三鍵の奏者

春澄蒼

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第六章 追憶の海に花束を浮かべて

86 満月の夜

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「カイトっ!!」
 ユエはすぐにカイトを追って海へと潜った。

 しかし人魚の涙ディア・メロウ号の破片が舞い、それでなくても視界の悪い夜の海では、彼の姿を捉えることができない。

 息が苦しくなって、海面へと戻る。息継ぎをしてもう一度──何度繰り返しても、海の表面を撫でるだけの徒労に終わる。

「っ、はぁ……っ!」
「ユエ……!」
 もう一度、と潜りかけたユエの腕を、いつの間に降りてきたのか、縄梯子を片手にヘイレンが止める。

「離せっ!」
「もうやめろ。無茶だ」
「っ、俺が行かなきゃ……!」
「……自力でなんとかするさ。カイトなら深海でも人魚並みに動けるんだろ?お前はまず、自分の傷の手当てしろよ」
「え……?」

 言われて目を落とした自分の腕に、いくつもの血の線が滲んでいた。破片で切ったことにも気づかないほど、周りが見えていなかったのだ。


 手すりから身を乗り出して見守る仲間たちからも、「いったん船に上がった方がいい」「カイトなら大丈夫だろう」「俺たちにできることはないよ」と口々に言われる。

 カイトが心配じゃないの?!とカッとなりかけたユエだったが、そんなのは八つ当たりだとすぐに反省する。

 ユエ以外はまだ、夢と現の狭間を漂っているような現実感のなさが抜けていないのだ。
 そして元々カイトに対して抱いていた絶対感が、おかしな方向へと加速していた。それと同時に募るのは、無力感。

 カイトに助けなんていらない。
 自分にできることなんてない。
 ──神を人が救うなんておこがましいとでも言うように。



(落ち着け……考えなしに動いちゃだめだ……!)
 ユエは意識して深呼吸を繰り返して、ふと空を見上げる。雲に隠れていた月が、ちょうどその時姿を現した。

 柔らかな光を辿って視線を戻すと、闇そのものに見えていた海に、優しい月の光が射し込んでいた。

 その光に導かれるように、(どうしてこんな当たり前のことを、すぐに思いつかなかったんだろう……!)ユエの頭にパッと浮かんだものは──『人魚の鍵』。

 今しかないと、ユエは自分の胸に手を当てる。

(俺は人魚だ……!今、本当の姿に戻らないでどうする……?!ここでカイトを助けに行けないなら、人魚の意味がない!!)


 ユエは他の仲間たちほど楽観視できなかった。

 ユエが射った矢がジャン・ノーを穿った瞬間、『人魚の鍵』はその恐怖と支配から解き放たれ、今、ユエの心はユエだけのもの。

 ユエだけの恐怖が、花を開きかけている。

 以前メイに語ったことがある、ユエの想像──カイトが背を向けて、どこかへ行ってしまう。その時ユエは人魚の姿で、後を追いかけることができない──それをずっと恐れていて、人魚の姿に戻ることが怖かった。


 でも今は正反対の状況だ。
 正反対なのに、裏返しにすると全く同じ──ユエが人間の姿だからこそ、カイトを追いかけることができないでいる。

 カイトと離れたくないという想いが、ユエを突き動かす。



(お願い……!俺を人魚に戻して……!!)
 ユエは自分の中の『人魚の鍵』に向けて、一心に祈る。
 今までで一番強い気持ちで、一番明確な意思を持って。

 しかし『人魚の鍵』は簡単に聞き届けてくれない。
 むしろ──ユエが人魚に戻ることに反対しているかのよう。


「もうっ!!ジャン・ノーから解放してあげたでしょう?!少しは俺の言うこと、聞いてよ!!」
「うえっ?!い、いきなりなんだ?」

 自分の胸に向かって怒り出したユエがよほど怪しかったのか、ヘイレンは掴んでいた腕を離して身を引く。

 ユエはそんな些末に構っていられないで、ますますケンカ腰を強めていく。

「元はと言えば、あなたがジャン・ノーに手を貸したのが悪いんでしょう?!あなたが恐怖に屈したから、あの人の妄執が叶っちゃったんじゃないのっ?!それに俺たちは巻き込まれたようなものなんだから……!」

