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第一幕 乱心 -Heart of Maddening-
9.おつるちゃん
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村人が眠りにつき、昼間は賑やかなこの村が静まり返った丑三つ時。
ホーホーと梟の鳴き声がする村外れの山の中腹にて、村の全容を見下ろしている一人の白髪の老人がいた。
「この村に来るのは……そう、20年ぶりになるかのう」
穏やかな笑みを浮かべた老人が特徴的なしゃがれ声を発すると、手にした黄金の錫杖の金輪を揺らしてチリンと鳴らした。
「鬼を退治したあの日以来か……桃を喰らったあの薄汚い老夫婦が死んだというのは、10年前に風の噂で耳にしたが……確か、同じ日に娘が生まれたそうだのう……」
老人は誰に聞かせるでもなく、祭りのためのやぐらが中央に組み立てられている村の夜景を眺めながら一人、口にする。
「鬼を退治した日、桃を喰った老夫婦が死んだ日、娘が生まれた日が同じとは……くかかかッ、これまた随分と面白いことが起きる日じゃのう──はてさて、それは吉日なのか、それとも凶日なのか」
老人はくるりと回って村に背を向けると、両目を細めて満面の笑みを浮かべながら言った。
「──よもや、桃太郎が死ぬ日にもなるとはのう」
そう言って浮かべた満面の笑みの細い目の隙間、そこから覗く漆黒の眼光の鋭さは異様であった。
老人は胸元まで伸びる白い髭を左手で軽く一撫ですると、チリン、チリンと右手に持つ錫杖を鳴らして歩き出し、山の中へと消えていった。
「──桃姫、桃姫……起きなさい、桃姫」
「ん。んん……?」
小夜の声で目を覚ました桃姫は、寝ぼけ眼と寝癖のついた桃色の髪の毛の状態で上半身を起こした。
「桃姫、もう父上は出ていきましたよ。桃姫も着替えて、お祭りの準備をしないといけないでしょ?」
「ん……お祭り……そうだ……」
桃姫は下半身を布団に入れたまま眼を擦りながら言うと、櫛を持った小夜が隣にさっと座って、桃姫の髪を手際よく梳き始めた。
「村の人たちに蹴鞠の披露をするんでしょ? だったらちょっとでも練習、しておいたほうがいいんじゃないの?」
「……あっ……うん、そうだね」
桃姫の長い桃色の髪は小夜の慣れた手捌きによって瞬く間に整えられると、ようやく桃姫は布団から抜け出して着替えを始めた。
そして、白い寝巻きから萌黄色の着物に着替えると、昨日の御飯の残りで握られたおにぎりを食べる。
「私は祭りで食べる料理の下準備を役場でしないといけないから、桃姫はお祭りが始まる夕方まで遊んでいてね」
「はーい」
「あ、山の方に行っちゃダメよ。鳥居から先には行っちゃダメ。わかった?」
「はーい」
桃姫は味噌汁を飲みながら答えると、小夜が玄関口に立った。
「それじゃ、母上は先に行くからね」
「いってらっしゃ~い」
小夜が雪駄を履いて出ていくと、桃姫は手にしていた味噌汁をずずずと一口飲んでから、ちゃぶ台の上に置いて立ち上がった。
「蹴鞠の練習しないと!」
そう言って、居間の隅に転がっていた赤い絹糸で刺繍された蹴鞠を拾い上げると、雪駄を履いて家の外に出た。
「あら、桃姫様。おはようございます」
「おはようございます、おばさん」
家を出てすぐ、向かいの家のおばさんに声を掛けられた桃姫は会釈をしながら挨拶して返した。
「今日は桃姫様のお誕生なんだってねぇ。何歳になったのか聞いていいかしら?」
おばさんは愛嬌のある笑顔を浮かべながら言うと、桃姫は両手の平を前に突き出して拡げてみせた。
「あっ……」
その拍子に両手で持っていた赤い蹴鞠が地面に落ちて跳ねながら転がっていき、おばさんがあらあらと言いながら笑った。
「それでは、しつれいします」
桃姫はおばさんに向かって頭を下げると、蹴鞠を追いかけて走り出した。
「転ばないでね~」
そんな桃姫の背中をおばさんが手を振りながら見送った。
「桃姫様~」
桃姫が村の端にある桃の木の下で蹴鞠の練習をしていると、声とともに一人の女の子が桃姫に近づいてきた。
