淫魔も惚れれば一途になる

春澄蒼

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 さらに母さんは上手うわてだった。
 次の日、おれはレオの分のお弁当も持たされて、学校へと送り出された。

 あそこまで言っても、レオが素直に毎晩食べに来るとは思っていなかったようで、絶対に拒否できないようにこんな作戦に出たのだ。
 母さんはどうやら、レオになにかを食べさせたくて仕方ないらしい。


 おれから弁当を渡されて、レオはもちろん困惑した。
 けどおれも受取拒否は困るから、母さんからの伝言とともに押しつける。
「『うちに食べに来てくれないなら、夕飯もお弁当にしてりくっくんに持って行かせるからね』だって」


 母さんの世話焼きゲージが最大なのは、レオがひとり暮らししてるだけでなく、親とうまくいっていないことを察したからだろう。
 今回の騒動があって、「一応、親御さんにごあいさつしておきたいんだけど」と言う母さんに、レオは「大丈夫です」の一点張りで、連絡先すら教えてくれなかった。

 それにより母さんの中の責任感と保護欲がメラメラと燃え、レオを『自分が保護すべき対象』にふくんでしまったのだ。


「もぅさ、おれはちゃんと言ったんだよ?これはやりすぎだ、って!ここまで干渉すると、逆に重荷になるっつーか、レオだってむしろ頼りにくくなるっつーか」

 レオの机に突っ伏したまま自分の力が及ばなかったことをわびていると、佐野がやってきて「あ、よかった。仲直りしたんだ」とニコニコ。

 昨日と今日のゴタゴタのせいで、なし崩しに普通にしゃべっていたことに気づいて、おれとレオは顔を見合わせた。


「いや、仲直りというか……」
 モゴモゴ言うレオに対して、佐野は「うんうん、レオとリクはこうじゃないとな」と爽やかに去っていった。


******


 こうして万事元通り──とは、ならなかったんだなぁ、これが。

 常時ギクシャクする感じではなくなったけど、それからもおれとレオはふとした時にギギ、と歯車がかみ合わないように言葉や動きが止まってしまうことがあった。

 それはたいてい、二人の距離が近い時に起こった。

 たとえば、おれがレオの肩に手を置いて、レオがそれにぎくっとして、それにさらにおれもぎくっとなる、とか。
 たとえば、スマホの画面を一緒に見てた時に、今まではそんなこと思わなかったのに、(あれ、なんか近い)となってからだが強ばると、それがレオにも伝わって、みたいな。


 っていうか!!
 ねぇ?!『元通り』の『元』ってどんな感じ?!だれか教えてっ!!
 おれたち、もともとどんな感じだったっけ?!普通に抱きついたり、もたれかかったりしてたよね?!あれぇ?!それって普通の友だち?!

 もともとの普通が普通じゃなかったってこと?!
 いやいや、そもそも『普通』ってなに??『普通の友だち』ってなに???

 え、待って。『友だち』ってなんだっけ????



 おれがこんなに混乱してワケのわからないことを考え始めたのには、最近、寝不足だということも関係している気がする。

 その理由は、大きな声では言えない──というより、だれにも言えない、言いたくない、つーか言わなくていい、そんな個人的で羞恥心MAXの理由だ。


 ──最近、毎日、エロい夢を見る。


 うっわーーー!!!のたうち回るくらい恥ずかしい……!!!

