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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る
111 果て
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ウィノの指先は、地面に置かれた鍵の側に残る鱗、小石、葉っぱに向かう。
「三種は人間になる時、鍵に自分の一部を渡している。その結果鍵には、力を渡した者の意識の一部が反映されることになった──らしい」
「らしい……」
ウィノらしからぬ弱気な語尾に、どう反応していいのかカイトも迷う。それに苦笑いを返して、ウィノは理由を説明する。
「残念ながら、わたしは鍵と意思疎通できたことがない。そのため他人からの伝聞だけで判断している。どうやら鍵に宿る意思というのは、これまで人間に変わってきた過去の同族たちだ、と」
「それはなにか……鍵との意思疎通には条件がある、とか?」
「条件というか、相性」
「相性?」
「鍵との相性。言ってしまえば、鍵に好かれているか、どうか」
ユエの時にも戸惑ったが、ウィノの言い方もまるきり鍵を擬人化していて、カイトはまた反応に困る。
「……それじゃあ、ユエは鍵に好かれているってことか?」
おかしな質問だと思いながらカイトが訊くと、ウィノは「かなり」と太鼓判を押してくれる。
「かなり……」
「話に聞く限り、歴代でも一番と言ってもいいほどかもしれない」
「それほど?」
「基本的に鍵との意思疎通は、鍵が一方的にヒトに意思を伝えてくる──というか、押しつけてくるもの。ひとり対何千万の対話みたいなものだから。だから鍵がヒトの願いを聞くようなユエの事例は、初めて聞く」
集中した視線を受け流して、ユエは「う~ん?」と悩む。「でも、あのとき一回だけだよ。鍵がからだから出てからは、もうわからなくなっちゃった」
「からだから出たから、だろう」
「え?」
「ただ手に持っているだけでは、鍵の意思を聞くことはできない。さっきのように、鍵をからだに一体化させる必要がある」
「一体化?」
「もう一度、試してみるといい」
ウィノはそう言うと、再びユエに鍵を構えさせた。そして先にやるべきことを教えてくれる。
「今度は鍵を挿し込んだままにしてみて」
「回さないってこと?」
「回してもいいけど、抜かないで」
言われるまま、ユエは鍵を胸に挿しただけで手を離してみる。するとさっきのようにいつもと違う感覚があって──鍵は光とともに胸の中に吸い込まれ、手の中からなくなってしまった。
「……!これって、最初のときと同じ……?」
人魚の鍵を初めて手にしたあの運命の瞬間を思い出して、ユエは後ろのカイトと目を合わせる。
あの時、鍵がユエの中に吸い込まれた不思議な現象について、とうとうウィノから答えが与えられるのだ。
「今のユエは人魚の鍵と一体化している。その状態を我らは『鍵を封印する』と呼ぶ」
「封印……」
「例えるなら、鍵が鍵穴に挿さったままの状態、だろうか。これからユエが鍵を回せば力の交換が行われ、回した後に抜かなければまた挿さったままになり、鍵はからだの中に封印される」
ユエが胸の中心に手を当ててみると、カチ、と鍵に触れた感触がする。試しにそのまま抜き出してみる。すると人魚に戻ることなく、鍵は手の中に戻ってきた。
一連の流れを見てアスカもドワーフの鍵で試してみたくなったようで、それからしばらく、二つの鍵は二人のからだに出たり入ったりを繰り返すことになった。
「おお~!!」
周囲から歓声が漏れて、深夜の静けさをいっとき忘れる。
「なっ、どんな感じなんだ?!鍵がからだの中にあるのって」
ヘロンの質問に、二人はそろって「う~ん……」と首をひねる。「あんまり変わらない」「うん、違和感はないよね」
「封印すれば、鍵の意思を聞けるようになるんじゃなかったか?」
カイトはどちらかと言うとウィノに向けて確かめたのだが、ユエとアスカはまた「う~ん?」と今度は腕組み付きで悩む。
「アスカ、わからない」「おれも、今は特に何にも聞こえないかな」
再び聴衆の視線はウィノへと戻る。けれども、助けを求めた先も同じく首をひねっていた。
「……アスカ、鍵に好かれてない?」
「おれ、嫌われちゃったのかな」
心配になって眉を下げる二人に、ウィノは曖昧に首を横に振る。
「たぶん、だけど……」
「「たぶん?」」
「時間が必要なのかも」
自信はないが、と前置きして、ウィノは鍵を封印した状態の二人にしばらくそのままで過ごしてみてはどうか、と提案した。
「時間をかければ、心を開いてくれるかも」
「アスカも?」
「ユエはもちろん、アスカも鍵とは相性がいいはず。アスカの誕生の経緯を聞くに、ドワーフの鍵の力が関係していないとは思えない。生まれる前から鍵に好かれているはず」
さらっと重要なことを言われたが、「おれはっ?」勢いよく手を挙げたユエに押されて、カイトは追及の隙を逃してしまった。
「ユエは……人魚の鍵は気まぐれらしいから、なんとも」
「気まぐれ?鍵にもそういう性格?みたいなの、あるの?」
「それぞれの種族に似ている、と言われている。人魚の鍵は気まぐれでプライドが高い、ドワーフの鍵はおおらかだが懐に入れるまで時間がかかる、妖精の鍵は……感情の起伏が少なく、あまり心を開かない」
妖精の鍵の性格を語る時、ウィノは自分の欠点を告白するような申し訳なさを含んでいた。
「へー、じゃあウィノは妖精らしい性格ってことかぁ!」
悪意なく言い放つヘロンの言に聞いている方はハラハラしたが、ウィノ本人はむしろはっきり言われて開き直れたよう。
「うん、たぶんわたしは妖精らしい性格だし、鍵の性格がその種族らしくなるのは必然とも言える。数千万人の妖精の意識のカケラが宿るのなら、妖精の鍵は妖精の代表者のようなものだから」
「ふぅん。でもそう聞くと、ユエはあんまり人魚っぽくない気がするんだが」
ヘイレンの言いたいことがよく分からなくて、ユエは貶されているのかと思ってにらんでしまったが、そうではなかったらしい。
