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篠崎さんのお仕事
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目が覚めたとき、目の前に白いシーツが広がっていて、掛け布団が肩までかけられていた。
遠い窓にかかったカーテンの隙間からは、日の光がちらちらと射し込んでいる。
「しのさきさん?」
声が変なふうに掠れている。
体を起こした瞬間、お尻にずきんと痛みが走って反射的に体を浮かせた。
2人で寝ても広すぎるベッドに、いつもとなりにいる篠崎さんの姿がない。
「篠崎さん?」
ベッドから飛び降りて寝室を出る。
廊下の電気はついていなかったが、リビングのほうから明かりが漏れている。
扉を開いた僕に、キッチンから「おはよう~」と篠崎さんの声が耳に届く。
僕はキッチンへ駆けて行って、冷蔵庫の前に立つ篠崎さんの胸に抱きついた。
「わっ。ユウくん……どうしたの?」
正直に答えるなら、起きて篠崎さんの姿が見えず不安になった、だ。
けれど、そんなこと言えない。
自分がどうしてこんな気持ちになったのかもわからない。
そんな僕の心の中のもやもやを全て了承したように篠崎さんは頷いて「初めてのお仕置きだったもんね」と、僕の背中を撫でた。
撫でられているうちに段々と気恥ずかしくなってきて、自分から腕をほどき「ヒロさんは……?」とふった。
「ヒロなら今朝早く帰ったよ。昨日は急にお邪魔してごめんねって」
「そう、ですか……」
篠崎さんは僕の顔を覗き込むようにして「ヒロと話したいことでもあった?」と、目を細めた。
咄嗟に否定しないといけないような雰囲気を感じとって首をふる。
篠崎さんは僕とヒロさんが話すことすら許してはくれないのか。
ヒロさんは僕の知らない仕事中の篠崎さんのことを知っているのだろうけど。
あの部屋にあったたくさんの道具を、篠崎さんがどう使うのかも。
でも「よし、じゃあ、朝ごはんにしよっか」と、篠崎さんはいつものように優しく微笑んだので、僕は余計なことは胸のうちにしまって頷いた。
それからも篠崎さんは変わらずときどき意地悪になり、たまに少しだけ怖い目で僕を脅しつつ「ユウくん、ユウくん」と、大抵はめちゃくちゃに甘やかしてくれた。
本名が悠馬という名前だと教えたのだが、ユウくんのほうが慣れてるからと付き合い始めて半年が経っても呼び方は変わらなかった。
僕としても篠崎さんの下の名前を聞いても、変わらず篠崎さんと呼び続けていたが。
ただ仕事関係の人には全員に「シノサキ」で通っているため、付き合いの長いヒロさんでも篠崎さんの下の名前は知らないという話を聞いたときは、誰もが知らないことを知っているという事実がただ嬉しかった。
「ユウくん、ほんっとうにごめん」
日曜日の夜、いつものように篠崎さんのマンションでお風呂まで終えた後、ベッドの上で待っていた僕の元へ、篠崎さんが携帯電話を片手に駆けこんできた。
腰紐をゆるく結んだだけのバスローブから見える篠崎さんの綺麗な肌に、僕はいまだにドキマギしながら「どうしたんですか?」と尋ねた。
「あるお店のオーナーさんから急遽、仕事に入ってくれないかってメールが来てて。いつもお世話になってる店のイベントなんだ……だから断るわけに行かなくて。だから、本当にごめん、今夜は一人で留守番しててくれる?」
篠崎さんが両手を合わせて謝る。
今からベッドの上でいちゃいちゃできるところだった、という何とも悪いタイミングだが、仕事のことに文句を言うなんていう厄介な恋人にはなりたくない。
今までも、仕事の都合でということは多々あったが、いつも何も言わないように務めてきた。
