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息抜きはバーで
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腫れた目で戻ってきた私に、他の秘書たちは気を遣ってなにも声をかけてこなかった。いつも通り事務的な会話は交わすが、私はどこか上の空になりがちで、何度も洗面所へ顔を洗いに行った。
やっと1日の仕事を終えたときにはいつもに増して、疲労感でいっぱいだった。
駅への道すがら、どうしても友達の声が聞きたくなって私は、携帯電話を取り出した。
「もしもーし、ちぃちゃん!どうしたのー?」
コータはいつものごとく、ワンコールもならないうちに電話に出た。わたしはいつもと変わらないその能天気な声に、ふっと気持ちが緩む。
「ごめん、急に電話して…あの…」
「あれあれあれ、ちょっとどうしちゃったの?なんか元気なくない?」
「ちょっと…いろいろ…」
「なに、ちょっと、大丈夫?アタシ今日もバー行くから…話聞けるよ?ちぃちゃんもお店来たら?」
「うん…行く」
いつもは金曜日にしか行かないと自分で決めているお店だ。けれど私はコータの誘いにあっけなくのって、自分のマンションとは逆方向の電車に乗りこんだ。
バーAXVは、飲み屋の連なる夜の繁華街から少しはずれた裏路地にある小さな店だ。同性愛者で、かつ性行為においてアブノーマルを好むものの集まるバーで、狭い店内は意外にもいつも盛況している。コータとはアブノーマルな集いで知り合い、付き合いがもう10年にもなる私の唯一の友達だ。
「ちぃちゃーん!こっちこっち」
コータは店の一番奥のテーブル席を陣取ってくれていて、私を手招きする。
「ごめん、本当急に電話したりして…」
「いーのいーの。ウチの職場はちぃちゃんとこと違って緩いから、ちぃちゃんからの電話だったら仕事中でもすぐにでるわよ」
そう笑いながらいうコータは、いつもと同じように、派手だけどセンスのある化粧をして、虹色のスパンコールのTシャツにダメージジーンズ、真っ赤に染めた肩ほどの長さの髪にと、一見しただけでは性別を判断できないような個性的な格好をしていた。彼はこの姿のまま、アパレルショップで接客をしている。外見からは性生活が想像しにくいが、しょっちゅう相手をとっかえひっかえしながら今は絶賛、現役高校生の男の子と、ライトなSMのパートナー関係を結んでいる。
「それで。今日はどうしちゃったの」
頼んだ二人分のジントニックがボンテージ姿の店員に運ばれてきたところで、コータが真剣につめよってくる。
「うん…それが…今日から、あの前に話した、新しい社長さんがきて…」
「あぁっ、もしかして、ちぃちゃんのタイプだったとか?!イケメン?」
「た、タイプ…ッ」
確かに…顔は、整っている、とは思うが…初対面からコーヒーをぶっかけるような失態をおかし……そんなこと考える余裕などない。
「いや、そういうんじゃなくて…。きょ、今日…まず、いつものとこでコーヒー買って…」
「あぁ、爽やか君がいるところ」
「そう。それで…」
コータを前にして隠し事をできたことはない。私はせっつかれるままに、社長室のことまで含めて洗いざらい話してしまった。
「え、え、え、じゃあ、社長室で、二人きりで、スパンキングされちゃったってこと?!」
コータはマスカラをつけた丸い目をさらに大きく見開いて、囁き声でそう言った。私は自分の頬が真っ赤になっているのを感じながら、ジントニックの残りを一気に飲み干して小さく頷く。私のグラスが空になったのを見計らって、店員がお代わりを尋ねにきた。私がウイスキーを注文するあいだ、コータは口を開けて固まっていた。
「そ、その、社長さん、絶対S男でしょ。もしくはスパンカーとか」
スパンカーは、アブノーマル行為の中でも専門にスパンキングを好み、叩くことで快感を覚える人たちのことだ。
「そういうんじゃない…と思うんだけど…」
人の真意など分からないが、少なくとも私にとっては、あのスパンキングは完全に懲罰としての意味合いしか感じられなかった。
「でもでも。二人きりの空間で、お仕置きされるなんて、Mちぃちゃんからすれば、萌えるシチュじゃないの?」
「いや、だからそういうじゃなくて…」
