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第四話
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「……なんということだ……」
ザカリーのつぶやきでようやく我に返ると、イーデンはトレイシーの肩を抱いた。
「トレイシー様……。大丈夫ですか?」
「ありがとう、イーデン。もう大丈夫だよ。それより、これをどうにかしないと」
目の前にある血の海を指差し、トレイシーが力なく答えた。まるで絨毯に零した紅茶をどうするかとでもいうようだ。冷静なトレイシーとは違い、ザカリーは狼狽を隠すことなく、玉座で震えていた。
「あぁ……フレドリック……。すまない、すまなかった。余がサンドラを召し抱えたばかりに」
「なぜ、そのようなことをなさったのですか?」
そもそもの原因はザカリーがサンドラを妾にしたことだ。すでにアンドリューもデクスターも成人しており、心もとないとはいえ後継はいた。
「王子がふたりしか生まれなかったからだ。しかもふたりとも色の薄い瞳。王威とて、余からすれば弱い。王妃のアデライトは高齢でもあり、サンドラの赤い瞳が混じれば、王威も強まると思ったのだ」
「そんな理由で……」
イーデンにとっても、国民にとっても畏怖はすれど国王が誰であれ、そう変わりはない。王威の強弱など、わかりもしない。
せめて、そのサンドラを護ることはできなかったのか。娼婦と蔑まされ、王子ふたりに慰み者にされる前に、止めることはできなかったのだろうか。イーデンは悔しさに瞳をにじませた。
ザカリーはひじ掛けにもたれ、肩で息をしていた。
「余は、フレドリック以外に、信頼できるものがおらぬ。王妃さえ……いつ裏切るかと不安、だったのだ。そのフレドリックの妹であれば、裏切ることはないと、思って……。すまない、フレドリック。すまない、サンドラ――」
とぎれとぎれの言葉は、すでにここにはいない者に向けられた謝罪だった。
最後のほうはほとんど音にならず、衣擦れにまぎれた。ザカリーの身体が傾ぐ。疲れてしまったのだろうかとイーデンが訝しむと、宰相が騒ぎ出した。
「陛下! お気を確かにっ! ……なんてことだ、息をしてない」
国王のあっけない最期だった。
最初に現実に返ったのはトレイシーだった。
「王位を欲したデクスターがアンドリューを弑した、というのはどうでしょう? フレドリックはそれを罰するために殺害。しかし王族を殺したとなれば極刑は免れない。自ら、罰を下した。それならば、筋が通るのではありませんか? 幸い、ここには僕たちしかいませんし」
いまだザカリーの膝にすがる宰相が顔を上げる。年老いた宰相だが、さらに老けたように見える。
「し、しかし……、そこの護衛は」
そういってイーデンに目を向ける。これまで何も出来ず、傍観者でいたイーデンは急に舞台に上げられたような気分になった。
「イーデンには報奨を与えましょう。望むものなら何でも。どう?」
トレイシーが振り返り問う。その顔からは怯えも恐れも見受けられない。少女のような可憐さも薄れ、イーデンは底知れぬトレイシーの強さに、はじめて逢った時と同じ心の震えを感じた。
「報奨などなくとも口外するつもりはありません。ですが――」
当然、トレイシーが黙れといえばイーデンは一生このことを口にすることはない。しかし、望むものならあった。何が何でも手に入れたい、大事なものだ。
「私をフレドリック騎士団長の後任として推挙していただきたい」
自分の力で手に入れるつもりではいたが、平民出身のイーデンにとって千載一遇の機会だ。逃すべきではないと、本能が訴える。
「騎士団長になりたかったの? それだけでいいの?」
「騎士団長になれば、王族の降嫁を願い出ることができます」
トレイシーは不思議そうに首をかしげる。