 毎日、毎晩。でも起きたらよく覚えていない。ただエロいってことだけ。その証拠に……パンツに痕跡が。


 きっかけはどう考えても、事故だか事件だかわからないあの騒動。
 たぶん、あの時にフェロモンが暴走し過ぎて、今もまだしっかりが閉まってなくて、だからなんかおかしいのだ──と、思ってました。今日までは。



 最初にネタバレしておく。ここから先は、夢オチですのであしからず。



***


 ──指先に冷たい感触。かちり、と金属が音を立てて、キィと小さなきしみが鳴る。

 いい匂い──頭の中はそれだけ。

 重たいからだを引きずって、匂いの元へとすり寄る。
 だれかの脚。長いエプロン。

 脚のヌシはびっくりして固まっていたけれど、おれの目的を察したからか、ガシッと手でガードを固めた。


 二人分の声が聴こえる。
「鈴玖!」短く、鋭く、名前を呼ぶ声。
「リクくん?」遠くから、ボヤけたような音。


 脚のヌシがしゃがんだために、ガードがゆるんだ。首に腕を巻きつけて「すぅー」思いっきり息を吸い込む。くらくらと、酩酊。「はぁはぁ」呼吸が速くなる。

 むちゃくちゃに鼻をすりつけていると、匂いはさらに強くなる。
 鼻だけではもったいない、という気がして、口をつけた。匂いなんて食べられないのに、はむはむと動く唇は止まらない。

 おいしい。
 嗅覚と味覚は連動しているというのは、本当みたい。
 唇で、舌で、匂いを味わう。甘い匂いは、やっぱり甘い。


「──鈴玖!!」
 大きな手が伸びてきて、ぐいっと突き離した。

 ひどい。
 こんなにおいしいものを取り上げるなんて、なんてひどい。

 ジャマな手をかき分けていると、プシューっとなにかが顔に吹きかけられた。目を閉じる。けれど、手の力はゆるんだ。目をつむったまま、匂いを頼りにまた飛び込む。


「鈴玖!頼むから……!」
 むり。とまらない。
「正気に戻れよ……!」
 むり。だっていい匂い。
「くっそ、ぜんぜん効かねぇじゃねーか!!」
 この匂い、すき。もう、ずっと嗅いでいたい。


 すき。いい匂い。おいしい。レオ。「鈴玖……?」とまらない。たまらない。もう、どうにかなっちゃうよ、レオ。「お……い、鈴玖?」レオ、いい匂い。おれ、レオの匂い、すき。すき。レオ、すき。「り……く……」すき。すき。レオ。すき。レオ。レオ。レオ。


「レオ、だいすき」


***



 ──「うっっっそだろ?!おれ……!!!」
 叫びながら飛び起きたの、人生初体験なんだけど。

 おれはなにより先に、今のが夢だったことを確認した。自分の部屋、自分のベッドの上、もちろん他に人はいない。
 寝汗をぬぐって、ホッとしかけたところで──恐ろしい事態に気づく。

 そろ、そろ、とタオルケットをまくる。そしてそろ、そろ、とパジャマとパンツをめくる。


「っっっうそだろ?!おれぇぇぇ!!!」
 そこには……無残な跡が……!?






「ちょっと、りっくん、大丈夫?」
 さすがに二回目の絶叫は聞き捨てならなかったのだろう。母さんがコンコンとドアをノックする。
「だっ、だだだいじょうぶ!!」
「ほんとー?すごい声だったけど」
「ほんとにダイジョーブだからっ!だからぜっったい部屋、入らないでぇぇーー……」

 おれは命乞いをしながら、(これこそ夢だ、夢にちがいない!きっと今から起きるんだぁぁ……!)と自分で自分のほっぺをビシバシ叩いてみたが……ただ、痛いだけ。


 声もなく、ベッドをダンダン殴って、手が赤くなったころにようやくおれは思い知る。

 ──夢だけど現実であるということを。


***


「おれ……きょう……がっこう……やすむ」
 自分の部屋でなんとかショックから立ち直ろうとしたけど、無理だった。よろよろとリビングまで行き、生気のない声で告げる。

 母さんの目にもよっぽど弱って見えたのか、さすがになにも聞かずに許可をくれ、おれは一人家に残されることになった。


 朝ごはんも食べず、顔も洗わず、かろうじてパンツだけ着替え、けれどそれを洗う気にはなれずに放置。ベッドに逆戻りし、悩み過ぎて痛い頭をなんとかもう一度起動する。


 さて、これで状況が変わったぞ。


 確かめるべきは、現実にあったことを夢に見たのか、それとも──全部おれの妄想なのか?