たしかにスパンキングを特に好んでいるわけではないが、他のいくつかのSM行為と同じく普通だったら萌えるようなものだ。コータの言うとおり、上司に叱られるなんて何度となく妄想するシチュエーションのまんまだ。ただ現実になると…。
「なんか必死で…いっぱいいっぱいになっちゃって…。すっごい、痛かったし…情けなくて泣けてくるし…。でも…」
「でも?」
「ちゃ、ちゃんと頑張って耐えたあとに…ほ、褒めてほしかった…かな…」
コータが私の言葉に、にやにやと頷く。
「うんうん。Mちぃちゃんの心理はそれくらい、複雑で、わがままで、可愛くないと」
コータに全て話したことで自分の気持ちが、楽にはなったが、余計混乱したような気もする。
「でもー、話に聞いた限りだと、雰囲気的には、ちぃちゃんの好みのタイプとはちょっと違うよね?ほら、威圧的なのは、ちぃちゃん苦手でしょ?」
「うん…。やっぱりコーヒーショップのあのお兄さんみたいな…」
「爽やかな、腹黒ドSタイプ!」
爽やかな、のあとは、完全に私たち二人のたくましい妄想でしかないが。
「そ、う。そういえば、今朝。新しい上司が来るんですって話したら、頑張ってくださいって言われたんだ」
「え、いいじゃんいいじゃん!」
それからコータと散々コーヒーショップのお兄さんでまたもや、たくましい妄想を繰り広げ、お酒もすすんだ。私はすっかり酔い気分に浸ってしまったが、明日も仕事だということだけは頭の片隅で覚えていて、このままウチに泊まっていきなよ、とバーの近くに住むコータの誘いを断ってちゃんと終電で自分のマンションまで帰り着いた。
シャワーを浴びた途端、私は髪も乾かさずにそのままベッドに倒れこんでしまい、すっかり目覚まし時計をつけるのを忘れてしまった。
翌朝、目が覚めたのは会社の朝礼の始まる9時を30分も過ぎたときだった。携帯電話には、秘書リーダーの後藤さんから5件の不在着信が入っていた。申し訳なさでいっぱいになりながら、折り返し電話をかける。長いコールのあと、やっと後藤さんが電話にでる。
「おはようございます…っ、渡辺です」
「渡辺くん。体調不良、ですか?」
心配そうな後藤さんの声にますますベッドの上で縮こまる。
「いぇ…あの、寝過ごしてしまって…申し訳ないです…」
「そうでしたか。それなら、いいのですが…」
語尾を濁す後藤さんの様子が気にかかり尋ねると、後藤さんはしばらくの沈黙のあと遠慮がちに小さな声で「あの…俊光様が…お待ちのようなので、できるだけ急いで出社されるのがよいかと…」と、言った。
本当は走ってでも会社に向かうべきだとわかっているのに、足取りは重くなる一方だった。こんなことなら、今日は体調不良だと言って休んでしまえばよかった。そんなことまで考えてしまう。
俊光様に、どんなに怒られるだろうかと考えると、身がすくむ。妄想やプレイならまだしも、実際に職場で叱られるとなるともう、情けなくて仕方がない。
なんとか砕けそうになる自分を励まして、随分と時間をかけて私は会社までたどり着いた。
「後藤さん、ご心配おかけして本当に申し訳ありませんでした」
新人のころは寝坊癖がひどく、そのたびに教育係であった後藤さんには迷惑をかけてきたが、最近では目覚まし時計があれば起きられない日はなかった。遅刻なんてしてしまったのは5年ぶりくらいだ…。
「いいえ。渡辺くんの担当だった13時からの商談の文書作成は、私がやっておいたので、大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます…っ」
「それより…あの、出社次第、自分の元へ来るようにと…俊光様が…」
想像はしていたが思わず、後藤さんに泣きついてしまいそうになる気持ちを抑え「わかり、ました」と、返事をする。
社長室に向かうと受付嬢は私が俊光様の所在を尋ねるより前に、「俊光様は、お部屋でお待ちです。渡辺さんは、すぐに通すようにと申し使っておりますので。どうぞ」と、いつもながら完璧なビジネススマイルで通された。
「失礼します」
社長室に入ると俊光様は電話で話しをしている最中だった。私は静かに扉をしめてその場に立って待つ。俊光様の前のデスクには資料の山ができていて、俊光様は電話で話しながら資料を引っ張り出してメモを取ったりした。一度、会話が終わったかと思えば通話が切れた途端、次の電話がかかってきた。