「誰か、懸想している姫でもいるのか?」
「いえ、私が欲しいのは王子です」
「王子? しかしアンドリュー様もデクスター様もなくなった今、王子というと……」
宰相の問いは至極当然のことだろう。しかしイーデンが欲しているのは、ただひとり。
イーデンは血が流れる床をものともせずにトレイシーの足もとに片膝をついた。
予定よりだいぶ早くなった。
出会った離宮の庭で、満開の白バラに囲まれて言うつもりだった言葉を紡ぐ。
「はい。トレイシー様、私と結婚してください」
まっすぐに見上げたトレイシーが大きな目をさらに大きくして驚いていた。
喜んでくれているのだろうか、不安なイーデンが目を離せずにいると、いつものように小さく首をかしげて、目を細めた。
イーデンの頬に冷たく柔らかいものが触れる。
ぞくぞくとしたものが背を走る。
その手を掴み、もっとと強請るように頬を擦り付けると、トレイシーはまた目を細めた。
求婚に堪えることなくトレイシーは振り返り、宰相に問いかけた。
「ねえ、宰相。国王の伴侶が騎士団長なことに問題はある?」
「国王?」
「だってそうでしょう? 今、成人してる男性王族は僕だけだし、謀反を起こしたデクスターの王子は論外。アンドリューのところの王子は……あれに国王が務まるとは思えないけど」
いまだイーデンの頬にある指が頬骨をなぞる。少し擽ったくもあるが、イーデンは恍惚とした気分で受け入れた。
「……ですがトレイシー様は現時点で国民に誰もその存在を知られておりません。いきなり国王となられても」
「宰相」
言い淀む宰相にトレイシーが向き直る。離れた手を追いたくなるのをこらえて、トレイシーの次の言葉を待つ。
また、白銀の髪が揺れ、バラの香りが漂い始める。
「僕が国王になることに、反対?」
「……滅相もございません。陛下」
「そう。よかった」
宰相が膝をつき、首を垂れた。
イーデンは宰相の変わり身に驚いた。もう少しごねるかと思っていたのだ。制度上、トレイシーが正当な後継者とはいえ、確かに秘匿されていた王子だ。国民が納得するのに時間が掛かることは、間違いない。
「どうなってるんですか?」
「王威ってすごいよね。宰相でさえ、こうして従っちゃうんだから」
これが王威の力。ここまではっきりと見たのははじめてだった。なんとなく王族への畏怖を感じるものだと、思っていたのだ。
しかしここまで人を従わせることができるのなら……。
「……疑問なんですが、王威を発動すれば、アンドリュー王子もデクスター王子も殺されることはなかったのでは?」
ギルメディアン王国の掟である、王族を害してはならない。王威を持つから、ではなく王威により害することができないということではないのか。それならばどうしてフレドリックは王子ふたりを殺害できたのか。
疑問を投げかけるとトレイシーは犬を褒めるようにイーデンの頭を撫でた。
「かしこいね、イーデンは。確かに、王国で産まれた王国民であれば呪《まじな》いのおかげで殺されることはなかった」
「フレドリックは王国産まれじゃなかった……?」
「そういうこと。彼もかつての戦災孤児だって知ってた? イーデンと同じだね。しかも生まれのは王国の外。そこも同じ」
孤児だという話をしただろうか? 戦火に呑まれた隣国の村から両親とシュムックベルクへ逃れたことを。その道中、両親が隣国の兵に見つかり切られたことを。そこにフレドリックが現れて、救われたことを。
そのフレドリックも王国産まれではなかったようだ。
「はじめて聞きました……。あれ? それなら俺は……」
「王威が効かないからどうしようかと思ったよ」
「そうなんですか? でも初めてお会いしたときはたしかに震えを感じましたが」
離宮の庭でバラ色の瞳に見つめられ、畏怖のようなものを感じた。イーデンは膝をつき、首を垂れた。あれは王威ではなかったのだろうか?