「あ、おつるちゃん」
桃姫がおつると呼んだ女の子は、桃姫と同じ10歳の短く太い眉毛が特徴的なおかっぱ頭で、左の耳元に髪留めの赤いかんざしを差した村の友達だった。
「探したんだよ~、桃姫様がいない~、どこ~って」
「……おつるちゃん」
木の下にやって来たおつるに桃姫は険しい顔をして言った。
「桃姫様って呼ばないでって、言ったよね……」
「……え」
おつるは驚いた顔で桃姫の真剣な表情を見た。
「ちゃんって呼んでって、様ってつけないでって、この前に言ったよね」
「……あ」
おつるは桃姫に言われて、そのことを思い出して声を上げた。そして、ぱっと笑顔を見せて言う。
「桃姫ちゃん。探したんだよ~」
「うん!」
桃姫も笑顔になると、おつると一緒に笑顔を見せあった。
「おつるちゃん。なんで私を探してたの?」
桃姫が赤い蹴鞠を地面にだむだむと叩きつけて跳ねさせながら言うと、おつるは人差し指を頬に当てて首を傾けながら口を開いた。
「えーっとー、あっ、ん? あっ、そうだそうだ! 桃太郎様に呼んできてくれって頼まれたんだよ!」
おつるは言ったあとにハッとした顔を浮かべて桃姫の顔色を伺った。
「あれ……桃太郎様は、様をつけても……いいんだ、っけ……?」
「うん──父上にはつけて」
おつるが恐る恐る尋ねると、跳ねさせていた蹴鞠をピタッと両手で掴んで止めた桃姫は、さも当然だというように答えた。
「あ、あははは。うん、そうだよね。鬼退治の英雄、桃太郎様には様。当たり前だよね」
「うん」
おつるがうんうんと納得しながら言うと、桃姫はまた蹴鞠を地面にぶつけて跳ねさせ始めた。
「それでね、えーっと、桃太郎様はやぐらにいるから、早く行ってあげてね。それだけ。じゃ、私は家に帰るから夕方になったらまた会おうね」
「うん。教えてくれてありがとう、おつるちゃん」
桃姫が言うと、おつるは桃の木の下から離れていき、しばらく歩いてから振り返って桃姫に手を振った。
「桃姫さ──桃姫ちゃん、またね~」
「うんー」
互いに手を振り合いながら別れると、桃姫はおつるの向かった方向とは異なる村の中央、やぐらが建つ方角に向かって歩き出した。
ホーホーと梟の鳴き声がする村外れの山の中腹にて、村の全容を見下ろしている一人の白髪の老人がいた。
「この村に来るのは……そう、20年ぶりになるかのう」
穏やかな笑みを浮かべた老人が特徴的なしゃがれ声を発すると、手にした黄金の錫杖の金輪を揺らしてチリンと鳴らした。
「鬼を退治したあの日以来か……桃を喰らったあの薄汚い老夫婦が死んだというのは、10年前に風の噂で耳にしたが……確か、同じ日に娘が生まれたそうだのう……」
老人は誰に聞かせるでもなく、祭りのためのやぐらが中央に組み立てられている村の夜景を眺めながら一人、口にする。
「鬼を退治した日、桃を喰った老夫婦が死んだ日、娘が生まれた日が同じとは……くかかかッ、これまた随分と面白いことが起きる日じゃのう──はてさて、それは吉日なのか、それとも凶日なのか」
老人はくるりと回って村に背を向けると、両目を細めて満面の笑みを浮かべながら言った。
「──よもや、桃太郎が死ぬ日にもなるとはのう」
そう言って浮かべた満面の笑みの細い目の隙間、そこから覗く漆黒の眼光の鋭さは異様であった。
老人は胸元まで伸びる白い髭を左手で軽く一撫ですると、チリン、チリンと右手に持つ錫杖を鳴らして歩き出し、山の中へと消えていった。
「──桃姫、桃姫……起きなさい、桃姫」
「ん。んん……?」
小夜の声で目を覚ました桃姫は、寝ぼけ眼と寝癖のついた桃色の髪の毛の状態で上半身を起こした。
「桃姫、もう父上は出ていきましたよ。桃姫も着替えて、お祭りの準備をしないといけないでしょ?」
「ん……お祭り……そうだ……」
桃姫は下半身を布団に入れたまま眼を擦りながら言うと、櫛を持った小夜が隣にさっと座って、桃姫の髪を手際よく梳き始めた。
「村の人たちに蹴鞠の披露をするんでしょ? だったらちょっとでも練習、しておいたほうがいいんじゃないの?」
「……あっ……うん、そうだね」
