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24話「生きるということ」
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中嶋 優 三十五歳
目を閉じると、私はベッドの上に仰向けで倒れた。
ワンルームの小さなマンションの一室。その三分の一を占めるこのベッドの上で、私は家にいる間のほとんどの時を過ごしてきた。テレビを見るのも、本を読むのも、パソコンをやるときも、柔軟体操や筋トレをするときだってこのベッドの上でだった。そして残されたわずかな時もまた、ここで過ごすことになるのだろう。
そんなことを考えながら私は目を閉じたまま大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出きだした。
そして目を開けると、時計で時間を確認する。小学校六年生のとき、卒業制作で作った木彫りの掛け時計。その頃大好きだった漫画の主人公の絵が彫ってある。肝心の時刻を示す数字は12、3、6,9の四つしか彫れておらず、目安となる線みたいなものもない。だから正確な時間をこの時計から読み取るのは難しい。それでも私はこの時計ともう二十年近くつきあってきた。少し進んでいることを加味して、今は十一時五十五分といったところだろう。
時間を確認した後、私は部屋の電気を消してまた目を閉じた。
時計のことを意識したせいだろうか、先ほどまでは聞こえていなかった秒針のカチッカチッという音が耳の奥へと響いてくる。その音は両手で耳を強く押さえても、はっきりと聞こえてきた。それはまるで世界の終りへと進んでいく足音のようで、これ以上聞いていたくなかった。
だから私は時計の音から逃れるために、音楽をかけることにした。選んだのはアイルランド出身のバンドの曲。私はケルト音楽、その中でも特にアイリッシュミュージックが好きだった。まるで冬の海や夜の砂漠を思わせる、冷たく透き通った旋律。その美しい歌声は心の奥底にまで染み渡っていく。
もう時計の音は聞こえなかった。
「そうか……終わるのか……」
つぶやく。
今日、世界は終り、私は死ぬことになる。とても冷静に現実を受け入れることが出来た。特に感慨はない。
それなのに私は自然と笑顔を浮かべていた。
これは癖だ。昔何かで耳にした。幸せを感じると人は笑顔になる。その反対も同じだ。笑顔を作るだけで、少し心が温かくなる。いつからか私は悲しいとき、笑顔を浮かべるようになっていた。ということは、私は今、幸せか悲しみのどちらかを感じていたということになる。しかし私の心は風のない湖面のように静かなままだった。
ではどうして私は今、笑みを浮かべたのだろう。もしかすると私はただ受け入れたわけではなかったのかもしれない。
そう考えたとき、わかった。
私は諦めたのだ。
だって……どうしようもない。しかたがない。私がいくら嫌だと泣き叫び駄々をこねたところで、何かが変わるわけではない。祈りを捧げたとしても神は何もしてくれないだろうし、私が必死で知恵を絞ったところで世界が救えるとは到底思えない。
だから諦め、そして受け入れた。
私は遂に……やっと、諦めることが出来たのだ。
私には夢があった。私には夢だけしかなかった。私には夢だけしか残っていなかった。
私は夢に向かって生きてきたわけではない。夢にすがって生きてきた。夢の肩を借りて、何とか今日まで歩んできた。
子供の頃の私は、大人の言うことを素直に聞く良い子だったと思う。その頃の私は両親や先生の言葉、テレビや本に書かれた情報に間違いはないと、信じていた。
そんな私に誰もが言ったのだ。「努力は報われる。ひたむきに続けていれば必ず夢は叶う」と……私は無邪気にその言葉を信じた。
そして私は高校の卒業を期に、夢へと向かって歩み出した。私は小説家になりたかった。アルバイトをしながら執筆し、新人賞に応募する日々だった。最新作が出来上がるたびに、それは私にとっての最高傑作だった。毎回自信を持って賞に応募した。この作品で私はデビューすることになる。そんなふうに夢を見て、審査結果の発表を待っていた。それなのに私の作品の名前は、いつも一次審査通過の発表にすら載ることはなかった。
そして二十代半ばになった頃、私は初めて思った。もしかしたら自分には才能がないのかもしれない。自分はこのまま小説家にはなれないのかもしれないと。しかし私はそんな自分に首を振って言い聞かせた。諦めなければ夢は叶う。努力に勝る才能はない。歩き続けていればいつかは絶対に夢へと辿り着くことが出来るはずだと。