別にいいですよ、と返事をしようと思った寸前であることを思いつく。
「それ、僕も一緒について行っちゃダメですか」
一度、仕事をしている篠崎さんを見てみたいと思っていた。
イベントというからには、ショーとして縄を扱う篠崎さんが見られるということだ。
いい提案だと思ったのに、篠崎さんはぎゅっと眉間に皺を寄せて
「それだけは絶対にダメ」
と言い放った。
「SM愛好者の集まるイベントだよ。
そんなのにユウくんが参加するなんて、絶対に許さないよ」
「でも……」
「私の言うこと、聞けないの?」
ああ、また、いつものこれだ。
この言葉で僕を黙らせようとする。
いつものことなのに、やっぱり何も言い返せない。
篠崎さんは僕をちょっと怖い目で見つめていたが、ふっと緩め、シーツに両手をついてベッドにのぼってくる。
「もう遅いし、イベントは朝まで続くよ。明日は祝日だけどユウくんはお仕事なんでしょ。また来週の土日、ユウくんのワガママいっぱい聞いてあげるから、ね」
ちゅ、っとほっぺたにキスされて、両手で顔を挟まれた。
飴と鞭の巧妙な使い分けに、僕は口ごもるようにして「はい」と答えた。
「いい子でね」
篠崎さんは今度は唇に軽いキスをすると、ベッドの上にバスローブを脱ぎ捨て早足でクローゼットに向かう。
篠崎さんはそれからバタバタと慌ただしくブラックスーツに着替えると、早足で寝室を飛び出していく。
例の部屋に行ったのは間違いない。
いつも仕事の時、篠崎さんはあの部屋から大きな鞄を持って出てくるのだ。
どうせ聞こえないので僕は、はあっと大きくため息をついてシーツに倒れこむように横になった。
別に、イベント自体に興味があるわけではなくて、ただ篠崎さんについていきたいだけだったのに、あんなに強く突っぱねられるなんて。
もう少し僕の言い分も聞いてくれてもいいのではないか。
そんなことを思いながら何気なく寝返りをうったとき、篠崎さんの脱いだバスローブとその傍らに篠崎さんの携帯電話が置きっぱなしになっているのが目に飛びこんできた。
瞬き一回分さえも止まって考えることなんかせず、僕は反射的にその携帯電話に手を伸ばしていた。
他人の携帯電話なんて盗み見るのは初めてだ。
僕は心臓がひっくり返りそうなほど高鳴っているのを感じながら、メールの受信ボックスを探し最新のメールを開いた。
篠崎さんの説明していた通り、突然の依頼を謝る文面のあと、今夜0時からスタートするというそのイベント名、そしてイベントが開催されるお店の名前、連絡先の電話番号が続いていた。
ぱたぱたと足音が聞こえてきて、僕は素早くメールを閉じて携帯を元あった場所へ投げおとす。
思っていた通り、篠崎さんは黒い鞄を肩にかけて戻ってくると、ベッドの上の携帯電話をスーツのポケットに突っ込んでから、
「ユウくん、それじゃ行ってくるね。また金曜日に」
と、もう一度申し訳なさそうに小さく笑顔をつくった。
「行ってらっしゃい」
僕はまだふてくされている風を装って目を逸らしながら返した。
篠崎さんを目の前にして、メールを盗み見た後ろめたさがなかったといえば嘘になる。
けれど篠崎さんの足音が遠のいて玄関の鍵が閉まる音がした途端、僕はベッドを飛び降りていた。
気持ちは決まっている。
これから先ほど確認したお店に向かい、こっそり他のお客のなかに紛れて、篠崎さんのショーを見るのだ。
ちょっと見て早々に帰れば、篠崎さんに気がつかれることはないだろう。
ばれたら、きっと大変なことになるだろうけど。それでも決心は鈍らなかった。
夜の時をまわっているとはいえ目当ての店の最寄り駅は人が少なく閑散とした駅だった。
もう一度、携帯電話でお店の名前を検索し直して、ホームページから地図を開く。
徒歩10分、と書かれていたが、実際にネオンの光る小さな置き看板を見つけたときには20分ほど歩き続けてきた気分だった。