 鍵を『あなた』と呼ぶことに、ユエは違和感はない。知らないうちに、鍵の人格を認めてヒトのように扱っている。

 ユエから怒られた鍵は、少しは反省したもののすぐに開き直って、ふんっと気位の高さを見せる。──実際には『見せる』ではなく、大まかな感情が伝わってくるといった印象だ。

「……怖いの?」
 ユエが意地悪くそう言うと、鍵は分かりやすくぎくっと図星を指された反応になる。
「もう一度、ジャン・ノーの近くに行くことが怖いんでしょう?」

 ギクギクッとなった鍵に、ユエは真摯に頼み直す。
「ねぇ、お願い。もう二度とジャン・ノーに触れさせたりしない……!俺が守るよ!だから……!」

 鍵が揺れているのを感じ取り、ユエはもうひと押しと言い募る。

「カイトを助けたいんだ……!今すぐそばに行きたい。できることをしないで、後悔したくない」

 鍵からユエに感情が伝わるように、ユエの感情を鍵へ届けようと、ユエは心を込めてその言葉を口に出す。


「カイトのこと、愛してるんだ」


 ぱぁぁぁ……!っと広がった温かい光に、ユエの全身が包まれた。光は胸の中心へと集まり、やがて一点に吸い込まれるようにして消えていく。

「……ありがとう」
 胸の前で広げた手の平の上に、ユエはお礼を言ってからぎゅっと一度握り締める。

 三つの輪が重なった持ち手を持って、自分の胸にその蒼い鍵を突き立てる。もう一度光が放たれて、ユエを包み込む。
 回して、戻して、引く。


 身体が軽くなったと感じたのは、身につけていた下衣とブーツが自然に脱げていたから。
 それと、さっきまでは異物のように肌触りが悪かった海が、今は馴染んでユエと一体になっているから。


 ユエは懐かしいと目を細めて、手の中を見る。
 今度は消えなかった『人魚の鍵』は、と同じ海の化身のような蒼を煌めかせる。

 ユエは浮かんでいるブーツから靴紐を抜くと、鍵の持ち手の輪に通して、即席の首飾りにする。首の後ろで紐を結ぶと、鍵は最初からそこが定位置だったかのように、ユエの胸元に収まった。


 茫然と口を開けて一部始終を見守っていた仲間たちに、「じゃあ、行ってくるから」と気負いなく手を振って、ユエは身を翻す。
 虹色の鱗が水を跳ね上げて、月の光を反射した。



******


 カイトは闇の中にいた。
 身体も頭も重くて、指先も動かせない。
 自分の輪郭も分からずに、闇の中に溶けているような気分になる。

(……俺は、死んだのか)
 狂うほどに恋い焦がれたものをやっと手に入れた時の、たっぷりの幸福と少しの寂しさ。

(いや……)
 すぐにカイトは、それがまがい物だと気づく。自分に与えられる死が、これほど安寧であるはずはない。


「う……」
 どれくらい気を失っていたのか、それを知る術は海の底にはない。目を開けても、闇の中なのは変わらない。
 腕は骨に搦めとられ、下半身には人魚の像──まるでジャン・ノーとユラン、二人に挟まれているよう。

 ただの骨に戻っているように見えるのに、複雑に絡み合って外すことはできない。脚は折れてはいないが、水圧がかかった像を跳ね除けることもできない。


(俺を道連れに選ぶとは……お前、俺のこと案外気に入っていたのか……?)
 顔の真横に転がった頭蓋骨に、カイトは心の中で話しかける。

 ジャン・ノーの性格上、どうでもいい相手とわざわざ心中するような真似はしない。
 ユランがまだ生きていたのなら、カイトを殺すことで、残された彼女を苦しめようとしたという分析もできるが──ユランが先に逝っているのだから、これではカイトをユランの元へと連れて行くようなものだ。

 ジャン・ノーは確かに生前も、ユランの仲間の中で特別カイトに敵意を露わにしていた。
 彼にとっては敵意であれ何であれ、他人に執着すること自体が特別だったのかもしれないと、カイトは今になって振り返る。


(……もう一度会いたいと思った相手は、大勢いる。最初はよりによってお前かと、ため息をつきたい気分だったが……お前でよかったんだろうな)

 こんなものは、楽しい再会には決してならない。
 死を二度見送り、別れをもう一度繰り返すようなもの。

 ジャン・ノーでさえこれほど『置いて行かれた』という気持ちを味わうのに、もっと親しい相手だったら──?