しかしそのまま夢に辿り着くことはなく、私は三十歳を迎えた。私は完全に自信をなくしていた。作品を仕上げて応募するときも、どうせ駄目だろうと思って応募した。結果は案の定駄目で、私は笑顔を浮かべるのだ。もちろん諦めることも考えた。しかし諦めるにしても、少し年を重ねすぎた。積み上げてきた努力、捧げた時間、夢のためにと切り捨ててきた多くのことが私に諦めることを躊躇わせた。
もし夢路の途中、夢よりも価値のある何かと出会っていたのなら、諦めることだって出来たのかもしれない。もっと違う新しい目標だとか、全てを捨ててでも守りたいと思うような大切な人。そんなものがみつけられたのなら、それは夢を諦めるに足る理由になっただろう。しかし私にはみつけることは出来なかった。
だから私は進むしかなかった。それなのに子供だった私に夢を追うことの尊さを語った、あの大人たちが言うのだ。「いつまで夢を追いかけているのだ。いい加減、現実を見ろ」と……意味がわからなかった。彼らが私に言ったのだ。夢は叶うと。私はその言葉を信じただけだった。彼らの言葉を信じ、まっすぐ進んできた私に、どうして今更そんなことを言うのだろう。
でも本当はとっくの昔に気づいていた。努力は必ずしも報われるとは限らないし、夢を叶えることが出来るのは本当に一握りのわずかな人たちだけだ。そしてその一握りの者たちの語った言葉がテレビや本になる。彼らは成功者だ。その努力は実り、夢は叶ったのだろう。だから自分の経験を踏まえて夢は叶うと、そう語った。いつだって世界に言葉を発信していくのは、何かを成し遂げた成功者たちだ。何も成し遂げられず、挫折し夢を諦めたような人物の言葉が後世に残るわけがなかった。
子供の頃の私にはそれがわからなかった。だから真に受けてしまった。ほんの一握りの成功者たちの言葉と、大人たちの語る見せかけだけのきれいごとを……
そして私は今、三十五歳。いまだに夢を諦められずにいた。
しかし今日、世界は終わるという。
それは私が初めて手にした、夢を諦めるに足る理由だった。だって……どうしようもない。しかたがない。もうどう足掻いても、私の夢が叶うことはなくなった。諦めるしかなかった。諦めるしか、なかった……
涙がにじんできた。
私は人生のほぼ半分を夢だけに費やした。諦めるということはそれを否定すること、意味がなかったと切り捨てることだ。やっぱり悲しかったが、同時にずっと背負ってきた肩の荷を降ろしたような開放感もあった。
夢は呪い似ていた。昔やったゲームに出てきた呪われた武器にそっくりだ。呪われた武器は主人公に力を与え、道を示してくれた。しかし目的を成すまで装備から外すことは出来ず、道からそれることを許さなかった。そして主人公の心に満たされることのない渇きを与えた。そんな呪われた武器から私はやっと開放されたのだ。
私は今日、夢を諦めた。もう努力も犠牲も何も必要はない。残された時間はわずかだが、ただ好きなことを好きなようにやればいい。それこそ本気でそれを望むのなら、犯罪行為だってかまわない。どうせもう世界は滅びるのだ。何だってやれる。罰を恐れる必要はないし、家族や知人に及ぶ迷惑なども気にすることはない。
そう……もう未来を気にする必要はない。あるのは今だけだ。だから今の私は完全な自由だ。心のおもむくままに生きることが出来る。好きなように生きることが出来る。
そしてそんな私の心の奥底から溢れる衝動は……書きたいという思いだった。
当たり前だ。それはとても当たり前の、わかりきった答えだった。だって私が小説家になりたいと夢見たのは、書くことが好きだったからだ。その夢を諦めることが出来なかったのも、他の何よりも書くことが好きで、それが私の全てだったからだ。
昔から私は内気な性格で、自分の素直な気持ちを口にすることに抵抗があった。しかし声に出すことが出来なくとも、溢れる想いはあった。心という名の想いを溜めるバケツには到底納まりきらないほどの想いを、私は一人で抱えていた。お腹いっぱいになって、便意を感じたらトイレに駆け込むように、私は心の中から溢れるこの想いを外へと吐き出す必要があった。その手段が書くことだった。
だから私にとって書くことは生理現象だ。それは生きるために最低限必要な行為の一つに他ならなかった。世界が終わるからといって、呼吸を止めることは出来ない。それと同じように私は書くことを止められないのだ。
それが夢だったからではない。それが好きだったからでもない。それが私にとって生きるということだからだ。
だから私は書く。
そうだ。今から書くのは、世界が終わる今を過ごす主人公たちの物語にしよう。終わり方はもちろんハッピーエンド。
私が望む幸せな生活。私の抱える様々な感情。そんな私の内からとめどなく溢れる想いを綴った物語。そう……これから書く物語は賞を取るためのものではない。誰かに見せるためのものでもない。