下へと続く細い階段を降りた地下にお店の入り口はあった。
紫色の扉にごてごてに装飾された看板が打ち付けてある。
一つ大きく息を吐いてから、来店時にはインターホンを押してください、と案内書きに従ってボタンを押した。
インターホンから応対の声が聞こえてくるのかと思っていたが反応はなく、ただ扉の鍵が開くような音がガチャリとして、僕は少し躊躇したのち自分からドアノブに手をかけた。
扉を開いた瞬間、全身を揺さぶるような大音量のBGMに包まれて面食らう。
「こんばんは」
BGMにかき消され気味の声で僕を迎えた男性店員は、両目だけがかろうじて見える顔面を覆う大きな黒いマスクをつけていて表情が全く読めない。
店員の後ろには黒いカーテンがかかっていて、うるさいBGMに混じって人の声や足音がしたがどの程度の盛り上がりなのかはまだわからなかった。
「入場料はお一人、二万円です」
鞄からあたふたと取り出した財布から二万円を支払うと、あとは千円札が一枚残っているだけになる。
心許ないが、帰りの電車賃分くらいはICカードに残っている。
「Sが赤、Mは青です」
そう言って、ずいっと差し出されたのは赤と青に発光している丸い腕輪だった。
どうやらこれを着けるルールらしい。
僕は遠慮がちに青の腕輪を手にとって左手首に通した。
―
店員がカーテンをめくりあげる。
カーテンの先は青紫の薄暗い照明の中で想像以上の人が密集しており、白い煙と香のような匂いが充満していた。
店員は自分がくぐったあとで、まだ玄関に突っ立ったままの僕に向かって「どうぞ」と声をかけてきた。
重低音は心臓にずくんずくんと響く。
僕はフロアに入ると、白い照明の光っている方向目指して、目の前で群がっている人をかき分けていった。
人の先にはずらっと椅子が並んでいて、その前に正方形のステージが照明に照らされていた。
そのステージを見た瞬間、身の毛がよだつ。
ステージの真ん中にはまるで病院の診察台のようなものが置かれていて、その上に仰向けに横になった人の全身から真っ赤な血が溢れている、ように見えたのだ。
けれど、血だと思ったそれは、ステージに立つもう一人の人物の手から垂らされている赤いロウソクの蝋だった。
その人はキャップを目深にかぶっていて顔が見えなかったが、篠崎さんとは体格が違いすぎる。
僕は生身の人間に蝋が盛られていく様から僕は目を逸らして、ステージ周りの客の中を見回したが、篠崎さんの姿はなかった。
隣同士肩がぶつかるくらい近くに人がいて僕は居心地が悪かったが、皆、ステージに夢中になっているようで気にしている様子の人は他にいない。
ステージではロウソクのショーのあとは、ボンテージ姿で踊るポールダンスのようなものが行われていた。
客席からはノリノリの歓声が上がり盛り上がっていた店内は、次のステージの準備が始まった途端、それまで鳴っていた大音量のBGMが小さくなっていくのと同時に静かになる。
ステージには2枚の畳が敷かれ、天井から鎖のようなものが二本、空中の高い位置でぶら下げられていた。
照明が絞られ一瞬、真っ暗闇になるほど暗くなった店内で、ぼうっとオレンジ色の明かりがステージを照らし出したとき、畳の上には2つの影が浮かび上がった。
「えっ、シノサキさんだ……」
呟いたのは僕ではなかった。
近くにいた客でそれが誰だったのか分からなかったが、次の瞬間にはわあっと大きな拍手が店中で起こっていた。
きっちりとスーツを着こんだままの篠崎さんは、その拍手に応えるように柔らかく微笑んだ。その笑顔に少しだけ体の緊張が緩まる。
だが、ゆったりとした幻想的なBGMが始まったのと同時に、篠崎さんが畳に座るもう一人の人物を見やったとき強烈な胸騒ぎを覚えた。
