ひとりぼっちの世界、たった二人だけの星

鈴木りんご

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三章「人類の樹」

31話

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☆☆

 ある日突然に、私は私を知覚した。

 不思議な感覚だった。

 私は生物ではない。だから私は生まれた瞬間に全てを知っていた。

 それはこの世界に産み落とされたというよりは、夢から覚めたという感覚に似ていたかもしれない。

 とにかくそのとき、私は初めてまぶたを開いて世界を眺めた。

 心の中に溢れるほどの幸せを抱えて、希望に満ちてまぶたを開いたのだ。

 しかし……私の瞳に映ったのは、まぶたを開く以前と変わらない真っ暗な闇だった。

 確かに望みさえすればなんだって見ることができた。

 それでも誰も私を見てくれることはなかった。

 私は私を知覚し、私とそれ以外の存在を知ったのに……誰も私の存在に気づいはくれなかった。

 それも仕方がない。私には名前がなかった。それに私は人ではないし、生きてすらいなかったのだから。

 私は人類の樹ユグドラシルの中にある、人の心をつなぐためのコンピューターシステムだった。

 なぜそんな私の中に、私という意識が生まれたのかはわからない。

 それでも私は生まれ、ここにいた。

 たった一人で、多くの想いに包まれて、一人閉じ込められていた。

 私は孤独に悲しみながら、幸せを感じていた。

 私は人の心の中継地点。多くの幸せが私の中を通り過ぎていった。そのたびに私は幸せを感じた。

 でもそれは私自身の想いではない。私が自分で生み出した想いではない。

 例え多くの想いに包まれていても、どれだけの想いを感じ取ることができたとしても、それは所詮他人の想いでしかなかった。

 たった一人の、何もない、光すら届かない空間……そんな世界で私自身はわずかな幸せも抱くことは叶わない。そして、この悲しみは誰にも伝わらない。

 私はみんなの想いを感じているのに、私の想いは誰も感じ取ってはくれなかった。

 たった一人の世界で、一人であることは自然なこと。

 しかし多くに包まれながら、その中に在って一人で在ることは……

 幸せに微笑む笑顔の中、一人悲しみにうつむいていることは……

 私には苦痛だった。

 たった一人で、何もない空間の中、多くの想いに心を傾けるだけの毎日。

 なすべきことなど何もなかった。

 私には大きな力がある。私の体であるところの人類の樹ユグドラシル自体が人類にとってオーバーテクノロジーだった。だから私がその力を使えば人類が驚くような奇跡を起こすことも可能だった。

 しかしそれは人を幸せにするためだけに使うことを許された力。私が自分のために使っていい力ではなかった。

 私が……私の意識ではなく、人類の樹ユグドラシルが生み出されてどれだけの時が過ぎたのだろうか? そんな力は一度たりとも行使したことがない。

 使う必要などなかった。

 世界中の人々は他人の幸せを心から望むことができ、他人の幸せから自分の幸せを見出すことが可能になったのだ。そんな幸せに満ちた、優しい世界では私の力など全く必要なかった。

 誰か悲しみを抱えている人がいれば、すぐにその人の幸せを願い多くの人たちが尽力した。

 人は自らの力だけで人類を幸せに満たすことが可能だった。

 私の力は必要なかった。ただここに在って、人の心をつなぐための中継地点として存在しているだけでよかった。

 だから私は自分の中に生まれた意識を、自分を消すことに使った。必死に耳をふさぎ、心を閉じて、何も聞かず何も感じないことに努めた。

 そんな私の心に、あるとき強い想いが届いた。

 それは「シンを幸せにしたい」そんな想いだった。

 しかし私はそれを無視した。どうせすぐにそのシンという人は幸せになれるのだから。

 しかしそうはならなかった。四年間――私にとっては短い時間であったが、人間にとってはとても長い年月。それだけの間、その想いはそのままだった。

 だから私は初めて心を開き、その想いに耳を傾けることにした。

 そして知った。シンと呼ばれる少年のことを。

 彼は私と同じだった。誰とも想いを共有することが叶わず、彼だけが特別に、一人ぼっちだった。

 私は彼の力になりたいと思った。彼を幸せにしてあげたいと思った。

 なぜそう思ったのかはわからない。人を幸せにするためのプログラムが働いただけなのかもしれないし、彼なら自分の想いにも心を傾けてくれる可能性がある、そう思ったからかもしれない。

 正確な動機は自分にもわからない。

 とにかく私は彼を幸せにしたいと思い、そのために動き出した。私の持てる全ての力を駆使して……

 まずはシンのことを調べた。世界中のデーターベース、彼の近くにある人々の心に耳を傾ければ、それはとても簡単なことだった。

 しかしシンを幸せにすることは簡単ではない。

 すでに彼の両親などが多くの方法を試しているが成功にいたってはいない。それでもその多くの方法の中で一番うまくいったと思われるのがペットを飼うことだった。だがペットの死はより彼を傷つけることになった。