ただの私の排泄物だ。
故に、それは私の全てだ。
目を閉じると、私はベッドの上に仰向けで倒れた。
ワンルームの小さなマンションの一室。その三分の一を占めるこのベッドの上で、私は家にいる間のほとんどの時を過ごしてきた。テレビを見るのも、本を読むのも、パソコンをやるときも、柔軟体操や筋トレをするときだってこのベッドの上でだった。そして残されたわずかな時もまた、ここで過ごすことになるのだろう。
そんなことを考えながら私は目を閉じたまま大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出きだした。
そして目を開けると、時計で時間を確認する。小学校六年生のとき、卒業制作で作った木彫りの掛け時計。その頃大好きだった漫画の主人公の絵が彫ってある。肝心の時刻を示す数字は12、3、6,9の四つしか彫れておらず、目安となる線みたいなものもない。だから正確な時間をこの時計から読み取るのは難しい。それでも私はこの時計ともう二十年近くつきあってきた。少し進んでいることを加味して、今は十一時五十五分といったところだろう。
時間を確認した後、私は部屋の電気を消してまた目を閉じた。
時計のことを意識したせいだろうか、先ほどまでは聞こえていなかった秒針のカチッカチッという音が耳の奥へと響いてくる。その音は両手で耳を強く押さえても、はっきりと聞こえてきた。それはまるで世界の終りへと進んでいく足音のようで、これ以上聞いていたくなかった。
だから私は時計の音から逃れるために、音楽をかけることにした。選んだのはアイルランド出身のバンドの曲。私はケルト音楽、その中でも特にアイリッシュミュージックが好きだった。まるで冬の海や夜の砂漠を思わせる、冷たく透き通った旋律。その美しい歌声は心の奥底にまで染み渡っていく。
もう時計の音は聞こえなかった。
「そうか……終わるのか……」
つぶやく。
今日、世界は終り、私は死ぬことになる。とても冷静に現実を受け入れることが出来た。特に感慨はない。
それなのに私は自然と笑顔を浮かべていた。
これは癖だ。昔何かで耳にした。幸せを感じると人は笑顔になる。その反対も同じだ。笑顔を作るだけで、少し心が温かくなる。いつからか私は悲しいとき、笑顔を浮かべるようになっていた。ということは、私は今、幸せか悲しみのどちらかを感じていたということになる。しかし私の心は風のない湖面のように静かなままだった。
ではどうして私は今、笑みを浮かべたのだろう。もしかすると私はただ受け入れたわけではなかったのかもしれない。
そう考えたとき、わかった。
私は諦めたのだ。
だって……どうしようもない。しかたがない。私がいくら嫌だと泣き叫び駄々をこねたところで、何かが変わるわけではない。祈りを捧げたとしても神は何もしてくれないだろうし、私が必死で知恵を絞ったところで世界が救えるとは到底思えない。
だから諦め、そして受け入れた。
私は遂に……やっと、諦めることが出来たのだ。
私には夢があった。私には夢だけしかなかった。私には夢だけしか残っていなかった。
私は夢に向かって生きてきたわけではない。夢にすがって生きてきた。夢の肩を借りて、何とか今日まで歩んできた。
子供の頃の私は、大人の言うことを素直に聞く良い子だったと思う。その頃の私は両親や先生の言葉、テレビや本に書かれた情報に間違いはないと、信じていた。
そんな私に誰もが言ったのだ。「努力は報われる。ひたむきに続けていれば必ず夢は叶う」と……私は無邪気にその言葉を信じた。
そして私は高校の卒業を期に、夢へと向かって歩み出した。私は小説家になりたかった。アルバイトをしながら執筆し、新人賞に応募する日々だった。最新作が出来上がるたびに、それは私にとっての最高傑作だった。毎回自信を持って賞に応募した。この作品で私はデビューすることになる。そんなふうに夢を見て、審査結果の発表を待っていた。それなのに私の作品の名前は、いつも一次審査通過の発表にすら載ることはなかった。
そして二十代半ばになった頃、私は初めて思った。もしかしたら自分には才能がないのかもしれない。自分はこのまま小説家にはなれないのかもしれないと。しかし私はそんな自分に首を振って言い聞かせた。諦めなければ夢は叶う。努力に勝る才能はない。歩き続けていればいつかは絶対に夢へと辿り着くことが出来るはずだと。
しかしそのまま夢に辿り着くことはなく、私は三十歳を迎えた。私は完全に自信をなくしていた。作品を仕上げて応募するときも、どうせ駄目だろうと思って応募した。結果は案の定駄目で、私は笑顔を浮かべるのだ。もちろん諦めることも考えた。しかし諦めるにしても、少し年を重ねすぎた。積み上げてきた努力、捧げた時間、夢のためにと切り捨ててきた多くのことが私に諦めることを躊躇わせた。