その人は真っ赤な唇に黒い髪が肩にかかるほど長く、大きな瞳は篠崎さんをまっすぐに見つめている。
白い長襦袢を纏っていたが肩まで大きくはだけていて、晒された上半身を見なければ女性に錯覚してしまうほど綺麗な人だった。
その人は篠崎さんを見つめたままじりじりと身を乗り出して、わずかに差し伸ばされていた篠崎さんの右手の指先に口づけた。
いい子だね、と実際に口にしたわけではなかったのが、僕ははっきりと篠崎さんの両目がそう語っていると見て取ることができた。
いつも僕にするみたいに左手で頭を撫で、それから軽く髪の毛を掴んでその人を背中側から抱き寄せた。首筋に頬を寄せながら、優しい手つきでその人の肩から腕、指先まで愛撫する。
まるで前戯のように。
そして、片手で愛撫を続けながら右手でするりと畳に置かれていた縄を手にとった。指を組ませ、その状態でまるで目にも留まらぬ速さで縄を操り両手首を縛りつける。
篠崎さんがなにやら耳元で囁きながら、手首から腕にかけてゆっくりと縄をかけていく。
肌に縄を重ねるひと動作が、結び目をつくる手の動きがまるで官能的で、その指先から編み出されていく美しい模様に、観客からため息が漏れた。
篠崎さんは両腕を縛り終えると肌けた長襦袢の上から上半身を縛り始める。明らかに縛りが進んでいくにつれて受け手の人の表情は明らかに変化していた。
体の力が抜け背後の篠崎さんに大きくもたれかかり、口は緩み半開きになっている。
篠崎さんが縛った縄の先を掴んで引っ張られるままに、その人は畳の上に仰向けに横になった。
縛られた縄が背中に食い込んだのか、わずかに表情を歪めたその人の頬を篠崎さんは片手で掴んで顔を覗きこんだ。
篠崎さんを見つめ返す彼の目は、恍惚と潤んでいた。
そして篠崎さんは覆いかぶさるようにして、彼のだらしなく開いた唇に唇をゆっくりと寄せていった。赤い唇を篠崎さんの唇が重なっている。
明らかに舌を絡め、赤い唇の端から唾液が溢れていくのが見えた。
遠い窓にかかったカーテンの隙間からは、日の光がちらちらと射し込んでいる。
「しのさきさん?」
声が変なふうに掠れている。
体を起こした瞬間、お尻にずきんと痛みが走って反射的に体を浮かせた。
2人で寝ても広すぎるベッドに、いつもとなりにいる篠崎さんの姿がない。
「篠崎さん?」
ベッドから飛び降りて寝室を出る。
廊下の電気はついていなかったが、リビングのほうから明かりが漏れている。
扉を開いた僕に、キッチンから「おはよう~」と篠崎さんの声が耳に届く。
僕はキッチンへ駆けて行って、冷蔵庫の前に立つ篠崎さんの胸に抱きついた。
「わっ。ユウくん……どうしたの?」
正直に答えるなら、起きて篠崎さんの姿が見えず不安になった、だ。
けれど、そんなこと言えない。
自分がどうしてこんな気持ちになったのかもわからない。
そんな僕の心の中のもやもやを全て了承したように篠崎さんは頷いて「初めてのお仕置きだったもんね」と、僕の背中を撫でた。
撫でられているうちに段々と気恥ずかしくなってきて、自分から腕をほどき「ヒロさんは……?」とふった。
「ヒロなら今朝早く帰ったよ。昨日は急にお邪魔してごめんねって」
「そう、ですか……」
篠崎さんは僕の顔を覗き込むようにして「ヒロと話したいことでもあった?」と、目を細めた。
咄嗟に否定しないといけないような雰囲気を感じとって首をふる。
篠崎さんは僕とヒロさんが話すことすら許してはくれないのか。
ヒロさんは僕の知らない仕事中の篠崎さんのことを知っているのだろうけど。
あの部屋にあったたくさんの道具を、篠崎さんがどう使うのかも。
でも「よし、じゃあ、朝ごはんにしよっか」と、篠崎さんはいつものように優しく微笑んだので、僕は余計なことは胸のうちにしまって頷いた。