「人魚の代表みたいな人魚の鍵に、人魚らしくないユエが好かれるもんなのか?」
「不思議なことに、鍵に好かれるのは『らしくない者』の方が多い。そのため鍵の意思を聞ける者は少数派になる」
「はぁん、だからユエやアスカが相性よくて、ウィノは悪いってことになるのか」
ヘイレンも納得して引き下がる。
この時ちょうど質問が途切れ、申し合わせたような沈黙の時間が訪れた。それを機に、話をまとめる方向へとウィノが舵を取る。
「事実だけを見れば、鍵は使用する度に力を増し、変化・進化してきた。受け身だった物質が能動的になり、新たな能力を獲得した。では、その力はどこから来たのか──それを考えると、やはり使用者由来だという結論に行き着くことになった、という流れ」
そうまとめられると、「ふぅん、だから?」という感想になって、クレインなどはそのまま顔に出ている。
苦笑いになったヘイレンが、ウィノの説明を無駄にしないためにさらにまとめてくれる。
「あー、つまり俺らにとって重要なのは、鍵の力の由来が純血の三種ってとこだろうな」
「それのどこが重要なんだ?」
「人魚の鍵は数千万人の人魚の集合体と同義で、それだけの力があるってこと。ウィノの話の中にあったろ?三種は人数が多くなればなるほど大きな力を発揮する──と、いうことは?」
「っ!」
「下手したら人魚の鍵は、大きな島くらいなら飲み込む規模の大波を起こすこともできる……ってこったろ?」
ヘイレンの確認に、ウィノは当然のように頷いた。
「正確には、数千万人分の力のカケラの集合体のため、力の大きさを換算すれば少なくとも数万人分といったところだろう」
「数万……」
「単純に比較はできないが、人魚数万人が集まってできることなら、人魚の鍵にもできるということ。それだけの力が蓄積されている」
「全能……もどき、か」
カイトが呟いた言葉に、ユエの中の鍵がずしりと重くなった気がした。もちろん感覚の問題だが、それだけの大きな力を持ったモノが今まさに自分の手の内にあると思うと、その責任が、重い。
話が一周して、出発点に戻ってきた。
鍵の秘密を共有して、これはウィノの口が重かったのも頷ける、と一行は納得する。ユエとアスカが預かっているのは、ひとりで世界を滅ぼせるほどの力かもしれないのだから。
ウィノが打ち明けてくれたということは、一行が鍵を悪用しないと信用してくれたことに他ならない。
その信用と、そして鍵を預かる責任を、仲間たちが正しく感じてくれたことに満足してウィノは話を続ける。
「鍵には二つの面がある。三種を人間に変える能力だけでなく、もうひとつ、三種の力を蓄積した高三元素体としての側面。後者は目に見えるものではないが、人間の数が増えるにしたがって進化したことからも、使われる度に力を増していることは間違いない」
「だがそれなら、純血が生まれなくなった今、これ以上鍵の力が増すことはないってことか」
フェザントとしては安心材料としての発言だったのだが、カイトをはじめとする何人かには疑問点を思い出させる誘発剤になった。
「純血が生まれなくなった──そのことにも鍵は関係しているのか?」
カイトの質問で、流れが変わる。
──と、いうよりも、流れが止まった。
明らかに言葉に詰まったウィノに、この期に及んで『今はまだ話せない』なんて先延ばしにされるのは御免だと、一行はジリジリと前のめりになって待つ。
しばしの膠着の末、ウィノはその圧に屈した。
「エィラの死後の出来事は、妖精の鍵を見つけてから話すつもりだったが……」
カイトを映す翠の瞳には、どこか痛みに耐えるような色が浮かんだ。
それほど話しにくいことなのかと、再び緊張感が高まっていく。
「そうだな……時系列に沿って、エィラの晩年から説明を再開しよう。三つに分かれた真球のアルケーは、触れるだけで三種を人間に変え、さらに元にも戻れるという新たな能力を備えていた。これを機に人間は数を爆発的に増やしていくんだが……この時、本人の意思とは関係なく、無理やり人間に変えられた三種が少なからずいた」
「無理やり?そんなことできるのか?」
「今はできない。だがその当時はできた。新たな種・人間の登場は三つ巴で保っていた均衡を──良くも悪くも崩すことになった訳だが、今度は三種対人間という新たな争いの構図になりつつあった」
「まあ、そうだろうな。ヒトは異物を恐れるものだ」
「能力的に、人間は三種には敵わない。勝負できるとすれば、数。子どもを産むことで自然と増えていくことは決まっていたが、それだけでは足りないと考えた急進派がいた」
「人間の数を増やすと同時に、敵の数を減らす……確かに一石二鳥の策ではあるな」
いったん納得したカイトは「だが」と冷静に反論する。「それは結局、身内に敵を抱え込むことにもなる」
「その通り。穏健派からの反対もあって、無理やり変えられた人たちも元に戻そうという流れになったんだが……」言い淀んだウィノは「最終的に元に戻ることを選んだのは少数派だった」となぜか視線を逸らす。
「大多数は人間のまま生きることを選んだのか?無理やり変えられたのに?」
「一度人間になって……その、身体機能の違いを実感してしまうと、戻りたいとは思わなくなるものらしい」
かなり婉曲的な言い方だったが、大人組は察した。
露骨に言ってしまえば、一度知ってしまった性的快感を忘れることはできなかったという意味だ。
子ども組に追及される前に、一致団結した大人たちは「なるほど」「うんうん」「そりゃ人間は増えるわ」「そいつらの体験談を聞いて、さらに増えたんじゃねぇか?」「うん、当初の目的とは違った目的になってしまったが、人間の増加に貢献してくれた」「はぁ~……純血も俺らとあんま変わんねぇってこったな」欲望に素直だった過去の人々に共感しつつ、話題を押し流した。
特にカイトは、この場で唯一の体験者であるユエが余計なことを言う前に、話題の転換を急ぐ。
「それで!三つの真球のアルケーには順調に力が蓄積されていき、エィラの死後に次の進化が起こったんだな。鍵の形に変化するという」
