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天降る天使の希い
薫の月 その二
しおりを挟むソルーシュが厩舎につくと、サーミだけが一頭ぽつんと繋がれていた。
勢いよく駆け込んできたソルーシュに馬丁は驚き、どうしたのかとたずねた。
「サーミと出ます!」
出る? どういうことだと聞く前に、ソルーシュはサーミの柵を外して、軽々と飛び乗った。
「ソルーシュ様! お待ちください」
遅れてやってきた舜櫂がサーミの前に立ちはだかった。
ソルーシュは慌てて手綱を引き、サーミの前足は高々と上がった。
「舜櫂! 危ないじゃないですか。それに止めても無駄です。ワタシは蒼鷹のところに行きますから」
舜櫂を見下ろすソルーシュは目角を立て、その語気は常になくあららげていた。
「止めはしませんヨ。それよりここからどうやって行かれますカ? 道はご存知で? そもそも後宮から出られるとお思いですカ?」
「朱麗門から出れば――」
「無理ですヨ。例え突破してもその後は? 城門までの間にいくつ門があるとお思いですカ? その前に止められるのが関の山。少し冷静におなりください」
冷静になどなっていられるか、やけに回りくどい舜櫂の言い回しに苛立ちを募らせた。
「よいですか? 戦は冷静さを失ったほうが負けます。そんな血気盛んに挑んだとして、丸腰でどうされるのですカ?」
「ワタシが戦うわけではありません。蒼鷹の無事をっ――」
「でも行き先は戦場ですヨ。敵はあなたが丸腰かどうか、戦う意思があるかどうかなど考えもしないでしょう」
舜櫂の物言いに、ソルーシュはぐっと言葉を詰まらせた。
手綱を緩めたせいで、サーミはどうしたのかとソルーシュに首を向けた。
うつむく主人に問いかける、純真な瞳がソルーシュの心を幾分和らげた。
「落ち着かれましたネ?」
「すみません。舜櫂……ですが」
「道案内は拙がいたします。それと、こちらをお持ちください」
渡されたのは愛用の弓と螺鈿の小刀だった。
複数の木を組み合わせ、強度と柔軟性を考えて自分で作った。大きくなった身体に合わせ、ガゼルの角で持ち手を作り変えた。
何年もかけて作ったそれは、小さいながらも精度は高く、サルーとともに何度も獲物を捕らえ、賢高までの旅路でも役立った。
「舜櫂、馬は?」
「表に待たせております。それと、こういうとき、後宮には秘密の出入り口があるのですヨ」
受け取った弓と小刀を身に着けると、舜櫂はサーミの手綱を掴み、馬場を朱麗門とは逆のほうへと歩きだした。
「秘密の出入り口……? ですがワタシが馬場を走るときには見たことがありません」
「当然ですヨ。妃に逃げられたら困りますでしょう? 妃には教えられません」
確かに妃が知ってそこから逃げ出されたら、大問題だ。王と衛士だけが知っているらしい。
後宮をぐるりと廻る馬場の一部、北西の角から少し離れたところ。この近くの宮は閉ざされていて、人の気配は皆無だった。
塀との間にお生い茂る木々。辛うじてサーミが通れるかどうか、入り組んだ小径はうっすらとある。右へ左へと方向を変え突き進む。
右手を見れば見慣れた馬場がうっすら見えるが、逆からはとてもここに道があるとは思えない。
「でも、舜櫂は知っているんですね」
「えぇ。拙は以前間者をしておりましたからネェ」
「……間者ですか? 舜櫂が? もしかして、その時に蒼鷹と知り合ったんですか? 後宮を知っているのもそれで?」
「えぇ。五年前、陛下が王位につく、ほんの少し前くらいですかネェ……。もしや拙が陛下の愛人だったと、思われてましたカ?」
「はい。その……」
「よしてくださいヨ。そんなことがあったら、拙は仕事ができなくなりますヨ。拙の恋人は陛下ほどではありませんが、嫉妬深いんですヨ」
この数ヶ月、ソルーシュを悩ませていた事柄があっさりと解決した。
どういったことをしていたかは、詳しくは話せないという舜櫂だが、ソルーシュにとっては内容などなんでも良かった。舜櫂を疑ったことを恥じ、謝罪をしたが、舜櫂はそれをさっぱりと笑い飛ばした。
舜櫂がここです、と塀の壁に手をつく。うっすらと色の違いで、そこが扉になってることが分かった。
引き戸になっている隠し扉を開くと、そこにはひとりの男と馬が立っていた。
外も森になっていて、人目にはつかないようになっていた。
「ソルーシュ様。これが拙の嫉妬深い夫、パサンです」
「嫉妬深い? 何の話ダ?」
紹介されて馬上から挨拶をすると、男はソルーシュを見て小さく頭を下げ、舜櫂を馬に乗せた。
「こっちの話ですヨ。それより道は大丈夫ですカ?」
「問題ナイ。今通ってキタ。あそこからなら戦場もよく見える」
「見える、だけですか?」
「湿原に下りるのは得策ではないですからネェ。それにその出で立ちなら十分陛下にも見えると思いますヨ」
走らせることのできない森の中で、並んで馬を歩かせる。気ばかり焦っているソルーシュに、舜櫂はなだめるように落ち着いた声色で制した。
「丘なら、攻撃もナイ」
「あそこからなら矢も届くことはないでしょうネェ」
のんびりとしたふたりの会話に、ソルーシュは苛立ちを覚え始めていた。
サーミに伝わったのかぶるっと顔を揺らした。
「大丈夫ですヨ。紅牡丹の情報は偽物ですから」
「どうして言い切れますか?」
「鄭琳が盗み聞いたと言ってましたからネェ。城内で聞いたのであれば、それは嘘の情報ですヨ。作戦はぎりぎりまで、現場で決めるよう陛下に進言してありますカラ」
「いつの間に……?」
「犀登が戦を仕掛ける要因が他にあると話しましたでしょう? おそらく間者がいると思ったのですヨ。なにせ自分が間者でしたからネェ」
笑っていいものかと思ったが舜櫂もパサンも笑っているので良いらしい。
ソルーシュはようやく落ち着くことが出来た。
いつしか森を抜けて小高い丘に出た。
大きな街道が遠くに見え、ぽつりぽつりと民家が見えた。しかし、ソルーシュたちの視線の先には、大きな岩が転がる野原になっていた。
「急なところもありますが、気をつけてくださいネェ。パサン、安全な道で」
「あいヨ」
勾配のある山道をパサンの馬を先頭に登っていく。
「どれくらいかかるのですか?」
「本隊なら五日はかかりますが拙らは単身。急げば二日……といったところですヨ。この先民家もありませんから、野宿ですが。問題ありませんネ?」
野宿なら得意だ。ソルーシュは大きく頷いた。
「頼もしい王妃ダナ」
「えぇ。賢高自慢の王妃ですヨ」
ふたりの声は後ろを走るソルーシュには聞こていなかった。
ソルーシュはただ蒼鷹の無事を祈るばかりであった。
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