夕闇に紅をひく

青森ほたる

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初めて君に会った日

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 あの日は太陽の光が眩しく、三月にしては暖かい日だった。

灰色のスーツを着た私は、片手に大きめの鞄をさげもう片方に手書きの地図を持ち、時折曲がり角で立ち止まりながら、目的の店を探しながら歩いていた。

地図の通りに歩いているはずだが、道を進むほどに広い敷地の家が建ちならぶ住宅街の奥へ入り込んでいる気がする。

一度駅前の商店街まで引き返そうかと思ったとき、大きな屋根のついた木の門と赤い花が目に入ってきた。門の脇に差してあったのは赤い牡丹の花だった。

地図を手渡されたとき、目印にするといいと店長に教えられた花だ。

となれば、この場所で間違いのないはずなのだが、大きな門を前にしては躊躇う。

門には看板もなく高い竹垣の向こうにあるのは古い大屋敷のようで、訪れる予定だった料理屋には見えなかったからだ。

「ぼくのお世話になった人が、オーナーをしている店でね。緊急に若い人手を必要としているらしいんだ。隆文、頼まれてくれないかな」

 必死な店長に頭まで下げられて、断る理由はなかった。私は少ない荷物をまとめて、すぐに店を発つことになった。

「すみません。どなたか、いらっしゃいますか」

 大きな門の脇の通用口をくぐって、ゆるやかに曲がる石畳の先の玄関扉に向かう。呼鈴は見当たらず声をかけたが、人の気配がしない。さらに扉にそっと手をかけてみたが、鍵がかかっていた。

 そのまま扉の前で立ち往生しているわけにもいかず、玄関扉から建物の裏に回りこむ。そこには、大きな庭が広がっていた。

綺麗に敷き詰められた砂利と地面の砂、葉の先まで整えられたかのような低木が竹垣を囲うように配置された、完璧に造りこまれた庭。

ふと、大きな岩の取り囲む池に目を移した時、心臓が大きく脈打って、静止した。

砂の上に無造作に投げ出された白い脚、細い腰と身体を隠すように肩にかけられた着物には、細かい桃色の花の刺繍が満遍なく施されている。

細っそりとした首元に、まっすぐ通った鼻筋、額から瞳までかかる漆黒の髪、そして赤い唇。

この世界の全てが、彼のために存在しているように思えた。

私は立ち尽くしたまま、どのくらいの間、息をつめていたのか分からない。

更々と羽織が波打ちその人は白い右腕をのばして手のひらを目の前の池の中にとっぷりと浸すと、今度はゆっくりと持ち上げて、その手を唇に運んだ。

赤い唇に水滴が滲むのが、離れた場所に立っていても目に入る。

そして、四度目に右腕が池の中へ入った瞬間、その人の細い体が激しく痙攣を起こし、大きく前に突っ込んだ。

「……っ」

 考えるより先に、走り出していた。その人は右手と左手の両方を池の底へ押し当て、何とか体勢を整えなおしたものの、顔から肩の下までぐっしょりと池の水で濡れきってしまっている。

「あの、大丈夫ですか?」

 私がなんとか絞り出した声に、その人は、ゆっくりと顔をあげる。髪の毛の色と同じ、真っ黒な瞳が潤いながら私を見つめる。

線の細い顔立ちに、鋭い瞳。

あなたと初めて出会ったあの日のことを……私は一生忘れることはできないだろう。



 呼鈴が鳴って私は目の前のガスコンロの火を消して、玄関に向かう。

慶一が訪ねてくる時間にしては早すぎるが、時間通りに来ないのが慶一だ。

けれど磨りガラスのはまった引き戸の鍵を開けるとき、ガラス越しに二つの人影が見えて違和感を覚える。

「隆文くん、久しぶりだねえ」

 戸の前に立っていたのは、見慣れないスーツを着た龍也さんといつも通り黒い着物を着た椿さんだった。

「……お久しぶりです」

 私はなんとかそう返す。お二人に会うのは、私が店を辞めて以来の三ヶ月ぶりだ。龍也さんは相変わらず本心の読めない笑顔を浮かべて、椿さんは首元の鈴を鳴らしながら小さく頷いた。

