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9話「私は幸せもの」

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               風間かざま 千尋ちひろ 三十歳



 震える手でリモコンを操作して、私はテレビを消した。

 もうすぐ世界は滅びるという。

 涙が溢れた。

 少しだけ上を向いて、目蓋を閉じる。目蓋に押し出されて頬を伝う涙は温かい。

 世界の終りを知って、私は思った。よかった……と。心の底から、そう思った。よかった。本当によかった。私は幸せものだ。私も死ぬことが出来る。彼の去り逝く世界で一人取り残されることなく、私も彼と共に逝くことが出来る。

 本当に、本当によかった。

 私が彼を好きになったのは小学四年生のとき。彼は私に笑顔を向けてくれた。私が話しかけると嫌な顔一つせずに、笑顔で私の言葉に耳を傾けてくれた。

 たったそれだけのことでと、人は首を傾げるかもしれない。それでもそのときの私にとって、それはとても特別なことだった。彼の笑顔は救いであり、幸福だった。この世界を生きるに足る、たった二つの理由の一つだった。

 当時、私は学校でイジメを受けていた。

 虐められる側にも理由はある。そう言う人がいる。それはそうだ。それがどんなに理不尽であっても、何らかの理由はあるだろう。私にも虐められる理由があった。

 私の家は母子家庭だった。病弱な母親が一人で、必死になって私を育ててくれていた。とても貧しい生活だったが、私は母の愛を一身に受けて幸せだった。近所の人たちも私たち親子を気にかけ、親切にしてくれた。みんなが私と母を助けてくれた。そんな私の服は、いつも近所の六つ年上のお姉さんのお下がり。それを嫌に思ったことはなかった。もちろん小学校の備品一式も、大抵のものがお姉さんからのお下がりだった。

 それがイジメの理由となった。私は貧乏だとか汚いと言われて虐められた。私が近寄るとみんなは臭いと笑った。私が触れたものは菌がついていると誰も触れたがらなかった。じゃんけんで負けた人が私に触れて菌を保有し、その人が他の人に触れて菌を移すという、鬼ごっこみたいな遊びまで行われていた。

 それでも一、二年生の頃は虐められていなかった。クラスのみんなと仲良くやれていたし、特別仲のいい友達だっていた。イジメが始まったのは三年生になってクラス替えがあった後だった。

 ある日、一人のクラスメイトが私の体操着がお下がりであることをからかった。その日からそのクラスメイトはことあるごとに私をからかうようになった。そしていつしかそれはクラス全体に広がって、少しずつ陰湿になっていった。

 味方は誰もいなかった。私が近づくだけで、みんなが嫌な顔をした。そんなみんなが私に笑顔を向けてくれるのは、私を傷つけて楽しんでいるときだけだった。

 先生も誰も、私を助けてはくれなかった。クラスの総意のような悪意に包まれて、私には耐える以外の術は思いつかなかった。

 学校に行きたくなかった。夜寝る前に明日なんて来なければいいと、いつも願っていた。朝が来るたびに私は今日の訪れに絶望して、世界を呪った。

 イジメのことを母に相談しようかと考えたこともあったが、それは出来なかった。心配をかけたくなかったし、恥かしかった。どうしたらいいのかわからなくて自殺も考えた。学校へ虐められに行くくらいなら、死んでしまったほうがずっとましだと思った。それでももしそんなことをしたら、母が一人ぼっちになってしまう。だから私は死ぬことすら出来なかった。

 私は解決策を見つけられないまま、ただ耐え続けた。学校という閉鎖された牢獄の中で、私は一人地獄のような日々を過ごしていた。

 そんなある日、四年生の三学期に彼は転校生として私のクラスに現れた。

 彼が転校してくる前、私のクラスは三十一人で奇数だったから、嫌われ者の私の席は一番後ろで隣には誰もいなかった。そんな私の隣に彼はやってきた。そして彼は笑顔で私に話しかけてくれた。