 どちらでも、詰んだことにはちがいない。
 現実ならば、レオに申し訳なさ過ぎて、そしておれが恥ずかし過ぎて、もう顔合わせらんないよ。
 でも……妄想なら妄想で、やばい。

 だって!妄想ってことは……ことはっ?!

 あぁぁぁ……ムリっ!これ以上考えると、頭からケムリが出そうっ!顔から火が出そうっっ!!


 だって妄想ってことは、おれの願望の表れということであって、つまりおれはレオにああいうことをしたいということになって──あ、考えちゃった。


 ……強制終了。


 おれは無理やり目を閉じて、タオルケットに潜り込み、ぎゅっとからだを丸めて……寝ます!!
 大丈夫、きっともう一度寝ればリセットされるはず。次に起きた時はスッキリ、バッチリ、すべてなんとかなっている……はず。


 そんなはずはないとわかってるけど、おれは一縷いちるの望みにすがって目を閉じた。



***


 ──ああ、夢を見ないってなんてすばらしい!!──という夢を見ていたおれは、ブブブブというバイブ音によって起こされた。

 起き上がったおれの第一声は「おなかすいた」時計を見ると十三時近い。そりゃそうだ。朝からなにも食べてないんだから。

 あくびをして、スマホを手に取る。
「うわうわっ!」ガッターン!
 魚かっ!とツッコミを入れたくなる勢いで、スマホは手の中から逃げ出した。

 床に転がった液晶に、『レオ』の文字。
 文字だけでドッキーン!心臓が跳ねる。

 ど、どうしよう?──いや、どうしようもなにも、電話なんだから、早く出なさいよ。
 なんでレオが?──なんでってそりゃあ、学校休んだから心配してかけてくれたんでしょうよ。ちょうど休み時間だし。
 ムリ!今、話せない!!──時間をおいたら話せるのかよ?今、これを無視したら、余計に次気まずいんじゃないの?


 自己問答の後、スマホに手を伸ばす。


「……っ」
『鈴玖?』
「っ、は、はいっ!」
『どうした、今日?大丈夫か?』
「だ、大丈夫って、なにがっ?!」
『なにって……もしかしてまた病院行くような事態になってんじゃないかって……』
「へ……?あ、ちがうちがう!大丈夫!普通に家にいるしっ」
『ああ、なんだ……よかった』

 ため息混じりの吐息が、耳に直撃した。
 電話越しなんだから吐息なんて感じるはずないのに、まるで直接息を吹きかけられたように、ぞわっと。

『心配した』
「……うん」
『病院から、まだ連絡来てないんだよな?』
「……うん」
『血液検査ってそんなに時間かかるもんなのか?』
「うん……」
『けっきょくまだ原因がはっきりしてないからさ、ついそっちに結びつけちゃって。でも、大丈夫なんだよな?』
「うん……」
『……おい、鈴玖』
「っ……!」
『聞いてるか?』
「う、ん……聞いてる」

 名前を呼ばれて、ぶるるっと背中が震えた。
 あ、やばい、思い出しちゃった。夢の中でレオに名前を呼ばれたこと。おれが名前を呼んだこと。

 ぎゅっと、自分を守るようにからだを縮める。


『体調悪そうだな。悪い、電話して』
「ううん、うれしかった」
『……なら、いいんだけど。じゃ、ゆっくり寝ろよ』
「うん」

 電話が切れる。「レオ」切れてから、名前を呼んだ。
「レオ……んぅぅ……うぅぅ……!もぉ、なんでだよぅ……?」
 文句を言う相手は、自分だ。



 あぁ、もぅ!!
 ──『淫魔』だって知っても、友だちでいてくれるよなっ?!──なーんて、どの口が言ったんだよ!!
『友だち』を壊してるのは、レオじゃない。おれじゃん。


