮膚を割るようにして、赤く細い鋭利な角が反るようにズズズ……と伸びた。
更に、白濁して失明していた瞳に光が戻る。視力が回復していくと同時に、黄色く染まっていく両方の瞳に真っ赤な"鬼"の文字がぼうっと浮かび上がった。
「──のう、鬼として生まれ変わった……鬼蝶殿よ」
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