「そう。それに伴って、鍵にはある種の安全機能が付いた。本人が自分の胸に鍵を突き立てて『回す』という条件が付くことで、意思確認が必須になった」
「ということは、他人が……例えば俺がユエの胸で鍵を回しても、意味がない?」
「ない」
「では、ユエが最初に人間になった時の事例は、どう説明する?」
「人魚の鍵の意思……なのだろう」
「確信はない?」
「ない。前例もないから」
ポンポンと歯切れのいいやり取りは、カイトとウィノの間で事前に打ち合わせがあったのではないかと思えるほど、予定調和に進んでいく。
「『封印』ができるようになったのも、この時。鍵が意思を伝えてくるようになったのは、もう少し後」
「どうして、『鍵』なんだ?」
その予定調和を崩したのは、待ちきれなくなったカイトのこの質問だった。
「……どうして、とは?」
「なぜ、真球のアルケーは、鍵の形になることを選んだ?そこには絶対に、理由があるはずだ」
『鍵』という形にこだわり続けてきたカイト。
ヒトの手で形を変えたのではなく、自然とその形になったと聞いたことで、カイトの好奇心は話の順番が待てないほどにうずき出していたのだ。
「それは……」
今度のウィノの言い淀みは、気まずさから来るものではなく、また、先延ばしやごまかすためでもなかった。
「ちょっと待って。どう話せばいいか、考える」
頭の中で話の組み立てをする時間を稼ぐため、そして、心の準備のため。
「そう、もちろん『鍵』の形には意味がある。それは……」ここまで準備してもなお、ウィノの口は重い。「どう、説明していいか……」
「なんだよっ、まだ俺たちが信用できないってか?!」
そうではないと分かっていてもつい言ってしまったヘロンに、ウィノは「その反対」と困った顔になる。
「反対?」
「わたしが君たちを信じてないんじゃなくて、君たちに信じてもらえないんじゃないか、と心配してる」
「……そんなにとっぴょーしもないコトなのか?」
「そう。君たちの世界観をひっくり返すような、そんな突拍子もないこと」
「ふーん、なら大丈夫だぜ!なっ?」
ヘロンが同意を求めた先のラークも「まぁ、僕たちそういうの慣れてるからね」と頼もしい。
子ども二人に堂々と受け止められて、ウィノも腹を括る。
「人間たちの間では、鍵についてどのように語り継いできた?」
ウィノが言う『人間』には純血ではない人魚やドワーフも含まれる。
「人魚の鍵は……海の楽園に行くため、とか、海の果てに至る鍵、とか……?」
「俺たちの間じゃあ、地下の太陽を祀った斎場の鍵ってことになってたが」
代表してユエとフェザントが答える。
「うん、それはあながち間違いではない」
ウィノはあっさりとその伝説を肯定した。
「えっ、じゃあ、海の楽園はほんとうにあるの?」
「向こうにあるのが楽園かどうかは主観によるが……」
「そ、そういうことじゃなくって……!」
「君たちが知らない海があること、そこへ行くために鍵が必要だということは、間違いない」
どんな爆弾が落とされてもいいように身構えていたが、爆風は緩く優しく吹き抜けていって、最後に凪を残した。
風もなく、波もない海で漂流しているような、心許なさと静けさ。
「『新しい世界への扉が開いた』──ドワーフの遺跡に書かれていた言葉だ。もしかしてこれは何かの比喩ではなく、そのまま言葉通りの意味だったのか?」
櫂でひとかき、カイトは手探りでも前へ進む。
「新しい世界……とは、違う」けれどウィノは簡単に進ませてくれない。「向こうにあるのは、むしろ……古い世界」
「……訳がわからない」
ここまでカイトの顔に疑問符が踊るのは初めてかもしれない。
仕切り直すようにウィノは切り口を変える。
「そうだな……『鍵をつくる』心理を考えてもらうと、わかりやすいかもしれない」
「鍵を、つくる……」
「たぶんヒトが鍵を使うことを想定した時、開けることをまず考えがちだけど、鍵がつくられるのはそもそも──」
「っ!!鍵は、かけるためにつくられる……!?」
カイトはこれだけのヒントで、「そうか……そういうことか……!」と全てを悟った。
「なるほど……そういうことなら、全て説明がつく……」
カイトが納得するのを待って、「でっ?!どういうことっ?!」ちんぷんかんぷん代表のヘロンが詰め寄った。
カイトはもう衝撃を通り越して、ひとりスッキリした顔をしている。
「鍵はかけるためにつくられた──つまり今は、扉に鍵がかかった状態なんだ。だから鍵を使って辿り着く先は、楽園でも新しい世界でもなく、続きの世界──」
「……なにそれ?謎かけ?」
カイトとウィノがわざと回りくどい言い方をしているように思えて、クレインの言葉にはちょっと怒気が込められていた。
「ん……なるほど、説明が難しいな」
さっきのウィノと同じように悩んでから、カイトは「まず……地図を想像してみてくれ」と唐突に提案した。
「地図?」
「俺たちが知っている、世界地図」
全員が頭の中に思い浮かべるのを待って、カイトはひとりを指名する。
「じゃあ、ヘイレン」「あ?」「思い浮かべた地図を説明してくれ」「は、あ……」「いや、ここに描いてくれ」
カイトが差し出した紙を、ヘイレンは戸惑いつつ受け取る。
「地図って言われたって……」
「詳しい国の場所よりも、東西南北の端を意識してくれ」
「端?」
「お前が知る、世界の東端・西端・南端・北端を書き入れろ」
「ん~?んん、んじゃ、まず大陸を──」
ヘイレンは横にした紙の上部に寄せて、東西に長い長方形を描く。
「北端はみんなご存知、大山脈」
大陸の北側全てに連なる山。
「南端は……俺よりユエの方が詳しいな」
任されたユエは紙の一番下に小さな丸を描き、「一番南にある島は、中央の一族が支配する島だよ」
「海の南端は?」とカイトに問われて、「島より南は、人魚が珊瑚礁の海って呼んでる場所」と答えると、カイトの手で地図の南端に『珊瑚礁の海』と書き込まれる。
「西端は、今は人間が支配してる島だな。けっこうでかい島で、『レザーニ島』と呼ばれてる」
ヘイレンの手で紙の左端に『レザーニ島』と書き込まれる。