 カイトの中にずっとくすぶっていた感情が、ぶわっと溢れ出す。


(もう……疲れた)


 死を待つこと、死を数えることに疲れたと、カイトの肩から力が抜けていく。

 思い出さないようにしてきたたくさんの顔が、次々と脳裏に浮かんできて──その全員がもうにいるのだと思うと、ジャン・ノーの最期の願いを叶えてやるのも悪くないと思えてくる。

(──このまま眠ってしまおうか)カイトはゆっくりと目を閉じる。

 諦めは、心地のよい解放感を連れてきた。

 もう、何も考えなくていい。
 もう、何も覚えていなくていい。
 自分に課した使命や、誰かとの約束、責任や義務──全てを手離してしまえばいい。

 最大の懸念だった問題が片付いた今、危ないほどの満足感も押し寄せる。
 解放感と満足感は合わさって、麻薬のように脳をしびれさせた。


『鍵を見つけて』──ユランの遺言が、喉に引っかかった魚の骨のように、チクっと痛みを与える。
『幸せになってください』──リイルの今際の際の言葉が、静寂な水面に落ちた水音のように、耳に残る。

 未練に足を取られかけたカイトの背中を、自分自身の声が後押しする。
 ──『後悔のない人生なんて、ない。誰もが、多かれ少なかれ未練を残したまま、死ぬんだ』

 今死ぬことで残していく未練と、もう少しを望むことで深くなるだろう後悔を、カイトは天秤にかけた。

 そして気づく──自分が変わったことに。


 未練も後悔も、思い浮かべたのは自分のことではなかった。
 カイトをここまで突き動かしてきた『知りたい』という欲求ではなく──『カイト』何度も名前を呼んでくれた優しい声が、最後のかせとなって、カイトの心を繋ぎ止めている。


(……このまま逃げるのは、狡いな)
 泣きながら怒る彼の顔が想像できて、カイトはふっ、と笑った。
 笑うと、闇が少しだけ薄れてきた。

(……たくさん、話さなければならないことがある。──いや、違うな。俺が、話したい、のか)
 そして、彼に聞いてほしい。それから、自分を知ってほしい。

 秘密を全部さらけ出しても──同じように名前を呼んでくれるだろうか?
 その答えを、カイトはもう知っている気がして、もう一度笑みが浮かんだ。今度は照れくささの混じった笑みになる。

(……甘えてる、な)
 子どものように思っていた相手を、いつの間にか対等どころか、すべてを預けることができるほどに信頼している。
 自分が助けていたつもりが、救われていたのは自分だった。


(そう、か。俺がほしかったものは、だったのかもしれない)
 闇の中に淡い光を見つけて、カイトの意識が浮上する。

 闇をかき消す眩しいほどの強烈な光ではなく、闇の中にぽつりと灯る優しい光──カイトを光の世界に連れ戻すのではなく、一緒に闇の中を歩いてくれる存在。

 待っていた。ここまで来てくれると、信じていた。──一緒に堕ちてくれることを、知っていた。だから──。


「カイトーーー!!」

 海を震わせるような大声で、名前が呼ばれる。

(──だからこそ、お前だけは、光の世界へ帰してやる)

 カイトはひとり決意した。
 自分よりも大切なものを守るために、迷いはすべて心の底に封じ込める。

「カイトっ!」
(ああ……)泣き顔のユエを見て、カイトは場違いな感想を持つ。(やっぱりお前には、こんな暗い海は似合わない。もっと明るく澄んだ……そう、お前の瞳のような海が相応しい)

 虹色の鱗が太陽に反射する光景が、自然と思い浮かぶ。それは、幸福そのもの。そこに、闇があってはならない。


 カイトが決意したのは、別れ──自分のためではなくユエのために、手を離すことを決めたのだ。




******


「カイトっ!」
 海の底に身体を横たえるカイトを見て、ユエの心臓がひやっと凍りつく。早く、早く!と全速力で水をかき、表情が分かる距離まで近づいて、今度はどきっと跳ねる。

