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第三章 交点に降るは紅の雨
35 反撃 ※残酷な描写あり
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剣を振るいながら、ユエはこの状況でも、不思議と頭が冷えていた。
******
男たちと医者のやり取りや、クレインとの会話は、ユエにはよく分からないことが多かった。
そのため彼にとっては、話よりも、自分がやるべきことに集中できたのだ。
(まずは腕が自由にならないと……!いや、その前に、剣を取って、それで紐を切ればいい!手は……なんとか足首に届く!)
クレインが注意を引きつけてくれている間に、後ろ手にゴソゴソと、足首のドワーフの剣をすぐに取り出せるように準備をしていた。
そして、クレインとの特訓を思い出す。
(狙うのは、足、手、首、頭……相手が驚いている間に、素早く、手際よく……!)
ユエが落ち着いていられたのは、クレインのおかげというのが大きい。
静かに獲物を待ち、隙を伺って、一瞬で狩る──道中の狩りではいつもそうして、目で会話をしていたのだ。
この状況でも、意思疎通はできていた。
そして──ここにはいない、カイトの存在。
ユエは信じていた。いや、分かっていた。彼が来てくれることを。
(カイトが来てくれるまで、二人で頑張ればいい)
どこかユエには、そんな余裕さえあった。
そうして、その時に備えていた。
******
(血って、熱いんだな……)
「ぎゃっ!!」「ぐあ……!」「がっはぁ……!!」
(足、手、首、頭……)
呪文のように頭の中でそう唱えながら、ユエは剣を振り下ろす。
手には肉を断つ感触と、刃が骨に当たる感触がした。
一振りするごとに、紅く熱い液体が飛ぶ。目に入りそうになるそれを、だがユエは一瞬の隙も作らないように、瞑ることもしない。
誰かが倒れ、誰かが蹲る。
扉に向かって進むごとに、髪が大きく揺れて、視界が狭まる。
(っ、邪魔!!)
無意識に手で払い、青い視界を赤に戻す。
「ユエ……っ!」
クレインの声だけを目指して、腕を振りながら歩を進める。
ガチャッ!
扉に鍵はかかっていなかった。
誰を斬ったのか、部屋の中はどうなっているのか、確認しないまま部屋を飛び出す。
「っ、ラークを、見つけないと!!」
クレインの言葉に頷いて、薄暗い廊下を駆けた。
部屋の外は静まり返り、この騒ぎを聞きつけて、誰かが来る様子はなかった。
それにひとまず息をつき、とにかく片っ端から扉を開けていく。
はぁはぁ……!
荒い息の二人は、この建物中に充満する、焦げ臭い嫌な臭いを感じ取っていた。
背後を気にしながら、ユエがある扉を開け放った時──「え……?」異様な臭いと、そして気配──。
知った顔と、目が合った気がした──ユエはふら……と部屋へと足を踏み入れる。
「ユエ?!いたか?」
クレインもやって来て、中を覗き込む。
部屋の中央で足を止めたユエの隣に並ぶ。
その部屋には、大きな酒樽が十ほど並んでいる。
全て蓋は開いていて、液体で満たされている。むせ返るような、血の匂い。
その一つから、顔が、覗いている。
「……ぁ、あ…………」
近づいて上から、目を合わせた。その、虚ろな目──光をもう映さない、濁った虹彩。
彼だ。
この一週間探し回った、似顔絵の彼。
樽の中の液体の中に、彼の頭だけが浮かんでいる。
「な、に……これ……」
クレインもそれ以上の言葉を持たなかった。
血を薄めたような液体が、全ての樽を満たしている。その中に頭部だけではない、奇怪な物体が浮かんだり沈んだりしていた。
死──
この光景を言い表す言葉は、それだけだった。
******
「っ見つけたぞ……!この野郎!!」
パッと、二人は剣を構え直した。
その部屋の光景に目を奪われている間に、奴隷商人の一人──クレインに執着するあの男──と医者が、入り口に立っていた。
(っまずい……!出入り口を塞がれた……)
クレインは己の迂闊さにほぞを噛む。
獲物だと侮っていたクレインに手を噛まれたような気分の男は、完全に激昂している。いたぶる余裕もなくし、斬りつけられた足を引きずりながら、唾を飛ばす。
「つけ上がりやがって……!!許さねぇぞ!!大人しくしてりゃあ、バラしたりしないで、俺が飼ってやってもよかったのによぉ!!決めたぜ……!犯しまくってから、命乞いさせて、それから殺してやる!!」
大振りの剣を突き出して、クレインに迫る。
後退ったクレインに対して、一歩進み出たのは、ユエ。
「……どうして?」
「ああ?!なん──」
「どうして?!」
クレインを、そして彼を背で庇って、声を振り絞る。
「どうしてこんなことができるんだ?!」
ユエは囚われてから、もちろん、恐怖を感じていたし、不安でいっぱいだった。
クレインの冷静さのおかげで、取り乱すことはなかったが、お守りのようにドワーフの剣を握り締めた掌は、汗が滲んでいた。
だが今、その全てを上回るほどの──強い感情が込み上げている。
(なんだ、これ……体が、震える……!)