 だって普通、友だちに対してこんな気持ちにならないよ。



 そしてその夜のことだ。柳田先生から連絡があったのは。


******



 次の日が土曜日であることが、天の助けのように思えた。
 よし、ひとまずレオと顔を合わせないで済む──と安心しかけたけど、母さんに「どうする?レオくんにも一緒に話聞いてもらう?」と判断をゆだねられ、再びおれの心は大荒れに。


 明日、血液検査の結果を聞きに病院へ行くことになったのだけど、レオももう関係者ということで、柳田先生や母さんはおれがいいならいいよ、というスタンスを取る。

 おれは悩んだ。
 一見すると断る道が最善に思えるのだけど、その場合、レオへの説明はおれが全面的に任されることになり、回り回って困難が多くなりそうだもの。


 よし、レオも呼ぼう。
 キリッとした決意の顔とは裏腹に、誘うのは文字というもっとも心の負担が少ない方法を選んだ、おれ。
 どうぞ、ヘタレと呼んでください。

 午後からはバイトだというレオの予定に合わせて、病院へは午前中に集合することとなった。


 ついでに、ここで発表!
 もめていたレオの食事問題に関しては、レオと母さんの双方が折り合いをつけ(あとみー姉の助言もあり)、時々お惣菜を差し入れするという形に収まった。

 だから今回、母さんが押し切ってレオをアパートまで迎えに行き、そのついでに冷蔵庫をいっぱいに埋めることができて、行きの車の中ではひとりやり切った感を出している。


 後部座席のおれとレオはというと──「おう」「……おう」「昨日の今日で大丈夫なのか?」「……へーき、へーき」「オレも聞いていいのか?」「いーよ、いーよ」

 視線はななめ上、返事は簡潔に、頭の中で唱えるのは『あれは全部フェロモンのせい』という魔法の言葉だ。
 今や、フェロモンの存在だけがおれの心の平穏を保ってくれる。


 そう、おれがおかしくなったのはフェロモンのせい。
 あんな夢を見るのもフェロモンのせい。
 レオからなんかいい匂いがするような気がするのも、フェロモンのせい!!

 フェロモンのせい、フェロモンのせい、フェロモンのせい……呪文のように唱え続け、やっと病院に着いた時にはそれだけで疲れ果てていた。


***



「結論から言うと、血液検査の結果はです。睡眠導入剤などの薬物の成分は検出されませんでした」

 柳田先生からの報告に、おれはホッとしていいのか驚いていいのか迷う。
 だって、レオの言い分は正しくて、そして間違ってたってことになるもの。

 つまり、先生たちもそういう可能性を考慮して調べていたという意味では正しく、けれど結果については──ってこと。


「……まったく、なにも?」
 レオはかなり不服そうに確かめる。
 そして母さんも「ということは……どういうことなのかしら」と首をかしげる。


 柳田先生は二人の反応を当然のことと受け止め、どうして検査にこんなに時間がかかったのかをふくめて説明してくれる。

「血液の採取は事件直後だったので、成分がすでに排出されたとは考えにくいですから、血液検査の結果を受けて、我々は薬物以外の可能性を視野に入れることにしました。その調査に時間がかかってしまって」
「薬物以外?」
「リクくんの話を聞いて、上田先生に思い当たることがありまして」

 そこで語り手は上田先生にバトンタッチされる。

「リクくんが言ってた『吐き気』っていうのがねぇ、気になったの。『淫魔』の症状であまり聞かない例だからぁ」

 え、そうなの?おれが母さんをパッと見ると、母さんも(え、そうなの?)という目でおれを見る。
 そういえばおれは、母さんや姉ちゃんたちとそういう話をしたことがない。だから自分の事例が特殊だってことに、今まで気づかなかったのだ。