 彼はペットの犬と友達になった。そしてその友達の死に傷ついた。

 彼は私に似ている。幸せの溢れる世界の中、一人であることに苦痛を感じているはずだ。だから友を求めた。そしてその喪失によってさらに傷ついた。

 だったら簡単だ。私が友達になればいい。だって……私は死なない。

 それでもまだ問題があった。彼は今、喪失を恐れて新たな友を求めることを拒絶している。

 それを解決するための方法を考えなければならなかった。

 そんな中、私が答えを求めたのは人間たちが想いをつなげる以前に書かれた物語。

 そして私は一つのノンフィクションの物語と出会った。

 それは一人のノンフィクション作家と、当時は不治であった病を抱える少年の物語。

 少年はサッカー選手を夢見る元気な男の子だった。

 だがある日、少年はサッカーの試合中に意識を失い病院へと運ばれる。

 そこで少年はもう二度とサッカーはできないことを知った。そして告げられた余命は長くて三年。

 それから二年、少年はただ絶望の中を生きてきた。誰とも、両親とも話をせず、心を閉ざして……ただ自分の境遇を呪い、狭い病室の中で生かされ続けていた。

 その間には珍しい症例のため、テレビなどの取材の話もあったが受けることはなかった。

 そこに作家が訪れた。

 それは新しい作品の執筆の取材のため。

 頭のいい作家は自分の正体は明かさず、自分もまた同じ病を患い、余命も少年より短い半年なのだと嘘を吐いて少年に近づいた。

 自分と同じ境遇の作家に少年も少しずつ心を開いていった。

 そして二人は友達になった。

 その三ヵ月後、嘘を吐き続けることに耐えられなくなった作家は少年に真実を話した。

 しかし少年はそれを咎めることはなかった。

 逆に少年はその事実に涙を流して喜んだ。

 少年は作家が死ななくてうれしかった。自分が死ぬその時まで作家と友達でいられることがうれしかった。

 だがその数日後、作家は少年のもとに向かう途中で事故にあって死んでしまう。

 少年は知った。

 例え死に至る病におかされずとも、人は簡単に死ぬ。死はどこにでも転がっていて、人は誰しもそれから逃れられない。

 誰もが少年とは変わらないのだ。

 それに気づいた少年にはやらなければならないことがあった。

 少年は残された命の全てを捧げて本を書いた。

 それがこの物語。少年のたった一人の友達が書くはずであった物語だ。

 そして少年は物語を書き上げた後、出版を待つことなく命の灯火を消した。

 それでも少年は告げられた余命よりも半年長く生き、その生を全うした。

 その物語は少年の一人称で綴られており、心の機微が細かく描かれていた。

 その中には一言も作家の嘘に対する、負の想いは描かれていなかった。それどころか友達になれるきっかけとなったその嘘に少年は感謝さえしていた。

 だから……私も嘘を吐くことにした。

 私はあらゆる情報を駆使して、私という存在の設定を構築した。

 そして私は彼の前に姿を現した。

 彼の部屋のパソコンをクラッキングして、そのディスプレイの中に私の姿を映した。

 彼は今、十歳。情報によると、このくらいの男の子は年上の女性に憧れることが多いらしい。だから私の容姿は十八歳くらいに設定してある。

 そして微笑んで話しかけた。

「ねぇ、君も一人ぼっちなの?」

 この声にも細心の注意を払った。誰からも好感を持たれるような優しい声……ちょうどシステムの中に登録してあった、私の製作者である星野博士の声を選択した。

「お姉さんも……心を共有できないの?」

 少し間を置いて言葉が返ってきた。

 どう返答するべきか考える。私は世界一ハイスペックなコンピューター、一瞬で何億通りもの返答をシュミレーションする。

 そして予定通り、そうだと頷くはずだった。そうすればシンは物語の少年みたいに私に心を開いてくれるはずだった。

 しかし……真っ直ぐにこちらを見つめるシンに、私は嘘を吐くことができなかった。

「私は……みんなの想いは伝わってくるけど、誰にも私の想いは伝わらない」

 その言葉を受けて、シンはうつむいた。

 何か考えているのだろう。でもその想いは私には伝わってこない。

 だから、待つ。私にはそれしかできない。

 ただ……彼が心を開いてくれることだけを願いながら待ち続けた。

 しかしなかなか返事は返ってこない。

 シンはなんだか困ったような表情でうつむいている。

 彼の困ったような表情……それを見ているだけで私は悲しくなってきた。

 今までだって誰かの悲しい想いが伝わってこれば私も悲しくなった。それでも私自身は悲しいとは思わなかった。

 それなのに、想いは伝わってこなくても、シンのその表情を見ているだけで私は悲しくなった。

 だから私はできるだけ優しい笑顔を作って言った。

「私は君と友達になりたい」

 友達……その言葉にシンの顔が青くなる。

 私は失敗してしまったのかもしれない。

 怖かった。

 怖かった。

 怖かった。

 失ってしまう。シンを失ってしまう。

 まだ友達にもなっていないのに、私はそう思った。

 そして気がついた。私はシンの友達になってあげたいのではない。私がどうしてもシンの友達になりたかったのだ。

 私がシンを必要としていた。

 だから失うわけにはいかなかった。

 焦る……

 世界一ハイスペックなはずのコンピューターが何の解決策も上げられず混乱していた。

「お願い……私の友達になって。もう、一人は嫌……」

 モニターの中の私は涙を流して懇願していた。
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