だがその震えは、恐怖ではない。
「どうして……!この人が、こんな目に合わないといけない……?!どうして、こんなことをしておいて、平気でいられるんだっ?!」
震えていた声が、だんだんと鋭く尖っていく。言葉を刃に、奴らを斬りつけるように──。
「どうしてクレインが……俺たちが!こんな扱いをされなきゃいけない?!どうしてお前は!クレインのことを好きにできると思ってるんだ?!」
これまで大人しかったユエの豹変に、敵は圧倒されている。
クレインも、初めて見る仲間の姿に、ただ見入っていた。
「お前たちが悪いのに……!反撃されて、どうしてお前が怒るんだ……!!──怒りたいのは、俺たちだ!!」
(ああ……俺、怒ってるんだ……)
考えるより先に言葉が出てきて、そこで初めて、ユエは自分の感情を自覚した。
剣を振るう前──クレインと目を合わせ頷き合ったあの時も、ユエは今と同じ感情を抱いていた。
男たちの勝手な言葉に、クレインを蔑むような態度に、自分たちを軽く扱う傲慢さに。
頭がすぅーっと、冷たくなって、妙に物事がはっきり見えるような──
だがその時は、それが『怒り』の感情だと、ユエは気づいていなかった。
今やっと、掴んだ。
掴んで、ぶつける。
「どうして!!!」
ビリ……ッ!
ユエの剣幕に呼応するように、樽を満たす液体が揺れた。
それは偶然なのか、ユエの気迫が空気を震わせたのか、それとも──彼の命の残り火なのか──。
ぐら……と樽が傾き、液体と共に、ゴロン……!
「ひっ、ひぃ……っ」
転げ出た頭部は、扉の方へと転がり──腰を抜かした医者の前で、目を合わせるようにして止まった。
「ひっ!ひっ……!しょ、しょうがなかったんだ!!わ、私はただ娘のために……む、娘が助かるからと……!私は悪くない!!ひぃ、ひっ……だ、だから!!」
医者は矜持をかなぐり捨てて、床に這い蹲り、頭を抱える。
「だから……そんな目で見るなぁぁぁ!!!」
それでもまだ、自分の犯した罪と向き合えない医者に、ユエもクレインも、言葉すら与える気はなかった。
******
ダンッ!!
バキッ!!
ガタガタッ!!!
何かを破壊する音と、数人の足音、そして名前を呼ぶ声──「クレイン!!」
「っここだ!!」
奴隷商人の男は反射的に剣を構えたが、ピクリとも動く前に、ガンッ!!横腹を蹴られて、クレインの視界から消えていった。
蹲ってまだ言い訳を続ける医者も、同じ脚に蹴り飛ばされ、入り口を塞いでいたモノはなくなった。
「っクレイン!!」
部屋へと飛び込んで来た、ジェイが見たものは────赤、赤、紅、赤、紅……。
一面の赤──。
その海に、二人は佇んでいた。
クレインもユエも、血で真っ赤に染まっている。
クレインの血塗れのその姿は、ジェイの忌まわしい記憶を呼び起こしていく。
(血、が……クレインの、血……)
刃が肉を貫く感触。
噴き出す、熱い血。
広がる赤。
冷たくなっていく、からだ──。
あれほど心を砕き、無事を祈り、己の腕でその体温を確かめたいと求めていたはずなのに、ジェイはクレインに駆け寄ることができない。
「三人とも、無事か?」
そのジェイの隣から、カイトが顔を覗かせる。
その顔を見た瞬間──
「カイトっ!!」
一直線にカイトの腕の中に飛び込んだ、華奢な肢体──。
手が赤くなるほど握り締めていたドワーフの剣が、カラン、と軽い音を立てて、床に転がる。
受け止めたカイトは少し動揺する。
そんな彼の珍しい様は、ユエの行動に目を奪われていた周囲に、気づかれることはなかったのだが。
ユエはがっしりとカイトの背中に手を回し、その肩は見るだけで分かるほど震えている。
それは先ほどまでの、怒りをたたえたあの姿と同一人物とは思えない。
あの姿を見ていたクレインは、自分が気圧されるほどだったさっきとの変わり身に、一瞬場違いにも、きょとんとしたほどだ。
ユエのその震えを宥めるように肩をさすりながら、カイトは部屋を確かめる。
