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第五章 星は天を巡る
75 贈る言葉
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夕方になって目が覚めたアディーンは、自分の命の炎がひと回り小さくなっていることを、はっきりと感じていた。
魂の重みが消えていくように、体が軽くなっていたのだ。
七十歳を超えてからというもの、身体が万全の状態など一日たりともなかった。膝が痛い、腰が痛い、立ちくらみがする、歩くのが辛い──二十年、付き合ってきたものだ。
それがすっきりどこかへ行ってしまっている。
思えば、カイトを待つ時間が、精神的にも肉体的にももっとも辛い時間だった。格好をつけずにもっと早く再会を願い出ていればよかったという後悔と、彼が会いに来てくれなかったらどうしようか、という不安に苛まれていた。
しかしあの日──カイトとの再会を果たすことが叶うと、精神的に楽になったせいか、身体の調子も上向いてきて、この一週間は心から穏やかに過ごすことができた。
案外しぶとい自分を笑う余裕もあって、対岸から手招きする『死』を一時忘れたくらいだ。
これが死期を悟るということかと、アディーンは冷静に目を閉じる。
もしかしたら、必死になって探せば、命の炎を永らえさせる薪が見つかるかもしれない。しかしその薪は何かを犠牲にしなければならない気がして、アディーンは探すのをやめた。
今燃えている薪が最期──(もう少しだけ、待ってくださいね)と自分の体にお願いして、燃え尽きるまでの短い時間を無駄にしないために、アディーンはラフィールを呼んだ。
******
「あの……」
この場にカイトではなく自分がいることに、ユエは戸惑いを隠せないで、寝台の横に所在なく立つ。
ユエに椅子を勧めながら、アディーンは愛弟子に感謝していた。図書館からユエ一人だけをここへ連れてきてほしい、そしてこのことを他の三人、特にカイトには悟られないように──という要求は、ラフィールをもってしても難題だったことだろう。
「あの……どうして俺を?」
「どうしても、ユエさんと二人だけで話がしたかったのです。……カイトは今、私があなたと一緒にいることを知りません。この時間のことを話すかどうかは、あなたにお任せします」
そんな前置きに、さらに戸惑いを強くしたユエに、アディーンはズバッと切り出した。
「カイトの過去を知りたいですか?」
昨日アイビスに問うた時より、直裁的に訊く。アディーンは少しの変化も見逃さないように、ユエの顔をじっと見つめていた。
ユエはきょとんと首を傾げて、反対に見透かすような瞳で見つめ返してきた。どちらが試されているのか分からない、無言の視線の交差の後、最初から返事は決まっていたように、ユエはさらっと口を開く。
「カイトのことなら、なんでも知りたいです。でも、カイトが話したくないことなら、知らなくてもいい」
もちろんアディーンは、すでにユエが同じ台詞をカイト本人に伝えていたことなど知らないから、この言い慣れた様子に違和感を覚える。
「それはつまり、カイトから話してくれるのを待つと?」
「はい」
「……今なら、カイトに知られることなく、彼の過去を手にすることができますよ?彼の過去でもあるし、私の過去でもあるのですから、私にも話をするかどうか選ぶ権利があると思うんです」
わざと好奇心を煽るように意地悪く訊いたアディーンに、ユエは「無理です」というおかしな返事をした。
「……無理、とは?」
「俺、そんなに器用じゃないから……カイトに隠しておけないです。絶対にすぐにばれちゃう。そうなったらカイトは……」
失望するだろう。
それは聞いたユエにも、話したアディーンにも、だ。そして失った信頼はもう戻らない。
アディーンとユエはその少しの沈黙の間に、互いがカイトに対して同じ認識を持っていることを確認した。
失望されることももちろん恐ろしいが、それより何より、カイトを傷つけることを、二人はもっとも恐れている。
「ふ、」とアディーンは息を吐いた。
最初から暴露などするつもりのなかったアディーンは、ユエの答えが予想──というよりも、そうであってほしいと願っていた──通りだったことで、安堵が心の中に広がっていく。
ユエの人柄と、彼がカイトへ向ける感情を見極めるには、それでも十分であったが、ユエはさらに理由をつけ足した。
「それに……他の人からカイトのことを聞くの、嫌なんです」
ユエは苦虫を噛み潰したような表情になって、ヘイレンの名を出した。
ヘイレンの口から、自分の知らないカイトが語られることがいかに苦痛だったか、ユエは少ない語彙で教えてくれる。
「聞いて嫌な気持ちになるなら、聞かない方がいい。その時の気持ちが残ったままで、ヘイレンのこと、今でもあんまり好きじゃないし……」
アディーンはその時のヘイレンをありありと思い浮かべることができて、「まったく……」と嘆息する。ヘイレンのことだ、ユエがそう感じることも、カイトが嫌がることも全部承知の上で、波乱を期待してのことだろう、と。
そういうところが、ヘイレンを心から信頼できない理由だった。
アディーンとヘイレンの関係は、いつも間にカイトがいた。
どちらも相手が、カイトの秘密を知っていることを察してはいるが、はっきりとそれを見せたことはない。
互いに監視し合って、カイトを守っているつもりという意味では、どこか同志のような存在ではあるが、アディーンとヘイレンではカイトに望むことが違い過ぎるため、根っこの部では分かり合えないのだ。
