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新しいご主人様

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 福岡は東京に比べて心なしか太陽の光が強い気がする。

私はその日空港から地下鉄とバスを乗り継ぎ、新しい主人の住居であるマンションへと向かった。

義隆さまから預かった封筒には鍵が入っており、今日の昼に到着する引越業者を迎え入れ引越の片付けをすることが最初の仕事だという。

豪勢なエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ上がる。最上階からの見晴らしは想像したよりもすがすがしく、白い砂浜とその先に海が見えた。

今回の主人の年齢は27歳と、私より2歳年上なだけだ。

窓からの景色を見ていたら、海辺の高級マンションに一人暮らしができる若い主人を、自分とはまったくの別世界の人だとひしひしと感じた。


 引越は問題もなくスムーズに終わり、福岡に到着してから感じていた緊張がひとつほぐれる。

広い部屋に対して、家具の数は少なく段ボールも少ない。一部屋だけ極端に多かったのは、本とCDの沢山詰まった段ボールを運び込むように指定された部屋だった。本もCDもジャンルごとに綺麗にダンボールに分類されていて、私はそのまま棚に並べていった。衣類や食器類も片付け終わり、一通り掃除も済ませた。

広いリビングの端っこでほっと一息ついたとき、窓の外から夕焼けに染まった空が見えて腕時計を確認する。

新しい主人は特に専属の料理係を雇うという話も聞いていないので、夕食の準備も自分の仕事だろうと判断し、近くのスーパーまで買い物に出かける。

夕食の準備まで整ったあとは、もう一度部屋の掃除を念入りにやりなおし、あとは主人の帰りを待つだけとなった。

鍵がまわる音で、玄関先に飛んでいく。

「おかえりなさいませ、山城さま」
 内心の緊張を悟られないように願いながら、頭を下げる。

「あぁ、えっと母が頼んだ個人秘書の…」
「小川と申します」

 私は主人が右手に持った鞄とスーパーの袋と思しきものを受け取ろうと手を伸ばしたがそれには気づかれずに、主人は目の前を通り過ぎていった。

「小川サン、ね。あ、そうそう引越の業者さんの相手してもらったんだよな。本当は一回こっちに寄るつもりだったんだけど、初日だから会社の方にとりあえず顔をだしたら色々と慌ただしくて……」

 廊下を進みリビングに向かう灰色のスーツ姿の背中を慌てて追った。廊下の滑らかなフローリングに足をとられそうになる。鞄を受け取るタイミングは逃したままだ。

「それで……えっと、もしかしてもう片付けも全て済ましてくれたのかな?」
 扉を開けてリビングをぐるりと見回した主人が尋ねる。

「はい。他のお部屋も、整頓させていただきました」
 そう答えたあとになって、もしかしたら余計な手出しだったのではないかと不安になった。

「あの、不都合がございましたらすぐにやり直します」

「不都合? あぁ、いや……。えっと、キッチンはどっちかな。買い物をしてきたんだけど……」

「お預かりします。夕食はお好みのものを伺っておりませんでしたので、こちらで用意をさせていただきましたが、この食材を使用して別のお料理をご用意いたしますか」

 主人はふいに振り返って目を丸くして、私を見つめた。そのときになってやっと主人の姿を正面から見た。短い前髪と同じ黒色をした瞳。すっと通った鼻筋に形のよい唇。少し見上げるくらいの高身長で、胸元の濃い青のネクタイはほんの少し緩められていた。

「いや、作ってくれたものを、ありがたくいただくよ。引越しの片付けに夕飯の準備まで、ありがとう」
 柔らかな口調でそう言われ、黒い瞳を細めて笑顔をむけられた。

ふわっ、と軽くなった心は、

「でもご飯の前に、お風呂すませてきていいかな?」

という主人の言葉に、急降下する。

私にしては珍しく失態のない初日になるはずだったのに、すっかりお風呂の用意をするのを忘れていた。

「も、うしわけございません、山城さま! 浴室の準備を失念しておりました、ただいまご用意させていただきます」
 私が頭をさげながら早口で言うと、主人は「わかった」と、軽く右手をふった。

「それよりその山城さまっていうの、止めてくれると嬉しいかな。優太でいいよ。小川さんも、下の名前なに?」
「章人、と申します。優太さま、私に敬称は必要ございません」

