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第30話 二日目・午前
しおりを挟む気配があった。何かにじっと見られているようなそんな気配。
何かが聞こえる。すぐ背後、耳元から聞こえる。それは誰かの息づかいのような音だった。大きく吸って、ゆっくりと長く吐く音。
その気配と音で俺は目を覚ました。それなのに体が動かせない。目覚めた感覚は確かにあるのに、どれだけ力を込めても起き上がることはできず、目蓋を開くことすらできない。
そしてもう一つ、異常に気付く。気配と息づかいを背後から感じるのだが、それはおかしい。だって俺は今仰向けで寝ているはずだ。その背にはベッドの感触を確かに感じている。
背筋が急激に冷えて、恐怖で全身に力が入る。
その瞬間――目蓋が開いた。体も動く。気配もないし、音も聞こえない。隣にはタナットもいるし、ネコはベッドの下で丸くなっている。
今のは何だったのだろう。わからない。
本当に金縛りにあったのか、それとも金縛りにあった夢を見ていて起きただけなのか、それすらわからなかった。
大きく息を吐いて、窓を開く。すでに日は昇っていた。
今のは夢だった。とりあえずはそう判断して今日を始めることにした。
エルウィンさんの用意してくれた朝食を食べてから、アリアさんがやってくるまで間、俺は昨日掃除しきれなかった風呂場を掃除することにした。
掃除用の道具もすでに用意してある。植物の繊維を乾かして作ったタワシのようなものと、洗剤の代わりに塩だ。
その二つを装備してお風呂場の前までやってくる。
昨日の掃除をしたことで、家の中の濁ったような嫌な空気はかなり薄まっていたのに、この風呂場の近くはいまだに嫌な感じが強い。空気が淀んでいて、重く感じる。
やっぱり昨日言ったように、この感覚はアラートである可能性はあり得るのではないだろうか。
人が危険を感じるのは、過去の経験則によるところが大きい。
俺はカビとか汚れが体によくないことを知っている。その匂いなどを無意識のうちに感じていて、脳が警告しているのだ。
そういえば昨日、俺がこの考えをみんなに話したときにエルウィンさんが言っていた。「確かに霊は危険な場所で遭遇する印象がありますね」と。
確かにそんな印象があった。よく考えてみれば危険を菌類に限定する必要もない。
霊が出そうなところを思い描いてみる。
まずは視界の悪い暗い場所。一度入ってしまうと迷い出られなくなってしまうような深い森。車の事故の多い見通しの悪い交差点やトンネル、急なカーブ。殺人現場や自殺の現場など、人が死んだ場所。
最後の人が死んだ場所以外は間違いなく危険な場所だ。
人が死んだ場所だって、生き物の本能として同族が死んだ場所を恐れ危険視することは当然な気もする。
そういえば、心霊スポットとして一番有力なお墓を忘れていた。まぁ、お墓も死に関連する場所だからだろう。
そう考えてみると、心霊現象とは元来そういうものなのかもしれない。
例えば流れが急で泳ぐには危険な川があったとする。そのまま危険を伝えたとしても、泳ぎに自信のある子供たちはその川に遊びにいってしまうかもしれない。だから大人たちはその川には霊が出て子供を川底に引きずり込むことがあると、作り話で子供たちを脅かす。
そうすると子供たちは、霊を恐れてその川には近寄らなくなる。
それと同じことを脳が自動的に行っているのかもしれない。
それを確認するためにも今は掃除をしよう。
覚悟を決めてドアを開ける。
石造りの風呂場にカビによる黒いシミ。ホラーに黒いシミはつきものだ。
ドアを開けると嫌な感じも強くなる。それにカビっぽい匂いもする。
風呂場の外も確認してみるが、赤い服の幽霊の少女は現れない。
風呂場の中に入って、窓を開ける。
よし、掃除開始だ。
まずは自分を念動力で覆う。それから威力を調整した水の魔法を使う。高圧洗浄だ。
念動力で水の跳ね返りで濡れることもないので、ガンガン壁に蔓延る黒いカビを攻撃していく。
みるみるうちに壁は綺麗になっていく。しかし一箇所、浴槽側の壁の一部に広がる黒いシミだけがあまり綺麗にならない。
少し水圧を上げてみても状況に変化はない。
根が深いのかもしれない。
用意していたタワシを塩水につけてごしごしする。
駄目だった。ここだけ綺麗にならない。
それでも風呂場に漂っていた嫌な空気はだいぶ改善した気がする。
まぁとりあえずはこんなところだろう。
風呂掃除を終えると、玄関のドアを叩く音がした。
アリアさんが来たのだろう。
リビングに集まって、アリアさんが集めてきてくれた話を聞く。
