世界の終わりに、想うこと

鈴木りんご

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16話「光ある今日」

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             家長いえなが 宏美ひろみ 二十七歳



 世界の終りに、私の今日は始まった。

 今日は特別な日だ。昨日までとは違う特別な今日。今日は美しく色づく、私の残りの人生の始まりの日。

 私はそんな今日を、今までずっと繰り返してきた日々と同じように過ごすと決めていた。少し前に目を覚まして、ラジオで世界の終りを知る以前から、そうするのだと決めていた。私のこの決意は世界の終りにだって変えられはしない。

 まずは一日の始まり。顔を洗って歯をみがこう。

 私は洗面台の少し汚れた鏡の前に立つ。子供の頃、鏡に自分の顔を映すには踏み台が必要だった。でも今はもう必要ない。

 私は鏡に向かって微笑んでみた。寝起きでも癖一つない真っ直ぐなストレートのショートカット。ちょっとタヌキっぽいたれ目はチャームポイント。筋の通った鼻に、大きめな口。鏡に映る私はなかなかの美人だった。

 鏡で口の中を見ながら、いつもよりちょっとだけ時間をかけて、丁寧に歯をみがく。歯をみがき終えたら、次は体重を量る。洗面所のすみっこに置かれた体重計は銀色でシャープなメタリックボディ。なんだか近未来っぽくてかっこいい。右足の親指でスイッチを入れてから一呼吸待って、上に乗る。体重計は「42・3キロです」と一文字ずつ区切った電子音声ならではの声で、私に体重を教えてくれる。

 さて、次はどうしよう。

 今日は起きるのが遅かった。ご飯を先にしようか、それとも先に散歩に出かけようか……

 少しだけ考えて私は決めた。先に散歩に行こう。だって私はこの高鳴る鼓動、はやる気持ちを押さえつけることなんて出来そうにない。それでも寝起きで喉が渇いていたので、飲み物だけは飲んでからにしよう。

 私はキッチンに入って、まず電気をつけた。いつもは気にならないのだが、今日はこの部屋だけ特別に暗いのが気になった。

 蛍光灯が灯って明るくなった部屋の中を一通り見回してから、また電気を消してみる。すると一瞬のうちに暗くなった。それがとても不思議だった。今までここにあった光はどこに消えてしまったのだろう。一秒で地球を何週もするというそのスピードで、どこか遠くに行ってしまったのだろうか。それとも闇の圧力に屈して、消滅してしまったのだろうか。

 そんなことを思いながらもう一度電気をつけて、冷蔵庫を開ける。扉側についた、かごみたいな所に入った三本のペットボトルが私用の飲み物だ。右から麦茶、牛乳、水の順番。どれにしようか考える。透明で透通った水。真っ白な牛乳。薄い茶色でペットボトルの底に粉のようなものが少し沈殿している麦茶。

 寝起きだし、水にしておこう。いつもだったらペットボトルからそのまま飲んでしまうのだけれど、今日はコップに入れて飲むことにした。

 戸棚の前に来て、私はまた迷ってしまう。どのコップにしようか。でも今度はすぐに決めた。ピンク色のネコの絵がデザインされた透明で涼しげなグラスを手に取る。グラスをテーブルに一度置いてから、両手でペットボトルを持ち、少しずつ傾けて慎重に水を注いでいく。グラスに注がれた水はちょうど真上にある蛍光灯の光を反射してキラキラと輝いて見えた。

 私はグラスに口をつけてキラキラした水を飲む。よく冷えた水がのどの渇きを潤してくれる。

 では散歩に出かけよう。軽やかなステップで私は玄関に向かう。

 玄関の左側にあるのが私の靴だ。その中でも一番左隅にあるのが散歩のときにいつもはいているゴムのスリッパみたいなやつ。赤単色でシンプルなデザインのそのサンダルは、ずいぶんと汚れていた。まぁ、この二年間ほぼ毎日、私の散歩に付き合ってくれていたのだからそれもしかたがない。