「いい家ですね、って椿が」

 お二人を居間に案内して、ちょうど沸かしていたお湯で淹れたお茶を持っていく。

「父の…別荘の一つで」
「結局、家は継がなかったんだな。遺産の相続はどうしたんだ?」

 龍也さんは湯呑みを傾けながら、遠慮なく尋ねてくる。

「私には初めから家を継ぐ資格などないと思っていたので、はっきりと断りました。遺産の相続権利も放棄するつもりでしたが、弟がどうしてもと言うので、この家と少しだけ…」

「そうか。それは良かった。な、椿」

 両手で湯呑みを持って、お茶を冷ましていた椿さんが小さく頷く。

「まあ、隆文くんに今でも意思があればの話なんだけどな。なにはともあれ、金がなければ始まらないからな」
「なんのお話でしょうか……?」

 このお二人とこうして向かい合って話をするのは二度目だ。あの時は……。

「お姫ちゃんの話だよ」

 心臓がぎゅっと掴まれる。

「憐さんは、お元気ですか……?」
「そうだな、簡単に言ってしまえば元気ではないな。隆文くんが辞めてから三ヶ月、最初の落ち込みはともかくどんどん具合が悪くなる一方だ。お客さんの相手をしてる最中に突然泣き出すし、刃物で自分の腕を傷つけたりする。オーナーが叱っても宥めても、抜け殻みたいになっててもう手がつけられない。ここ最近は、店を休ませてる」

「そん、な……」

 聞いているだけで、両手が震えて脳がきりきりと痛む。龍也さんが空になった湯呑みを、机の上に戻す。

「俺たちは…隆文くんにそんなお姫ちゃんを迎えに来てほしいって、言いに来たんだ」

「でも、それでは…」

「あのときと話が違うよな、わかってるよ」

 前にお二人とこうして話をしたのは、二週間実家に帰って、店に戻ってすぐの時だ。

憐さんに会うより先に、龍也さんの部屋に連れ込まれ、そしてそこで数枚の写真を見せられた。

それは、私が憐さんを連れ出して花火を見に行った夜の写真だった。

「これは、憐さんにとってはただのお礼のつもりだと……」

 憐さんと唇を重ねている写真を見せられて、私はそう答えた。

あの夜、期待しなかったといえば嘘になる。

あのまま憐さんを連れ出して、二人で逃げ出してしまおうとさえ思った。けれど……。

「そうだな。お姫ちゃんの本命は、オーナーだもんな」

 そう、憐さんが本当に好きなのは秋彦さまだけだ。

「この写真を……オーナーが見たらどう思うだろうな?」

「私が、処罰を受けるのは構いません」

「まあそういうと思ったが。こういうことは今まで何度かあったんだよな」

 龍也さんがキスの写真を机の上に放りなげる。

「隆文くんの前の男も、オーナーへのあてつけにお姫ちゃんが手をだした。そのときもお姫ちゃんは酷い折檻を受けたけど、そのときにオーナーは次はないと俺に言ったんだ。次に不祥事が発覚したら、お姫ちゃんを切り捨てるってさ。お姫ちゃんが一番怖がってるのは、なんだか知ってるか?オーナーに捨てられることだよ」

 龍也さんの言うことは正しい。憐さんはいつも秋彦さまに会いたがっている。

憐さんが秋彦さまに捨てられる悪夢を見ていることも知っている。

憐さんが熱をだしたとき、秋彦さまが憐さんを一瞬で泣き止ませたのも見ていた。私は、憐さんの幸せを壊してしまうのだろうか。

「俺だってオーナーを怒らせたいわけじゃない。一つの方法があるとしたら……隆文くんが自分から身を引くことかな。家を継ぐ話がでているんだろう。それなら自然だ。オーナーには何も疑われない。俺もこの写真をなかったことにできる」