「それは多分別の理由なんじゃない? だってあのとき僕、君を追い出すつもりだったのに効いてないじゃない」
「そうだったんですか……」
追い出す、と言われてイーデンは肩を落とした。忠誠を誓ったその瞬間、主はイーデンを不要と思っていたのだ。
あからさまにがっかりとしたイーデンにトレイシーがくすくす笑った。膝をついたままのイーデンの前にしゃがむと視線を合わせた。
トレイシーは少し申し訳なさそうな顔をして、ごめんねとまた頭を撫でた。
それだけでイーデンは持ち直した。
「僕の計画の邪魔になると思ったからね」
「計画、ですか?」
「そう。アンドリューとデクスター、それにザカリー。三人への復讐のためのね。まさかフレドリックが僕に護衛をつけるなんて思ってなかったし」
復讐と聞いて、イーデンは顔をしかめた。いつから計画していたのだろう。生まれたときにはすでに母親はなくドゥラントしか傍にはいなかったはずだ。
純粋で無邪気な子ども時代を過ごすことなく、ひとり、あの離宮で過ごすトレイシーを思い、悲しくなった。
昼間に見せる笑顔の裏で、どれだけ苦しい思いをしていたのか。
潤みだした瞳を見せたくなくて、イーデンは頭を伏せた。
「やっぱり結婚やめる?」
「なんでですか?!」
思ってもみないことを言われてイーデンは涙を引っ込めて顔を上げる。
「だって思ってたのと違うでしょ? 僕は儚い少女でもなければ、寂しく散る花でもない。目的のためにはなんだってするし……」
せっかく顔を上げたのに、今度はトレイシーが視線を下へと向けた。白銀のまつ毛に覆われたバラ色の瞳が右へ左へと泳ぐ。悪戯を叱られた子どものようだ。
騎士団長になり降嫁を願うつもりだったのは、イーデンの願望で、トレイシーの望みとは違うものだと思っていた。降嫁ではなく王配になるとは思っていなかったが、どちらにしろトレイシーを護る立場であることには変わりはない。
少しは期待してもいいだろうか? トレイシーも自分を望んでいると。
イーデンと結婚することを、喜んでいるのだと。
期待で頭の天辺から爪先までしびれが走る。
王威を受けて震えているのだと思っていたが、これは畏怖ではない。
「それでも先程は、本当に震えていましたよね? 王子様方が殺され、フレドリックも陛下も次々と倒れ……。俺だって欲しい物のためには死物狂いで戦います」
復讐のため身を挺して戦ってきたトレイシーを誇りに思う。力のないトレイシーが取れた手段は少なく、王子ふたりに身を任せなければならないことは、苦痛だっただろう。
もうその必要はない。
全身のしびれも心地よいとさえ思う。
これは恋のしびれだ。
イーデンはトレイシーがするように、その白い頬に手を当てて顔をすくい上げる。
バラ色の瞳とかち合うと、まっすぐ見つめて誓いを立てる。
「結婚してください」
「イーデンは変わってるね」
トレイシーはその白い頬をバラ色に染めて、綻ばせると小さく首を傾げた。
ザカリーのつぶやきでようやく我に返ると、イーデンはトレイシーの肩を抱いた。
「トレイシー様……。大丈夫ですか?」
「ありがとう、イーデン。もう大丈夫だよ。それより、これをどうにかしないと」
目の前にある血の海を指差し、トレイシーが力なく答えた。まるで絨毯に零した紅茶をどうするかとでもいうようだ。冷静なトレイシーとは違い、ザカリーは狼狽を隠すことなく、玉座で震えていた。
「あぁ……フレドリック……。すまない、すまなかった。余がサンドラを召し抱えたばかりに」
「なぜ、そのようなことをなさったのですか?」
そもそもの原因はザカリーがサンドラを妾にしたことだ。すでにアンドリューもデクスターも成人しており、心もとないとはいえ後継はいた。
「王子がふたりしか生まれなかったからだ。しかもふたりとも色の薄い瞳。王威とて、余からすれば弱い。王妃のアデライトは高齢でもあり、サンドラの赤い瞳が混じれば、王威も強まると思ったのだ」
「そんな理由で……」
イーデンにとっても、国民にとっても畏怖はすれど国王が誰であれ、そう変わりはない。王威の強弱など、わかりもしない。
せめて、そのサンドラを護ることはできなかったのか。娼婦と蔑まされ、王子ふたりに慰み者にされる前に、止めることはできなかったのだろうか。イーデンは悔しさに瞳をにじませた。
ザカリーはひじ掛けにもたれ、肩で息をしていた。
「余は、フレドリック以外に、信頼できるものがおらぬ。王妃さえ……いつ裏切るかと不安、だったのだ。そのフレドリックの妹であれば、裏切ることはないと、思って……。すまない、フレドリック。すまない、サンドラ――」
とぎれとぎれの言葉は、すでにここにはいない者に向けられた謝罪だった。
最後のほうはほとんど音にならず、衣擦れにまぎれた。ザカリーの身体が傾ぐ。疲れてしまったのだろうかとイーデンが訝しむと、宰相が騒ぎ出した。
「陛下! お気を確かにっ! ……なんてことだ、息をしてない」
国王のあっけない最期だった。
最初に現実に返ったのはトレイシーだった。
「王位を欲したデクスターがアンドリューを弑した、というのはどうでしょう? フレドリックはそれを罰するために殺害。しかし王族を殺したとなれば極刑は免れない。自ら、罰を下した。それならば、筋が通るのではありませんか? 幸い、ここには僕たちしかいませんし」