どちらも最後に望むのは、カイトの幸せ。
しかしアディーンが平穏で普通の幸せを願うのに対して、ヘイレンはカイトに試練を振りかけて愉しんでいるところがある。
わざと騒動に巻き込んだり、仲間たちを動揺させたり、思わせぶりなことを言ってみたり──。
それは二人の人生観の違いによるものだろうと、アディーンは分析している。
ヘイレンはおそらく、試練を乗り越えた先にこそ、幸せが待っているのだと考えているのだ。いや、──試練がなければ幸せもない、と捻れた思考になっているのかもしれない。
とにかく、アディーンとヘイレンはこれまで、カイトを間に挟んで付かず離れずやってきた訳だが、アディーンとしてはそんなヘイレンに、後のことを全て任せて安心して逝ける──とはとても思えなかった。
だからアディーンは、ユエを呼んだのだ。
お節介で無粋で未練がましくとも、カイトの隣に彼を想う存在がいることを確かめなければ、心配で心配で、魂を遺してしまいそうだったから。
アディーンは厳かに検める。
「ユエさん、あなたはカイトを愛しているのですね」
「愛……」
最終確認のつもりだったアディーンだが、二音を珍しいもののように舌で転がしたユエに、一瞬疑いが湧いたが、それは本当に一瞬のこと。
「うん、そう……『好き』だけじゃあ足りないと思ってた……」
ユエは自分自身に向かって呟いてから、パッと顔を上げて──「はい、愛してます。俺のこの気持ちは『愛』だったんですね」とはにかんだ。
そんないまいち決まらないユエだったが、自分で考えて、自分の言葉で返す誠実さがよく伝わってきた。
この時初めてアディーンは、カイトのことを抜きにして、ユエという一個人を好ましく思い──そしてついつい、余計な話が口から溢れていく。
「……私もね、とても愛した人がいたんです。……いえ、今も愛しています。結ばれることはなかったけれど、私が恋をしたのは、その人だけ──」
その人を想うアディーンの微笑みは、春の陽射しのようにポカポカと、澄んだ湖のようにキラキラと、咲いたばかりの花のようにフワッと、部屋を華やかに彩った。
過去の色あせた思い出としてではなく、目の前にその人がいるように、老司教の表情はいきいきとしている。
「初恋で、そして最後の恋。……教会のみんなは、私のことを滅私の人だと称えますが……違うのです。私がしてきたことはみな、自分のため。そして──彼のためです」
彼──大司教の想い人が男性だということを、ユエ以外が聞いたら大騒ぎだったことだろう。しかしカイトに恋するユエは、それをちっとも不思議に思わずに、ごく自然に受け入れた。
「彼に誇れる人間であろうと、彼が生きやすい世にしようと、せめて彼の一助になれれば、と──そんな動機から出発した教会でしたが、いつの間にか……私にとって彼と同じくらい大切なものになっていました」
アディーンは彼を愛したが、彼は応えてくれなかった。しかし結ばれなくても、アディーンの愛が消えることはなく、若くして独身を貫く決意に至ったのだ。
その決意は結果として、孤児たちを我が子のように育み、教会の発展に没頭することに繋がった。
肉親も伴侶もいなかったからこそ、全ての情熱を教会に注ぐことができ、その教会がアディーンにとっての家族となったのだと考えると、少し皮肉な巡り合わせではある。
だがアディーンは一片たりとも、自分の人生を犠牲にしたとは思っていない。
「もし今、もう一度選べるとしても、私は同じ道を辿ります」(例え──彼と結ばれる道があったとしても……)
ストンと、アディーンの心の中に言葉が落ちてきた。
決して天秤にかけることができない両者であっても、どうしても選ばなければならないのなら、アディーンは教会を選ぶ。彼と同じくらい大切なものができてしまった時点で、アディーンの役割は変わってしまったのだ。
そして気づく。ついついで始めたこの話題こそ、アディーンがユエに伝えたかったものだったのだと。
老人の恋話を真剣に聞いてくれたユエに、アディーンは最後に贈る言葉を考える。リイル・アディーンという男の最終幕に、どんな台詞が相応しいか──選んだのは、飾り気のない応援。
「……私は唯一無二の恋に、後悔はありません。ですからユエさん、あなたも後悔のないように──選択の時には、一番大切なものをひとつ、心の中心に置いて……」
アディーンは言葉を結ぶことなく、舞台から降りていく。それは完結ではなく、続きを予感させるもの──まるで劇をユエに引き継がせるように、アディーンはユエに後を託したのだ。
***
「葬儀には出なくてもいいです。喪に服すなんて、しないでください。旅を続けて……もっと先へ、あなたたちは向かってください」
死後を見据えたカイトへの託けを、アディーンは蛇足のように付け加えた。
******
アディーンとの秘密の会合があって、ユエの頭の中はそれ一色に染まっていた。
伝えそびれた「ありがとう」も、昨夜に決意した用意のアレコレもすっかり忘れて、何も持たずにカイトの部屋の前に立つ。
あの後ユエは図書館へ戻ったが、カイトはすでにそこを離れていて、まだ顔を合わせていない。アイビスとラークだけでなく、老司教二人にも気づかれるほどの心ここに在らずっぷりが、カイトに見抜かれないはずはないから、部屋へ踏み込むには心の準備が必要だ。
一度、二度と深呼吸をして、平静を装おうとしたところで、ユエはそれが無駄な努力だとはたと思い至る。なるようになれと開き直ると、ユエは扉に手をかけた。
「カイト……?」
しかしそんなユエの葛藤は、何の意味もなさなかった。
カイトがユエの違和感に気づく前に、ユエがカイトの異変に気づいて、頭の中が一気に心配に塗り替えられたのだ。
