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第七話

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「若杉。月曜の月例報告書、あとは頼めるか?」

 清潔感のある刈り上げた頭を起し、若杉は一瞬驚いた顔をした後、元気よく「はい!」とうなずいた。のんびりムードの二課では、比較的闊達な若杉だが、それにしてもその声はやけに力強かった。
 参考にするようにと数回分の報告書を渡すと、それをぱらぱらとめくって何度もうなずいた。

「どうだ? やれるか?」
「大丈夫っす。課長、今日は直帰っすよね? 月曜までには完璧なもの作っておきますよ」
「自分の仕事が最優先だが、無理して残業はするなよ。休日出勤も禁止」
「あ、そういう意味じゃないっす! と、とにかく、安心していってきてください!」

 やたら張り切った顔をした若杉に、若干の不安はあったが理は自席に戻り、今日の準備を始めた。

 今日訪ねる取引先は、都心から少し離れた観光地の近くにある小さなガラス工房だ。
 近年の文房具ブームで人気が出始めたガラスのつけペン。それを一本一本手作業で制作している工房を見つけたのは、五年前。
 量産はできないが質が良く、切子をあしらったガラスペンは一部界隈で評判となった。
 工房主は若い職人で、父親から継いだ工房で新しい商品を作ろうと考えだしたのがこのガラスペンだ。彼は販路を探していた。偶然、道の駅で理が見つけすぐさま工房へ足を運んだのは、今でも僥倖としかいいようがない。
 たとえ彼女との旅行の最中で、その彼女をほったらかし、あげく彼女から別れを告げられることになり、その日の宿をキャンセルされたとしても。

 資料をカバンに詰めながらふと足元を見ると、昨日の名残は一切なくなっていた。用意周到な伊織はドライヤーまで持って来ていた。
 タイルカーペットにはシミも濡れた痕跡もなく、理は安堵した。しかし、ふとあるはずのものがないことに気付く。

 床に落としたはずの下着がない。
 あの精液と潮で汚れた下着だ。確かにここに落としたずだ。いまあっても困るが。デスクの下にでも紛れ込んだのかもしれない。理は内心冷や汗をかきながら、静かにデスクの下にもぐり探した。

「あれ? 課長もう出ちゃった?」
「いないね。時間厳守の人だから、早めに出たんじゃない?」

 こっそり探しているのが仇になった。課内に残っていた若杉と営業事務の派遣社員、佐伯。ふたりは理がもう外出したものだと思って雑談を始めてしまった。

「それにしてもよかったね、若杉くん」
「ああようやく課長に認められた! って感じっ! 佐伯さんのおかげっすよ!」
「わたし? 関係なくない? でもそんなに言うなら、ごはんごちそうしてよ」
「いや、ごはんでもなんでもごちそうしますよ。というか……佐伯さんとお礼って言う口実でもデートできるなら、俺――」

 まずい……。これは告白では?
 佐伯は見た目も性格もさっぱりとしていて、好感の持てる女性だ。若杉が彼女を好きになるのもわかるが……。部下の告白現場に居合わせたなんて、ばつが悪い。
 理はわざとらしく音を立てて立ち上がった。

「あー悪い……。俺、客先行ってくるから、あとはよろしくな」
「「か、課長!」」

 ふたりのユニゾンする声に見送られ、理は会社を後にした。
 またもや下着の存在は忘れ去っていた。



 仕事を任せたことで若杉があんなに喜ぶとは、思ってもみなかった。若杉の仕事ぶりを認めていなかったわけではないが、そう思われても仕方ないのかもしれない。
 もう少し、彼らを信じて任せてみるのも、課長としての仕事なのかも。こんなふうに思えるようになったのは伊織のおかげだろうか。

 完璧な仕事など、ありえない。理だってミスはする。
 例え部下がミスをしようとも、それを叱責するつもりはない。むしろ、責められるべきは彼らのフォローを怠った課長である理だ。
 営業マンとして営業の職務に集中できるように、ミスを最小限にして傷つかずに済むように。理が持っているノウハウをできる限りわかりやすく、完璧な資料を渡して……。

 ずっとそう考えてきたが、それは彼らの成長の妨げになっていたのかもしれない。
 いきなりは無理でも、こうして少しずつでも任せられれば……。

 そんなことを考えていたからか、理は早速ミスをした。

 デパートで手土産を買い忘れたことに気付いたのは、工房の最寄り駅から乗ったタクシーの車内だ。
 この先、工房までの間にめぼしい店はない。
 あるのはコンビニが一軒。
 それでもないよりはましだろう。

「運転手さん。そこのコンビニで停めてくれますか?」
「あれ? 内川さんとこじゃなかったですか」
「ちょっと忘れ物をしまして」

 タクシーを降りると、むわっとした真夏の熱気が理の身体を包んだ。暑いではなく熱い。これまでの移動で涼しいところばかりだったから余計に熱気がまとわりつく。
 コンビニにあるもので、手土産になるようなものはなにかあるだろうか? 贈答用の菓子もあるにはあるが、どこにでもある似たり寄ったりの品だ。

 一瞬で汗ばんだ身体を冷やしたくもあり、店内をぐるりと一周すると、目についた商品にどきりとした。

 昨日、はじめて食べたふたつ入りのシャーベットだ。
 ぶどうのほかにもカフェオレやソーダといった味もある。確か工房の職人は六人。ちょうどいい。
 理は三種類を手に取ると急いでレジへと向かった。
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