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破瓜之年
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妻が死んだ。利害の一致で結婚した妻だったが三十五年、よく頑張ってくれたと思う。仕事ばかりの私に代わり、一人息子を立派に育て、家庭を守ってくれた。彼女がいなければ私は早々に野垂れ死にしていたと思う。葬儀は近親者のみで行った。彼女の両親も私の両親もすでに鬼籍に入っているため、私と息子、そして私の親友の三人だけだった。
死の間際、病室を訪れた親友は泣き崩れた。病を得、見る影もない彼女を見たのだから当然だった。
彼女と親友は恋人同士だった。
私と親友が入社した二年後、彼女が新人社員としてやってきた。私達三人は共通の趣味である音楽で意気投合した。一緒にジャズバーへと足を運び、酒を酌み交わし、語り合った若い頃。いつしか二人は恋に落ちていた。しかし、彼らの結婚は阻まれた。彼女の両親が彼の出自にケチを付け、挙げ句私の両親を唆した。彼らにとっては私達の結婚により両者の会社の発展を期待していたのだった。そう、私は社長の息子だった。彼女の会社が取引先の一つであることを知らなかった私がうかつだった。そうであれば彼女と親しくなろうとは思わなかっただろう。しかし、親友が彼女に一目惚れをしていたことに気付いた私は二人の仲を取り持つためにも彼女と親しくなることを選んだ。結果、私達が婚約することになるとは思ってもみなかった。
ギリギリまで結婚を回避しようと努力したが彼女が三十歳になる前に強引にすすめられた。その頃の私にはそれを覆すだけの力はまだなかった。私は妻と親友にひとつの提案をした。
――私には彼女を抱く能力がない。だから子供を作ってくれないだろうか? 二人で
最初は渋った二人だったが私の必死の甲斐あって、ようやく一粒種の息子が誕生した。私を隠れ蓑にし二人はその後も愛を育んだが、それはとても穏やかで世間で言う不倫などというものには当てはまらなかった。身体を重ねることもなく、ただ友人として語り合い、見つめ合う。それを横で見ていた私は満足していた。二人が幸せであればそれで良かった。
親友はその後結婚することもなくこの年まで独身と貫いていた。いずれ私が死ねば結婚すればいいと私が言えば、それは出来ないと二人は口を揃えていった。結婚だけが愛の形ではないことを二人は知っていたのだろう。
その彼女の死に、親友は耐えきれなかった。それまで度々訪れていた私の家には近寄ることもなく、定年後に用意していた田舎の家に引きこもっていた。何度か訪れたその家は二人が好きだったジャズがレコードで流れ、珈琲の香りに満ちていた。彼は葬儀のときの憔悴した顔が嘘のように落ち着きを取り戻していた。それは彼女の元へと旅立つ準備のようにも見えたが私には何も言えなかった。本来ならば結ばれるべき二人を引き裂きその時間を奪ったのは他でもない私だから。
妻の一周忌を終えてしばらく、私は引退を決意した。彼女の遺してくれた息子は今年で三十四だが私の息子とは思えないくらい、いや実際私の息子ではないのだから当然なのだろう。社内での立場を確立しており、私の出番など判を押すだけだった。息子を家に呼び、引退を告げた。息子はただ一言、分かったと答えた。
もうこれで私の肩の荷も降りた。自由に生きたいと思った。しかしそれは息子の一言で変わった。
「あの人のところに行くの?」
息子があの人と呼ぶのは私の親友だ。薄々気付き始めた高校生の頃、正直に打ち明けた。実の子ではないこと、父親は親友であること、それでも私はお前を愛しているということ。息子はそれを受け入れてくれた。しかし、それまで懐いていた親友と距離を置くようになった。私から見れば本当の親子が仲睦まじい姿を見るのは幸福の極みだったが息子にはわだかまりがあったのだろうと思っていた。
いつしか彼を「あの人」と呼ぶようになったときには二人の溝は大きく深くなっていた。親友もまた真実を告げたことで気まずいのだろうと理解していたようだった。
「行くわけないだろう? 彼は彼女との時間を大切にこの先生きていくのだから」
「それで、父さんは? 父さんは一人でどうするの? 母さんにも、あの人にも愛されなかった父さんは……っ」
ああ、そうか。そのことにも気付いていたのか。敏い息子の言葉に私は息を吐き首を横に振った。