カイトは灯りもついていない部屋で、寝台に腰かけて俯いていた。ユエが目の前まで近づくと、土気色の顔だけが浮かび上がってくる。
隣に腰かけて、握り締められた拳に手を乗せる。
「カイト……?」
「今日は──」
言いかけて止めたカイトは、ユエの手を払いのけるような仕草をしてから、そんな自分に嫌悪を向けてため息を吐く。
そして懺悔のように「リイルが……」と零した。
「うん?」
「夕食をほとんど食べられなかった……外に連れ出して、無理をさせたせいだ」
ユエが部屋を出てから、カイトが夕食を届ける、そのわずかな時間に、アディーンの命はさらに翳っていた。
それを聞いたユエが思い出したのは、二つの表情──恋を語るいきいきとしたアディーンと、もう思い残すことはないとでも言うような、すっきりとした最後の笑み。
あれは別れの言葉だったのだ──浮かんできた言葉を、ユエは即座に否定しようとする。
信じたくない。勘違いだ。そんな訳ない。
認めてしまったら逃れられない気がして、現実から目を背けるように、ユエも一緒になって俯いた。
「……少しだけ食べて、また眠ってしまって……そばに付いていようと思ったが、ラフィールに追い出された。リイルからの言いつけらしい」
カイトが自分を責めていることはすぐに分かったが、ユエには通り一遍の慰めしか思い浮かばない。
もどかしげに何度か口を開いては、結局何も言えずに閉じて……ユエは言葉で伝えることを諦めた。
寝台に膝立ちになって、丸まった背中に手を当てる。そしてそっと抱きついて、つむじに唇を落とす。
カイトはしばらく無言でそれを受けたが、首にまわったユエの腕に触れた瞬間、何かを恐れるようにそれを引きはがす。
「今日は……自分の部屋に戻れ」
命令しながらも、カイトの手は縋るようにユエの腕から離れない。
ユエはどちらがカイトのためになるのか迷い──そのまま残ることを選択した。
昼間からのあまりの急降下ぶりに、彼の不安定さを見て、このままひとりにしておくことはできないと判断したのだ。
いつものカイトなら完璧に隠すであろう揺らぎを、ここまで露骨に見せていることが、カイトの心の叫びだとユエは受け取った。
「カイト、寝よう」
無理やり寝台に乗せようと、ユエは腕を引っ張った。
「ユエ」「部屋に戻ってほしいってことは、大司教様もカイトにちゃんと寝てほしいって思ってるってことだよ」
「……どうせ、眠れない」「眠れそうになくても、横になってたらそのうち眠くなるよ」
「無理だ……」聞いたことのない悲壮な声で、カイトは弱音を吐く。「もし……もし俺がぬくぬくと寝ている間に、リイルになにかあったら、俺は……後悔する」
カイトの怖れの正体が見えたユエは、一緒になって愕然とした。さっきまで当然のように待っていた睡眠が、濁流に呑まれてどこかへ行ってしまう。
「ほんとうだ……眠れる気がしない。ううん、寝るのが、怖い……」
カイトの方が辛いに決まってるんだから、俺がしっかりしなきゃ!とユエは思うのだが、溢れた本音はもう消せない。
カイトに共感したユエは、しかし同時に、アディーンの思いにも共鳴する。
代弁するなんておこがましいとも思うが、それでもこれは、自分が言うべきことだとユエは悟った。アディーンも自分と同じく、カイトを傷つけることなど望んでいない──それを今日確かめ合ったばかりの自分が、盲目になりかけているカイトに伝えるべきだと。
「でも……大司教様が、カイトを苦しめるためにここへ呼んだんじゃないってことだけは、確かだ。眠れないのはのはしょうがないけど、でも……こんな夜を、自分を罰するようにひとりで過ごさないくても、いい……と俺は思うよ」
カイトはその言葉にすがるように、ユエの腰に手を回した。
弱さや狡さがむき出しになったところを互いに守り合うように、自己嫌悪と恐怖に耐えるために、二人は身を寄せ合う。
一人では立ち向かえない嵐に、対峙するために。
******
頭からすっぽりふとんをかぶって、二人は横になった。まるで、幼い子どもたちが、怖いおとぎ話を聞かされた夜のように、柔らかな寝具で身を守る。
「……今まで数えきれないほどの『死』を見てきたのに、今回はまるで違う。感情が刻一刻と変わって……おかしな話だが、白から一気に黒に塗りつぶされるように、何もかもがいきなり反転する気がして……」
「うん、」
「昼間のリイルが楽しそうだったからこそ、なにか悪いことが起こるような……そんな漠然とした不安ばかりが先に立つ」
「うん」
途方に暮れて立ちすくむカイトに、せめて隣にいることを知らせるように、ユエは静かに相づちをうつ。
「頭では理解しているんだ。俺が一晩中起きていようが、なにか起きる時は、起きる。自己満足でそばにいても、かえってリイルの負担になるってことはな」
「うん……」
「それでも……いや、後悔したくないってのも、結局は自己満足、か……」
自嘲するカイトに、ユエは自然とアディーンの立場になって「大司教様は自己満足なんて思わないよ」と、握った手に力を込める。
おこがましいと思っていた代弁に、ユエはだんだんと自信を持ちつつあった。
ユエは今日の密会で、アディーンの恋愛話にとても惹き込まれ、勝手な同族意識を持ったからだ。恋愛に対する考え方や、何となく性格も似ている、と。
と、同時に、ユエは忘れていればよかった悩みまで一緒に思い出してしまう。
『この時間のことを話すかどうかは、あなたにお任せします』
契機を完全に逸してしまったが、今からでも話した方がいいのだろうか?……カイトも大司教様の恋愛話を聞いたことがあるんだろうか……?