「で、最後の東端は島で言うと、東の人魚の一族の──俺らもご招待されたあのあたりだろうな。だが東の海はその先にもかなり続いてると聞く。だから俺が知る東端は……」
『東の一族の島』と書き込まれた位置は、紙の右端ではなく、他の三方向よりもう少し中央寄り。
「ほらよ。これが俺が知る地図だ」
ぞんざいにヘイレンから返された紙を、カイトは全員に見えるよう地面に置く。
「世界地図を描け、と言われたら俺もだいたいこう描くだろう。異論ある者はいるか?」
何の確認かわからないまま、全員が曖昧にうなずく。──いや、ウィノだけがうなずいていなかったことを、カイトは目の端で捉えていた。
「俺たちが知る世界は、この紙一枚で完結している。北端の大山脈を越えた者はいないし、東も西もそして南も、人魚ですら海の果てに辿り着いたことはない」
カイトの言葉に、何を当然のことを今さら、という顔で、誰も自分の常識を疑わない。
「だが、世界には続きがある」
カイトは地図が描かれた紙に、白紙の紙を継ぎ足すように置く。北端はもう、端ではなくなった。
「大山脈は越えることができる」
地図の左右、そして下側にも白紙の紙が継ぎ足される。世界は十字の形になった。さらにカイトは四枚の紙で四隅を埋め、地図は白紙の紙に囲まれる。
「珊瑚礁の海より南にも、レザーニ島の西にも世界は続いているし、東の海は俺たちが知るより、ずっと遥かに──ずっと、ずっと、広い」
「…………うん。……うん?」
いまいち反応が悪い聴衆に、カイトはじれったそう。
「だからな、俺たちが知ってる世界ってのは、世界のほんの一部だけなんだ」
「うん……でもそれって当然だよね」
一年前までは海のごく一部が世界の全てだったユエは、自分が世界の全てを知っているなどと思ったことはない。だからカイトが今になってやっと気づいたように力説する意味がわからないのだ。
「ついこの間まで、北にも海があるってこと、カイトだって知らなかったんでしょ?」
「それは──」
「おれたちが知らないだけで、他にも海はあるんだろうし、大山脈だってまだ誰も越えたことがないってだけで、地下からだったら行けそうだったし」
「いや、それとはまた違うんだ」
「なにが違うの?」
いつの間にやらカイトとユエの一騎討ちの様相を呈してきて、周りは黙って見守っている。
「だからな、エィラの時代はむしろ世界地図と言えば、こっちが常識だったんだ」
カイトの指は四角を作って動き、白紙の紙が足された全体図を指している。
「その後……まあ、俺にもどうやったのかは分からんが、鍵を使って……この、一部だけが切り取られた」
「切り取られた?」
「隔絶されている、と言ってもいいんじゃないか。だから今現在は、どうあがいても海の果てには辿り着けないし、大山脈は越えられない。──そうだろ、ウィノ?」
最終確認に妖精はうなずく。そこには称賛が浮かんでいる。ほとんど自力で真実を見極めた、カイトの頭の回転の速さに対するものだ。
「想像するなら、陸海空を扉で隔てた感じだろうか。そう……扉は閉められ、鍵はかけられた。わたしたちが生きているこの世界は、その閉じられた扉の中」
「なるほど、鍵という形はその象徴なんだな。ということは、世界を分けるのは鍵の意思だった、と」
「鍵に宿る意思が三種由来だと考えれば、それは過去の、人間に変わった人々の総意とも言える」
ウィノは敗北を宣言するように弱々しく、告げる。
「──ここは、箱庭。都合のいいものだけを詰め込んで、いらないものを排除した世界」
「いらないもの」カイトはその言葉を待っていたように繰り返した。「それは、鍵の使用に反対する──つまり人間の存在を認めない人々や、戦争をやめない人々のこと、か?」
じわ……っと、カイトから伝わった熱がユエの胸に灯る。なぜこれほどカイトが熱弁していたのか、やっと周りが追いついてきたのだ。
「そう、意見が合わない者たちを排除することで、見せかけの平和を築いて、満足した。それが今から……約二千年前のこと。アルケーが鍵の形になり、しばらくしてから『封印』できるようになった。そして鍵が提案してきた。『世界を閉じてしまおう』と」
ウィノの表情には、『理解できる』と『理解できない』がせめぎ合っている。
「たぶん、嫌気がさしたのだろう。決着のつかない争いを続ける人々にもだが、争いを終わらせるために生み出した人間が、皮肉にも次の争いの火種になったことにも。……理想論ではきっと、排除ではなく分かり合う道を探すべきだったのだろうけど」
「……ドワーフの遺跡で人間の起源を知った時から、疑問だったことがある」
カイトははやる心を抑えるために、極力冷静な口調を保とうとしている。
「人間が第四の勢力となるまで時間がかかったはずなのに、その間、反対勢力は何もしなかったのか?──答えは簡単。反対勢力を閉め出してしまえばいい」
「実際には敵・味方をきれいに二分できた訳ではないけれど……この大陸と海の一部に味方を集め、ここだけを隔絶してしまえば、一瞬で数の逆転を起こすことができた。箱庭の中に残された反対勢力は少数派になり、飲み込まれ……ほんのわずかな時間、平和を享受した」
「現実として、鍵はどうやってここだけを隔絶したんだ?」
「扉や壁のようなものが実在する訳ではなく、海なら波の流れを狂わせて、空なら風の流れを狂わせることで、中には外から入れないように、そして中から出られないようになっているみたい」
「『外から入れない』?と、いうことは──」
どきん、とユエの心臓が弾む。これは期待から来るものだ。
カイトが聞きたいことを、すでに誰もが理解して、期待している。
ウィノが『新しい世界』を否定し、『古い世界』と言った意味。
カイトが『続きの世界』と言った意味。
『鍵』という形の意味。
扉を閉めて、鍵をかけた。それなら──鍵を開けて、扉を開けることもできるはず。
「──外の世界にはまだ、純血の三種が生き残っているのか?」
カイトはウィノの答えを待たず、質問を畳みかける。