それからも篠崎さんは変わらずときどき意地悪になり、たまに少しだけ怖い目で僕を脅しつつ「ユウくん、ユウくん」と、大抵はめちゃくちゃに甘やかしてくれた。
本名が悠馬という名前だと教えたのだが、ユウくんのほうが慣れてるからと付き合い始めて半年が経っても呼び方は変わらなかった。
僕としても篠崎さんの下の名前を聞いても、変わらず篠崎さんと呼び続けていたが。
ただ仕事関係の人には全員に「シノサキ」で通っているため、付き合いの長いヒロさんでも篠崎さんの下の名前は知らないという話を聞いたときは、誰もが知らないことを知っているという事実がただ嬉しかった。
「ユウくん、ほんっとうにごめん」
日曜日の夜、いつものように篠崎さんのマンションでお風呂まで終えた後、ベッドの上で待っていた僕の元へ、篠崎さんが携帯電話を片手に駆けこんできた。
腰紐をゆるく結んだだけのバスローブから見える篠崎さんの綺麗な肌に、僕はいまだにドキマギしながら「どうしたんですか?」と尋ねた。
「あるお店のオーナーさんから急遽、仕事に入ってくれないかってメールが来てて。いつもお世話になってる店のイベントなんだ……だから断るわけに行かなくて。だから、本当にごめん、今夜は一人で留守番しててくれる?」
篠崎さんが両手を合わせて謝る。
今からベッドの上でいちゃいちゃできるところだった、という何とも悪いタイミングだが、仕事のことに文句を言うなんていう厄介な恋人にはなりたくない。
今までも、仕事の都合でということは多々あったが、いつも何も言わないように務めてきた。
別にいいですよ、と返事をしようと思った寸前であることを思いつく。
「それ、僕も一緒について行っちゃダメですか」
一度、仕事をしている篠崎さんを見てみたいと思っていた。
イベントというからには、ショーとして縄を扱う篠崎さんが見られるということだ。
いい提案だと思ったのに、篠崎さんはぎゅっと眉間に皺を寄せて
「それだけは絶対にダメ」
と言い放った。
「SM愛好者の集まるイベントだよ。
そんなのにユウくんが参加するなんて、絶対に許さないよ」
「でも……」
「私の言うこと、聞けないの?」
ああ、また、いつものこれだ。
この言葉で僕を黙らせようとする。
いつものことなのに、やっぱり何も言い返せない。
篠崎さんは僕をちょっと怖い目で見つめていたが、ふっと緩め、シーツに両手をついてベッドにのぼってくる。
「もう遅いし、イベントは朝まで続くよ。明日は祝日だけどユウくんはお仕事なんでしょ。また来週の土日、ユウくんのワガママいっぱい聞いてあげるから、ね」
ちゅ、っとほっぺたにキスされて、両手で顔を挟まれた。
飴と鞭の巧妙な使い分けに、僕は口ごもるようにして「はい」と答えた。
「いい子でね」
篠崎さんは今度は唇に軽いキスをすると、ベッドの上にバスローブを脱ぎ捨て早足でクローゼットに向かう。
篠崎さんはそれからバタバタと慌ただしくブラックスーツに着替えると、早足で寝室を飛び出していく。
例の部屋に行ったのは間違いない。
いつも仕事の時、篠崎さんはあの部屋から大きな鞄を持って出てくるのだ。
どうせ聞こえないので僕は、はあっと大きくため息をついてシーツに倒れこむように横になった。
別に、イベント自体に興味があるわけではなくて、ただ篠崎さんについていきたいだけだったのに、あんなに強く突っぱねられるなんて。
もう少し僕の言い分も聞いてくれてもいいのではないか。
そんなことを思いながら何気なく寝返りをうったとき、篠崎さんの脱いだバスローブとその傍らに篠崎さんの携帯電話が置きっぱなしになっているのが目に飛びこんできた。
瞬き一回分さえも止まって考えることなんかせず、僕は反射的にその携帯電話に手を伸ばしていた。
