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恋心
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いつの間にか、篠崎さんのことをこんなにも好きになってしまった自分が怖かった。
僕はあまりにも篠崎さんに依存しすぎている。
本気になんてならないと思っていたのに。
篠崎さんは、左手の薬指に指輪があって、そして私以外にも緊縛パートナーがいて。
私はただ篠崎さんの相手の大人数の中の一人に過ぎないのに、私の中で篠崎さんは、ただ一人の特別な人になっていた。
本当は、篠崎さんの素肌が見たい。
キス以上のことをしてほしい。
自分の中にそんな感情があることがこわい。
そして……連絡を取らずに二週間が過ぎた。
少し距離を取るつもりで、なんとか忘れようとしているのに、もしかしたら篠崎さんのほうから連絡してくれるのではという矛盾した期待をしてしまう自分がいる。
けれど、そんな期待もむなしく、篠崎さんからはメールも電話も来なかった。
「あら今日は、シノくんと一緒じゃないのねぇ」
ある夜、会社帰りに久しぶりにバーへと立ち寄った僕を出迎えたのは、今日は黒髪のウェーブのかかったウィッグをかぶったヒロさんだった。
「一人、です」
「じゃあユウくんもこっちに一緒に混ざりましょう」
ヒロさんは僕をすでにソファ席にできた輪の中に連れていった。
ソファに集まっていたのは常連らしいお客三人と店員さん二人とカップルだという二人組だった。
「ユウくんは、緊縛好きなんだよね。いつから緊縛に興味もったの?」
ヒロさんが気を利かせて話を振ってくるが、大勢に注目されるとうまく話せない。
わざわざこの、バーに来たのには理由がある。
店員さんでも、他のお客さんでもいい……誰でもいいから篠崎さん以外の人に縛られたかった。
けれど、自分から言いだす勇気は出ずに、ただ次から次へとグラスを空にしていった。
話題が、誰が言い出したのか蝋燭プレイで盛り上がり始めたころ、
「君、シノサキさんのところの子だよね」
と、僕の隣に年配の男性がやって来て、話しかけてきた。
前にいつ会った人なのか、僕が小さく頭を下げると男性は煙草の煙を吐き出しながら、まるで値踏みするように頭の先から足先まで眺めた。
そのとき既にいつも以上に酔っていて頭のぼんやりしていた僕でも、その不躾な目線にわずかに嫌悪感を抱いた。
「このへんに住んでるの? それとも職場が近いのかな?」
「そうです……」
「どんな仕事?」
「普通の会社員です」
「具体的には?」
仕事は地味な経理課の下っ端で、特段盛り上がるような話でもないし、あまり個人的な質問には答えたくなくて曖昧に首をかしげる。
仕事の話など、篠崎さんにもしたことがないのに。
「君、酔ってるんじゃない? 目が潤んでるよ」
いきなり肩を抱かれて身体を引き寄せられる。
強い煙草の臭いに、いきなり嘔吐感がこみあげてきた。
「ちょっと……」
僕は勢いよく腕を振りほどいて立ち上がり、近くのお手洗いに駆けこんだ。
便座を掴んでその場にしゃがみこむと、すぅっと、頭の血がひいていくのが分かった。
目の前に黒いしみが広がるように暗くなって、ぷつんと糸がきれそうになった途端、喉を不快感がつたって、僕はその場で吐いた。
口の中に広がる気持ちの悪さと、一気に奪われた体力に、ぐったりとした手をなんとか持ち上げて、洗浄ボタンを押して水を流す。
そのまま冷たい壁に頬をくっつけて寄りかかり、しばらくするとだんだん頭が冷静になってきて、同時に自分でも意味がわからずほろほろと両目から涙が溢れてきた。
なんで泣いているのか自分でもわからない。
「ユウくん、大丈夫ですか?」
後ろから扉越しにヒロさんの声がする。
「すみません……あの、吐いてしまって……」
「間に合いました?」