「鍵を開けて、外の世界に出ることはできるのか?外の世界と再び繋がることはできるのか?この空白を──」地図の周りに広がる白紙の紙に、カイトは手を置いた。「──この空白に何があるか、知ることはできるのか?」
ウィノの答えは、全部まとめて肯定だった。
「三種は人間になる時、鍵に自分の一部を渡している。その結果鍵には、力を渡した者の意識の一部が反映されることになった──らしい」
「らしい……」
ウィノらしからぬ弱気な語尾に、どう反応していいのかカイトも迷う。それに苦笑いを返して、ウィノは理由を説明する。
「残念ながら、わたしは鍵と意思疎通できたことがない。そのため他人からの伝聞だけで判断している。どうやら鍵に宿る意思というのは、これまで人間に変わってきた過去の同族たちだ、と」
「それはなにか……鍵との意思疎通には条件がある、とか?」
「条件というか、相性」
「相性?」
「鍵との相性。言ってしまえば、鍵に好かれているか、どうか」
ユエの時にも戸惑ったが、ウィノの言い方もまるきり鍵を擬人化していて、カイトはまた反応に困る。
「……それじゃあ、ユエは鍵に好かれているってことか?」
おかしな質問だと思いながらカイトが訊くと、ウィノは「かなり」と太鼓判を押してくれる。
「かなり……」
「話に聞く限り、歴代でも一番と言ってもいいほどかもしれない」
「それほど?」
「基本的に鍵との意思疎通は、鍵が一方的にヒトに意思を伝えてくる──というか、押しつけてくるもの。ひとり対何千万の対話みたいなものだから。だから鍵がヒトの願いを聞くようなユエの事例は、初めて聞く」
集中した視線を受け流して、ユエは「う~ん?」と悩む。「でも、あのとき一回だけだよ。鍵がからだから出てからは、もうわからなくなっちゃった」
「からだから出たから、だろう」
「え?」
「ただ手に持っているだけでは、鍵の意思を聞くことはできない。さっきのように、鍵をからだに一体化させる必要がある」
「一体化?」
「もう一度、試してみるといい」
ウィノはそう言うと、再びユエに鍵を構えさせた。そして先にやるべきことを教えてくれる。
「今度は鍵を挿し込んだままにしてみて」
「回さないってこと?」
「回してもいいけど、抜かないで」
言われるまま、ユエは鍵を胸に挿しただけで手を離してみる。するとさっきのようにいつもと違う感覚があって──鍵は光とともに胸の中に吸い込まれ、手の中からなくなってしまった。
「……!これって、最初のときと同じ……?」
人魚の鍵を初めて手にしたあの運命の瞬間を思い出して、ユエは後ろのカイトと目を合わせる。
あの時、鍵がユエの中に吸い込まれた不思議な現象について、とうとうウィノから答えが与えられるのだ。
「今のユエは人魚の鍵と一体化している。その状態を我らは『鍵を封印する』と呼ぶ」
「封印……」
「例えるなら、鍵が鍵穴に挿さったままの状態、だろうか。これからユエが鍵を回せば力の交換が行われ、回した後に抜かなければまた挿さったままになり、鍵はからだの中に封印される」
ユエが胸の中心に手を当ててみると、カチ、と鍵に触れた感触がする。試しにそのまま抜き出してみる。すると人魚に戻ることなく、鍵は手の中に戻ってきた。
一連の流れを見てアスカもドワーフの鍵で試してみたくなったようで、それからしばらく、二つの鍵は二人のからだに出たり入ったりを繰り返すことになった。
「おお~!!」
周囲から歓声が漏れて、深夜の静けさをいっとき忘れる。
「なっ、どんな感じなんだ?!鍵がからだの中にあるのって」
ヘロンの質問に、二人はそろって「う~ん……」と首をひねる。「あんまり変わらない」「うん、違和感はないよね」
「封印すれば、鍵の意思を聞けるようになるんじゃなかったか?」
カイトはどちらかと言うとウィノに向けて確かめたのだが、ユエとアスカはまた「う~ん?」と今度は腕組み付きで悩む。
「アスカ、わからない」「おれも、今は特に何にも聞こえないかな」
再び聴衆の視線はウィノへと戻る。けれども、助けを求めた先も同じく首をひねっていた。
「……アスカ、鍵に好かれてない?」
「おれ、嫌われちゃったのかな」
心配になって眉を下げる二人に、ウィノは曖昧に首を横に振る。
「たぶん、だけど……」
「「たぶん?」」
「時間が必要なのかも」
自信はないが、と前置きして、ウィノは鍵を封印した状態の二人にしばらくそのままで過ごしてみてはどうか、と提案した。
「時間をかければ、心を開いてくれるかも」
「アスカも?」
「ユエはもちろん、アスカも鍵とは相性がいいはず。アスカの誕生の経緯を聞くに、ドワーフの鍵の力が関係していないとは思えない。生まれる前から鍵に好かれているはず」
さらっと重要なことを言われたが、「おれはっ?」勢いよく手を挙げたユエに押されて、カイトは追及の隙を逃してしまった。
「ユエは……人魚の鍵は気まぐれらしいから、なんとも」
「気まぐれ?鍵にもそういう性格?みたいなの、あるの?」
「それぞれの種族に似ている、と言われている。人魚の鍵は気まぐれでプライドが高い、ドワーフの鍵はおおらかだが懐に入れるまで時間がかかる、妖精の鍵は……感情の起伏が少なく、あまり心を開かない」
妖精の鍵の性格を語る時、ウィノは自分の欠点を告白するような申し訳なさを含んでいた。
「へー、じゃあウィノは妖精らしい性格ってことかぁ!」
悪意なく言い放つヘロンの言に聞いている方はハラハラしたが、ウィノ本人はむしろはっきり言われて開き直れたよう。
「うん、たぶんわたしは妖精らしい性格だし、鍵の性格がその種族らしくなるのは必然とも言える。数千万人の妖精の意識のカケラが宿るのなら、妖精の鍵は妖精の代表者のようなものだから」
「ふぅん。でもそう聞くと、ユエはあんまり人魚っぽくない気がするんだが」
ヘイレンの言いたいことがよく分からなくて、ユエは貶されているのかと思ってにらんでしまったが、そうではなかったらしい。
「人魚の代表みたいな人魚の鍵に、人魚らしくないユエが好かれるもんなのか?」
「不思議なことに、鍵に好かれるのは『らしくない者』の方が多い。そのため鍵の意思を聞ける者は少数派になる」
「はぁん、だからユエやアスカが相性よくて、ウィノは悪いってことになるのか」