他人の携帯電話なんて盗み見るのは初めてだ。
僕は心臓がひっくり返りそうなほど高鳴っているのを感じながら、メールの受信ボックスを探し最新のメールを開いた。
篠崎さんの説明していた通り、突然の依頼を謝る文面のあと、今夜0時からスタートするというそのイベント名、そしてイベントが開催されるお店の名前、連絡先の電話番号が続いていた。
ぱたぱたと足音が聞こえてきて、僕は素早くメールを閉じて携帯を元あった場所へ投げおとす。
思っていた通り、篠崎さんは黒い鞄を肩にかけて戻ってくると、ベッドの上の携帯電話をスーツのポケットに突っ込んでから、
「ユウくん、それじゃ行ってくるね。また金曜日に」
と、もう一度申し訳なさそうに小さく笑顔をつくった。
「行ってらっしゃい」
僕はまだふてくされている風を装って目を逸らしながら返した。
篠崎さんを目の前にして、メールを盗み見た後ろめたさがなかったといえば嘘になる。
けれど篠崎さんの足音が遠のいて玄関の鍵が閉まる音がした途端、僕はベッドを飛び降りていた。
気持ちは決まっている。
これから先ほど確認したお店に向かい、こっそり他のお客のなかに紛れて、篠崎さんのショーを見るのだ。
ちょっと見て早々に帰れば、篠崎さんに気がつかれることはないだろう。
ばれたら、きっと大変なことになるだろうけど。それでも決心は鈍らなかった。
夜の時をまわっているとはいえ目当ての店の最寄り駅は人が少なく閑散とした駅だった。
もう一度、携帯電話でお店の名前を検索し直して、ホームページから地図を開く。
徒歩10分、と書かれていたが、実際にネオンの光る小さな置き看板を見つけたときには20分ほど歩き続けてきた気分だった。
下へと続く細い階段を降りた地下にお店の入り口はあった。
紫色の扉にごてごてに装飾された看板が打ち付けてある。
一つ大きく息を吐いてから、来店時にはインターホンを押してください、と案内書きに従ってボタンを押した。
インターホンから応対の声が聞こえてくるのかと思っていたが反応はなく、ただ扉の鍵が開くような音がガチャリとして、僕は少し躊躇したのち自分からドアノブに手をかけた。
扉を開いた瞬間、全身を揺さぶるような大音量のBGMに包まれて面食らう。
「こんばんは」
BGMにかき消され気味の声で僕を迎えた男性店員は、両目だけがかろうじて見える顔面を覆う大きな黒いマスクをつけていて表情が全く読めない。
店員の後ろには黒いカーテンがかかっていて、うるさいBGMに混じって人の声や足音がしたがどの程度の盛り上がりなのかはまだわからなかった。
「入場料はお一人、二万円です」
鞄からあたふたと取り出した財布から二万円を支払うと、あとは千円札が一枚残っているだけになる。
心許ないが、帰りの電車賃分くらいはICカードに残っている。
「Sが赤、Mは青です」
そう言って、ずいっと差し出されたのは赤と青に発光している丸い腕輪だった。
どうやらこれを着けるルールらしい。
僕は遠慮がちに青の腕輪を手にとって左手首に通した。
―
店員がカーテンをめくりあげる。
カーテンの先は青紫の薄暗い照明の中で想像以上の人が密集しており、白い煙と香のような匂いが充満していた。
店員は自分がくぐったあとで、まだ玄関に突っ立ったままの僕に向かって「どうぞ」と声をかけてきた。
重低音は心臓にずくんずくんと響く。
僕はフロアに入ると、白い照明の光っている方向目指して、目の前で群がっている人をかき分けていった。
人の先にはずらっと椅子が並んでいて、その前に正方形のステージが照明に照らされていた。
そのステージを見た瞬間、身の毛がよだつ。
ステージの真ん中にはまるで病院の診察台のようなものが置かれていて、その上に仰向けに横になった人の全身から真っ赤な血が溢れている、ように見えたのだ。