いまだザカリーの膝にすがる宰相が顔を上げる。年老いた宰相だが、さらに老けたように見える。
「し、しかし……、そこの護衛は」
そういってイーデンに目を向ける。これまで何も出来ず、傍観者でいたイーデンは急に舞台に上げられたような気分になった。
「イーデンには報奨を与えましょう。望むものなら何でも。どう?」
トレイシーが振り返り問う。その顔からは怯えも恐れも見受けられない。少女のような可憐さも薄れ、イーデンは底知れぬトレイシーの強さに、はじめて逢った時と同じ心の震えを感じた。
「報奨などなくとも口外するつもりはありません。ですが――」
当然、トレイシーが黙れといえばイーデンは一生このことを口にすることはない。しかし、望むものならあった。何が何でも手に入れたい、大事なものだ。
「私をフレドリック騎士団長の後任として推挙していただきたい」
自分の力で手に入れるつもりではいたが、平民出身のイーデンにとって千載一遇の機会だ。逃すべきではないと、本能が訴える。
「騎士団長になりたかったの? それだけでいいの?」
「騎士団長になれば、王族の降嫁を願い出ることができます」
トレイシーは不思議そうに首をかしげる。
「誰か、懸想している姫でもいるのか?」
「いえ、私が欲しいのは王子です」
「王子? しかしアンドリュー様もデクスター様もなくなった今、王子というと……」
宰相の問いは至極当然のことだろう。しかしイーデンが欲しているのは、ただひとり。
イーデンは血が流れる床をものともせずにトレイシーの足もとに片膝をついた。
予定よりだいぶ早くなった。
出会った離宮の庭で、満開の白バラに囲まれて言うつもりだった言葉を紡ぐ。
「はい。トレイシー様、私と結婚してください」
まっすぐに見上げたトレイシーが大きな目をさらに大きくして驚いていた。
喜んでくれているのだろうか、不安なイーデンが目を離せずにいると、いつものように小さく首をかしげて、目を細めた。
イーデンの頬に冷たく柔らかいものが触れる。
ぞくぞくとしたものが背を走る。
その手を掴み、もっとと強請るように頬を擦り付けると、トレイシーはまた目を細めた。
求婚に堪えることなくトレイシーは振り返り、宰相に問いかけた。
「ねえ、宰相。国王の伴侶が騎士団長なことに問題はある?」
「国王?」
「だってそうでしょう? 今、成人してる男性王族は僕だけだし、謀反を起こしたデクスターの王子は論外。アンドリューのところの王子は……あれに国王が務まるとは思えないけど」
いまだイーデンの頬にある指が頬骨をなぞる。少し擽ったくもあるが、イーデンは恍惚とした気分で受け入れた。
「……ですがトレイシー様は現時点で国民に誰もその存在を知られておりません。いきなり国王となられても」
「宰相」
言い淀む宰相にトレイシーが向き直る。離れた手を追いたくなるのをこらえて、トレイシーの次の言葉を待つ。
また、白銀の髪が揺れ、バラの香りが漂い始める。
「僕が国王になることに、反対?」
「……滅相もございません。陛下」
「そう。よかった」
宰相が膝をつき、首を垂れた。
イーデンは宰相の変わり身に驚いた。もう少しごねるかと思っていたのだ。制度上、トレイシーが正当な後継者とはいえ、確かに秘匿されていた王子だ。国民が納得するのに時間が掛かることは、間違いない。
「どうなってるんですか?」
「王威ってすごいよね。宰相でさえ、こうして従っちゃうんだから」
これが王威の力。ここまではっきりと見たのははじめてだった。なんとなく王族への畏怖を感じるものだと、思っていたのだ。
しかしここまで人を従わせることができるのなら……。
「……疑問なんですが、王威を発動すれば、アンドリュー王子もデクスター王子も殺されることはなかったのでは?」
ギルメディアン王国の掟である、王族を害してはならない。王威を持つから、ではなく王威により害することができないということではないのか。それならばどうしてフレドリックは王子ふたりを殺害できたのか。
疑問を投げかけるとトレイシーは犬を褒めるようにイーデンの頭を撫でた。
「かしこいね、イーデンは。確かに、王国で産まれた王国民であれば呪《まじな》いのおかげで殺されることはなかった」
「フレドリックは王国産まれじゃなかった……?」
「そういうこと。彼もかつての戦災孤児だって知ってた? イーデンと同じだね。しかも生まれのは王国の外。そこも同じ」
孤児だという話をしただろうか? 戦火に呑まれた隣国の村から両親とシュムックベルクへ逃れたことを。その道中、両親が隣国の兵に見つかり切られたことを。そこにフレドリックが現れて、救われたことを。
そのフレドリックも王国産まれではなかったようだ。
「はじめて聞きました……。あれ? それなら俺は……」
「王威が効かないからどうしようかと思ったよ」
「そうなんですか? でも初めてお会いしたときはたしかに震えを感じましたが」
離宮の庭でバラ色の瞳に見つめられ、畏怖のようなものを感じた。イーデンは膝をつき、首を垂れた。あれは王威ではなかったのだろうか?