「ラークは……」
「っ、ラーク!一緒じゃなかったんだ!どこか別の部屋に……!!」
クレインの言葉に、部屋の外にいたヘロンとフェザントが反応して、ダッと駆け出す。
それを見送って、カイトは「二人とも、けがは?」
「……だぃ、じょうぶ、これ、ほとんど返り血だから……」
クレインの言葉にやっと、ジェイは息をすることを思い出す。
だがそれでもジェイは、足が床に貼りついたようにその場から動けない。
ユエとカイト、クレインとジェイ、その二組は、実に対照的だった。
カイトの前では、弱さを見せられるユエ。
ジェイがいると、余計に気を張ってしまうクレイン。
ユエの弱さを受け止めることができるカイト。
クレインの強さを、真正面から受け入れられないジェイ。
ジェイがこの状況に、感じなくてもいい責任を背負っていることが分かるクレインは、ユエのように自分からジェイに縋ることはできなかった。
お互いを思い合っているのに──いや、だからこそ二人は、今の関係から進めないでいた。
クレインとジェイのそんな様子に気がついているのは、カイトだけだ。
だが、彼は何も言うことはなかった。
ユエを腕に抱いたまま、カイトは部屋の中へと足を踏み入れた。
その後ろに続いたアイビスは、「うっ……」目に入るその異様な光景に、言葉をなくす。
「……っ!」
カイトの胸に顔を埋めたまま、ユエは脳裏に焼きついた彼を思い、涙が零れていく。
カイトの腕の中で、泣くことを思い出したように──。
******
「クレイン!ユエ!!」
それほど時間がかからずに、ヘロンとフェザントに、ラークが救出された。
「「ラーク!!」」
全員の無事が確認されて、ひとまず一行は胸を撫で下ろした。
「よか、た……はぁはぁ……」
フェザントの背中から二人の姿を捉えて、ラークは安心したように目を閉じた。
縛られた紐を切ろうとしたのか、その腕には大きな擦り傷があり、頰も床で擦ったのか、血が滲んでいる。
「ラーク……!?」
気を失ってしまったラークを見て慌てる二人に、
「酸欠だろう。ラークがずっと笛を吹き続けてくれたから、最短でここに辿り着くことができた。──お手柄だな」
カイトは褒めるようにその頭を撫でた。
ラークは別の部屋で縛られ、一人で放置されていた。
それはギルドの医者が「子どもは傷つけないでくれ」「子どもに残酷なところは見せないでくれ」と、奴隷商人たちに頼んだからなのだが──それを『優しさ』と呼ぶ者は、ここにはいない。
意識を取り戻したその時は、混乱し取り乱したのだが、それも一瞬のこと。
耳のいいラークは、建物内での会話を漏れ聞いて、状況をいち早く把握し、そして自分ができる精一杯をやったのだ。
******
そこでやっと、ベレン領の衛兵が追いついたようで、ガヤガヤと建物内が騒がしくなる。
床に転がったままになっていた彼の頭に、アイビスが静かに己の上着をかけ、衛兵に知らせる。
そして衛兵たちが医者と奴隷商人たちを拘束していく様子を見て、これでこの陰惨な事件が解決に向かうだろうと、誰しもが感じていた。
全ての謎が明らかになるだろう、と。
──一行は予想だにしていなかった。この事件が、さらに謎を呼ぶことを。
この出来事は、ただの序章に過ぎないことを。
******
男たちと医者のやり取りや、クレインとの会話は、ユエにはよく分からないことが多かった。
そのため彼にとっては、話よりも、自分がやるべきことに集中できたのだ。
(まずは腕が自由にならないと……!いや、その前に、剣を取って、それで紐を切ればいい!手は……なんとか足首に届く!)
クレインが注意を引きつけてくれている間に、後ろ手にゴソゴソと、足首のドワーフの剣をすぐに取り出せるように準備をしていた。
そして、クレインとの特訓を思い出す。
(狙うのは、足、手、首、頭……相手が驚いている間に、素早く、手際よく……!)