 眠っているような穏やかな顔──その時まぶたがゆっくりと持ち上がらなければ、ユエはすがって泣いていたかもしれない。

「カイト……!」
 別れの場面は何度も想像した。でもその中に、『死別』はついぞなかった。
 その可能性に直面して、よりいっそうカイトへの気持ちが強くなる。

『死』にも『運命』にも、奪われてなるものか──そんな決意をたたえて、ユエはぎゅうっと首に抱きついた。
 それから、ちゅと唇を奪う。

 初めて人魚の姿でする口づけは、海の味しかしない。それが不満でもう一度、今度は舌を伸ばして──それでもやっぱり、カイトの唾液は感じられない。

(冷たい……)
 口の中だけでなく、手のひらにも体温が伝わってこない。気づいたユエは、今はそんな場合ではなかったことを思い出す。

「っ、カイト、大丈夫っ?!って、大丈夫なわけないよね……!」
 カイトの頰をぺちぺちと叩いて、ユエは自分で自分にツッコむ。

 それに対して薄っすらと笑むだけのカイトに、ユエは(もしかして……水の中では喋れないのかな)と当たりをつけて、「もう少しだけ待って、すぐに──」

 さっと現状を確認したユエは、腰から下を圧迫する像はとりあえず後回しにして、何とかなりそうな骨から手をつける。

 ジャン・ノーはカイトの腕を羽交い締めにしたまま下敷きになっていて、砕けた骨がいくつもカイトの肌に刺さっていた。

 ぐっと力を込めて腕の骨らしき部分を引っ張る。しかし簡単には外れないほど複雑に絡み合っていて、ユエはそこにジャン・ノーの最後の悪あがきを見た。
 自分が死んだ後の世界で生きるなんぞ、許さない──そんな恨み言が聴こえてきそうなほど。


「……もう、ゆっくり眠って」
 骨をさすりながら、ユエは自然と話しかけていた。
「恨みや執着は忘れた方がいい。忘れるのが、あなたのためだよ」

 もちろん骸骨は何の反応も見せないが、代わりのようにカイトの目が動く。ジャン・ノーへのはなむけを、ユエはカイトを見つめながら続ける。

「こんなこと、本当は言っちゃいけないのかもしれない、けど……」
 ユランやこの場所で命を落とした多くの人たちへ、心の中で(ごめんなさい)を言ってから、子どもを寝かしつけるような優しい声で続ける。


「俺がカイトに出会うことができたのは、あなたのおかげだ。あなたとユラン姫の因縁がなければ──あなたが鍵を奪わなければ──鍵があなたに支配されなければ──……なにかひとつでも違っていたら、『今』はなかった」


 ユエは「こうなってよかった」などと、多くの死をないがしろにすることを言うつもりはない。
 ただ自分くらいは──当事者ではないが、無関係でもないユエくらいは──ジャン・ノーの死を悼んでもいいのではないか、最期を穏やかに見送ってもいいのではないかと、ポロポロ崩れる腕の骨をさすり続けた。

「『ありがとう』は言わない。でもせめて、祈るよ。あなたが心安らかに眠れるように──」

 ユエの言葉を聞き終えた瞬間、ぱき、と軽い音。それに次いで、ぱらぱら、と骨が砕けて形をなくしていく。
 それは優しい言葉に満足したようにも、綺麗事に白けたようにも、どちらとも取れる最期だった。



 腕が自由になったカイトは、自分の状態を確かめるように目をやってから、ゆっくりと手をついて上半身を起こす。
 ユエもそれを支えながら、後回しにした難題に向き合うことになる。

「脚、抜けそう?」
 脚の上の重みは、カイトとユエの二人がかりになっても、全くピクリともしない。
 大木がまるまるのしかかっているようなものなので、当然と言えば当然ではあるが、ユエはその手応えのなさよりも、腕に力の入っていないカイトの方が心配になる。