ヘイレンも納得して引き下がる。
この時ちょうど質問が途切れ、申し合わせたような沈黙の時間が訪れた。それを機に、話をまとめる方向へとウィノが舵を取る。
「事実だけを見れば、鍵は使用する度に力を増し、変化・進化してきた。受け身だった物質が能動的になり、新たな能力を獲得した。では、その力はどこから来たのか──それを考えると、やはり使用者由来だという結論に行き着くことになった、という流れ」
そうまとめられると、「ふぅん、だから?」という感想になって、クレインなどはそのまま顔に出ている。
苦笑いになったヘイレンが、ウィノの説明を無駄にしないためにさらにまとめてくれる。
「あー、つまり俺らにとって重要なのは、鍵の力の由来が純血の三種ってとこだろうな」
「それのどこが重要なんだ?」
「人魚の鍵は数千万人の人魚の集合体と同義で、それだけの力があるってこと。ウィノの話の中にあったろ?三種は人数が多くなればなるほど大きな力を発揮する──と、いうことは?」
「っ!」
「下手したら人魚の鍵は、大きな島くらいなら飲み込む規模の大波を起こすこともできる……ってこったろ?」
ヘイレンの確認に、ウィノは当然のように頷いた。
「正確には、数千万人分の力のカケラの集合体のため、力の大きさを換算すれば少なくとも数万人分といったところだろう」
「数万……」
「単純に比較はできないが、人魚数万人が集まってできることなら、人魚の鍵にもできるということ。それだけの力が蓄積されている」
「全能……もどき、か」
カイトが呟いた言葉に、ユエの中の鍵がずしりと重くなった気がした。もちろん感覚の問題だが、それだけの大きな力を持ったモノが今まさに自分の手の内にあると思うと、その責任が、重い。
話が一周して、出発点に戻ってきた。
鍵の秘密を共有して、これはウィノの口が重かったのも頷ける、と一行は納得する。ユエとアスカが預かっているのは、ひとりで世界を滅ぼせるほどの力かもしれないのだから。
ウィノが打ち明けてくれたということは、一行が鍵を悪用しないと信用してくれたことに他ならない。
その信用と、そして鍵を預かる責任を、仲間たちが正しく感じてくれたことに満足してウィノは話を続ける。
「鍵には二つの面がある。三種を人間に変える能力だけでなく、もうひとつ、三種の力を蓄積した高三元素体としての側面。後者は目に見えるものではないが、人間の数が増えるにしたがって進化したことからも、使われる度に力を増していることは間違いない」
「だがそれなら、純血が生まれなくなった今、これ以上鍵の力が増すことはないってことか」
フェザントとしては安心材料としての発言だったのだが、カイトをはじめとする何人かには疑問点を思い出させる誘発剤になった。
「純血が生まれなくなった──そのことにも鍵は関係しているのか?」
カイトの質問で、流れが変わる。
──と、いうよりも、流れが止まった。
明らかに言葉に詰まったウィノに、この期に及んで『今はまだ話せない』なんて先延ばしにされるのは御免だと、一行はジリジリと前のめりになって待つ。
しばしの膠着の末、ウィノはその圧に屈した。
「エィラの死後の出来事は、妖精の鍵を見つけてから話すつもりだったが……」
カイトを映す翠の瞳には、どこか痛みに耐えるような色が浮かんだ。
それほど話しにくいことなのかと、再び緊張感が高まっていく。
「そうだな……時系列に沿って、エィラの晩年から説明を再開しよう。三つに分かれた真球のアルケーは、触れるだけで三種を人間に変え、さらに元にも戻れるという新たな能力を備えていた。これを機に人間は数を爆発的に増やしていくんだが……この時、本人の意思とは関係なく、無理やり人間に変えられた三種が少なからずいた」
「無理やり?そんなことできるのか?」
「今はできない。だがその当時はできた。新たな種・人間の登場は三つ巴で保っていた均衡を──良くも悪くも崩すことになった訳だが、今度は三種対人間という新たな争いの構図になりつつあった」
「まあ、そうだろうな。ヒトは異物を恐れるものだ」
「能力的に、人間は三種には敵わない。勝負できるとすれば、数。子どもを産むことで自然と増えていくことは決まっていたが、それだけでは足りないと考えた急進派がいた」
「人間の数を増やすと同時に、敵の数を減らす……確かに一石二鳥の策ではあるな」
いったん納得したカイトは「だが」と冷静に反論する。「それは結局、身内に敵を抱え込むことにもなる」
「その通り。穏健派からの反対もあって、無理やり変えられた人たちも元に戻そうという流れになったんだが……」言い淀んだウィノは「最終的に元に戻ることを選んだのは少数派だった」となぜか視線を逸らす。
「大多数は人間のまま生きることを選んだのか?無理やり変えられたのに?」
「一度人間になって……その、身体機能の違いを実感してしまうと、戻りたいとは思わなくなるものらしい」
かなり婉曲的な言い方だったが、大人組は察した。
露骨に言ってしまえば、一度知ってしまった性的快感を忘れることはできなかったという意味だ。
子ども組に追及される前に、一致団結した大人たちは「なるほど」「うんうん」「そりゃ人間は増えるわ」「そいつらの体験談を聞いて、さらに増えたんじゃねぇか?」「うん、当初の目的とは違った目的になってしまったが、人間の増加に貢献してくれた」「はぁ~……純血も俺らとあんま変わんねぇってこったな」欲望に素直だった過去の人々に共感しつつ、話題を押し流した。
特にカイトは、この場で唯一の体験者であるユエが余計なことを言う前に、話題の転換を急ぐ。
「それで!三つの真球のアルケーには順調に力が蓄積されていき、エィラの死後に次の進化が起こったんだな。鍵の形に変化するという」
「そう。それに伴って、鍵にはある種の安全機能が付いた。本人が自分の胸に鍵を突き立てて『回す』という条件が付くことで、意思確認が必須になった」
「ということは、他人が……例えば俺がユエの胸で鍵を回しても、意味がない?」
「ない」
「では、ユエが最初に人間になった時の事例は、どう説明する?」