そうしてやっと電話の波が収まったとき、俊光様がパソコンを起動させながら私を手招きで呼ぶ。
「遅刻の理由は」
俊光様が右手でマウスを動かしながら尋ねる。
「寝過ごし、ました…申し訳、ありま」
「そうではなく。寝過ごしたと、後藤に連絡をいれたあと、こんなにも遅れてきた理由を私は聞いているんだ」
私が返事に窮していると、また携帯電話の着信音が鳴った。けれど俊光様は出ずに、パソコンの画面から目を離して私を見た。
「お前の最寄り駅から、会社までせいぜい30分だ。それなのに、もう11時近いというのは、どういうことだ?」
「申し訳…ありません…」
「意味のない謝罪は時間の無駄だ。ズボンを脱いで下着をおろせ」
私がもたつく手でベルトを外すあいだ、俊光様は鳴りっぱなしだった携帯電話を手に取った。そうして下着までおろした私を放置したまま、しばらく話したのち「5分後に向かう」と、言って電話をきった。
「お前が遅れてきたせいで、時間がない。下着を私によこせ」
私は言われるままに、俊光様に下着を差し出す。俊光様は私の下着を受け取ったあと、後ろを向くように指図する。
ささやかな抵抗心で、出来るかぎりゆっくりと後ろを振り向いた瞬間、パチィイイン、パチィインッと、尻の右側と左側を一回ずつ叩かれた。平手、とはいえ、思わずつま先立ちになるほど、びりびりとした痛みがはしる。
「終業後に、またここへ来い。下着を返すのは、遅刻の仕置きが終わってからだ。お前は今すぐ自分の仕事へ戻れ」
俊光様はそう言うと、尻を出したままの私を置いて急ぎ足で社長室をでていった。
その日はただ目の前の業務になんとか集中しようと、努力することで精一杯だった。下着を没収されたことを、皆にばれるわけでもないのに、ズボンに風が通るたびに落ち着かない。お手洗いに行くのも、人がいないのを確かめてから、個室に駆け込んだ。
終業時間を迎えると、秘書室はすぐに人がいなくなる。皆、一日を分刻みに動く人ばかりで、残業などほとんど行わない。私はいつも誰よりも遅くまで仕事をしている後藤さんのデスクへ向かった。
「渡辺くん、どうかしましたか」
「あの…今朝、仕事を代わってもらったので、なにかお仕事のお手伝いができればと…」
下着がないのは落ち着かないが、社長室へ行くのを伸ばせるものなら、引き伸ばしたい。後藤さんは私の真意など知る由もなく、穏やかに微笑んで首を振る。
「大丈夫ですよ。私も今日はすぐに終わらせて、帰るつもりですから」
望みをたたれて心を沈める私を見て、後藤さんは心配そうに眉を寄せた。
「渡辺くん…新しい社長とは上手くやっていけそうですか」
「俊光、様…ですか。は、はい…これまで通り頑張っていきたいと、思い、ます」
突然、俊光様の話をふられて思いきり動揺する私を、後藤さんは何か言いたげに見つめる。
「なにか…困ったことがあれば、私にいつでも相談してくださいね。秘書リーダーとして、いくらでも社長に掛け合いますよ」
どこまでも穏やかで優しい人だ。思えば、教育係でいたときから、後藤さんには一度も怒られたことなどない。私には、甘すぎる。
「ありがとう、ございます」
「俊光様も優秀なお方、ですからね…。お仕事が早くて驚きます。その分、私たち秘書に求めるレベルも高いのでしょうが」
後藤さんが軽い苦笑まじりに言う。後藤さんが言うなら、俊光様はただの噂ではなく本当に仕事のできる方なんだろう。俊光様から見れば私なんて、とんだ出来損ないに見えているのではないか。
そんなことを思ったとき、秘書室の扉が開いて、俊光様が姿を見せた。
「と、しみつさまっ」
「終業後、すぐに来るようにと言ったのを、忘れたのか」
後藤さんは咄嗟のことに固まる私をちらりと見たあと、早足でやってきた俊光様と私の間にゆるく割って入ってきた。
「申し訳、ございません、俊光様。私が、渡辺くんを呼び止めてしまったんです。あの……今朝のことで」
俊光様は無言で、後藤さんと私を交互に見比べたあと、ため息にまじりに口を開く。
「それならばその話が終わるまで、ここにいるとしよう」
「それには及びません。いま、ちょうど終わりました…。…渡辺くん、今後はよく気をつけて下さいね」
後藤さんに優しく見つめられて、必死に頷く。
「はい、わかっています。後藤さん」