 私は戸惑いながらそう答えて、もう一度頭を下げた。


 優太さまが入浴されているあいだ、私はたっぷり時間をかけてテーブルセッティングを整えることができ、夕食の時間は失敗もなく終えることができた。

食後のコーヒーをはこび、自分はキッチンへ下がろうとしたとき「章人」と、呼び止められる。

「話しがあるんだけど…」
「は、い。優太さま」

 私が振り返って姿勢を正すと、優太さまはなぜか軽く笑って、
「そんなところに突っ立ってないで、そこ座って」
 と、向かいの椅子を示した。

いつも新しい主人を前にすると、とんでもなく緊張してしまう自分が、優太さまに笑いかけられると不思議と落ち着いていられる。

優太さまは想像していたような社長の息子、という雰囲気が全くなかった。

「君の契約のことなんだけど……契約期間ってどのくらいなの、かな」
「会社の契約に関することでしたら資料がございますので、少々お待ちください」

 私は急いで会社の規約書とまだ白紙の本契約のための正式な契約書を取って戻った。

「私どもの会社では、初期契約時には契約期間を設けておりません。ご主人様が個人秘書のサービスにご満足いただけましたら、長期契約である本契約を結ぶことが可能です。ご主人様のプライベートを全面的にサポートさせていただくためにも、長期の契約をお勧めしております。本契約前でしたら……個人秘書の変更、契約の解除は自由に行うことができます」
 新しい主人に就くたびにしている説明はすらすらと口をついてでた。

「今の優太さまとのご契約では、明確な契約期間は設けていない状態でございます」
「なるほど」

 優太さまは、ぱらぱらと規約書をめくり一番下に重ねられた白紙の契約書を眺めてから、顔をあげた。

「それじゃあ、もしかすると今日で契約を解除することもできる、っていうことかな?」

 突然そう問われて、私は頭が真っ白になった。

「それは……わ、たくしに、ご満足いただけなかったという、意味でしょうか」

 みっともなく言葉を詰まらせた私に優太さまは、ぱっと規約書の紙の束から手を離し「あぁ、いや全然。そういうことじゃなくて」と、椅子の背もたれに寄りかかった。

「僕は元々個人秘書を頼むつもりはなくて母が勝手に決めたことなんだ。個人秘書が来るっていうのも、今日いきなり聞かされて……」

優太さまの声がどこか遠くに感じる。

膝の上で握った両手の感覚がない。

目の前のテーブルの木目がぐらぐらと揺れている気がする。初日で辞めさせられたことは、今まで経験がない。義隆さまになんと説明すれば……。

「………それで、僕には個人秘書は必要ないから契約は」
「ゆうた、さま…っ」
 思わず椅子を引いて立ち上がった瞬間、ぐらっと両足の力が抜けてフローリングの床に崩折れた。思いきり膝をついたが、痛みは感じなかった。

「章人っ。だ、大丈夫…?」
 駆け寄ってきた優太さまの足元に、私は這いつくばったまま深く頭をさげた。

「わたくし、優太さまのために、ど、どんなことでも致します。おねがいします、優太さまのお側に置いてください、お願いします……っ」

 何かを考えるよりも先にそんな言葉が、口をついて出る。ぼたぼたっと、両目から床の上で合わせた手の甲に雫が落ちた。

 私はまるでそれしか口にできなくなったかのように「お願いします」と、何度も繰り返していた。静かな声が降りかかり、頭をすっと撫でられる。

「落ち着いて。ほら、顔あげて」
 優太さまのゆったりとした声に、早まっていた心臓の鼓動がゆったりとおさまっていく。

同時に冷静になって、一気に自分の失態に身体が縮こまって床に余計に、のめり込むようにうずくまった。

「ゆうた、さま……わたくし申し訳がたちません……こんなみっともないことを……わたくしの言ったことは、忘れて……」
「こら。いいから主人の言うこと聞くの。顔をあげなさい」

 声は優しかったが、ぴしゃりと命じられて、私は涙にまみれた顔をあげた。

優太さまはもう一度私の頭に手を置き、髪の毛をゆっくりと撫でた。

私は既にこれからのことで頭がいっぱいだった。荷物をまとめなおし、東京への飛行機も確保しなければ。それから……義隆さまに、連絡を……。

「少しは、落ち着いた?」
 私の涙がすっかり乾いたころ、優太さまがそう問いかけた。

「はい。優太さま、申し訳ございませんでした……。個人秘書の方から、契約の延長をお願いするなど、失礼極まりない態度をお許しください……」

 私は床に目を落とし、頭の中で必死に考えながら言葉を続ける。

「優太さまのご希望通り、本日付で契約は解除とさせていただき……」
 ふと優太さまの両手が私の頬を包み、私は自然と優太さまを見上げるように顔をあげた。

「優太、さま……?」

 頬にあたる手が、上気した自分の肌に対して、ほどよく冷たい。

「章人、やっぱり気が変わった。君はしばらく僕の家にいなさい」

 言われた言葉を理解するまで時間がかかり、私はその間ぼんやりと優太さまの黒い瞳を見つめていた。
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