桃姫の長い桃色の髪は小夜の慣れた手捌きによって瞬く間に整えられると、ようやく桃姫は布団から抜け出して着替えを始めた。
そして、白い寝巻きから萌黄色の着物に着替えると、昨日の御飯の残りで握られたおにぎりを食べる。
「私は祭りで食べる料理の下準備を役場でしないといけないから、桃姫はお祭りが始まる夕方まで遊んでいてね」
「はーい」
「あ、山の方に行っちゃダメよ。鳥居から先には行っちゃダメ。わかった?」
「はーい」
桃姫は味噌汁を飲みながら答えると、小夜が玄関口に立った。
「それじゃ、母上は先に行くからね」
「いってらっしゃ~い」
小夜が雪駄を履いて出ていくと、桃姫は手にしていた味噌汁をずずずと一口飲んでから、ちゃぶ台の上に置いて立ち上がった。
「蹴鞠の練習しないと!」
そう言って、居間の隅に転がっていた赤い絹糸で刺繍された蹴鞠を拾い上げると、雪駄を履いて家の外に出た。
「あら、桃姫様。おはようございます」
「おはようございます、おばさん」
家を出てすぐ、向かいの家のおばさんに声を掛けられた桃姫は会釈をしながら挨拶して返した。
「今日は桃姫様のお誕生なんだってねぇ。何歳になったのか聞いていいかしら?」
おばさんは愛嬌のある笑顔を浮かべながら言うと、桃姫は両手の平を前に突き出して拡げてみせた。
「あっ……」
その拍子に両手で持っていた赤い蹴鞠が地面に落ちて跳ねながら転がっていき、おばさんがあらあらと言いながら笑った。
「それでは、しつれいします」
桃姫はおばさんに向かって頭を下げると、蹴鞠を追いかけて走り出した。
「転ばないでね~」
そんな桃姫の背中をおばさんが手を振りながら見送った。
「桃姫様~」
桃姫が村の端にある桃の木の下で蹴鞠の練習をしていると、声とともに一人の女の子が桃姫に近づいてきた。
「あ、おつるちゃん」
桃姫がおつると呼んだ女の子は、桃姫と同じ10歳の短く太い眉毛が特徴的なおかっぱ頭で、左の耳元に髪留めの赤いかんざしを差した村の友達だった。
「探したんだよ~、桃姫様がいない~、どこ~って」
「……おつるちゃん」
木の下にやって来たおつるに桃姫は険しい顔をして言った。
「桃姫様って呼ばないでって、言ったよね……」
「……え」
おつるは驚いた顔で桃姫の真剣な表情を見た。
「ちゃんって呼んでって、様ってつけないでって、この前に言ったよね」
「……あ」
おつるは桃姫に言われて、そのことを思い出して声を上げた。そして、ぱっと笑顔を見せて言う。
「桃姫ちゃん。探したんだよ~」
「うん!」
桃姫も笑顔になると、おつると一緒に笑顔を見せあった。
「おつるちゃん。なんで私を探してたの?」
桃姫が赤い蹴鞠を地面にだむだむと叩きつけて跳ねさせながら言うと、おつるは人差し指を頬に当てて首を傾けながら口を開いた。
「えーっとー、あっ、ん? あっ、そうだそうだ! 桃太郎様に呼んできてくれって頼まれたんだよ!」
おつるは言ったあとにハッとした顔を浮かべて桃姫の顔色を伺った。
「あれ……桃太郎様は、様をつけても……いいんだ、っけ……?」
「うん──父上にはつけて」
おつるが恐る恐る尋ねると、跳ねさせていた蹴鞠をピタッと両手で掴んで止めた桃姫は、さも当然だというように答えた。
「あ、あははは。うん、そうだよね。鬼退治の英雄、桃太郎様には様。当たり前だよね」
「うん」
おつるがうんうんと納得しながら言うと、桃姫はまた蹴鞠を地面にぶつけて跳ねさせ始めた。
「それでね、えーっと、桃太郎様はやぐらにいるから、早く行ってあげてね。それだけ。じゃ、私は家に帰るから夕方になったらまた会おうね」
「うん。教えてくれてありがとう、おつるちゃん」
桃姫が言うと、おつるは桃の木の下から離れていき、しばらく歩いてから振り返って桃姫に手を振った。
「桃姫さ──桃姫ちゃん、またね~」
「うんー」
互いに手を振り合いながら別れると、桃姫はおつるの向かった方向とは異なる村の中央、やぐらが建つ方角に向かって歩き出した。
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