「それならば、行くぞ」
早足で先に行ってしまう俊光様を追いかけつつ、ほんの一瞬振り返って、後藤さんに頭をさげる。後藤さんは、笑顔のまま小さく頷いた。
やっと1日の仕事を終えたときにはいつもに増して、疲労感でいっぱいだった。
駅への道すがら、どうしても友達の声が聞きたくなって私は、携帯電話を取り出した。
「もしもーし、ちぃちゃん!どうしたのー?」
コータはいつものごとく、ワンコールもならないうちに電話に出た。わたしはいつもと変わらないその能天気な声に、ふっと気持ちが緩む。
「ごめん、急に電話して…あの…」
「あれあれあれ、ちょっとどうしちゃったの?なんか元気なくない?」
「ちょっと…いろいろ…」
「なに、ちょっと、大丈夫?アタシ今日もバー行くから…話聞けるよ?ちぃちゃんもお店来たら?」
「うん…行く」
いつもは金曜日にしか行かないと自分で決めているお店だ。けれど私はコータの誘いにあっけなくのって、自分のマンションとは逆方向の電車に乗りこんだ。
バーAXVは、飲み屋の連なる夜の繁華街から少しはずれた裏路地にある小さな店だ。同性愛者で、かつ性行為においてアブノーマルを好むものの集まるバーで、狭い店内は意外にもいつも盛況している。コータとはアブノーマルな集いで知り合い、付き合いがもう10年にもなる私の唯一の友達だ。
「ちぃちゃーん!こっちこっち」
コータは店の一番奥のテーブル席を陣取ってくれていて、私を手招きする。
「ごめん、本当急に電話したりして…」
「いーのいーの。ウチの職場はちぃちゃんとこと違って緩いから、ちぃちゃんからの電話だったら仕事中でもすぐにでるわよ」
そう笑いながらいうコータは、いつもと同じように、派手だけどセンスのある化粧をして、虹色のスパンコールのTシャツにダメージジーンズ、真っ赤に染めた肩ほどの長さの髪にと、一見しただけでは性別を判断できないような個性的な格好をしていた。彼はこの姿のまま、アパレルショップで接客をしている。外見からは性生活が想像しにくいが、しょっちゅう相手をとっかえひっかえしながら今は絶賛、現役高校生の男の子と、ライトなSMのパートナー関係を結んでいる。
「それで。今日はどうしちゃったの」
頼んだ二人分のジントニックがボンテージ姿の店員に運ばれてきたところで、コータが真剣につめよってくる。
「うん…それが…今日から、あの前に話した、新しい社長さんがきて…」
「あぁっ、もしかして、ちぃちゃんのタイプだったとか?!イケメン?」
「た、タイプ…ッ」
確かに…顔は、整っている、とは思うが…初対面からコーヒーをぶっかけるような失態をおかし……そんなこと考える余裕などない。
「いや、そういうんじゃなくて…。きょ、今日…まず、いつものとこでコーヒー買って…」
「あぁ、爽やか君がいるところ」
「そう。それで…」
コータを前にして隠し事をできたことはない。私はせっつかれるままに、社長室のことまで含めて洗いざらい話してしまった。
「え、え、え、じゃあ、社長室で、二人きりで、スパンキングされちゃったってこと?!」
コータはマスカラをつけた丸い目をさらに大きく見開いて、囁き声でそう言った。私は自分の頬が真っ赤になっているのを感じながら、ジントニックの残りを一気に飲み干して小さく頷く。私のグラスが空になったのを見計らって、店員がお代わりを尋ねにきた。私がウイスキーを注文するあいだ、コータは口を開けて固まっていた。
「そ、その、社長さん、絶対S男でしょ。もしくはスパンカーとか」
スパンカーは、アブノーマル行為の中でも専門にスパンキングを好み、叩くことで快感を覚える人たちのことだ。
「そういうんじゃない…と思うんだけど…」
人の真意など分からないが、少なくとも私にとっては、あのスパンキングは完全に懲罰としての意味合いしか感じられなかった。
「でもでも。二人きりの空間で、お仕置きされるなんて、Mちぃちゃんからすれば、萌えるシチュじゃないの?」
「いや、だからそういうじゃなくて…」
たしかにスパンキングを特に好んでいるわけではないが、他のいくつかのSM行為と同じく普通だったら萌えるようなものだ。コータの言うとおり、上司に叱られるなんて何度となく妄想するシチュエーションのまんまだ。ただ現実になると…。