 私はサンダルをはいて立ち上がった。後一歩踏み出せばそこには外へと続く扉がある。ドキドキした。まるで全身が心臓になってしまったみたいに体中で鼓動を感じる。

 私はゆっくりと目をつむった。世界から色が消えた。目蓋の先に広がるのは漆黒に塗りつぶされた闇の世界。闇に覆われて何も見えないが、ただ私の瞳に映っていないだけで消えてしまったわけではない。世界は何一つ変わらずにそこに在る。

 私はそれを知っていた。

 だから臆せず、目をつむったまま一歩踏み出す。鍵を開けて扉を開く。

 そしてもう一歩。

 目蓋越しでも光を感じた。耳を澄まし鼻で大きく息を吸う。そして空を仰ぐ。目をつむったままなのに眩しい。黒かった世界がいっぺんに光に埋め尽くされる。それは白とも赤ともとれない温かな輝き。

 私は空を仰いだまま少しずつ目を開いた。

 世界はあまりに眩しくて、反射的にまた目を閉じそうになる。でも私はそれをなんとかこらえることが出来た。

 空は青かった。雲ひとつない真っ青な空。その中心で青を穿つ光の穴のように輝く太陽。太陽はあまりに眩しくて、私は耐え切れずに目を閉じてしまった。それでもまだ眩しくて空から目を背ける。

 太陽……なんて圧倒的な存在感だろう。流石この世界を照らす光の化身。そして今日この世界を滅ぼすことになる炎の魔王。とんでもない奴だ。

 私は目を開き、今度は辺りを見回した。ここが我が家の庭だ。家の外へと続く石畳。その左側には大きな物置小屋。右側には物干し竿と数本の木がある。その木のうち二本は花を咲かせていた。オレンジ色の小さな花が身を寄せ合って咲いている。その甘く主張の強い匂いですぐにキンモクセイだとわかった。

 私は両腕を精一杯横に広げて、くるりと回る。私と一緒に視界の中の世界も一周した。不思議な感じだった。回っているのは私だけなのに、世界も一緒に回ってくれているみたいだ。それはまるで世界と手をつないで、一緒にワルツでも踊っているような気分。

 私はまた目をつむり、三歩前に進む。そして右手を伸ばす。手に触れたのは硬く冷たい感触。これは石造りの我が家の塀。指先で塀をちょんちょんと軽く叩いてから、私は目を開く。

 私の視界を彩るのは三色の世界だった。緑と茶色と青。足下には舗装されていない土で出来た道。そして視界を埋め尽くす一面に広がる畑。視界の一番先にあるのは空と山だ。

 私が住むこの場所は絵に描いたように典型的な田舎だった。私の視界の届く先にある家屋は我が家しかない。お隣の渡辺さんちに行くには徒歩で二十分くらい必要だ。

 さぁ、それでは散歩を始めよう。

 散歩と言ってもとくに目的地があるわけではない。ただ家の外周を塀にそって一周するだけ。いや……目的地はあった。ここだ。この我が家こそが出発地点で目的地。

 私は右手の指先で塀に触れながらゆっくりと歩き出す。

 私は今、幸せだ。

 今日でよかったと思う。世界が終わるのが今日でよかった。たぶん、今日だったからこそ、私はそう思うことが出来るのだ。もしこれが明日だったのなら、私は今日という幸せを享受した後、新しい何かを願っていたかもしれない。そうしたら私は世界の終りに悔いを抱くことになる。そしてもし世界が終わるのが昨日だったのなら……私はきっと絶望し、いるかもわからない神を恨んだだろう。

 私は子供の頃、大病を患って失明した。しかし数日前、手術を受けて視力を取り戻した。そして昨日の夜中に私はこの家に帰って来た。失明する前も、した後も変わらずに過ごしてきた我が家に。

 私は今、この上なく幸せだ。

 ずっと、ずっと願っていた。またこの景色が見たいと。子供の頃から家から見えるこの景色が大好きだった。私はそれを十七年ぶりに、またこの目で見ることが叶った。

 うん……私は今、最高に幸せだ。だから今日は死ぬのには申し分のない日。

 さぁ、この景色を楽しみながら散歩を続けよう。世界が終わるそのときまで、私は存分にこの世界をその目に焼きつけてやることにしよう。
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