と、扉を開けて入ってきたヒロさんは「ああ、トイレの中になら全然、問題ありませんよお」と、明るく言った。
「本当にすみません…あの、もう帰るのでお会計を……」
僕が手の甲で両目をこすってふらふらと立ち上がると、ヒロさんは「シノくんと何かありました?」といきなり真剣な表情で尋ねてきた。
「……なんにも、ないです」
本当に、何にもない。
ただ自分から距離を置いて、勝手に連絡がないことを落ち込んで、飲みすぎて吐いただけ。
篠崎さんはなにも関係ない。
僕はまたさらに新しい涙が溢れ出てきた。
「ユウくん、ちょっとこっちに来て来て」
僕をトイレから連れ出したヒロさんはそのままトイレから廊下を挟んで向かいのスタッフルームの扉を開いて中へと手招きで引きこんだ。
扉入ってすぐはロッカーの並ぶ、おそらく着替えのための小部屋で、ヒロさんはパイプ椅子を引っ張ってきて僕に座るようにと促す。
「そこの洗面台で口ゆすいだり、顔洗ったりして構いませんよ。それから少しここで待っていてくださいね」
ヒロさんはおしぼりと紙コップを持ってきて僕に手渡すと、小さく手を振って部屋から出ていった。
僕はありがたくもらった紙コップで小さな洗面台に向かい、口をゆすぐ。
洗面台の前の鏡に映る自分のあまりにも血の気のない顔に赤らんだ両目を見て、肩が重くなった。
ヒロさんに気を遣わせてもらって申し訳ない。
こんな自分が嫌になる。
胃の中のアルコールを全部吐いてしまったのか、酔いはすっかり冷めていて今は後悔しかなかった。
「ユウくん、おまたせしました」
どのくらい時間が経ったのか、戻ってきたヒロさんの声に振り返ると、ヒロさんは後ろにいつもと同じスーツ姿の篠崎さんを連れていた。
「篠崎、さん……っ」
「ユウくん、大丈夫? 飲みすぎて吐いちゃったって……」
篠崎さんは僕に駆け寄ってくると、僕を真正面から抱きしめた。
顔に押し付けられたスーツからは、外の空気の匂いに混じって篠崎さんの匂いがする。
「もう、なんともないんです…そんな大ごとじゃなくて……」
篠崎さんが抱きしめていた腕を解いて僕を見つめる。
「ユウくん……どうした、何があったの?」
僕は目を逸らして首を振ると、篠崎さんは僕の肩をゆっくりさする。
「シノくん、ちゃんと手綱を握っとかないと、ユウくんふらふら居なくなっちゃうかもよ」
ヒロさんは篠崎さんの後ろで、腕を組んで僕ら二人を見守っていた。
「ユウくんのことは……無理矢理縛りつけるようなことはしたくないんだ」
「へえ? でもそれで本当にいいのかしら」
「なにが言いたい」
「シノくんの気持ちはわかったけど、ちゃんと二人で話し合ったらってこと」
会話を聞いているだけで二人が店員さんとお客さんというより、もっと親しい仲なのは窺い知れた。
けれど、二人の関係がどうとか僕は聞ける立場にない。
篠崎さんは僕の顔を覗き込んできて「ユウくん、明日お仕事は?」と尋ねた。
「お休み、です」
篠崎さんは頷くと、僕の右手を掴んで振り返る。
「ヒロ、お会計とユウくんの荷物を頼めるかな」
「はいはい」
僕のビジネスバッグを持ってきたヒロさんの手に、篠崎さんはお札を押し付けると、僕の手を引っ張ってスタッフルームのさらに奥の扉へと歩き出す。
事務室のような部屋を抜けて、横幅の狭い磨りガラスのはまった扉を開くと、外へとつながっていて、ベランダから非常階段のような鉄骨の階段が一階へと伸びていた。
「篠崎さん……あの、どこに……?」
「二人きりになれるとこ」
篠崎さんは階段を降り、さらに大通りへ出てタクシーをつかまえた。
最初に僕を乗り込ませて、隣に座った篠崎さんは住所とマンションの名前を告げる。
「具合はもうすっかり良くなった?」
僕が頷くと篠崎さんは、安堵したのかそれとも呆れているのか深く息をついた。
タクシーの中で交わした言葉はそれだけだった。
豪勢なエントランスのある高層マンションのロータリーでタクシーは停まった。