「断言できるほどの症例は集まってないけどぉ、私が話を聞いた限り、『淫魔』が吐き気を感じるシチュエーションは二通り。ひとつは目覚めの時ねぇ。初めてフェロモンを感じた時はぁ、だいたいみんな、からだがびっくりするのぉ。だから、快感を通り越して気持ち悪くなっちゃうことが多いのねぇ」


 甘いものを食べ過ぎて気持ち悪くなる、みたいなことだろうか。

 この経験は母子共通だったようで、母さんもうんうんとうなずいている。
 ……こんな時になんですが、しょーじき!身内のこういう話を知るのはかなり気まずいですけどねっ!


「そしてもうひとつ。今回の事件に関係するのは、こっちねぇ」
 ごくん、とつばを飲んで、続きを待つ。
「フェロモンにも相性があるって、この前話したけどぉ──」

 うぉう!?なに、なに、なに言い出す?!
 相性と聞くと思い出されるのは──『付き合ってるのぉ?』『好きとかぁ?』──おれの精神衛生上よくないことばかりなんですがっ?!

 と身構えたけれど、今回の焦点は『相性がいい』ではなく、その反対だった。


「──相性がめちゃくちゃ悪い場合はねぇ、吐き気を感じることがあるらしいのぉ」
「相性が、悪い?えと、つまり……あの日、あの場所におれとめちゃくちゃ相性が悪いフェロモンを持った人がいたってこと?」
「その可能性が高いわぁ」

 これを聞いたおれの感想は(なーんだ、そんなことなの)で、散々ドラッグやらアルコールやらで脅された割には、と肩透かしを食らう。


 けれど気をゆるめたのはおれだけ。
 だって話にはまだ続きがあったのだ。


「ただね、までなると、ちょっと尋常じゃない」
 柳田先生が、油断したおれを見透かすように、厳しい口調で言う。
「リクくんがちゃんと薬を飲んでいたことを踏まえると、薬の効果を凌駕するほどの相性の悪さってことだ」

「へ?それ、どういう意味?」
「そこまで相性が悪い相手というのは、ひとつしか考えられない。それは──」
「それは?」
「インキュバス」
「……は?」

 柳田先生は噛み含めるように繰り返す。
「『インキュバス』だよ。『サキュバス』とは仲間であり、そして対極ともいえる存在」

「へー、インキュバスね……へえ?!インキュバス?!」


 キレイに二度見ならぬ二度聞をしたおれは、まさかのお仲間の登場におかしな感動を抱いてしまう。
「ほんとにいるんだインキュバス……」


「……お前が言うなよ」
 ボソッとツッコまれたレオの言葉は、まったくもってその通りだった。





「女性型の『サキュバス』と男性型の『インキュバス』──両者はどちらも『淫魔』という分類ではあるけれど、実のところ、仲間というよりは相反する存在だというのが正しい。……私見だけどね」

 柳田先生は研究者の顔で説明する。

「そう考える最大の理由が、フェロモンの相性の悪さです。実験数は多くないですが、私が知る限りは百パーセントの確率で、サキュバスはインキュバスの、そしてインキュバスはサキュバスのフェロモンを嗅ぐと『気分が悪くなる』『吐き気をもよおす』と回答しています」


「その実験には私も、娘たちも協力させてもらいましたから、実体験として同意できますけど」
 母さんはさらっとおれの知らないことを言う。

 えっ、そうなの?あっ、というかもしかして、おれもインキュバスのフェロモンとやらを嗅いだことがあるのでは……?あの、柳田先生との治験の時に。

 それを確かめるスキを与えず、母さんは続ける。
「でもそれは、それこそ『気分が悪くなる』程度のことで、この子のように倒れるまでは……」

「その通りです。ただし実験では、薬を飲んだ上で最小限の量を嗅いでもらいましたから、実際の場合もっと酷くなることはあり得るかと。それと……この先はあくまで推測になりますが」