ひとりで首をひねるユエに、いつもならすぐに気づくカイトだが、今日ばかりはそうはいかず、独白のように話を続けている。
「……俺は特に、信仰する神を持たない。だがそれでも、祈らないという訳ではない」
カイトらしくない、話の繋がりが見えない話題転換だったが、ユエは「うん」と促した。
いつもとは立場が逆転したように、思いつくまま話すカイトと、聞くユエ。
「人には誰しも、祈る相手がいる。しかし本来それは、人それぞれで、ひとりひとりバラバラなんだろう。だがその中で、やはり共通して思い浮かべるモノがあって、共通する人々が集まって……そうやって神は生まれるのかもしれない」
「……カイトはなにに祈るの?」
「俺は……かたちのないモノに」
禅問答のような答えだったが、今のユエには何となくは理解できた。
姿形や名前すらないもの──それは『運命』なのか『未来』なのか、『誰か』なのか。それに祈るのはきっと、願いを言葉にして『自分』に向けるためなのだ。
カイトは運命すら、自分の責として背負う。
きっとカイトは今、その『かたちないモノ』に向けて祈っている。願いが叶わなかったら、カイトは自分を責めるだけなのだろう。
多くの死を背負っているカイトが、さらにアディーンの死をその背に乗せて、躰を軋ませながら歩く姿を、ユエは想像してしまった。
ぶるっと身震いが起こり、見えもしない翳を払い落とすように、カイトの背中に手を回した。
「『死』ってなんだろう……」
カイトへの質問ではなく、それこそ『かたちないモノ』に祈るような気持ちで、ユエは言葉にした。
状況も台詞も、ベレン卿の館の寝台と似通っているが、あれから多くの感情を知り、多くの人と出会ったユエは、カイトに答えを求めるのではなく、己で考えるために紡いでいく。
「……人魚は生まれ変わりを信じてる。死んだ人の魂はみんな、海の波に揺られてあちら側へ行くんだ。人魚は泳いで行くから早く生まれ変わることができて、人間は船に乗るから遅い──なんて言われる」
「確か──」思わず、といった様子で口を挟んだカイトは、追憶の目のままユエの腰あたりを見る。
「確か人魚には、こんな伝説があったな……お互いに相手の鱗をもらって、それを握って逝けば、来世でまた巡り会うことができる──」
「そう……!カイト、よく知ってるね。もう今はあんまりしないけど、昔は夫婦の誓いとして、自分の鱗を装飾品に加工して交換したんだ」
ロマンチックな伝説に、華やいだ声を出したユエだったが、すぐに我に返って声調を落とす。
「……なにが言いたいかって、つまり、生まれ変わりを信じてるなら、死なんて怖くないはずなのに……ってこと」
もちろんユエは、死を怖れない人なんていないという前提が当たり前だと思っていて、この矛盾をみんなはどう埋めているのか、それを聞いていた。
カイトは無意識なのか、本来は肌と鱗の境界であろう場所を探すように指でなぞりながら、ユエには思いつかない視点をくれる。
「死ぬのが怖いから、生まれ変わりや死後の世界を創造したんだ」
「そっか……怖いのが先なんだ」
「……そう思うと、死生観ってもんが、それぞれの種族の特徴を表していておもしろいな」
生まれ変わりや死後の世界を信じていないドワーフは、あっけらかんと豪気で、一期一会の出会いを大切にする。
ユエが語った人魚からは、人間への対抗心と、運命を信じるロマンチックさが伺える。
そして人間たちは、現世の行い如何によって、死後の世界や生まれ変わりに優劣をつけて、未知なる『死』というものに秩序を持たせようとしたのだろう。そこには、見えないモノをどうにか型にはめようとする、涙ぐましいほどの努力が見えてくる。
それを聞いたユエは「確かに」と納得した。
「あれだよね。ドワーフはもう、分かんないことは考えないって感じで、反対に人間は、考えすぎてこんがらがってる」
「ふ、そうだな。そして、考えすぎた最たるものが……『不老不死』の研究なんだろう」
ユエのざっくりとした評に、一瞬だけ口元を緩めてから、カイトは脈を確かめるようにユエの首に指を置く。すり、と撫でるとその指で、垂れてきた蒼い髪を後ろへと梳いた。
「ん、『不老不死』か……」
ユエはくすぐったそうに首をすくめて、『死』と正反対に位置する『永遠の生』というものを、初めて具体的に想像してみた。
その結果は、おそらく大多数が賛同する意見──「死ぬことも怖いけど、でも……死ねないことも怖いよ……」
素直なユエを、カイトはゆったりと抱き締める。
「……ああ。それは、怖ろしくてたまらないな」
二人は狭くて暗い布団の中で、『死』について語り合う。逃げずに真正面から対峙することで、恐怖に立ち向かえるはずだと、信じているかのように。
******
時折うとうととしながらも、どちらもあまり寝た気がしないで太陽を迎えたが、それでも横になったことで気を緩めることができたのか、カイトの不安定さは消えていた。
「……食事はちゃんと食べて。カイトが食事を抜いても、大司教様に心配かけるだけだからね」
ユエの余計なお世話にも、カイトは神妙に頷く。部屋を出る前に、互いを励ますように一度きつく抱き締め合ってから、扉を開けた。
昨日と同じように、二人で階段を下りる。一階下がったら、ユエは自分の部屋に戻り、カイトだけが先に──そのはずだったのだが、昨日と同じとはいかない理由が、ユエの部屋の扉にもたれて立っていた。
「アイビス……」
ユエが呼んだ名前の相手は、同じようにほとんど寝ていないような疲れた表情だったが、目だけが突き刺さるように鋭い。
そして怒りを抑えた声で、叱責した。
「不謹慎だと思わないのか?!」
その一言で、アイビスが何を非難しているのかは、すぐに知れる。教会という場所、そして大司教の病状を考えれば、二人が体を重ねたことが、アイビスには穢らわしいものとしか思えないのだ。
昨夜、ユエがカイトの部屋へと入り、そして今朝二人して出て来た──アイビスが知る事実はこれだけで、本当にこの一晩は何もなかったと言い切れるのだから、誤魔化そうと思えばできた。