「それは多分別の理由なんじゃない? だってあのとき僕、君を追い出すつもりだったのに効いてないじゃない」
「そうだったんですか……」
追い出す、と言われてイーデンは肩を落とした。忠誠を誓ったその瞬間、主はイーデンを不要と思っていたのだ。
あからさまにがっかりとしたイーデンにトレイシーがくすくす笑った。膝をついたままのイーデンの前にしゃがむと視線を合わせた。
トレイシーは少し申し訳なさそうな顔をして、ごめんねとまた頭を撫でた。
それだけでイーデンは持ち直した。
「僕の計画の邪魔になると思ったからね」
「計画、ですか?」
「そう。アンドリューとデクスター、それにザカリー。三人への復讐のためのね。まさかフレドリックが僕に護衛をつけるなんて思ってなかったし」
復讐と聞いて、イーデンは顔をしかめた。いつから計画していたのだろう。生まれたときにはすでに母親はなくドゥラントしか傍にはいなかったはずだ。
純粋で無邪気な子ども時代を過ごすことなく、ひとり、あの離宮で過ごすトレイシーを思い、悲しくなった。
昼間に見せる笑顔の裏で、どれだけ苦しい思いをしていたのか。
潤みだした瞳を見せたくなくて、イーデンは頭を伏せた。
「やっぱり結婚やめる?」
「なんでですか?!」
思ってもみないことを言われてイーデンは涙を引っ込めて顔を上げる。
「だって思ってたのと違うでしょ? 僕は儚い少女でもなければ、寂しく散る花でもない。目的のためにはなんだってするし……」
せっかく顔を上げたのに、今度はトレイシーが視線を下へと向けた。白銀のまつ毛に覆われたバラ色の瞳が右へ左へと泳ぐ。悪戯を叱られた子どものようだ。
騎士団長になり降嫁を願うつもりだったのは、イーデンの願望で、トレイシーの望みとは違うものだと思っていた。降嫁ではなく王配になるとは思っていなかったが、どちらにしろトレイシーを護る立場であることには変わりはない。
少しは期待してもいいだろうか? トレイシーも自分を望んでいると。
イーデンと結婚することを、喜んでいるのだと。
期待で頭の天辺から爪先までしびれが走る。
王威を受けて震えているのだと思っていたが、これは畏怖ではない。
「それでも先程は、本当に震えていましたよね? 王子様方が殺され、フレドリックも陛下も次々と倒れ……。俺だって欲しい物のためには死物狂いで戦います」
復讐のため身を挺して戦ってきたトレイシーを誇りに思う。力のないトレイシーが取れた手段は少なく、王子ふたりに身を任せなければならないことは、苦痛だっただろう。
もうその必要はない。
全身のしびれも心地よいとさえ思う。
これは恋のしびれだ。
イーデンはトレイシーがするように、その白い頬に手を当てて顔をすくい上げる。
バラ色の瞳とかち合うと、まっすぐ見つめて誓いを立てる。
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「イーデンは変わってるね」
トレイシーはその白い頬をバラ色に染めて、綻ばせると小さく首を傾げた。
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