「ここ、は……?」
「私のマンションだよ」
そこはオートロック付きのマンションで、篠崎さんは鍵穴に鍵をまわして自動ドアを開くと、僕の手を取って奥のエレベーターホールへと連れて行った。
銀色の大きなエレベーターに乗り込んで、篠崎さんは39階のボタンを押した。
二人きりになれるところと、言われたことは確かだったが、エレベーターから玄関扉の前へと向かう間、僕は不安で篠崎さんの手を握りしめていた。
鍵をまわして扉を開け篠崎さんが片手で電気をつける。
「どうぞあがって」
靴ひとつ置かれていない玄関で立ち尽くす僕に篠崎さんが声をかけてくる。
両側に扉が三枚ずつあるフローリングの廊下を進み、一人暮らしには広すぎるリビングへと通された。
黒い革張りのソファへと案内された僕は、おそるおそる腰を下ろす。
「紅茶か、コーヒー?」
僕が首を振って遠慮すると
「吐いたんだから脱水気味でしょ。なにか飲まないとダメ」
と、少しだけ強い口調で言われた。
僕がそれならお水を一杯下さい、と頼むと篠崎さんは、たっぷりの氷水に薄いレモンを浮かべたグラスを持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
ひんやりと冷たいグラス受け取ると、僕が一口飲むまで篠崎さんはじっと黙って僕を見つめていた。
かすかにレモンの香りのする水は美味しかった。
「ユウくん……」
「篠崎さんは今日はお仕事、だったんですか」
話し出す篠崎さんを遮ってこちらから問いかける。
「そう。あそこの近くだったから……ちょうど終わった時にヒロから電話がきて」
「ごめんなさい。本当に、ヒロさんにも篠崎さんにもご迷惑おかけして……」
「全然、迷惑なんかじゃないよ。すごく心配はしたけど」
「なんで、そんな僕なんかを」
呟くように言う僕の肩を篠崎さんが強くつかむ。
「ユウくんのことが好きだから。それだけの理由じゃ、ダメかな?」
「でも。篠崎さんには……僕以外にも、たくさん……」
最後まで言えず僕がだまりこむと、篠崎さんは首を傾げて、何度もまばたきをしたあと
「もしかして、指輪のこと?」
と、優しく尋ねてきた。
「指輪は、仕事のときのためのただの偽装だよ」
「偽装って、なんで……?」
「本気になられたら困るから」
篠崎さんが左手の薬指の指輪をするりと外してローテーブルの上にこつんと置いた。
「私の仕事の話って、誰にも聞いてない?」
首をふると篠崎さんはソファから立ち上がり、いつも持ち歩いている鞄を持ってきてなかから僕が以前見かけた例の写真の束を取り出した。
「撮影とかお店でのショーとかで、受け手さんに緊縛をしてあげる、縄師のお仕事」
「全部、仕事で…?」
篠崎さんの言葉に、頭の中が混乱してしまう。
「僕、篠崎さんは、結婚もしてて…それに、他にパートナーもたくさんいるんだと、思ってて…」
「それで?」
篠崎さんが冷静に先を促した。
「だって、そんな大勢の中じゃ、僕なんかが本気になっちゃダメだって。縛ってもらえるだけじゃなくて、それ以上を求めちゃ……」
言葉を遮るように、篠崎さんが唇で口を塞ぐ。
僕の唇がぎゅっと吸われて、じわっと熱を持つ。
「私にとって特別は、ユウくんだけだよ」
篠崎さんが今までで一番甘くて優しい声で言う。
「ユウくんは、誰よりも可愛くて可愛くて、ほんとはずっと私の手の中に閉じ込めておきたいくらいだけど……でも初めてで慣れてないユウくんを怖がらせちゃダメだ、と思って」
「篠崎さんになら、なにをされても平気です」
篠崎さんが僕の頭を撫でながら問い詰めるように眉をよせる。
「本当に? ユウくんがどんなに泣いても止めてあげないよ」
僕は頷いた。
嘘偽りのない本心だ。
篠崎さんにならどんなことをされてもいい。
怖いことも、我慢できる。
篠崎さんが眉間の皺を消して満面の笑みを浮かべて僕に抱きついた。