ユエが落ち着いていられたのは、クレインのおかげというのが大きい。
静かに獲物を待ち、隙を伺って、一瞬で狩る──道中の狩りではいつもそうして、目で会話をしていたのだ。
この状況でも、意思疎通はできていた。
そして──ここにはいない、カイトの存在。
ユエは信じていた。いや、分かっていた。彼が来てくれることを。
(カイトが来てくれるまで、二人で頑張ればいい)
どこかユエには、そんな余裕さえあった。
そうして、その時に備えていた。
******
(血って、熱いんだな……)
「ぎゃっ!!」「ぐあ……!」「がっはぁ……!!」
(足、手、首、頭……)
呪文のように頭の中でそう唱えながら、ユエは剣を振り下ろす。
手には肉を断つ感触と、刃が骨に当たる感触がした。
一振りするごとに、紅く熱い液体が飛ぶ。目に入りそうになるそれを、だがユエは一瞬の隙も作らないように、瞑ることもしない。
誰かが倒れ、誰かが蹲る。
扉に向かって進むごとに、髪が大きく揺れて、視界が狭まる。
(っ、邪魔!!)
無意識に手で払い、青い視界を赤に戻す。
「ユエ……っ!」
クレインの声だけを目指して、腕を振りながら歩を進める。
ガチャッ!
扉に鍵はかかっていなかった。
誰を斬ったのか、部屋の中はどうなっているのか、確認しないまま部屋を飛び出す。
「っ、ラークを、見つけないと!!」
クレインの言葉に頷いて、薄暗い廊下を駆けた。
部屋の外は静まり返り、この騒ぎを聞きつけて、誰かが来る様子はなかった。
それにひとまず息をつき、とにかく片っ端から扉を開けていく。
はぁはぁ……!
荒い息の二人は、この建物中に充満する、焦げ臭い嫌な臭いを感じ取っていた。
背後を気にしながら、ユエがある扉を開け放った時──「え……?」異様な臭いと、そして気配──。
知った顔と、目が合った気がした──ユエはふら……と部屋へと足を踏み入れる。
「ユエ?!いたか?」
クレインもやって来て、中を覗き込む。
部屋の中央で足を止めたユエの隣に並ぶ。
その部屋には、大きな酒樽が十ほど並んでいる。
全て蓋は開いていて、液体で満たされている。むせ返るような、血の匂い。
その一つから、顔が、覗いている。
「……ぁ、あ…………」
近づいて上から、目を合わせた。その、虚ろな目──光をもう映さない、濁った虹彩。
彼だ。
この一週間探し回った、似顔絵の彼。
樽の中の液体の中に、彼の頭だけが浮かんでいる。
「な、に……これ……」
クレインもそれ以上の言葉を持たなかった。
血を薄めたような液体が、全ての樽を満たしている。その中に頭部だけではない、奇怪な物体が浮かんだり沈んだりしていた。
死──
この光景を言い表す言葉は、それだけだった。
******
「っ見つけたぞ……!この野郎!!」
パッと、二人は剣を構え直した。
その部屋の光景に目を奪われている間に、奴隷商人の一人──クレインに執着するあの男──と医者が、入り口に立っていた。
(っまずい……!出入り口を塞がれた……)
クレインは己の迂闊さにほぞを噛む。
獲物だと侮っていたクレインに手を噛まれたような気分の男は、完全に激昂している。いたぶる余裕もなくし、斬りつけられた足を引きずりながら、唾を飛ばす。
「つけ上がりやがって……!!許さねぇぞ!!大人しくしてりゃあ、バラしたりしないで、俺が飼ってやってもよかったのによぉ!!決めたぜ……!犯しまくってから、命乞いさせて、それから殺してやる!!」
大振りの剣を突き出して、クレインに迫る。
後退ったクレインに対して、一歩進み出たのは、ユエ。
「……どうして?」
「ああ?!なん──」
「どうして?!」
クレインを、そして彼を背で庇って、声を振り絞る。
「どうしてこんなことができるんだ?!」
ユエは囚われてから、もちろん、恐怖を感じていたし、不安でいっぱいだった。
クレインの冷静さのおかげで、取り乱すことはなかったが、お守りのようにドワーフの剣を握り締めた掌は、汗が滲んでいた。
だが今、その全てを上回るほどの──強い感情が込み上げている。
(なんだ、これ……体が、震える……!)