 その日の休み時間、彼はクラスメイトたちに私のことを説明されていた。みんなが私の悪口を彼に語っていた。それなのに彼は変わらずに私に笑顔を向けてくれた。

 彼は勉強も運動も出来て容姿も整っていた。だけど少し変わり者だった。

 学校……いや、学校だけではないかもしれない。多くの学校のような集合体では、同じであることが求められる。一人が右を向けば皆が右を向く。誰かが私を虐めれば、皆が私を虐める。皆が同じことを面白いと感じ、皆が同じことを不快に思う。誰もがカメレオンのように同じ色に染まっていく。そうすることで自分を守り、多数派である自分に安心し、少数派を排斥することで優越感を得る。

 皆がそうやって生きている中、彼だけは自由だった。彼は既存の価値観には縛られない。彼は同じものに染まることを否定し、自分を貫く強さを持っていた。一つ間違えばそれは自分勝手の傲慢な行為と目に映るかもしれない。しかし彼はとてもまっすぐで優しかった。

 グループを作りたがるみんなと、彼は特別に仲良くなることはなかったけど、一人ぼっちだった私は彼と友達になった。それだけで学校は楽しくなった。真っ黒で地獄のようだった学校生活に光が射して、楽園と見紛うほど輝いた日々となった。

 それからずっと私と彼は親友だった。小、中、高、大学までずっと一緒だった。私は彼のことが好きだった。初めて出会ったその日から、ずっと大好きだった。

 でもそれを私から伝えることはなかった。彼はいつだって自由だった。彼は道なき大空を翔る鳥だった。そんな彼を縛りたくなかった。恋愛なんていう約束事で縛りつけ、結婚という鳥籠の中に閉じ込めてはいけないと思った。

 そんな私たちの関係に変化があったのは二十五歳のとき。私も彼も大学を卒業して、すでに社会人になっていた。

 彼の職業を言葉で表すのは難しい。彼は世界中を旅していた。アフリカの小さな村で井戸を作ったり、日本で研究されている技術を使って砂漠に緑を蘇らせたりと、世界のあちこちで様々な活動をしていた。彼は世界中を飛び回り、たくさんの人々に笑顔を贈っていた。

 私は日本で仕事をしながら、彼からの国際電話やたまに帰ってくる彼に会えることを楽しみにしていた。

 そんなある日、日本に帰って来た彼は私に言った。

「結婚しよう!」

 まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいなキラキラした笑顔で、彼はそう言ってくれた。

 いつだって彼の行動は自由で突然だった。それでも私は迷うことなく頷いた。そんな日が来ることを頭の中では毎日のように想像だけはしていたから、失敗することなく上手に頷くことが出来た。