 柳田先生の視線がおれに移る。

「リクくん自身がファクターxエックスである可能性が高いのかな、と」
「ファクター……って、たしか要因みたいな意味?」
「そう。というイレギュラーな存在……もしかしたらリクくんは他の人よりもインキュバスのフェロモンに弱いのかも」


 うわぁ……こんなところで特別感出してくれなくていいんだけど。
 柳田先生はべつにおれのせいって言ってるワケじゃないけど、なんだか……ガックリくる。


「あの……」
 ひとつひとつの話を吟味するように聞いていたレオが、ここで慎重に斬り込んだ。
「ひとつ確認しときたいんですけど、インキュバスが関係してるってことは確定でいいんですか?」

「証拠はないけどね。オレと上田先生の意見はそれで一致している」
「証拠って……そんなの簡単にわかるんじゃないんですか?だって『淫魔』とかの素性って、病院か国かが把握してるはずですよね?薬もらうために病院にかかるんだから」

 おれにはレオがなに言ってんだかさっぱりだったけど、柳田先生はよく気づいたね、みたいな先生が生徒をほめる顔になる。

「そうだね。うちの病院にかかってる『淫魔』の患者さんなら、すぐに割り出せる。割り出して、可能性のある人をピックアップして、連絡して確認──していたから、きみたちに連絡するのがこんなに遅くなったんだ」
「……確認してたんですか」
「けれど、該当者はナシ」
「え?」
「あの日あのお店に、インキュバスがいたという事実は確認できなかった。だから証拠はない」
「……っ!もしかして……病院が把握していないインキュバスがいるってことですか?」


 よくできました、という顔の柳田先生と、ひとりで衝撃を受けるレオ。
 完全置いてけぼりのおれは「あの~」と挙手して、ここについて行けていないコがいますよ~とアピールする。



「どっからわかんないんだよ?」
「えーとね、おれ×かけるインキュバスイコールフェロモン大暴走って図式を、先生たちが証明しようとしてるってのは、わかった。そのために、あの日『プーカ』にインキュバスがいたってことを確認しようとしたけど、できなかった?」
「わかってんじゃん」
「えぇー、でもさぁ、そんな偶然ある?『淫魔』なんて人口比でいったらめちゃくちゃ少ないでしょ。ましてやサキュバスとインキュバスが、同じ日の同じ時間に同じ店にそろう確率なんて、どんな奇跡だよ」
「いや、むしろ数が少ないからこそ、なんじゃね?」
「どゆこと?」
「患者の数が少なく、かつ、情報統制されてるってことは、専門の医療機関も少ないってことだろ。で、『F.T.S』は投薬治療が主。薬をもらうために病院の近く──せめて通える範囲になるべく住もうってなる」
「あ、そっか。だから病院の周りに集まってきて、必然的に出会う確率も上がるってことか」
「そういうこと──ですよね?」


 ついでのように確認を取ったレオに、柳田先生は無言でうなずく。
 なんだか、おれとレオは学校のグループワークでもしてるみたいで、柳田先生はそれを見守る教師みたいだ。


「あー、わかってきたわかってきた。それがさっきの、病院が情報握ってるみたいな話につながるのね。薬が必須だから、『F.T.S』の患者は全員病院にかからなきゃいけない。だからこの周辺のインキュバスを探そうと思ったら、簡単に探せる──はずなのに?」
「探せなかったってことは、病院にかかっていない患者もいるってこと」
「えぇ?やばいじゃん!それってつまり、薬飲んでないってこと?!そんな無防備な人、いるの??」


 あたふたと柳田先生を振り返ると、なぜかにっこりと微笑まれ「きみたち、いいコンビだね」
 そう言われて、レオと顔を見合わせる。あ、今レオと普通にしゃべってた……!あぁ……でもそれに気づいちゃうと、普通がわからなくなるぅ……!