「なんか必死で…いっぱいいっぱいになっちゃって…。すっごい、痛かったし…情けなくて泣けてくるし…。でも…」
「でも?」
「ちゃ、ちゃんと頑張って耐えたあとに…ほ、褒めてほしかった…かな…」
コータが私の言葉に、にやにやと頷く。
「うんうん。Mちぃちゃんの心理はそれくらい、複雑で、わがままで、可愛くないと」
コータに全て話したことで自分の気持ちが、楽にはなったが、余計混乱したような気もする。
「でもー、話に聞いた限りだと、雰囲気的には、ちぃちゃんの好みのタイプとはちょっと違うよね?ほら、威圧的なのは、ちぃちゃん苦手でしょ?」
「うん…。やっぱりコーヒーショップのあのお兄さんみたいな…」
「爽やかな、腹黒ドSタイプ!」
爽やかな、のあとは、完全に私たち二人のたくましい妄想でしかないが。
「そ、う。そういえば、今朝。新しい上司が来るんですって話したら、頑張ってくださいって言われたんだ」
「え、いいじゃんいいじゃん!」
それからコータと散々コーヒーショップのお兄さんでまたもや、たくましい妄想を繰り広げ、お酒もすすんだ。私はすっかり酔い気分に浸ってしまったが、明日も仕事だということだけは頭の片隅で覚えていて、このままウチに泊まっていきなよ、とバーの近くに住むコータの誘いを断ってちゃんと終電で自分のマンションまで帰り着いた。
シャワーを浴びた途端、私は髪も乾かさずにそのままベッドに倒れこんでしまい、すっかり目覚まし時計をつけるのを忘れてしまった。
翌朝、目が覚めたのは会社の朝礼の始まる9時を30分も過ぎたときだった。携帯電話には、秘書リーダーの後藤さんから5件の不在着信が入っていた。申し訳なさでいっぱいになりながら、折り返し電話をかける。長いコールのあと、やっと後藤さんが電話にでる。
「おはようございます…っ、渡辺です」
「渡辺くん。体調不良、ですか?」
心配そうな後藤さんの声にますますベッドの上で縮こまる。
「いぇ…あの、寝過ごしてしまって…申し訳ないです…」
「そうでしたか。それなら、いいのですが…」
語尾を濁す後藤さんの様子が気にかかり尋ねると、後藤さんはしばらくの沈黙のあと遠慮がちに小さな声で「あの…俊光様が…お待ちのようなので、できるだけ急いで出社されるのがよいかと…」と、言った。
本当は走ってでも会社に向かうべきだとわかっているのに、足取りは重くなる一方だった。こんなことなら、今日は体調不良だと言って休んでしまえばよかった。そんなことまで考えてしまう。
俊光様に、どんなに怒られるだろうかと考えると、身がすくむ。妄想やプレイならまだしも、実際に職場で叱られるとなるともう、情けなくて仕方がない。
なんとか砕けそうになる自分を励まして、随分と時間をかけて私は会社までたどり着いた。
「後藤さん、ご心配おかけして本当に申し訳ありませんでした」
新人のころは寝坊癖がひどく、そのたびに教育係であった後藤さんには迷惑をかけてきたが、最近では目覚まし時計があれば起きられない日はなかった。遅刻なんてしてしまったのは5年ぶりくらいだ…。
「いいえ。渡辺くんの担当だった13時からの商談の文書作成は、私がやっておいたので、大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます…っ」
「それより…あの、出社次第、自分の元へ来るようにと…俊光様が…」
想像はしていたが思わず、後藤さんに泣きついてしまいそうになる気持ちを抑え「わかり、ました」と、返事をする。
社長室に向かうと受付嬢は私が俊光様の所在を尋ねるより前に、「俊光様は、お部屋でお待ちです。渡辺さんは、すぐに通すようにと申し使っておりますので。どうぞ」と、いつもながら完璧なビジネススマイルで通された。
「失礼します」
社長室に入ると俊光様は電話で話しをしている最中だった。私は静かに扉をしめてその場に立って待つ。俊光様の前のデスクには資料の山ができていて、俊光様は電話で話しながら資料を引っ張り出してメモを取ったりした。一度、会話が終わったかと思えば通話が切れた途端、次の電話がかかってきた。
そうしてやっと電話の波が収まったとき、俊光様がパソコンを起動させながら私を手招きで呼ぶ。
「遅刻の理由は」
俊光様が右手でマウスを動かしながら尋ねる。
「寝過ごし、ました…申し訳、ありま」