「これから…ユウくんは私のもの、だからね。私以外の人に縛られるのも触れられるのも、許さないよ」
篠崎さんの言葉が、僕の心を縛っていく……
僕はあまりにも篠崎さんに依存しすぎている。
本気になんてならないと思っていたのに。
篠崎さんは、左手の薬指に指輪があって、そして私以外にも緊縛パートナーがいて。
私はただ篠崎さんの相手の大人数の中の一人に過ぎないのに、私の中で篠崎さんは、ただ一人の特別な人になっていた。
本当は、篠崎さんの素肌が見たい。
キス以上のことをしてほしい。
自分の中にそんな感情があることがこわい。
そして……連絡を取らずに二週間が過ぎた。
少し距離を取るつもりで、なんとか忘れようとしているのに、もしかしたら篠崎さんのほうから連絡してくれるのではという矛盾した期待をしてしまう自分がいる。
けれど、そんな期待もむなしく、篠崎さんからはメールも電話も来なかった。
「あら今日は、シノくんと一緒じゃないのねぇ」
ある夜、会社帰りに久しぶりにバーへと立ち寄った僕を出迎えたのは、今日は黒髪のウェーブのかかったウィッグをかぶったヒロさんだった。
「一人、です」
「じゃあユウくんもこっちに一緒に混ざりましょう」
ヒロさんは僕をすでにソファ席にできた輪の中に連れていった。
ソファに集まっていたのは常連らしいお客三人と店員さん二人とカップルだという二人組だった。
「ユウくんは、緊縛好きなんだよね。いつから緊縛に興味もったの?」
ヒロさんが気を利かせて話を振ってくるが、大勢に注目されるとうまく話せない。
わざわざこの、バーに来たのには理由がある。
店員さんでも、他のお客さんでもいい……誰でもいいから篠崎さん以外の人に縛られたかった。
けれど、自分から言いだす勇気は出ずに、ただ次から次へとグラスを空にしていった。
話題が、誰が言い出したのか蝋燭プレイで盛り上がり始めたころ、
「君、シノサキさんのところの子だよね」
と、僕の隣に年配の男性がやって来て、話しかけてきた。
前にいつ会った人なのか、僕が小さく頭を下げると男性は煙草の煙を吐き出しながら、まるで値踏みするように頭の先から足先まで眺めた。
そのとき既にいつも以上に酔っていて頭のぼんやりしていた僕でも、その不躾な目線にわずかに嫌悪感を抱いた。
「このへんに住んでるの? それとも職場が近いのかな?」
「そうです……」
「どんな仕事?」
「普通の会社員です」
「具体的には?」
仕事は地味な経理課の下っ端で、特段盛り上がるような話でもないし、あまり個人的な質問には答えたくなくて曖昧に首をかしげる。
仕事の話など、篠崎さんにもしたことがないのに。
「君、酔ってるんじゃない? 目が潤んでるよ」
いきなり肩を抱かれて身体を引き寄せられる。
強い煙草の臭いに、いきなり嘔吐感がこみあげてきた。
「ちょっと……」
僕は勢いよく腕を振りほどいて立ち上がり、近くのお手洗いに駆けこんだ。
便座を掴んでその場にしゃがみこむと、すぅっと、頭の血がひいていくのが分かった。
目の前に黒いしみが広がるように暗くなって、ぷつんと糸がきれそうになった途端、喉を不快感がつたって、僕はその場で吐いた。
口の中に広がる気持ちの悪さと、一気に奪われた体力に、ぐったりとした手をなんとか持ち上げて、洗浄ボタンを押して水を流す。
そのまま冷たい壁に頬をくっつけて寄りかかり、しばらくするとだんだん頭が冷静になってきて、同時に自分でも意味がわからずほろほろと両目から涙が溢れてきた。
なんで泣いているのか自分でもわからない。
「ユウくん、大丈夫ですか?」
後ろから扉越しにヒロさんの声がする。
「すみません……あの、吐いてしまって……」
「間に合いました?」
と、扉を開けて入ってきたヒロさんは「ああ、トイレの中になら全然、問題ありませんよお」と、明るく言った。
「本当にすみません…あの、もう帰るのでお会計を……」
僕が手の甲で両目をこすってふらふらと立ち上がると、ヒロさんは「シノくんと何かありました?」といきなり真剣な表情で尋ねてきた。