しかしカイトは、ただ暗い瞳で見返しただけ。
そしてユエは──カイトより一歩前に出て、彼をその背に守るように、立ち塞がった。
「アイビス、それは言っちゃだめだ」
そんなユエの行動にカイトもアイビスも驚き、続いた言葉にカイトの瞳が揺らめく。
「カイトは誰よりも、大司教様のことを心配してる。でも……!でも、不謹慎だって分かってても……正しくなくても、ひとりじゃ耐えられない時だってあるよ」
昨夜のカイトが、共に夜を過ごすことに罪悪感を持っていたことを、ユエは知っている。それでも二人でいることを選んだのは、弱さではあるが、罪ではないと思うのだ。
カイトとのあの時間を、欲望にまみれたものではなく、もっと優しく慰め合う、愛に満ちたものとして見ているユエは、むしろ必要な時間だったとさえ感じている。
ユエに圧倒されたその時間は、カチャという小さな音で破られた。
「どうか、した……?」
部屋の中でも会話は聴こえていたのか、ラークはある程度の事情を把握した上で、あえて割り込んだらしい。
心配そうに目を瞬かせるラークに、全員の意識が逸れて、この会話はそれっきりになった。
「ユエ」
その二文字に全部の感情を乗せて、カイトは名前を呼んだ。そしてトンと頭を撫でて、一度も振り向かずに居住塔を降りていく。
残された三人は、言いたいことを飲み込んで、朝の準備に取り掛かる。
気まずいまま、日常へと戻っていった。
******
その日の夕刻──太陽が姿を隠し始めたころ、『青の教会』を「大司教、危篤」という報せが駆け抜けた。
魂の重みが消えていくように、体が軽くなっていたのだ。
七十歳を超えてからというもの、身体が万全の状態など一日たりともなかった。膝が痛い、腰が痛い、立ちくらみがする、歩くのが辛い──二十年、付き合ってきたものだ。
それがすっきりどこかへ行ってしまっている。
思えば、カイトを待つ時間が、精神的にも肉体的にももっとも辛い時間だった。格好をつけずにもっと早く再会を願い出ていればよかったという後悔と、彼が会いに来てくれなかったらどうしようか、という不安に苛まれていた。
しかしあの日──カイトとの再会を果たすことが叶うと、精神的に楽になったせいか、身体の調子も上向いてきて、この一週間は心から穏やかに過ごすことができた。
案外しぶとい自分を笑う余裕もあって、対岸から手招きする『死』を一時忘れたくらいだ。
これが死期を悟るということかと、アディーンは冷静に目を閉じる。
もしかしたら、必死になって探せば、命の炎を永らえさせる薪が見つかるかもしれない。しかしその薪は何かを犠牲にしなければならない気がして、アディーンは探すのをやめた。
今燃えている薪が最期──(もう少しだけ、待ってくださいね)と自分の体にお願いして、燃え尽きるまでの短い時間を無駄にしないために、アディーンはラフィールを呼んだ。
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「あの……」
この場にカイトではなく自分がいることに、ユエは戸惑いを隠せないで、寝台の横に所在なく立つ。
ユエに椅子を勧めながら、アディーンは愛弟子に感謝していた。図書館からユエ一人だけをここへ連れてきてほしい、そしてこのことを他の三人、特にカイトには悟られないように──という要求は、ラフィールをもってしても難題だったことだろう。
「あの……どうして俺を?」
「どうしても、ユエさんと二人だけで話がしたかったのです。……カイトは今、私があなたと一緒にいることを知りません。この時間のことを話すかどうかは、あなたにお任せします」
そんな前置きに、さらに戸惑いを強くしたユエに、アディーンはズバッと切り出した。
「カイトの過去を知りたいですか?」
昨日アイビスに問うた時より、直裁的に訊く。アディーンは少しの変化も見逃さないように、ユエの顔をじっと見つめていた。
ユエはきょとんと首を傾げて、反対に見透かすような瞳で見つめ返してきた。どちらが試されているのか分からない、無言の視線の交差の後、最初から返事は決まっていたように、ユエはさらっと口を開く。
「カイトのことなら、なんでも知りたいです。でも、カイトが話したくないことなら、知らなくてもいい」
もちろんアディーンは、すでにユエが同じ台詞をカイト本人に伝えていたことなど知らないから、この言い慣れた様子に違和感を覚える。
「それはつまり、カイトから話してくれるのを待つと?」
「はい」
「……今なら、カイトに知られることなく、彼の過去を手にすることができますよ?彼の過去でもあるし、私の過去でもあるのですから、私にも話をするかどうか選ぶ権利があると思うんです」
わざと好奇心を煽るように意地悪く訊いたアディーンに、ユエは「無理です」というおかしな返事をした。
「……無理、とは?」
「俺、そんなに器用じゃないから……カイトに隠しておけないです。絶対にすぐにばれちゃう。そうなったらカイトは……」
失望するだろう。
それは聞いたユエにも、話したアディーンにも、だ。そして失った信頼はもう戻らない。
アディーンとユエはその少しの沈黙の間に、互いがカイトに対して同じ認識を持っていることを確認した。
失望されることももちろん恐ろしいが、それより何より、カイトを傷つけることを、二人はもっとも恐れている。
「ふ、」とアディーンは息を吐いた。
最初から暴露などするつもりのなかったアディーンは、ユエの答えが予想──というよりも、そうであってほしいと願っていた──通りだったことで、安堵が心の中に広がっていく。
ユエの人柄と、彼がカイトへ向ける感情を見極めるには、それでも十分であったが、ユエはさらに理由をつけ足した。
「それに……他の人からカイトのことを聞くの、嫌なんです」
ユエは苦虫を噛み潰したような表情になって、ヘイレンの名を出した。
ヘイレンの口から、自分の知らないカイトが語られることがいかに苦痛だったか、ユエは少ない語彙で教えてくれる。