「そうではなく。寝過ごしたと、後藤に連絡をいれたあと、こんなにも遅れてきた理由を私は聞いているんだ」
私が返事に窮していると、また携帯電話の着信音が鳴った。けれど俊光様は出ずに、パソコンの画面から目を離して私を見た。
「お前の最寄り駅から、会社までせいぜい30分だ。それなのに、もう11時近いというのは、どういうことだ?」
「申し訳…ありません…」
「意味のない謝罪は時間の無駄だ。ズボンを脱いで下着をおろせ」
私がもたつく手でベルトを外すあいだ、俊光様は鳴りっぱなしだった携帯電話を手に取った。そうして下着までおろした私を放置したまま、しばらく話したのち「5分後に向かう」と、言って電話をきった。
「お前が遅れてきたせいで、時間がない。下着を私によこせ」
私は言われるままに、俊光様に下着を差し出す。俊光様は私の下着を受け取ったあと、後ろを向くように指図する。
ささやかな抵抗心で、出来るかぎりゆっくりと後ろを振り向いた瞬間、パチィイイン、パチィインッと、尻の右側と左側を一回ずつ叩かれた。平手、とはいえ、思わずつま先立ちになるほど、びりびりとした痛みがはしる。
「終業後に、またここへ来い。下着を返すのは、遅刻の仕置きが終わってからだ。お前は今すぐ自分の仕事へ戻れ」
俊光様はそう言うと、尻を出したままの私を置いて急ぎ足で社長室をでていった。
その日はただ目の前の業務になんとか集中しようと、努力することで精一杯だった。下着を没収されたことを、皆にばれるわけでもないのに、ズボンに風が通るたびに落ち着かない。お手洗いに行くのも、人がいないのを確かめてから、個室に駆け込んだ。
終業時間を迎えると、秘書室はすぐに人がいなくなる。皆、一日を分刻みに動く人ばかりで、残業などほとんど行わない。私はいつも誰よりも遅くまで仕事をしている後藤さんのデスクへ向かった。
「渡辺くん、どうかしましたか」
「あの…今朝、仕事を代わってもらったので、なにかお仕事のお手伝いができればと…」
下着がないのは落ち着かないが、社長室へ行くのを伸ばせるものなら、引き伸ばしたい。後藤さんは私の真意など知る由もなく、穏やかに微笑んで首を振る。
「大丈夫ですよ。私も今日はすぐに終わらせて、帰るつもりですから」
望みをたたれて心を沈める私を見て、後藤さんは心配そうに眉を寄せた。
「渡辺くん…新しい社長とは上手くやっていけそうですか」
「俊光、様…ですか。は、はい…これまで通り頑張っていきたいと、思い、ます」
突然、俊光様の話をふられて思いきり動揺する私を、後藤さんは何か言いたげに見つめる。
「なにか…困ったことがあれば、私にいつでも相談してくださいね。秘書リーダーとして、いくらでも社長に掛け合いますよ」
どこまでも穏やかで優しい人だ。思えば、教育係でいたときから、後藤さんには一度も怒られたことなどない。私には、甘すぎる。
「ありがとう、ございます」
「俊光様も優秀なお方、ですからね…。お仕事が早くて驚きます。その分、私たち秘書に求めるレベルも高いのでしょうが」
後藤さんが軽い苦笑まじりに言う。後藤さんが言うなら、俊光様はただの噂ではなく本当に仕事のできる方なんだろう。俊光様から見れば私なんて、とんだ出来損ないに見えているのではないか。
そんなことを思ったとき、秘書室の扉が開いて、俊光様が姿を見せた。
「と、しみつさまっ」
「終業後、すぐに来るようにと言ったのを、忘れたのか」
後藤さんは咄嗟のことに固まる私をちらりと見たあと、早足でやってきた俊光様と私の間にゆるく割って入ってきた。
「申し訳、ございません、俊光様。私が、渡辺くんを呼び止めてしまったんです。あの……今朝のことで」
俊光様は無言で、後藤さんと私を交互に見比べたあと、ため息にまじりに口を開く。
「それならばその話が終わるまで、ここにいるとしよう」
「それには及びません。いま、ちょうど終わりました…。…渡辺くん、今後はよく気をつけて下さいね」
後藤さんに優しく見つめられて、必死に頷く。
「はい、わかっています。後藤さん」
「それならば、行くぞ」
早足で先に行ってしまう俊光様を追いかけつつ、ほんの一瞬振り返って、後藤さんに頭をさげる。後藤さんは、笑顔のまま小さく頷いた。
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