もし夢路の途中、夢よりも価値のある何かと出会っていたのなら、諦めることだって出来たのかもしれない。もっと違う新しい目標だとか、全てを捨ててでも守りたいと思うような大切な人。そんなものがみつけられたのなら、それは夢を諦めるに足る理由になっただろう。しかし私にはみつけることは出来なかった。
だから私は進むしかなかった。それなのに子供だった私に夢を追うことの尊さを語った、あの大人たちが言うのだ。「いつまで夢を追いかけているのだ。いい加減、現実を見ろ」と……意味がわからなかった。彼らが私に言ったのだ。夢は叶うと。私はその言葉を信じただけだった。彼らの言葉を信じ、まっすぐ進んできた私に、どうして今更そんなことを言うのだろう。
でも本当はとっくの昔に気づいていた。努力は必ずしも報われるとは限らないし、夢を叶えることが出来るのは本当に一握りのわずかな人たちだけだ。そしてその一握りの者たちの語った言葉がテレビや本になる。彼らは成功者だ。その努力は実り、夢は叶ったのだろう。だから自分の経験を踏まえて夢は叶うと、そう語った。いつだって世界に言葉を発信していくのは、何かを成し遂げた成功者たちだ。何も成し遂げられず、挫折し夢を諦めたような人物の言葉が後世に残るわけがなかった。
子供の頃の私にはそれがわからなかった。だから真に受けてしまった。ほんの一握りの成功者たちの言葉と、大人たちの語る見せかけだけのきれいごとを……
そして私は今、三十五歳。いまだに夢を諦められずにいた。
しかし今日、世界は終わるという。
それは私が初めて手にした、夢を諦めるに足る理由だった。だって……どうしようもない。しかたがない。もうどう足掻いても、私の夢が叶うことはなくなった。諦めるしかなかった。諦めるしか、なかった……
涙がにじんできた。
私は人生のほぼ半分を夢だけに費やした。諦めるということはそれを否定すること、意味がなかったと切り捨てることだ。やっぱり悲しかったが、同時にずっと背負ってきた肩の荷を降ろしたような開放感もあった。
夢は呪い似ていた。昔やったゲームに出てきた呪われた武器にそっくりだ。呪われた武器は主人公に力を与え、道を示してくれた。しかし目的を成すまで装備から外すことは出来ず、道からそれることを許さなかった。そして主人公の心に満たされることのない渇きを与えた。そんな呪われた武器から私はやっと開放されたのだ。
私は今日、夢を諦めた。もう努力も犠牲も何も必要はない。残された時間はわずかだが、ただ好きなことを好きなようにやればいい。それこそ本気でそれを望むのなら、犯罪行為だってかまわない。どうせもう世界は滅びるのだ。何だってやれる。罰を恐れる必要はないし、家族や知人に及ぶ迷惑なども気にすることはない。
そう……もう未来を気にする必要はない。あるのは今だけだ。だから今の私は完全な自由だ。心のおもむくままに生きることが出来る。好きなように生きることが出来る。
そしてそんな私の心の奥底から溢れる衝動は……書きたいという思いだった。
当たり前だ。それはとても当たり前の、わかりきった答えだった。だって私が小説家になりたいと夢見たのは、書くことが好きだったからだ。その夢を諦めることが出来なかったのも、他の何よりも書くことが好きで、それが私の全てだったからだ。
昔から私は内気な性格で、自分の素直な気持ちを口にすることに抵抗があった。しかし声に出すことが出来なくとも、溢れる想いはあった。心という名の想いを溜めるバケツには到底納まりきらないほどの想いを、私は一人で抱えていた。お腹いっぱいになって、便意を感じたらトイレに駆け込むように、私は心の中から溢れるこの想いを外へと吐き出す必要があった。その手段が書くことだった。
だから私にとって書くことは生理現象だ。それは生きるために最低限必要な行為の一つに他ならなかった。世界が終わるからといって、呼吸を止めることは出来ない。それと同じように私は書くことを止められないのだ。
それが夢だったからではない。それが好きだったからでもない。それが私にとって生きるということだからだ。
だから私は書く。
そうだ。今から書くのは、世界が終わる今を過ごす主人公たちの物語にしよう。終わり方はもちろんハッピーエンド。
私が望む幸せな生活。私の抱える様々な感情。そんな私の内からとめどなく溢れる想いを綴った物語。そう……これから書く物語は賞を取るためのものではない。誰かに見せるためのものでもない。
ただの私の排泄物だ。
故に、それは私の全てだ。
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