「人魚の鍵の意思……なのだろう」
「確信はない?」
「ない。前例もないから」
ポンポンと歯切れのいいやり取りは、カイトとウィノの間で事前に打ち合わせがあったのではないかと思えるほど、予定調和に進んでいく。
「『封印』ができるようになったのも、この時。鍵が意思を伝えてくるようになったのは、もう少し後」
「どうして、『鍵』なんだ?」
その予定調和を崩したのは、待ちきれなくなったカイトのこの質問だった。
「……どうして、とは?」
「なぜ、真球のアルケーは、鍵の形になることを選んだ?そこには絶対に、理由があるはずだ」
『鍵』という形にこだわり続けてきたカイト。
ヒトの手で形を変えたのではなく、自然とその形になったと聞いたことで、カイトの好奇心は話の順番が待てないほどにうずき出していたのだ。
「それは……」
今度のウィノの言い淀みは、気まずさから来るものではなく、また、先延ばしやごまかすためでもなかった。
「ちょっと待って。どう話せばいいか、考える」
頭の中で話の組み立てをする時間を稼ぐため、そして、心の準備のため。
「そう、もちろん『鍵』の形には意味がある。それは……」ここまで準備してもなお、ウィノの口は重い。「どう、説明していいか……」
「なんだよっ、まだ俺たちが信用できないってか?!」
そうではないと分かっていてもつい言ってしまったヘロンに、ウィノは「その反対」と困った顔になる。
「反対?」
「わたしが君たちを信じてないんじゃなくて、君たちに信じてもらえないんじゃないか、と心配してる」
「……そんなにとっぴょーしもないコトなのか?」
「そう。君たちの世界観をひっくり返すような、そんな突拍子もないこと」
「ふーん、なら大丈夫だぜ!なっ?」
ヘロンが同意を求めた先のラークも「まぁ、僕たちそういうの慣れてるからね」と頼もしい。
子ども二人に堂々と受け止められて、ウィノも腹を括る。
「人間たちの間では、鍵についてどのように語り継いできた?」
ウィノが言う『人間』には純血ではない人魚やドワーフも含まれる。
「人魚の鍵は……海の楽園に行くため、とか、海の果てに至る鍵、とか……?」
「俺たちの間じゃあ、地下の太陽を祀った斎場の鍵ってことになってたが」
代表してユエとフェザントが答える。
「うん、それはあながち間違いではない」
ウィノはあっさりとその伝説を肯定した。
「えっ、じゃあ、海の楽園はほんとうにあるの?」
「向こうにあるのが楽園かどうかは主観によるが……」
「そ、そういうことじゃなくって……!」
「君たちが知らない海があること、そこへ行くために鍵が必要だということは、間違いない」
どんな爆弾が落とされてもいいように身構えていたが、爆風は緩く優しく吹き抜けていって、最後に凪を残した。
風もなく、波もない海で漂流しているような、心許なさと静けさ。
「『新しい世界への扉が開いた』──ドワーフの遺跡に書かれていた言葉だ。もしかしてこれは何かの比喩ではなく、そのまま言葉通りの意味だったのか?」
櫂でひとかき、カイトは手探りでも前へ進む。
「新しい世界……とは、違う」けれどウィノは簡単に進ませてくれない。「向こうにあるのは、むしろ……古い世界」
「……訳がわからない」
ここまでカイトの顔に疑問符が踊るのは初めてかもしれない。
仕切り直すようにウィノは切り口を変える。
「そうだな……『鍵をつくる』心理を考えてもらうと、わかりやすいかもしれない」
「鍵を、つくる……」
「たぶんヒトが鍵を使うことを想定した時、開けることをまず考えがちだけど、鍵がつくられるのはそもそも──」
「っ!!鍵は、かけるためにつくられる……!?」
カイトはこれだけのヒントで、「そうか……そういうことか……!」と全てを悟った。
「なるほど……そういうことなら、全て説明がつく……」
カイトが納得するのを待って、「でっ?!どういうことっ?!」ちんぷんかんぷん代表のヘロンが詰め寄った。
カイトはもう衝撃を通り越して、ひとりスッキリした顔をしている。
「鍵はかけるためにつくられた──つまり今は、扉に鍵がかかった状態なんだ。だから鍵を使って辿り着く先は、楽園でも新しい世界でもなく、続きの世界──」
「……なにそれ?謎かけ?」
カイトとウィノがわざと回りくどい言い方をしているように思えて、クレインの言葉にはちょっと怒気が込められていた。
「ん……なるほど、説明が難しいな」
さっきのウィノと同じように悩んでから、カイトは「まず……地図を想像してみてくれ」と唐突に提案した。
「地図?」
「俺たちが知っている、世界地図」
全員が頭の中に思い浮かべるのを待って、カイトはひとりを指名する。
「じゃあ、ヘイレン」「あ?」「思い浮かべた地図を説明してくれ」「は、あ……」「いや、ここに描いてくれ」
カイトが差し出した紙を、ヘイレンは戸惑いつつ受け取る。
「地図って言われたって……」
「詳しい国の場所よりも、東西南北の端を意識してくれ」
「端?」
「お前が知る、世界の東端・西端・南端・北端を書き入れろ」
「ん~?んん、んじゃ、まず大陸を──」
ヘイレンは横にした紙の上部に寄せて、東西に長い長方形を描く。
「北端はみんなご存知、大山脈」
大陸の北側全てに連なる山。
「南端は……俺よりユエの方が詳しいな」
任されたユエは紙の一番下に小さな丸を描き、「一番南にある島は、中央の一族が支配する島だよ」
「海の南端は?」とカイトに問われて、「島より南は、人魚が珊瑚礁の海って呼んでる場所」と答えると、カイトの手で地図の南端に『珊瑚礁の海』と書き込まれる。
「西端は、今は人間が支配してる島だな。けっこうでかい島で、『レザーニ島』と呼ばれてる」
ヘイレンの手で紙の左端に『レザーニ島』と書き込まれる。
「で、最後の東端は島で言うと、東の人魚の一族の──俺らもご招待されたあのあたりだろうな。だが東の海はその先にもかなり続いてると聞く。だから俺が知る東端は……」
『東の一族の島』と書き込まれた位置は、紙の右端ではなく、他の三方向よりもう少し中央寄り。
「ほらよ。これが俺が知る地図だ」