 深海でもカイトは大丈夫だとばかり考えて、時間を気にしていなかったユエだったが、ここへきてそれは間違いだったと気づかされる。

 力が入っていないのは腕だけではない。いつもは頼もしい背中も今はくったりと脱力していて、まるで冬眠中の熊のように、生き延びるために動きを最小限にとどめている。

(っ急がないと……!)
 話せないからカイトから助言ももらえない。ユエはひとりで考えて、まずはカイトの脚の周りの砂を掘ってみた。
 しかし掘っても掘っても周りから崩れてきて、ますますカイトの身体は沈んでいくばかり。

(どうしよう……でもどう考えても、ひとりでこれを動かすのは……あっ!)
 ユエが閃いたのは、(ひとりでは無理なら応援を呼べばいい!)だ。

 ここにあった大渦に、東の一族の若者たちが惹きつけられて、近くをうろうろしていたことは聞いている。異変が起きて離れただろうが、静かになった今、また近くに来ているかもしれない。

 そう考えたユエは「ちょっと待ってて!」とカイトに言い置いて、すーっと泳ぎ上がる。
 障害物のない位置までくると耳を澄ませて、それらしい気配のある方へ向けて、大声を上げた。

「助けてください!!」

 振動は海を伝って、誰かにぶつかった手応えがある。

「東の一族の人魚でしょう?!俺は中央の一族のユエ、メイの友だちです!!こっちへ来て、手伝ってくださいっ!!」

 警戒してなかなか来てくれないのではないかと、ユエはもう一度大声を用意したが、好奇心旺盛な者ばかりが残っていたからか、すぐに何人もの気配が近づいてきた。

「あ!あなたたち……!」
 四方八方から集まったのは、十二人の人魚。その中には、メイの家に入り浸っていた女性二人組もいた。

「本当にあのユエなの?!人魚に戻ったのね?!」「それで、なにがあったの?大渦は消えたみたいだけど……」
「くわしくは後で!こっち!カイトがあの像の下敷きになってるんだっ」

 怖さ半分興味半分でユエを取り囲んだ人魚たちを連れて、ユエは海底へと戻る。

「この像を動かしたいんだ!力を貸して……!」
 急かすユエの気持ちをくみ取ってくれず、人魚たちの反応は鈍い。

「あれって人間でしょ?もう死んでるんじゃないの」
「どうして人間なんか助けなくちゃいけないの?」
「あんな大きなもの、動かせっこないわ」
「そんなことより、話を聞かせてよ!大渦はどうして消えたの?」「消えちゃったわね。なんか、ちょっと残念」「えっ、どうして?」「だあって、普通の海になっちゃったじゃない?前の方がぞくぞくして楽しかった──」

「いい加減にしてっ!!!」

 ユエの怒号がびーーんと海を揺らした。
 好き勝手話していた人魚たちを黙らせて、ユエはきっと睨みつける。

「手伝う気がないならせめて、他に手伝ってくれる人を連れてきてよ!!言っておくけどね、カイトはあなたたち東の一族の恩人みたいなものだよっ!!カイトは人魚をたくさん助けてきたのに……!あなたたちは人間だからって理由で、カイトを助けないのっ?!」

 声を張り上げながら、ユエには悔し涙が浮かんでいた。

 ユランと一緒に戦ったことも、その遺言を果たそうとし続けたことも、メイやユエを始め、人間に捕らわれた人魚を救ったことも──カイトの過去を知らない人魚たちに、腹が立って仕方がない。


 ユエはくるっと背を向けて、カイトのそばに戻る。今の騒ぎも聴こえていなかったように、カイトの目は閉じていた。
 ぞっとなったユエは、慌ててカイトの胸に耳を押し当てる。……とくん、ゆっくりとした鼓動が聴こえるまで、生きた心地がしなかった。


「手伝うわ」「せーの、であっちへ押しましょう」
 ユエの背中に、力強い声が降りかかる。
 顔馴染みになった二人組が像に手をかけたのを見て、ユエは涙を拭って加勢する。

「せーの!」
 何度か試しているうちに、手が二つ四つと増えていき──いつの間にか十二人を超えた人魚が力を合わせている。

「せーの!」のかけ声が何重にもなると、像はぐん、とわずかに持ち上がるようになった。
 しかしただでさえ非力な上に、人間のように脚で踏ん張りことができない人魚には、これが精一杯だ。