 私にできることがそれだけならば。憐さんに別れを告げるのは、身を切られるように辛い。

でも、私は…憐さんに幸せでいてほしい。私は、龍也さんの言う通りにすることに決めた。

「あのときは……まあわざとだが、言わなかった方法がある。お姫ちゃんが買われたときの代金に今日までの利子を全額オーナーに返済すれば、お姫ちゃんは店を辞められる。お姫ちゃんは高額で買い取られてきた子だから、簡単に出せる額じゃないけど。返済できれば隆文くんは、お姫ちゃんを正当な方法で連れ出すことができる」

「お金なら、いくらでも出します。でも、なんで今になって、お二人は……」

 龍也さんと椿さんが目を見交わす。椿さんが促すように頷いて、「まあ、隆文くんには言うしかないか」と呟く。

「元々、隆文くんとお姫ちゃんを引き離したのは、オーナーの命令だったんだ」

 龍也さんは肩をすくめて続けた。

「オーナーは、あのお姫ちゃんが熱を出して呼び出されたときに、お姫ちゃんが隆文くんを好きなんじゃないかと気づいて、それで俺たちに二人を監視するように命じた。そしたら例によって、花火の日のあの写真だよ。あれを見たオーナーは、俺らに隆文くんの身辺調査をするように言った。それで身元を探ってたら、たまたま隆文くんの弟くんの方もちょうど隆文くんを探してたってわけだ。それでいいタイミングだと、二人を引き離すために、俺らに一芝居打たせた。あの時、写真を見せたのは隆文くんだけじゃない。あの日の前日に、お姫ちゃんにも見せて同じように脅したんだ。別れなければ、隆文くんが処罰されるってね」

 椿さんがなんども頷く。ではあのとき私が憐さんに別れを告げたとき、憐さんが黙っていたのは、私を問題なく辞めさせるために……。

「まあ俺らだってオーナーの気持ちも分からないでもなかったんだ。お姫ちゃんのことは七歳のときから面倒見てきた。オーナーだって初めは、そんな小さい子どう扱っていいかわかんなかった。それでも自分以外に懐かないお姫ちゃんをみて、さらに自分だけを頼りにするように育てたんだ。そうすれば、訳のわからない子どもを上手く扱えると思ったんだろうな。そんなふうにしてお姫ちゃんを追い込んで、言うことを聞かせてたのも確かだ。でもそれだけじゃない。お姫ちゃんを懐かせるうちに、オーナーだっていつからかお姫ちゃんを特別に思ってたんだろう。自分の子どもみたいに。俺らだってそうだから。親からの愛を求めるみたいにオーナーしかみえてなかった子どもなお姫ちゃんが、いつの間にか隆文くんを見つけて恋におちてた。って、それはショックだわ」

「でもそれでは……オーナーは納得してくださるのでしょうか。いくらお金を払って、正当な方法とはいえ、私が憐さんを迎えに行っても……」

 龍也さんが、ふっと頬をゆるめて笑顔をつくる。

「簡単に子離れできないのが親心ってもんだろ。お姫ちゃんは外の世界にでるより、自分の元へいた方が幸せになれるって思いこんだか、そう思いたかったかオーナーは二人を引き離した。でも、もうあんな状態のお姫ちゃんを見たら、納得するしかないよ。手放すときだってね」

 そう今この瞬間も、憐さんは……。

私は勢いよく椅子を倒して立ち上がる。本当に自分が迎えに行って、憐さんは付いてきてくれるだろうか。

私のことをそんなに思ってくれているのだろうか。

不安で、自信がない。けれど、ここにいては何も分からないままだ。

「憐さんのところへ……っ」
「運転は椿が。今すぐ、連れてってやるよ」

 椿さんが私の手をとって、またもう一方の手で、龍也さんの手首を掴んで、引っ張っていく。

家の前の道路に小さな赤い車が停まっていて、椿さんは私と龍也さんを後部座席に押し込んだ。

走り出した車の中で私は、これまでの事とそしてこれからの事を思った。

なにを、どう言葉にすれば、憐さんにこの思いが伝わるだろうか。

これまで積み重ねてきたこの思いを、私は憐さんの心に届けられるだろうか。
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