だがその震えは、恐怖ではない。
「どうして……!この人が、こんな目に合わないといけない……?!どうして、こんなことをしておいて、平気でいられるんだっ?!」
震えていた声が、だんだんと鋭く尖っていく。言葉を刃に、奴らを斬りつけるように──。
「どうしてクレインが……俺たちが!こんな扱いをされなきゃいけない?!どうしてお前は!クレインのことを好きにできると思ってるんだ?!」
これまで大人しかったユエの豹変に、敵は圧倒されている。
クレインも、初めて見る仲間の姿に、ただ見入っていた。
「お前たちが悪いのに……!反撃されて、どうしてお前が怒るんだ……!!──怒りたいのは、俺たちだ!!」
(ああ……俺、怒ってるんだ……)
考えるより先に言葉が出てきて、そこで初めて、ユエは自分の感情を自覚した。
剣を振るう前──クレインと目を合わせ頷き合ったあの時も、ユエは今と同じ感情を抱いていた。
男たちの勝手な言葉に、クレインを蔑むような態度に、自分たちを軽く扱う傲慢さに。
頭がすぅーっと、冷たくなって、妙に物事がはっきり見えるような──
だがその時は、それが『怒り』の感情だと、ユエは気づいていなかった。
今やっと、掴んだ。
掴んで、ぶつける。
「どうして!!!」
ビリ……ッ!
ユエの剣幕に呼応するように、樽を満たす液体が揺れた。
それは偶然なのか、ユエの気迫が空気を震わせたのか、それとも──彼の命の残り火なのか──。
ぐら……と樽が傾き、液体と共に、ゴロン……!
「ひっ、ひぃ……っ」
転げ出た頭部は、扉の方へと転がり──腰を抜かした医者の前で、目を合わせるようにして止まった。
「ひっ!ひっ……!しょ、しょうがなかったんだ!!わ、私はただ娘のために……む、娘が助かるからと……!私は悪くない!!ひぃ、ひっ……だ、だから!!」
医者は矜持をかなぐり捨てて、床に這い蹲り、頭を抱える。
「だから……そんな目で見るなぁぁぁ!!!」
それでもまだ、自分の犯した罪と向き合えない医者に、ユエもクレインも、言葉すら与える気はなかった。
******
ダンッ!!
バキッ!!
ガタガタッ!!!
何かを破壊する音と、数人の足音、そして名前を呼ぶ声──「クレイン!!」
「っここだ!!」
奴隷商人の男は反射的に剣を構えたが、ピクリとも動く前に、ガンッ!!横腹を蹴られて、クレインの視界から消えていった。
蹲ってまだ言い訳を続ける医者も、同じ脚に蹴り飛ばされ、入り口を塞いでいたモノはなくなった。
「っクレイン!!」
部屋へと飛び込んで来た、ジェイが見たものは────赤、赤、紅、赤、紅……。
一面の赤──。
その海に、二人は佇んでいた。
クレインもユエも、血で真っ赤に染まっている。
クレインの血塗れのその姿は、ジェイの忌まわしい記憶を呼び起こしていく。
(血、が……クレインの、血……)
刃が肉を貫く感触。
噴き出す、熱い血。
広がる赤。
冷たくなっていく、からだ──。
あれほど心を砕き、無事を祈り、己の腕でその体温を確かめたいと求めていたはずなのに、ジェイはクレインに駆け寄ることができない。
「三人とも、無事か?」
そのジェイの隣から、カイトが顔を覗かせる。
その顔を見た瞬間──
「カイトっ!!」
一直線にカイトの腕の中に飛び込んだ、華奢な肢体──。
手が赤くなるほど握り締めていたドワーフの剣が、カラン、と軽い音を立てて、床に転がる。
受け止めたカイトは少し動揺する。
そんな彼の珍しい様は、ユエの行動に目を奪われていた周囲に、気づかれることはなかったのだが。
ユエはがっしりとカイトの背中に手を回し、その肩は見るだけで分かるほど震えている。
それは先ほどまでの、怒りをたたえたあの姿と同一人物とは思えない。
あの姿を見ていたクレインは、自分が気圧されるほどだったさっきとの変わり身に、一瞬場違いにも、きょとんとしたほどだ。
ユエのその震えを宥めるように肩をさすりながら、カイトは部屋を確かめる。
「ラークは……」
「っ、ラーク!一緒じゃなかったんだ!どこか別の部屋に……!!」
クレインの言葉に、部屋の外にいたヘロンとフェザントが反応して、ダッと駆け出す。
それを見送って、カイトは「二人とも、けがは?」
「……だぃ、じょうぶ、これ、ほとんど返り血だから……」
クレインの言葉にやっと、ジェイは息をすることを思い出す。
だがそれでもジェイは、足が床に貼りついたようにその場から動けない。