「聞いて嫌な気持ちになるなら、聞かない方がいい。その時の気持ちが残ったままで、ヘイレンのこと、今でもあんまり好きじゃないし……」
アディーンはその時のヘイレンをありありと思い浮かべることができて、「まったく……」と嘆息する。ヘイレンのことだ、ユエがそう感じることも、カイトが嫌がることも全部承知の上で、波乱を期待してのことだろう、と。
そういうところが、ヘイレンを心から信頼できない理由だった。
アディーンとヘイレンの関係は、いつも間にカイトがいた。
どちらも相手が、カイトの秘密を知っていることを察してはいるが、はっきりとそれを見せたことはない。
互いに監視し合って、カイトを守っているつもりという意味では、どこか同志のような存在ではあるが、アディーンとヘイレンではカイトに望むことが違い過ぎるため、根っこの部では分かり合えないのだ。
どちらも最後に望むのは、カイトの幸せ。
しかしアディーンが平穏で普通の幸せを願うのに対して、ヘイレンはカイトに試練を振りかけて愉しんでいるところがある。
わざと騒動に巻き込んだり、仲間たちを動揺させたり、思わせぶりなことを言ってみたり──。
それは二人の人生観の違いによるものだろうと、アディーンは分析している。
ヘイレンはおそらく、試練を乗り越えた先にこそ、幸せが待っているのだと考えているのだ。いや、──試練がなければ幸せもない、と捻れた思考になっているのかもしれない。
とにかく、アディーンとヘイレンはこれまで、カイトを間に挟んで付かず離れずやってきた訳だが、アディーンとしてはそんなヘイレンに、後のことを全て任せて安心して逝ける──とはとても思えなかった。
だからアディーンは、ユエを呼んだのだ。
お節介で無粋で未練がましくとも、カイトの隣に彼を想う存在がいることを確かめなければ、心配で心配で、魂を遺してしまいそうだったから。
アディーンは厳かに検める。
「ユエさん、あなたはカイトを愛しているのですね」
「愛……」
最終確認のつもりだったアディーンだが、二音を珍しいもののように舌で転がしたユエに、一瞬疑いが湧いたが、それは本当に一瞬のこと。
「うん、そう……『好き』だけじゃあ足りないと思ってた……」
ユエは自分自身に向かって呟いてから、パッと顔を上げて──「はい、愛してます。俺のこの気持ちは『愛』だったんですね」とはにかんだ。
そんないまいち決まらないユエだったが、自分で考えて、自分の言葉で返す誠実さがよく伝わってきた。
この時初めてアディーンは、カイトのことを抜きにして、ユエという一個人を好ましく思い──そしてついつい、余計な話が口から溢れていく。
「……私もね、とても愛した人がいたんです。……いえ、今も愛しています。結ばれることはなかったけれど、私が恋をしたのは、その人だけ──」
その人を想うアディーンの微笑みは、春の陽射しのようにポカポカと、澄んだ湖のようにキラキラと、咲いたばかりの花のようにフワッと、部屋を華やかに彩った。
過去の色あせた思い出としてではなく、目の前にその人がいるように、老司教の表情はいきいきとしている。
「初恋で、そして最後の恋。……教会のみんなは、私のことを滅私の人だと称えますが……違うのです。私がしてきたことはみな、自分のため。そして──彼のためです」
彼──大司教の想い人が男性だということを、ユエ以外が聞いたら大騒ぎだったことだろう。しかしカイトに恋するユエは、それをちっとも不思議に思わずに、ごく自然に受け入れた。
「彼に誇れる人間であろうと、彼が生きやすい世にしようと、せめて彼の一助になれれば、と──そんな動機から出発した教会でしたが、いつの間にか……私にとって彼と同じくらい大切なものになっていました」
アディーンは彼を愛したが、彼は応えてくれなかった。しかし結ばれなくても、アディーンの愛が消えることはなく、若くして独身を貫く決意に至ったのだ。
その決意は結果として、孤児たちを我が子のように育み、教会の発展に没頭することに繋がった。
肉親も伴侶もいなかったからこそ、全ての情熱を教会に注ぐことができ、その教会がアディーンにとっての家族となったのだと考えると、少し皮肉な巡り合わせではある。
だがアディーンは一片たりとも、自分の人生を犠牲にしたとは思っていない。
「もし今、もう一度選べるとしても、私は同じ道を辿ります」(例え──彼と結ばれる道があったとしても……)
ストンと、アディーンの心の中に言葉が落ちてきた。
決して天秤にかけることができない両者であっても、どうしても選ばなければならないのなら、アディーンは教会を選ぶ。彼と同じくらい大切なものができてしまった時点で、アディーンの役割は変わってしまったのだ。
そして気づく。ついついで始めたこの話題こそ、アディーンがユエに伝えたかったものだったのだと。
老人の恋話を真剣に聞いてくれたユエに、アディーンは最後に贈る言葉を考える。リイル・アディーンという男の最終幕に、どんな台詞が相応しいか──選んだのは、飾り気のない応援。
「……私は唯一無二の恋に、後悔はありません。ですからユエさん、あなたも後悔のないように──選択の時には、一番大切なものをひとつ、心の中心に置いて……」
アディーンは言葉を結ぶことなく、舞台から降りていく。それは完結ではなく、続きを予感させるもの──まるで劇をユエに引き継がせるように、アディーンはユエに後を託したのだ。
***
「葬儀には出なくてもいいです。喪に服すなんて、しないでください。旅を続けて……もっと先へ、あなたたちは向かってください」
死後を見据えたカイトへの託けを、アディーンは蛇足のように付け加えた。
******
アディーンとの秘密の会合があって、ユエの頭の中はそれ一色に染まっていた。
伝えそびれた「ありがとう」も、昨夜に決意した用意のアレコレもすっかり忘れて、何も持たずにカイトの部屋の前に立つ。
あの後ユエは図書館へ戻ったが、カイトはすでにそこを離れていて、まだ顔を合わせていない。アイビスとラークだけでなく、老司教二人にも気づかれるほどの心ここに在らずっぷりが、カイトに見抜かれないはずはないから、部屋へ踏み込むには心の準備が必要だ。