「まずはそうですね。ミュラー家の情報からお話します。クリストさんはだいたい昨日、お話したとおりですのでその家族についてです。四人家族で、奥様のメラニーさんはクリストフさんよりずいぶんと若かったそうです。クリストフさんと結婚する以前にすでに結婚していて、七年前の戦争で夫を亡くした未亡人で、長女のナディネちゃんは前夫との子供のようです。次女のビアンカちゃんはクリストフさんとの間の子供です。ミュラー家が失踪した後、一時的にメラニーさんの元夫が生きていて攫って行ったとか、妻の裏切りに怒って皆殺しにしたとかいう噂もあったようです」
さすがアリアさん。ずいぶんしっかりと調べてきてくれたようだ。
「後一つ、気になった情報もありました。長女のナディネちゃんが赤い服を好んで着ていたそうなんです。ただ失踪当時の年齢は六歳でした。昨日私が見た霊はもう少し年上に、十歳くらいに見えました」
「もし霊も年をとるとしたらそのくらいかも?」
適当に思いついたことを口にしてみる。
「そうですね。ちょうどそのくらいかもしれません。でも霊って年をとるんですか?」
「私もそんな話は聞いたことがありませんが、とらないとも限りません。その可能性も気にとめておきましょう」
エルウィンさんがそう言って軽くまとめてくれたので、アリアさんは次の話を始める。
「次に失踪したのが二年前にミュラー邸を買った、ウエルタ家です。この家族も四人家族でした。商人だったそうです。もともとこの町に住んでいた家族で、ミュラー邸を購入して引っ越したようです。家族構成は夫のジェームズさんと妻のケリーさん、姉のリンジーちゃんと弟のマックス君の仲の良い家族だったそうです。夫婦で一緒に働いていたらしく、十歳の姉が三歳の弟の面倒をいつも見ていたそうです。商売も順調で、敵がいたような話もなく、失踪するような理由は見当たりません」
「年齢的にはウエルタ家のお姉ちゃんは霊と同じくらいですね」
「私もそう思ったのですが、彼女が赤い服を着ていたという情報は得られませんでした。どちらかというと白い服を好んでいたようです」
そもそも失踪に赤い服の少女の霊が関係していた場合、失踪した家族が赤い服の少女の霊であるわけがないので、この話は不毛かもしれない。
「そして次が驚きの新情報です。実はミュラー邸で失踪した三家族以外にももう一家族、この家に住んで失踪していない家族がいたんです」
『おお!』
俺とエルウィンさんが同時に声を上げる。
この家に住んだ家族がすべて失踪しているというわけではないということは重要な情報だ。
「それがロイテラー家です。ウエルタ家の次にこの家に住んだ家族です。この家族は他所の町から引っ越してきました。そしてこの家を買ったのではなく、借りています。夫のヨナス・ロイテラーさんは建築家で、自分の家をこの町に建てる間の仮住まいとして、この家を借りたそうです。さらにこの家族は三人家族で子供は四歳の男の子だけでした。奥様の名前はラモーナさんです。そして一人息子のレモ君が赤い服の少女の霊を見たそうです。それでレモ君が霊を見たことを両親に相談して、両親がこの家のことを近所の人たちに聞いてみると、すでに二家族が失踪していることがわかったので、すぐにこの家を出たそうです。結局ロイテラー家がこの家に住んでいたのは一週間ほどだったということです」
「なるほど……この助かった家族と他の家族との差異を確認するためにも、まず失踪した三家族目のお話もお願いします」
エルウィンさんがアリアさんに次の話を促す。
「わかりました。最後に失踪した三家族目はセーレンセン家です。セーレンセン家がこの家を買ったのが一年ほど前です。夫婦と男の子二人の四人家族でした。この家族も他の町から越してきました。夫のアンドレアス・セーレンセンさんは王都から派遣されてきた騎士だったそうです。この頃には私はもう騎士団に入っていましたが、面識はありません。引っ越してきてから一ヶ月ほどで失踪しています。奥様の名前はジョセフィンさんです。息子さんの二人は十二歳のシモン君と十一歳のヨアキム君で二人とも騎士を目指していたそうです。そして兄のシモン君だけが霊を見たという話もあります。父親のアンドレアスさんが、いもしない霊などを怖がっている、臆病者の長男の将来が心配だと知り合いに話していたそうです。もちろんこの家族にも急に失踪するような理由はありません」
この世界にはインターネットがないので、知りたい情報は顔を合わせて人づてに聞くしかない。
それなのにアリアさんが話してくれた情報は今知りたいことをほぼ網羅していた。
「とりあえず私が調べてきた情報はこのくらいです。何か疑問や思うところがあれば言ってもらえれば、補足できるかもしれません」