けれど、血だと思ったそれは、ステージに立つもう一人の人物の手から垂らされている赤いロウソクの蝋だった。
その人はキャップを目深にかぶっていて顔が見えなかったが、篠崎さんとは体格が違いすぎる。
僕は生身の人間に蝋が盛られていく様から僕は目を逸らして、ステージ周りの客の中を見回したが、篠崎さんの姿はなかった。
隣同士肩がぶつかるくらい近くに人がいて僕は居心地が悪かったが、皆、ステージに夢中になっているようで気にしている様子の人は他にいない。
ステージではロウソクのショーのあとは、ボンテージ姿で踊るポールダンスのようなものが行われていた。
客席からはノリノリの歓声が上がり盛り上がっていた店内は、次のステージの準備が始まった途端、それまで鳴っていた大音量のBGMが小さくなっていくのと同時に静かになる。
ステージには2枚の畳が敷かれ、天井から鎖のようなものが二本、空中の高い位置でぶら下げられていた。
照明が絞られ一瞬、真っ暗闇になるほど暗くなった店内で、ぼうっとオレンジ色の明かりがステージを照らし出したとき、畳の上には2つの影が浮かび上がった。
「えっ、シノサキさんだ……」
呟いたのは僕ではなかった。
近くにいた客でそれが誰だったのか分からなかったが、次の瞬間にはわあっと大きな拍手が店中で起こっていた。
きっちりとスーツを着こんだままの篠崎さんは、その拍手に応えるように柔らかく微笑んだ。その笑顔に少しだけ体の緊張が緩まる。
だが、ゆったりとした幻想的なBGMが始まったのと同時に、篠崎さんが畳に座るもう一人の人物を見やったとき強烈な胸騒ぎを覚えた。
その人は真っ赤な唇に黒い髪が肩にかかるほど長く、大きな瞳は篠崎さんをまっすぐに見つめている。
白い長襦袢を纏っていたが肩まで大きくはだけていて、晒された上半身を見なければ女性に錯覚してしまうほど綺麗な人だった。
その人は篠崎さんを見つめたままじりじりと身を乗り出して、わずかに差し伸ばされていた篠崎さんの右手の指先に口づけた。
いい子だね、と実際に口にしたわけではなかったのが、僕ははっきりと篠崎さんの両目がそう語っていると見て取ることができた。
いつも僕にするみたいに左手で頭を撫で、それから軽く髪の毛を掴んでその人を背中側から抱き寄せた。首筋に頬を寄せながら、優しい手つきでその人の肩から腕、指先まで愛撫する。
まるで前戯のように。
そして、片手で愛撫を続けながら右手でするりと畳に置かれていた縄を手にとった。指を組ませ、その状態でまるで目にも留まらぬ速さで縄を操り両手首を縛りつける。
篠崎さんがなにやら耳元で囁きながら、手首から腕にかけてゆっくりと縄をかけていく。
肌に縄を重ねるひと動作が、結び目をつくる手の動きがまるで官能的で、その指先から編み出されていく美しい模様に、観客からため息が漏れた。
篠崎さんは両腕を縛り終えると肌けた長襦袢の上から上半身を縛り始める。明らかに縛りが進んでいくにつれて受け手の人の表情は明らかに変化していた。
体の力が抜け背後の篠崎さんに大きくもたれかかり、口は緩み半開きになっている。
篠崎さんが縛った縄の先を掴んで引っ張られるままに、その人は畳の上に仰向けに横になった。
縛られた縄が背中に食い込んだのか、わずかに表情を歪めたその人の頬を篠崎さんは片手で掴んで顔を覗きこんだ。
篠崎さんを見つめ返す彼の目は、恍惚と潤んでいた。
そして篠崎さんは覆いかぶさるようにして、彼のだらしなく開いた唇に唇をゆっくりと寄せていった。赤い唇を篠崎さんの唇が重なっている。
明らかに舌を絡め、赤い唇の端から唾液が溢れていくのが見えた。
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