一度、二度と深呼吸をして、平静を装おうとしたところで、ユエはそれが無駄な努力だとはたと思い至る。なるようになれと開き直ると、ユエは扉に手をかけた。
「カイト……?」
しかしそんなユエの葛藤は、何の意味もなさなかった。
カイトがユエの違和感に気づく前に、ユエがカイトの異変に気づいて、頭の中が一気に心配に塗り替えられたのだ。
カイトは灯りもついていない部屋で、寝台に腰かけて俯いていた。ユエが目の前まで近づくと、土気色の顔だけが浮かび上がってくる。
隣に腰かけて、握り締められた拳に手を乗せる。
「カイト……?」
「今日は──」
言いかけて止めたカイトは、ユエの手を払いのけるような仕草をしてから、そんな自分に嫌悪を向けてため息を吐く。
そして懺悔のように「リイルが……」と零した。
「うん?」
「夕食をほとんど食べられなかった……外に連れ出して、無理をさせたせいだ」
ユエが部屋を出てから、カイトが夕食を届ける、そのわずかな時間に、アディーンの命はさらに翳っていた。
それを聞いたユエが思い出したのは、二つの表情──恋を語るいきいきとしたアディーンと、もう思い残すことはないとでも言うような、すっきりとした最後の笑み。
あれは別れの言葉だったのだ──浮かんできた言葉を、ユエは即座に否定しようとする。
信じたくない。勘違いだ。そんな訳ない。
認めてしまったら逃れられない気がして、現実から目を背けるように、ユエも一緒になって俯いた。
「……少しだけ食べて、また眠ってしまって……そばに付いていようと思ったが、ラフィールに追い出された。リイルからの言いつけらしい」
カイトが自分を責めていることはすぐに分かったが、ユエには通り一遍の慰めしか思い浮かばない。
もどかしげに何度か口を開いては、結局何も言えずに閉じて……ユエは言葉で伝えることを諦めた。
寝台に膝立ちになって、丸まった背中に手を当てる。そしてそっと抱きついて、つむじに唇を落とす。
カイトはしばらく無言でそれを受けたが、首にまわったユエの腕に触れた瞬間、何かを恐れるようにそれを引きはがす。
「今日は……自分の部屋に戻れ」
命令しながらも、カイトの手は縋るようにユエの腕から離れない。
ユエはどちらがカイトのためになるのか迷い──そのまま残ることを選択した。
昼間からのあまりの急降下ぶりに、彼の不安定さを見て、このままひとりにしておくことはできないと判断したのだ。
いつものカイトなら完璧に隠すであろう揺らぎを、ここまで露骨に見せていることが、カイトの心の叫びだとユエは受け取った。
「カイト、寝よう」
無理やり寝台に乗せようと、ユエは腕を引っ張った。
「ユエ」「部屋に戻ってほしいってことは、大司教様もカイトにちゃんと寝てほしいって思ってるってことだよ」
「……どうせ、眠れない」「眠れそうになくても、横になってたらそのうち眠くなるよ」
「無理だ……」聞いたことのない悲壮な声で、カイトは弱音を吐く。「もし……もし俺がぬくぬくと寝ている間に、リイルになにかあったら、俺は……後悔する」
カイトの怖れの正体が見えたユエは、一緒になって愕然とした。さっきまで当然のように待っていた睡眠が、濁流に呑まれてどこかへ行ってしまう。
「ほんとうだ……眠れる気がしない。ううん、寝るのが、怖い……」
カイトの方が辛いに決まってるんだから、俺がしっかりしなきゃ!とユエは思うのだが、溢れた本音はもう消せない。
カイトに共感したユエは、しかし同時に、アディーンの思いにも共鳴する。
代弁するなんておこがましいとも思うが、それでもこれは、自分が言うべきことだとユエは悟った。アディーンも自分と同じく、カイトを傷つけることなど望んでいない──それを今日確かめ合ったばかりの自分が、盲目になりかけているカイトに伝えるべきだと。
「でも……大司教様が、カイトを苦しめるためにここへ呼んだんじゃないってことだけは、確かだ。眠れないのはのはしょうがないけど、でも……こんな夜を、自分を罰するようにひとりで過ごさないくても、いい……と俺は思うよ」
カイトはその言葉にすがるように、ユエの腰に手を回した。
弱さや狡さがむき出しになったところを互いに守り合うように、自己嫌悪と恐怖に耐えるために、二人は身を寄せ合う。
一人では立ち向かえない嵐に、対峙するために。
******
頭からすっぽりふとんをかぶって、二人は横になった。まるで、幼い子どもたちが、怖いおとぎ話を聞かされた夜のように、柔らかな寝具で身を守る。
「……今まで数えきれないほどの『死』を見てきたのに、今回はまるで違う。感情が刻一刻と変わって……おかしな話だが、白から一気に黒に塗りつぶされるように、何もかもがいきなり反転する気がして……」
「うん、」
「昼間のリイルが楽しそうだったからこそ、なにか悪いことが起こるような……そんな漠然とした不安ばかりが先に立つ」
「うん」
途方に暮れて立ちすくむカイトに、せめて隣にいることを知らせるように、ユエは静かに相づちをうつ。
「頭では理解しているんだ。俺が一晩中起きていようが、なにか起きる時は、起きる。自己満足でそばにいても、かえってリイルの負担になるってことはな」
「うん……」
「それでも……いや、後悔したくないってのも、結局は自己満足、か……」
自嘲するカイトに、ユエは自然とアディーンの立場になって「大司教様は自己満足なんて思わないよ」と、握った手に力を込める。
おこがましいと思っていた代弁に、ユエはだんだんと自信を持ちつつあった。
ユエは今日の密会で、アディーンの恋愛話にとても惹き込まれ、勝手な同族意識を持ったからだ。恋愛に対する考え方や、何となく性格も似ている、と。
と、同時に、ユエは忘れていればよかった悩みまで一緒に思い出してしまう。
『この時間のことを話すかどうかは、あなたにお任せします』
契機を完全に逸してしまったが、今からでも話した方がいいのだろうか?……カイトも大司教様の恋愛話を聞いたことがあるんだろうか……?