かつて、いや今も私は親友のことを愛している。妻や息子への愛情とは全く違う、家族や友人のそれとも異なる。一人の男として、一人の男である彼を愛しているのである。彼から妻を奪うことになって罪悪感もあった。しかし彼女を妻にすることで、彼らに子供を作らせることで、この先親友との人生が違うことのないものだと私は信じて疑わなかったのもまた事実だ。私はなんて醜い人間なのだろう。二人の幸せを願いながらその裏で私は彼らが結ばれることのないことに喜びを感じていた。妻を抱くこともないかわりに、彼に抱かれることもない。私は一人純真無垢なまま、心はどんどんと穢れていった。どす黒い感情を塗りつぶすように清廉潔白であるとその身で誓いを立てたのである。もちろんそのことは二人も知らないことだが、私にとってはそれだけが二人に対する贖罪だと信じていたのである。
「もう、あの人たちのことはいいのか? 父さん一人が犠牲になって二人は幸せなままこの世を去るんだよ?」
「犠牲だなんて、大げさな。私はただ二人のために……」
「そうだね、父さんはそれで幸せだって自分に言い聞かせてるんだ。自分の幸せをないがしろにして」
息子は私を買いかぶりすぎている。そんな崇高な思いでいるわけではない。私は自分の立場と彼への執着のためにこの道を選んだに過ぎない。
「あの人のところに行かないのなら、もういいよね?」
一歩近づく息子の顔はあの頃の親友に瓜二つだった。こんなにも成長したのだと改めて思い知らされた。私の両肩を掴み迫る息子の顔は苦しさに歪んでいた。何がそうさせるのか私には分からなかった。息子が何をしたいのかも。
その顔に目を奪われてる間に、私の唇が奪われた。
奪われてはじめて、それが息子の唇だと気付いた。親友に似た、薄く大きな唇が私の渇いた唇に触れる。はじめて触れた人の唇に――挙式の際の誓いのキスすら私は出来なかった――驚き、戸惑い、そして官能の渦に飲まれた。あまりに一瞬の出来事に私は身動き一つ出来ずにいた。その間にも息子の唇と舌は、私の口内で官能を誘った。誘われるままに昇らされ、息を乱す私に、息子が薄く笑った。
「何も知らないはずなのに、随分と快楽に弱いんだね。そんなに欲しかったの? あの人が」
図星を突かれた私が拒絶のために息子の身体を突き放そうと腕を伸ばすとそれはすぐさま取り上げられて、あろうことかそのまま服を乱し、むき出しの身体を貪り始めた。
「やめ、なさい」
「やめないよ、父さん……」
息子の手で暴かれる醜い私の身体と彼を求める心を見透かすように、息子が私の名前を呼んだ。
「――」
私の身体から抵抗する力が抜けていく。彼の手で、声で、その身体で……。
死の間際、病室を訪れた親友は泣き崩れた。病を得、見る影もない彼女を見たのだから当然だった。
彼女と親友は恋人同士だった。
私と親友が入社した二年後、彼女が新人社員としてやってきた。私達三人は共通の趣味である音楽で意気投合した。一緒にジャズバーへと足を運び、酒を酌み交わし、語り合った若い頃。いつしか二人は恋に落ちていた。しかし、彼らの結婚は阻まれた。彼女の両親が彼の出自にケチを付け、挙げ句私の両親を唆した。彼らにとっては私達の結婚により両者の会社の発展を期待していたのだった。そう、私は社長の息子だった。彼女の会社が取引先の一つであることを知らなかった私がうかつだった。そうであれば彼女と親しくなろうとは思わなかっただろう。しかし、親友が彼女に一目惚れをしていたことに気付いた私は二人の仲を取り持つためにも彼女と親しくなることを選んだ。結果、私達が婚約することになるとは思ってもみなかった。
ギリギリまで結婚を回避しようと努力したが彼女が三十歳になる前に強引にすすめられた。その頃の私にはそれを覆すだけの力はまだなかった。私は妻と親友にひとつの提案をした。
――私には彼女を抱く能力がない。だから子供を作ってくれないだろうか? 二人で
最初は渋った二人だったが私の必死の甲斐あって、ようやく一粒種の息子が誕生した。私を隠れ蓑にし二人はその後も愛を育んだが、それはとても穏やかで世間で言う不倫などというものには当てはまらなかった。身体を重ねることもなく、ただ友人として語り合い、見つめ合う。それを横で見ていた私は満足していた。二人が幸せであればそれで良かった。
親友はその後結婚することもなくこの年まで独身と貫いていた。いずれ私が死ねば結婚すればいいと私が言えば、それは出来ないと二人は口を揃えていった。結婚だけが愛の形ではないことを二人は知っていたのだろう。