「あえて失踪していないロイテラー家と他の家族の差異を上げるのであれば、家を買っていないことと家族の人数くらいですかね。ところでミュラー家とウエルタ家がこの家に住んでいた期間はどのくらいかはわかりますか?」
「はい。ミュラー家は四年ほどで、ウエルタ家は一ヶ月くらいです」
「ということは、ミュラー家の後失踪している二家族はどちらもだいたい一ヶ月程度で失踪しているわけですね」
「そうです」
「そうなると、ロイテラー家は一ヶ月たつ前にこの家を出たのがよかったのかもしれません」
そう言ってエルウィンさんは手を顎に当ててうーんと考え込む。
そして俺も自分なりに考えをまとめようとしたときだった。
不意に異変を感じた。
あたりの音が小さく、いや遠くなっていく。自分のいる空間だけが隔絶されて、世界から遠のいていくような感覚。
エルウィンさんとアリアさんがすぐ近くで話しているはずなのに、耳の奥の方でボソボソと聞こえるだけでまるで聞き取れない。
そしてノイズ音。まるで前世にあった電子機械があげるようなザーザザッというノイズ音が左耳からだけ聞こえる。
さらには耳鳴りまで。ピーっと耳ではなく頭の中に響くような音がする。
頭が痛い。割れるようだ。手で頭を押さえようとした、その瞬間――ガタガタと部屋中の家具が動き出した。
ポルターガイスト現象だ。その現象だけ見れば念動力に似ているが、俺の力の暴走などではないと思う。ただ、この頭の中で響く痛みのせいで100パーセント俺が原因ではないとは言い切れない。
そしてキャーっとアリアさんの叫ぶ声とイスの倒れる音。いつの間にか耳は普通に聞こえた。アリアさんに抱きつかれる。
ネコも何かを警戒して唸り声を上げている。
「また赤い服の少女です!」
アリアさんが叫んだ。
「どこですか?」
「あそこです!」
アリアさんが指差したほうを見る。必死に目を凝らすが霊は見えない。
それでも……あれはなんだ。
アリアさんの指差すその場所にわずかな空間の揺らぎを感じる。
その揺らぐ空間をさらに凝視する。
そのとき――視界にノイズが走った。今度は音ではなく、まるで古い映像作品を再生しているときに走るようなノイズだった。
「少女が、消えました……」
アリアさんのその言葉と共に、世界は正常に戻った。
部屋にあった家具も散乱してはいるが、もう動いてはいない。
「なんですか? 今のは……」
そう言ったエルウィンさんの表情は少しも怯えていない。むしろ興奮していて嬉しそうだ。
「エルウィンさんは霊は見えましたか?」
「やっぱり見えませんでした。アゼルさんはどうでしたか?」
「俺も見えなかったですけど、何か空間の揺らぎのようなものは感じました。それとポルターガイストの直前に耳鳴りと頭痛がありました」
そういえば頭痛も耳鳴りももうない。
「ほう……それは興味深いですね。それでアリアさんが見た霊は昨日と同じものでしたか?」
「少女の……片腕がありませんでした。はっきりと覚えているわけではないのですが、昨日はそんなことはなかったと思います」
「なるほど……今日も彼女は何か言っていましたか?」
「はい。やっぱりこの家から出て行ってほしいようでした」
しっかりと答えてはいるものの、アリアさんの体はガタガタと震えている。
「いったん家を出ましょう」
「そうですね。そうしましょう」
家から出てもまだアリアさんは震えている。
「アリアさん大丈夫ですか? 無理そうならこの件からは手を引いてもいいと思いますよ」
「でも、アゼルさんは続けるんでしょう?」
「はい。そのつもりです」
「だったら私も続けます。パーティーですから。それに私もあの少女が何を求めているのか知りたいです」
「家から出て行ってほしいんじゃないんですか?」
「なんというか、それだけではないような感じでした。怒っているような感じではなく、何かを必死に訴えているような……」
そこまで言って、アリアさんは何かを思い出したように声のボリュームを上げる。
「あっ! そうでした。そういえばロイテラー家の方にアポをとってあります。主人のヨナスさんは仕事で家を空けているそうですが、奥様と息子さんが話を聞かせてくれるそうです」
「それはいいですね。特に赤い服の少女の霊を見たという息子さんの話は是非聞いてみたいです。アリアさんが見た霊とまったく同じものであるかが気になります。それではどこかで昼食を済ませてから、ロイテラー家に話を聞きに行ってみましょう」
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