ぞんざいにヘイレンから返された紙を、カイトは全員に見えるよう地面に置く。
「世界地図を描け、と言われたら俺もだいたいこう描くだろう。異論ある者はいるか?」
何の確認かわからないまま、全員が曖昧にうなずく。──いや、ウィノだけがうなずいていなかったことを、カイトは目の端で捉えていた。
「俺たちが知る世界は、この紙一枚で完結している。北端の大山脈を越えた者はいないし、東も西もそして南も、人魚ですら海の果てに辿り着いたことはない」
カイトの言葉に、何を当然のことを今さら、という顔で、誰も自分の常識を疑わない。
「だが、世界には続きがある」
カイトは地図が描かれた紙に、白紙の紙を継ぎ足すように置く。北端はもう、端ではなくなった。
「大山脈は越えることができる」
地図の左右、そして下側にも白紙の紙が継ぎ足される。世界は十字の形になった。さらにカイトは四枚の紙で四隅を埋め、地図は白紙の紙に囲まれる。
「珊瑚礁の海より南にも、レザーニ島の西にも世界は続いているし、東の海は俺たちが知るより、ずっと遥かに──ずっと、ずっと、広い」
「…………うん。……うん?」
いまいち反応が悪い聴衆に、カイトはじれったそう。
「だからな、俺たちが知ってる世界ってのは、世界のほんの一部だけなんだ」
「うん……でもそれって当然だよね」
一年前までは海のごく一部が世界の全てだったユエは、自分が世界の全てを知っているなどと思ったことはない。だからカイトが今になってやっと気づいたように力説する意味がわからないのだ。
「ついこの間まで、北にも海があるってこと、カイトだって知らなかったんでしょ?」
「それは──」
「おれたちが知らないだけで、他にも海はあるんだろうし、大山脈だってまだ誰も越えたことがないってだけで、地下からだったら行けそうだったし」
「いや、それとはまた違うんだ」
「なにが違うの?」
いつの間にやらカイトとユエの一騎討ちの様相を呈してきて、周りは黙って見守っている。
「だからな、エィラの時代はむしろ世界地図と言えば、こっちが常識だったんだ」
カイトの指は四角を作って動き、白紙の紙が足された全体図を指している。
「その後……まあ、俺にもどうやったのかは分からんが、鍵を使って……この、一部だけが切り取られた」
「切り取られた?」
「隔絶されている、と言ってもいいんじゃないか。だから今現在は、どうあがいても海の果てには辿り着けないし、大山脈は越えられない。──そうだろ、ウィノ?」
最終確認に妖精はうなずく。そこには称賛が浮かんでいる。ほとんど自力で真実を見極めた、カイトの頭の回転の速さに対するものだ。
「想像するなら、陸海空を扉で隔てた感じだろうか。そう……扉は閉められ、鍵はかけられた。わたしたちが生きているこの世界は、その閉じられた扉の中」
「なるほど、鍵という形はその象徴なんだな。ということは、世界を分けるのは鍵の意思だった、と」
「鍵に宿る意思が三種由来だと考えれば、それは過去の、人間に変わった人々の総意とも言える」
ウィノは敗北を宣言するように弱々しく、告げる。
「──ここは、箱庭。都合のいいものだけを詰め込んで、いらないものを排除した世界」
「いらないもの」カイトはその言葉を待っていたように繰り返した。「それは、鍵の使用に反対する──つまり人間の存在を認めない人々や、戦争をやめない人々のこと、か?」
じわ……っと、カイトから伝わった熱がユエの胸に灯る。なぜこれほどカイトが熱弁していたのか、やっと周りが追いついてきたのだ。
「そう、意見が合わない者たちを排除することで、見せかけの平和を築いて、満足した。それが今から……約二千年前のこと。アルケーが鍵の形になり、しばらくしてから『封印』できるようになった。そして鍵が提案してきた。『世界を閉じてしまおう』と」
ウィノの表情には、『理解できる』と『理解できない』がせめぎ合っている。
「たぶん、嫌気がさしたのだろう。決着のつかない争いを続ける人々にもだが、争いを終わらせるために生み出した人間が、皮肉にも次の争いの火種になったことにも。……理想論ではきっと、排除ではなく分かり合う道を探すべきだったのだろうけど」
「……ドワーフの遺跡で人間の起源を知った時から、疑問だったことがある」
カイトははやる心を抑えるために、極力冷静な口調を保とうとしている。
「人間が第四の勢力となるまで時間がかかったはずなのに、その間、反対勢力は何もしなかったのか?──答えは簡単。反対勢力を閉め出してしまえばいい」
「実際には敵・味方をきれいに二分できた訳ではないけれど……この大陸と海の一部に味方を集め、ここだけを隔絶してしまえば、一瞬で数の逆転を起こすことができた。箱庭の中に残された反対勢力は少数派になり、飲み込まれ……ほんのわずかな時間、平和を享受した」
「現実として、鍵はどうやってここだけを隔絶したんだ?」
「扉や壁のようなものが実在する訳ではなく、海なら波の流れを狂わせて、空なら風の流れを狂わせることで、中には外から入れないように、そして中から出られないようになっているみたい」
「『外から入れない』?と、いうことは──」
どきん、とユエの心臓が弾む。これは期待から来るものだ。
カイトが聞きたいことを、すでに誰もが理解して、期待している。
ウィノが『新しい世界』を否定し、『古い世界』と言った意味。
カイトが『続きの世界』と言った意味。
『鍵』という形の意味。
扉を閉めて、鍵をかけた。それなら──鍵を開けて、扉を開けることもできるはず。
「──外の世界にはまだ、純血の三種が生き残っているのか?」
カイトはウィノの答えを待たず、質問を畳みかける。
「鍵を開けて、外の世界に出ることはできるのか?外の世界と再び繋がることはできるのか?この空白を──」地図の周りに広がる白紙の紙に、カイトは手を置いた。「──この空白に何があるか、知ることはできるのか?」
ウィノの答えは、全部まとめて肯定だった。
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