その彼女の死に、親友は耐えきれなかった。それまで度々訪れていた私の家には近寄ることもなく、定年後に用意していた田舎の家に引きこもっていた。何度か訪れたその家は二人が好きだったジャズがレコードで流れ、珈琲の香りに満ちていた。彼は葬儀のときの憔悴した顔が嘘のように落ち着きを取り戻していた。それは彼女の元へと旅立つ準備のようにも見えたが私には何も言えなかった。本来ならば結ばれるべき二人を引き裂きその時間を奪ったのは他でもない私だから。
妻の一周忌を終えてしばらく、私は引退を決意した。彼女の遺してくれた息子は今年で三十四だが私の息子とは思えないくらい、いや実際私の息子ではないのだから当然なのだろう。社内での立場を確立しており、私の出番など判を押すだけだった。息子を家に呼び、引退を告げた。息子はただ一言、分かったと答えた。
もうこれで私の肩の荷も降りた。自由に生きたいと思った。しかしそれは息子の一言で変わった。
「あの人のところに行くの?」
息子があの人と呼ぶのは私の親友だ。薄々気付き始めた高校生の頃、正直に打ち明けた。実の子ではないこと、父親は親友であること、それでも私はお前を愛しているということ。息子はそれを受け入れてくれた。しかし、それまで懐いていた親友と距離を置くようになった。私から見れば本当の親子が仲睦まじい姿を見るのは幸福の極みだったが息子にはわだかまりがあったのだろうと思っていた。
いつしか彼を「あの人」と呼ぶようになったときには二人の溝は大きく深くなっていた。親友もまた真実を告げたことで気まずいのだろうと理解していたようだった。
「行くわけないだろう? 彼は彼女との時間を大切にこの先生きていくのだから」
「それで、父さんは? 父さんは一人でどうするの? 母さんにも、あの人にも愛されなかった父さんは……っ」
ああ、そうか。そのことにも気付いていたのか。敏い息子の言葉に私は息を吐き首を横に振った。
かつて、いや今も私は親友のことを愛している。妻や息子への愛情とは全く違う、家族や友人のそれとも異なる。一人の男として、一人の男である彼を愛しているのである。彼から妻を奪うことになって罪悪感もあった。しかし彼女を妻にすることで、彼らに子供を作らせることで、この先親友との人生が違うことのないものだと私は信じて疑わなかったのもまた事実だ。私はなんて醜い人間なのだろう。二人の幸せを願いながらその裏で私は彼らが結ばれることのないことに喜びを感じていた。妻を抱くこともないかわりに、彼に抱かれることもない。私は一人純真無垢なまま、心はどんどんと穢れていった。どす黒い感情を塗りつぶすように清廉潔白であるとその身で誓いを立てたのである。もちろんそのことは二人も知らないことだが、私にとってはそれだけが二人に対する贖罪だと信じていたのである。
「もう、あの人たちのことはいいのか? 父さん一人が犠牲になって二人は幸せなままこの世を去るんだよ?」
「犠牲だなんて、大げさな。私はただ二人のために……」
「そうだね、父さんはそれで幸せだって自分に言い聞かせてるんだ。自分の幸せをないがしろにして」
息子は私を買いかぶりすぎている。そんな崇高な思いでいるわけではない。私は自分の立場と彼への執着のためにこの道を選んだに過ぎない。
「あの人のところに行かないのなら、もういいよね?」
一歩近づく息子の顔はあの頃の親友に瓜二つだった。こんなにも成長したのだと改めて思い知らされた。私の両肩を掴み迫る息子の顔は苦しさに歪んでいた。何がそうさせるのか私には分からなかった。息子が何をしたいのかも。
その顔に目を奪われてる間に、私の唇が奪われた。
奪われてはじめて、それが息子の唇だと気付いた。親友に似た、薄く大きな唇が私の渇いた唇に触れる。はじめて触れた人の唇に――挙式の際の誓いのキスすら私は出来なかった――驚き、戸惑い、そして官能の渦に飲まれた。あまりに一瞬の出来事に私は身動き一つ出来ずにいた。その間にも息子の唇と舌は、私の口内で官能を誘った。誘われるままに昇らされ、息を乱す私に、息子が薄く笑った。
「何も知らないはずなのに、随分と快楽に弱いんだね。そんなに欲しかったの? あの人が」
図星を突かれた私が拒絶のために息子の身体を突き放そうと腕を伸ばすとそれはすぐさま取り上げられて、あろうことかそのまま服を乱し、むき出しの身体を貪り始めた。
「やめ、なさい」
「やめないよ、父さん……」
息子の手で暴かれる醜い私の身体と彼を求める心を見透かすように、息子が私の名前を呼んだ。
「――」
私の身体から抵抗する力が抜けていく。彼の手で、声で、その身体で……。
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