 そして私たちは夫婦になった。

 彼は相変わらず世界中を行ったり来たりしていたけれど、必ず帰って来る。彼の旅は私の隣から始まって、私の隣に戻って来ることで終わるのだ。

 私は幸せだった。彼はどんなときも輝いていて、その輝きで私の人生まで明るく照らしてくれた。

 私はそんなキラキラと輝く日々がずっと続いていくものと思っていた。

 しかし数日前だった。少し調子が悪いからと念のため検査に行った病院で、彼に癌が見つかった。すでに全身に転移していて、長くて半年の命だと宣告された。

 目の前が真っ暗になった。私にはもう彼のいない世界なんて想像すら出来なかった。

 彼の死。そう……それはまさに私にとって、世界の終りだった。私の世界を終わらせるのは太陽なんかじゃない。彼がこの世界を去るとき、私の世界は終わるのだ。

 しかし今日、世界は滅びるという。

 それは私にとって悲劇ではなかった。私は彼と離れ離れにならなくていい。共に逝ける。それはたった一つの望んだ終わり方だ。

「よかった」

 私はリモコンをテーブルの上に置いて、そうつぶやいた。

「よかった?」

 隣で一緒にテレビを見ていた彼が不思議そうに言う。

「うん。本当は私、あなたのいなくなった真っ暗な世界で生きていく自信がなかった」

「そんなことないよ。僕がいなくても君は大丈夫さ。それに君はいつも僕が輝いているって言ってくれるけど……本当は違うんだ」

 そう言って、彼は少し恥かしそうに笑った。

「僕が転校して来た頃のこと覚えてる?」

「ええ。四年の三学期だった」

「僕は君のところに来るまでは転校ばっかりしていたんだ。父さんの仕事の関係で、毎年三回くらい転校を繰り返していた。僕は転校には慣れっこで、どこででもうまくやれていた。友達も簡単に作れた。でもその新しい友達には、僕なんかよりずっと仲のいい友達がいるんだ。それが少し寂しかった。だけど君と出会って、友達になって、初めて誰かの一番になれた気がした。すごくうれしかったんだ」

 それは初めて聞く話だった。

「本当はその後、また転校するはずだった。でも僕はそれを初めて嫌がった。泣き叫んで両親に抗議した。それでも駄目だった。だから僕は包丁を自分の胸に突きつけて、父さんに言ったんだ。ここから転校するくらいなら死んでやるって……それでやっと両親は僕の本気がわかってくれて、それからは父さんが単身赴任することになった」

 とっておきの自慢話をするみたいに、彼は得意気に言葉を続けていく。

「僕はそのとき初めて、全てをねじ伏せて自分の思い通りに進んだんだ。僕はもともと自由だったわけじゃない。僕がまっすぐ前を向いて、自分自身を信じられるようになったのは、隣に君がいてくれたからだ。君が隣にいてくれたら、それだけでなんだって出来る気がした。少しも恐くなんてなかった。例え失敗しても、成功するまで何度だって挑戦出来た。全部、君が僕を信じてくれたからだ。君が信じてくれたから、僕は自分を信じることが出来た。もし僕が輝いているんだったら、僕を輝かせているのは君だ。もし僕が自由な鳥だって言うのなら、僕に自由をくれる翼は君だ。僕はずっと幸せだった。それは全部、君に出会えたからだ……」

 私はずっと彼の輝きのおかげで、この世界は輝いていると思っていた。私が彼を輝かせていたなんて、想像もしなかった。

 私が彼を必要としているように、彼もまた私を必要としてくれていたなんて考えもしなかった。

「実はさ……僕も世界が滅びると知って、少しほっとしているんだ。僕は僕が死んだ後も、君には幸せでいてほしかった。笑っていてほしかった。本当に心からそう願っていた。それなのに僕が死んだ後、僕じゃない別の誰かが君の一番になることが、自分が死ぬことなんかよりずっと怖かった」

 彼は自分の心臓のあたりをぎゅっと握り締めながら涙を流していた。

「僕が死んだ後、傷ついている君に誰かが優しくしてくれて、君はその人と恋に落ちる。そして僕の死を乗り越えて、君はその彼と結ばれるんだ。僕との間には出来なかったけど、彼との間には子供も出来るかもしれない。そして君たちはおじいさんとおばあさんになるまで仲睦まじく暮らすんだ。僕と君との時間よりずっと長い時間を、二人は共に過ごす。その後、二人が死んで死後の世界、天国があってそこでも二人一緒だったら僕はどうすればいい? もし生まれ変わりがあって、僕は君を探しに行くのに君が彼とまた恋に落ちていたら僕はどうしたらいい……そんなことを考えると、怖くて怖くてしかたがなかった」

「そんな心配なんていらないのに。私があなた以外を好きになるなんてありえない」

「そっか……」

「うん。そうだよ」

「後、二時間で世界が終わる。どうしよっか?」

「一緒にいよう。世界が終わるそのときまで、ずっと一緒に」

 ただ一緒にいられれば、それで充分だった。それ以上に望むことなんてない。ずっと私たちは二人一緒。例え死でも、世界の終わりであっても、私たちを分かつことなんて出来やしない。

 私は本当に幸せものだ。

 私は、私たちは最期のそのときまでずっと一緒で、ずっと幸せでいられるのだから……

 例えそれが世界の終りであっても、二人一緒ならそれはハッピーエンドでしかなかった。
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