ユエとカイト、クレインとジェイ、その二組は、実に対照的だった。
カイトの前では、弱さを見せられるユエ。
ジェイがいると、余計に気を張ってしまうクレイン。
ユエの弱さを受け止めることができるカイト。
クレインの強さを、真正面から受け入れられないジェイ。
ジェイがこの状況に、感じなくてもいい責任を背負っていることが分かるクレインは、ユエのように自分からジェイに縋ることはできなかった。
お互いを思い合っているのに──いや、だからこそ二人は、今の関係から進めないでいた。
クレインとジェイのそんな様子に気がついているのは、カイトだけだ。
だが、彼は何も言うことはなかった。
ユエを腕に抱いたまま、カイトは部屋の中へと足を踏み入れた。
その後ろに続いたアイビスは、「うっ……」目に入るその異様な光景に、言葉をなくす。
「……っ!」
カイトの胸に顔を埋めたまま、ユエは脳裏に焼きついた彼を思い、涙が零れていく。
カイトの腕の中で、泣くことを思い出したように──。
******
「クレイン!ユエ!!」
それほど時間がかからずに、ヘロンとフェザントに、ラークが救出された。
「「ラーク!!」」
全員の無事が確認されて、ひとまず一行は胸を撫で下ろした。
「よか、た……はぁはぁ……」
フェザントの背中から二人の姿を捉えて、ラークは安心したように目を閉じた。
縛られた紐を切ろうとしたのか、その腕には大きな擦り傷があり、頰も床で擦ったのか、血が滲んでいる。
「ラーク……!?」
気を失ってしまったラークを見て慌てる二人に、
「酸欠だろう。ラークがずっと笛を吹き続けてくれたから、最短でここに辿り着くことができた。──お手柄だな」
カイトは褒めるようにその頭を撫でた。
ラークは別の部屋で縛られ、一人で放置されていた。
それはギルドの医者が「子どもは傷つけないでくれ」「子どもに残酷なところは見せないでくれ」と、奴隷商人たちに頼んだからなのだが──それを『優しさ』と呼ぶ者は、ここにはいない。
意識を取り戻したその時は、混乱し取り乱したのだが、それも一瞬のこと。
耳のいいラークは、建物内での会話を漏れ聞いて、状況をいち早く把握し、そして自分ができる精一杯をやったのだ。
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そこでやっと、ベレン領の衛兵が追いついたようで、ガヤガヤと建物内が騒がしくなる。
床に転がったままになっていた彼の頭に、アイビスが静かに己の上着をかけ、衛兵に知らせる。
そして衛兵たちが医者と奴隷商人たちを拘束していく様子を見て、これでこの陰惨な事件が解決に向かうだろうと、誰しもが感じていた。
全ての謎が明らかになるだろう、と。
──一行は予想だにしていなかった。この事件が、さらに謎を呼ぶことを。
この出来事は、ただの序章に過ぎないことを。
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五感も研ぎ澄まされている。
大和とは、一昔前にとある事件を
きっかけに親しくなる。
閻魔から神格を授けられたため、
この世以外からの干渉を受け易い。
大和に護られる事もある。
大和は、自分にとってかけがえの無い存在だと自覚している。
・春日 大和
年齢は、20代半ば
身長:174cm
体重:67kg
奈良の守護職。由緒正しい所の出らしいが、本人は全くそういった事に無関心。三大守護職の内の1人。
性格は、温厚で慈愛に満ちている。
お人好しで、頼られると嫌とは言えない性格。
自分の能力は、人にしか使えず
自分のためには使えない。
少なからず、蛍とは、過去に因縁が、あったらしい。
今では、慕っている。
イケメンモデルと新人マネージャーが結ばれるまでの話
タタミ
BL
新坂真澄…27歳。トップモデル。端正な顔立ちと抜群のスタイルでブレイク中。瀬戸のことが好きだが、隠している。
瀬戸幸人…24歳。マネージャー。最近新坂の担当になった社会人2年目。新坂に仲良くしてもらって懐いているが、好意には気付いていない。
笹川尚也…27歳。チーフマネージャー。新坂とは学生時代からの友人関係。新坂のことは大抵なんでも分かる。
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
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