ひとりで首をひねるユエに、いつもならすぐに気づくカイトだが、今日ばかりはそうはいかず、独白のように話を続けている。
「……俺は特に、信仰する神を持たない。だがそれでも、祈らないという訳ではない」
カイトらしくない、話の繋がりが見えない話題転換だったが、ユエは「うん」と促した。
いつもとは立場が逆転したように、思いつくまま話すカイトと、聞くユエ。
「人には誰しも、祈る相手がいる。しかし本来それは、人それぞれで、ひとりひとりバラバラなんだろう。だがその中で、やはり共通して思い浮かべるモノがあって、共通する人々が集まって……そうやって神は生まれるのかもしれない」
「……カイトはなにに祈るの?」
「俺は……かたちのないモノに」
禅問答のような答えだったが、今のユエには何となくは理解できた。
姿形や名前すらないもの──それは『運命』なのか『未来』なのか、『誰か』なのか。それに祈るのはきっと、願いを言葉にして『自分』に向けるためなのだ。
カイトは運命すら、自分の責として背負う。
きっとカイトは今、その『かたちないモノ』に向けて祈っている。願いが叶わなかったら、カイトは自分を責めるだけなのだろう。
多くの死を背負っているカイトが、さらにアディーンの死をその背に乗せて、躰を軋ませながら歩く姿を、ユエは想像してしまった。
ぶるっと身震いが起こり、見えもしない翳を払い落とすように、カイトの背中に手を回した。
「『死』ってなんだろう……」
カイトへの質問ではなく、それこそ『かたちないモノ』に祈るような気持ちで、ユエは言葉にした。
状況も台詞も、ベレン卿の館の寝台と似通っているが、あれから多くの感情を知り、多くの人と出会ったユエは、カイトに答えを求めるのではなく、己で考えるために紡いでいく。
「……人魚は生まれ変わりを信じてる。死んだ人の魂はみんな、海の波に揺られてあちら側へ行くんだ。人魚は泳いで行くから早く生まれ変わることができて、人間は船に乗るから遅い──なんて言われる」
「確か──」思わず、といった様子で口を挟んだカイトは、追憶の目のままユエの腰あたりを見る。
「確か人魚には、こんな伝説があったな……お互いに相手の鱗をもらって、それを握って逝けば、来世でまた巡り会うことができる──」
「そう……!カイト、よく知ってるね。もう今はあんまりしないけど、昔は夫婦の誓いとして、自分の鱗を装飾品に加工して交換したんだ」
ロマンチックな伝説に、華やいだ声を出したユエだったが、すぐに我に返って声調を落とす。
「……なにが言いたいかって、つまり、生まれ変わりを信じてるなら、死なんて怖くないはずなのに……ってこと」
もちろんユエは、死を怖れない人なんていないという前提が当たり前だと思っていて、この矛盾をみんなはどう埋めているのか、それを聞いていた。
カイトは無意識なのか、本来は肌と鱗の境界であろう場所を探すように指でなぞりながら、ユエには思いつかない視点をくれる。
「死ぬのが怖いから、生まれ変わりや死後の世界を創造したんだ」
「そっか……怖いのが先なんだ」
「……そう思うと、死生観ってもんが、それぞれの種族の特徴を表していておもしろいな」
生まれ変わりや死後の世界を信じていないドワーフは、あっけらかんと豪気で、一期一会の出会いを大切にする。
ユエが語った人魚からは、人間への対抗心と、運命を信じるロマンチックさが伺える。
そして人間たちは、現世の行い如何によって、死後の世界や生まれ変わりに優劣をつけて、未知なる『死』というものに秩序を持たせようとしたのだろう。そこには、見えないモノをどうにか型にはめようとする、涙ぐましいほどの努力が見えてくる。
それを聞いたユエは「確かに」と納得した。
「あれだよね。ドワーフはもう、分かんないことは考えないって感じで、反対に人間は、考えすぎてこんがらがってる」
「ふ、そうだな。そして、考えすぎた最たるものが……『不老不死』の研究なんだろう」
ユエのざっくりとした評に、一瞬だけ口元を緩めてから、カイトは脈を確かめるようにユエの首に指を置く。すり、と撫でるとその指で、垂れてきた蒼い髪を後ろへと梳いた。
「ん、『不老不死』か……」
ユエはくすぐったそうに首をすくめて、『死』と正反対に位置する『永遠の生』というものを、初めて具体的に想像してみた。
その結果は、おそらく大多数が賛同する意見──「死ぬことも怖いけど、でも……死ねないことも怖いよ……」
素直なユエを、カイトはゆったりと抱き締める。
「……ああ。それは、怖ろしくてたまらないな」
二人は狭くて暗い布団の中で、『死』について語り合う。逃げずに真正面から対峙することで、恐怖に立ち向かえるはずだと、信じているかのように。
******
時折うとうととしながらも、どちらもあまり寝た気がしないで太陽を迎えたが、それでも横になったことで気を緩めることができたのか、カイトの不安定さは消えていた。
「……食事はちゃんと食べて。カイトが食事を抜いても、大司教様に心配かけるだけだからね」
ユエの余計なお世話にも、カイトは神妙に頷く。部屋を出る前に、互いを励ますように一度きつく抱き締め合ってから、扉を開けた。
昨日と同じように、二人で階段を下りる。一階下がったら、ユエは自分の部屋に戻り、カイトだけが先に──そのはずだったのだが、昨日と同じとはいかない理由が、ユエの部屋の扉にもたれて立っていた。
「アイビス……」
ユエが呼んだ名前の相手は、同じようにほとんど寝ていないような疲れた表情だったが、目だけが突き刺さるように鋭い。
そして怒りを抑えた声で、叱責した。
「不謹慎だと思わないのか?!」
その一言で、アイビスが何を非難しているのかは、すぐに知れる。教会という場所、そして大司教の病状を考えれば、二人が体を重ねたことが、アイビスには穢らわしいものとしか思えないのだ。
昨夜、ユエがカイトの部屋へと入り、そして今朝二人して出て来た──アイビスが知る事実はこれだけで、本当にこの一晩は何もなかったと言い切れるのだから、誤魔化そうと思えばできた。
しかしカイトは、ただ暗い瞳で見返しただけ。
そしてユエは──カイトより一歩前に出て、彼をその背に守るように、立ち塞がった。
「アイビス、それは言っちゃだめだ」
そんなユエの行動にカイトもアイビスも驚き、続いた言葉にカイトの瞳が揺らめく。
「カイトは誰よりも、大司教様のことを心配してる。でも……!でも、不謹慎だって分かってても……正しくなくても、ひとりじゃ耐えられない時だってあるよ」
昨夜のカイトが、共に夜を過ごすことに罪悪感を持っていたことを、ユエは知っている。それでも二人でいることを選んだのは、弱さではあるが、罪ではないと思うのだ。
カイトとのあの時間を、欲望にまみれたものではなく、もっと優しく慰め合う、愛に満ちたものとして見ているユエは、むしろ必要な時間だったとさえ感じている。
ユエに圧倒されたその時間は、カチャという小さな音で破られた。
「どうか、した……?」
部屋の中でも会話は聴こえていたのか、ラークはある程度の事情を把握した上で、あえて割り込んだらしい。
心配そうに目を瞬かせるラークに、全員の意識が逸れて、この会話はそれっきりになった。
「ユエ」
その二文字に全部の感情を乗せて、カイトは名前を呼んだ。そしてトンと頭を撫でて、一度も振り向かずに居住塔を降りていく。
残された三人は、言いたいことを飲み込んで、朝の準備に取り掛かる。
気まずいまま、日常へと戻っていった。
******
その日の夕刻──太陽が姿を隠し始めたころ、『青の教会』を「大司教、危篤」という報せが駆け抜けた。
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