「俺が引っ張ってみる!」
 ユエはカイトの頭側に回ると、腕の下に手を入れて準備する。

 像がぐんと動いた瞬間、ぐっとカイトの身体を引き寄せる。
「もう、すこし……!」そんな手応えはあるのだが、時間が経つほどに焦りと疲労が重なって、何人かは手のひらに血が滲んできている。

「転がすよりも、こっちから持ち上げるようにしてみて!」
 前に押して転がすよりも、像の頭の下に潜り込んで持ち上げながら、浮上するように泳ぐ方が人魚には力が入りやすいと気づいて、ユエが指示を送る。

(もう、時間がない……!)
 人魚たちが態勢を整える間、ユエはカイトのひたいに自分のおでこをコンと当てて、誰にともなく──何にともなく、祈る
(お願い……!)

 神様でも悪魔でも、幽霊でもいい。偶然でも奇跡でもいい。(カイトを助けて……!)

 ふわ、と何かが頰を撫でた気がして、ユエは(今だ!)と引きつる腕に力を込める。
「お願いしますっ!せぇーの!!」


 ──その時、ぶわっ!!と海が捲き上がった。


 まるで海の中に強風が吹いたように、海底を這った流れがぶつかって、像がぐわっと持ち上がる。

「きゃあ!」「なに、この波!」「逃げて!」
 耐えきれず人魚たちが手を離す前に、カイトの身体を抱えたユエは、転がった像を避けて浮上する。

 ド……ン!海底に響き渡る音の後、砂で遮られた視界が開けていくと、ユランをかたどった像はジャン・ノーの頭蓋骨を押しつぶすようにして、海底に静かに横たわっていた。

「い、まの……?」
 海が助けてくれたみたい、と目を見張るユエに、キラッと胸元で存在を主張する『人魚の鍵』──(あなたが助けてくれたの……?)
 ユエは心の中で話しかけたが、ユエの身体の中から出た鍵とは、気持ちを伝え合うことはできなくなっていた。


「……ありがとう」
 小さく呟いたユエは、もう一度声を大きくして「ありがとうございます!」と、今度は助けてくれた人魚たちへ頭を下げる。

 カイトの腕を肩に乗せて支えると、ユエは海面へ向かって泳ぎ出す。
 戸惑いが去らない人魚たちも、そのまま帰るのではなく、ユエの後に続いて上へと泳ぎ始めた。

 底が見えなくなる前に、ユエは一度振り返って「ありがとうございます」と、祈った時と同じように誰にともなく──何にともなくお礼を言う。

 最後のひと押しをしてくれたあの波は、もしかしたら『人魚の鍵』の力かもしれないし、海の気まぐれかもしれない。あるいは、あの像にユラン姫の心が少しだけ遺されていて──結論が出るはずもない想像を、ユエはそれでいいと曖昧なまま残しておく。

 肩にかかる重みだけが、全て。


 ユランとジャン・ノー、そしてカイト──これで終わりを迎えるのは、三人の過去。
 ユエとカイト──二人の正念場はこれから迎えることになる。

 大事な局面を迎えるにあたって、あの波はユエの背中を押してくれた。カイトと一緒にいたいというユエの気持ちを、応援してくれたように思えたのだ。


 まっすぐ前だけ見て、ユエは泳ぐ。



***
 海の中から見上げる夜空は、記憶よりもずっと明るい。
 ゆらゆらと漂う優しい明かりの中へと飛び込むように、ざぱん、と海の膜を突き破る。

「……今夜は、満月だったんだ」
 出迎えてくれた満月に照らされて、カイトのまつ毛が影を揺らす。ぴくっとけいれんしてまぶたが持ち上がると、月光を浴びた黒い虹彩がきゅっと身を縮めた。


 生きている──その証拠を求めるように、ユエはカイトの身体をぎゅっと抱き締める。
 温かな手のひらが、濡れて張りついたシャツの上から背中をゆっくりと撫でてくれて、「カイト……っ!!」張り詰めていた気が緩む。

 ユエの泣き声がしばらくの間、夜の海に響き続けた。


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