「……なんにも、ないです」
本当に、何にもない。
ただ自分から距離を置いて、勝手に連絡がないことを落ち込んで、飲みすぎて吐いただけ。
篠崎さんはなにも関係ない。
僕はまたさらに新しい涙が溢れ出てきた。
「ユウくん、ちょっとこっちに来て来て」
僕をトイレから連れ出したヒロさんはそのままトイレから廊下を挟んで向かいのスタッフルームの扉を開いて中へと手招きで引きこんだ。
扉入ってすぐはロッカーの並ぶ、おそらく着替えのための小部屋で、ヒロさんはパイプ椅子を引っ張ってきて僕に座るようにと促す。
「そこの洗面台で口ゆすいだり、顔洗ったりして構いませんよ。それから少しここで待っていてくださいね」
ヒロさんはおしぼりと紙コップを持ってきて僕に手渡すと、小さく手を振って部屋から出ていった。
僕はありがたくもらった紙コップで小さな洗面台に向かい、口をゆすぐ。
洗面台の前の鏡に映る自分のあまりにも血の気のない顔に赤らんだ両目を見て、肩が重くなった。
ヒロさんに気を遣わせてもらって申し訳ない。
こんな自分が嫌になる。
胃の中のアルコールを全部吐いてしまったのか、酔いはすっかり冷めていて今は後悔しかなかった。
「ユウくん、おまたせしました」
どのくらい時間が経ったのか、戻ってきたヒロさんの声に振り返ると、ヒロさんは後ろにいつもと同じスーツ姿の篠崎さんを連れていた。
「篠崎、さん……っ」
「ユウくん、大丈夫? 飲みすぎて吐いちゃったって……」
篠崎さんは僕に駆け寄ってくると、僕を真正面から抱きしめた。
顔に押し付けられたスーツからは、外の空気の匂いに混じって篠崎さんの匂いがする。
「もう、なんともないんです…そんな大ごとじゃなくて……」
篠崎さんが抱きしめていた腕を解いて僕を見つめる。
「ユウくん……どうした、何があったの?」
僕は目を逸らして首を振ると、篠崎さんは僕の肩をゆっくりさする。
「シノくん、ちゃんと手綱を握っとかないと、ユウくんふらふら居なくなっちゃうかもよ」
ヒロさんは篠崎さんの後ろで、腕を組んで僕ら二人を見守っていた。
「ユウくんのことは……無理矢理縛りつけるようなことはしたくないんだ」
「へえ? でもそれで本当にいいのかしら」
「なにが言いたい」
「シノくんの気持ちはわかったけど、ちゃんと二人で話し合ったらってこと」
会話を聞いているだけで二人が店員さんとお客さんというより、もっと親しい仲なのは窺い知れた。
けれど、二人の関係がどうとか僕は聞ける立場にない。
篠崎さんは僕の顔を覗き込んできて「ユウくん、明日お仕事は?」と尋ねた。
「お休み、です」
篠崎さんは頷くと、僕の右手を掴んで振り返る。
「ヒロ、お会計とユウくんの荷物を頼めるかな」
「はいはい」
僕のビジネスバッグを持ってきたヒロさんの手に、篠崎さんはお札を押し付けると、僕の手を引っ張ってスタッフルームのさらに奥の扉へと歩き出す。
事務室のような部屋を抜けて、横幅の狭い磨りガラスのはまった扉を開くと、外へとつながっていて、ベランダから非常階段のような鉄骨の階段が一階へと伸びていた。
「篠崎さん……あの、どこに……?」
「二人きりになれるとこ」
篠崎さんは階段を降り、さらに大通りへ出てタクシーをつかまえた。
最初に僕を乗り込ませて、隣に座った篠崎さんは住所とマンションの名前を告げる。
「具合はもうすっかり良くなった?」
僕が頷くと篠崎さんは、安堵したのかそれとも呆れているのか深く息をついた。
タクシーの中で交わした言葉はそれだけだった。
豪勢なエントランスのある高層マンションのロータリーでタクシーは停まった。
「ここ、は……?」
「私のマンションだよ」
そこはオートロック付きのマンションで、篠崎さんは鍵穴に鍵をまわして自動ドアを開くと、僕の手を取って奥のエレベーターホールへと連れて行った。