「残念ながら、病院が把握できていない『F.T.S』の患者さんはそれなりにいるよ」

 よし、話題に集中しよう。集中している間はレオのこと考えなくて済むからな──と、おれは柳田先生の声に耳をかたむける。

「経緯はさまざまだけどね。本人が無自覚でまだ病院にかかったことがないケースもあるし、自己判断で薬を止めて連絡が途絶えたケースもある。あまり大きな声では言えないけど……インキュバスは後者のケースが多々あるんだよねぇ」

 先生は、深々としたため息をつけ加えた。

「危機感の問題よねぇ」上田先生も珍しくアンニュイ。「インキュバスはサキュバスとはちがって、貞操の危機とか身の危険を感じにくいのよぉ。自分がオトコで、発情させるお相手はオンナだからぁ、自分が優位に立てると思ってる──っていうか、そういう経験値ばっかりたまっちゃってぇ」

「うぇえ?!それってフェロモンを利用して、その……女の子をオトしてるってこと?!そんなん、いいの?!」
 いや、ダメでしょ!おれは自分でツッコむ。
 フェロモン経験者から言わせてもらえば、それはアンフェアです!!アウト!!

「もちろん、よくはない。フェロモンを使おうが、無理やりすれば強姦だ。けど難しいのは、『無理やり』の線引き──フェロモンがどの程度その人の選択に影響を与えたのか、本人にもわからない時があるからね。ましてや、客観的に判断するのは難しい」

 ……フェロモン経験者としては、それも否定できない。
 しかも『淫魔』の存在を知らない人だったらフェロモンのせいってわからないから、自分の意思って思い込んじゃうよ。

「……いや、やっぱダメでしょ。フェロモンを利用しようって時点でアウトだよ。騙す気マンマンってことで、アウト!」


 おれの意見に賛成してくれる人しか、この場にはいなかった。


「自分の身を守るためなら薬を飲むけれど、他人の身はどうでもいいなんて、自己中心的よ!バチが当たればいいんだわ、バチが!!」
 身内の恥みたいな意識があるのか、母さんはプリプリと怒りを隠さない。

「バチというには軽いけどぉ」上田先生が魔女のような妖艶な笑みを浮かべる。「フェロモンを好き勝手垂れ流してると、そのうち薬物中毒ならぬフェロモン中毒になるわよぉ」

「うえっ?!中毒?!」
「そぅよぉ。依存して、フェロモンがないと満たされなくなって、より強く、濃いフェロモンを求め始めて……最後には廃人になっちゃうわぁ」

「……自業自得だろ」小さく吐き捨てたレオ。ありありと軽蔑がこもった表情に、ドキッとする。


「……話がちょっとズレたね」
 柳田先生が軌道修正して、まとめる。
「諸々を踏まえると、薬を飲んでいないインキュバスの、抑制されていないフェロモンだったからこそ、リクくんへの影響が強まった──そういう可能性が高い」

 ってことは、あの時『プーカ』にいた人たちの中に、そういう常識外れのインキュバスがいたってことか……うわっ、こわっ!!


「けど、今のところ特定は難しいです。従業員ならともなく、お客さんとなると素性を追えないですから」

「それじゃあ、今回の騒動はこれで幕引きってことに?犯人……と言っていいのか微妙だけど、フェロモンをあんな場所で垂れ流すような危険な人物、放っておいていいものなのかしら?」

 先生たちを責めるつもりはないだろうけど、不満と心配を募らせた母さんは語気を強める。

「引き続き、こちらで身元の調査はします。けれど……警察などに協力を依頼することは難しいので、どの程度踏み込めるかは、ちょっと……」


 警察という単語には、安心感を与えられるよりも萎縮させられた。
 え、警察沙汰にまでするのは、ちょっと……結局、そんなに被害はなかったし──それがこの時のおれの本音だった。


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