銀色の大きなエレベーターに乗り込んで、篠崎さんは39階のボタンを押した。
二人きりになれるところと、言われたことは確かだったが、エレベーターから玄関扉の前へと向かう間、僕は不安で篠崎さんの手を握りしめていた。
鍵をまわして扉を開け篠崎さんが片手で電気をつける。
「どうぞあがって」
靴ひとつ置かれていない玄関で立ち尽くす僕に篠崎さんが声をかけてくる。
両側に扉が三枚ずつあるフローリングの廊下を進み、一人暮らしには広すぎるリビングへと通された。
黒い革張りのソファへと案内された僕は、おそるおそる腰を下ろす。
「紅茶か、コーヒー?」
僕が首を振って遠慮すると
「吐いたんだから脱水気味でしょ。なにか飲まないとダメ」
と、少しだけ強い口調で言われた。
僕がそれならお水を一杯下さい、と頼むと篠崎さんは、たっぷりの氷水に薄いレモンを浮かべたグラスを持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
ひんやりと冷たいグラス受け取ると、僕が一口飲むまで篠崎さんはじっと黙って僕を見つめていた。
かすかにレモンの香りのする水は美味しかった。
「ユウくん……」
「篠崎さんは今日はお仕事、だったんですか」
話し出す篠崎さんを遮ってこちらから問いかける。
「そう。あそこの近くだったから……ちょうど終わった時にヒロから電話がきて」
「ごめんなさい。本当に、ヒロさんにも篠崎さんにもご迷惑おかけして……」
「全然、迷惑なんかじゃないよ。すごく心配はしたけど」
「なんで、そんな僕なんかを」
呟くように言う僕の肩を篠崎さんが強くつかむ。
「ユウくんのことが好きだから。それだけの理由じゃ、ダメかな?」
「でも。篠崎さんには……僕以外にも、たくさん……」
最後まで言えず僕がだまりこむと、篠崎さんは首を傾げて、何度もまばたきをしたあと
「もしかして、指輪のこと?」
と、優しく尋ねてきた。
「指輪は、仕事のときのためのただの偽装だよ」
「偽装って、なんで……?」
「本気になられたら困るから」
篠崎さんが左手の薬指の指輪をするりと外してローテーブルの上にこつんと置いた。
「私の仕事の話って、誰にも聞いてない?」
首をふると篠崎さんはソファから立ち上がり、いつも持ち歩いている鞄を持ってきてなかから僕が以前見かけた例の写真の束を取り出した。
「撮影とかお店でのショーとかで、受け手さんに緊縛をしてあげる、縄師のお仕事」
「全部、仕事で…?」
篠崎さんの言葉に、頭の中が混乱してしまう。
「僕、篠崎さんは、結婚もしてて…それに、他にパートナーもたくさんいるんだと、思ってて…」
「それで?」
篠崎さんが冷静に先を促した。
「だって、そんな大勢の中じゃ、僕なんかが本気になっちゃダメだって。縛ってもらえるだけじゃなくて、それ以上を求めちゃ……」
言葉を遮るように、篠崎さんが唇で口を塞ぐ。
僕の唇がぎゅっと吸われて、じわっと熱を持つ。
「私にとって特別は、ユウくんだけだよ」
篠崎さんが今までで一番甘くて優しい声で言う。
「ユウくんは、誰よりも可愛くて可愛くて、ほんとはずっと私の手の中に閉じ込めておきたいくらいだけど……でも初めてで慣れてないユウくんを怖がらせちゃダメだ、と思って」
「篠崎さんになら、なにをされても平気です」
篠崎さんが僕の頭を撫でながら問い詰めるように眉をよせる。
「本当に? ユウくんがどんなに泣いても止めてあげないよ」
僕は頷いた。
嘘偽りのない本心だ。
篠崎さんにならどんなことをされてもいい。
怖いことも、我慢できる。
篠崎さんが眉間の皺を消して満面の笑みを浮かべて僕に抱きついた。
「これから…ユウくんは私のもの、だからね。私以外の人に縛られるのも触れられるのも、許さないよ」
篠崎さんの言葉が、僕の心を縛っていく……
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