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はじめては、定規

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 朝9時からの秘書室に8人の秘書と社長室の受付嬢、社長が集まって行う朝礼は、前社長のときからの日課だった。1日の全体のスケジュールと、個人の仕事を確認し合う。いつもと変わらない朝礼の時間が、今日は心臓の鼓動と吐き気が治らないなか、むかえることになった。


 横一列で並んで社長を待つあいだ、となりでは受付嬢たちが私の心持ちとは対照的に、いつもより色めき立っている。


「俊光様って、イギリスで随分と業績を伸ばされて…」

「でも俊光様って、春道様が31歳のときの息子さんなんでしょう?っていうことは、まだ34歳ってこと…?」

「やり手の若社長なんて、素敵ねぇっ!」

 34歳であれば、私と4つしか違わないではないか。それなのに相対した時に感じたあの存在感と威圧感は…。

「おはようございます」

 秘書室の扉が開いて、総務部長と俊光様が現れて、皆が一斉に挨拶をする。そして俊光様の後ろに、あの灰色のスーツを着た眼鏡の男が入ってきて扉を閉めたところで、総務部長の咳払いが部屋に響く。

「えー、こちら、本日より、我が社の代表取締役に就任されました、河野俊光さまです」

 俊光様のスーツは、当たり前のごとく全く別のこげ茶色のものに変わっていた。スーツの色に合わせて、ネクタイも新しくなっている。

「そしてこちらが俊光様を日々サポート致します、秘書たちです。奥におりますのが、社長室の受付嬢たちです」

 俊光様は総務部長の紹介を聞きながら、さらりと私たちに目線を流した。私は隠れようもないのに、なるべく目につかないようにと縮こまる。それでも俊光様の視線が二度も、私のところで止まったような気がした。もうとっくに気がつかれているだろう。

「すっごい、ステキな方ね…」

 受付嬢のひそひそ声が頭に響く。俊光様は、そうしてゆったりと私たちを眺めたあと、やっと口を開いた。

「早く名前を覚えたい。みんな、軽い自己紹介をしてくれ。佐久間、お前から」


 佐久間、と呼ばれて前に出たのは、あの灰色スーツの眼鏡の男だった。

「俊光様のプライベート秘書の佐久間と申します」

 佐久間さんは淡々と早口で述べて頭を下げた。プライベート秘書、というのは、会社で雇われている私たちグループ秘書とは違い、個人で契約を結ぶ社長の仕事業務ではなく日常生活をサポートする秘書である。

 前社長にもプライベート秘書が1人いて、その人にだけ社長室と扉一つ隔てたところに個室の秘書室を与えられていた。社長と同い年くらいの男性で秘書の中でも最年長で交流もあまりなかった。

 対して、佐久間さんは秘書の中でも最年少の私と同い年くらいだろう。といっても、初対面であんな醜態をさらして、友好を深められる可能性など無に等しいが。

 佐久間さんに続いて、私たちの秘書リーダーである後藤さんから、挨拶を始める。皆、新しい社長を前に、緊張しているはずなのに、聞こえてくる声からはそんなもの微塵も感じられない。

 私の順番が回ってきて、心臓が口から飛び出してしまいそうな心持ちのまま、転がるように一歩前に出た。

「よ、ろしくおねがい、致します…。あ…っ…、渡辺千尋と申します…」

 自分の靴の先を見つめながら、早く終わらせたい一心で、吃りながらも言いきる。すぐに次の受付嬢へ順番を譲ろうと、さがりかけたとき「待て」と、俊光様の鋭い声がかかる。

「渡辺。挨拶、もう一度やり直せ」


 頭が真っ白になって、目がちかちかする。

「は、はい…っ…。わたくし、渡辺、千尋と申し…」

「もう一度」

「わたくし、渡辺…」

「もう一度だ」

 受付嬢たちがずっと続けていたひそひそ話をやめ、静まり返った部屋に、俊光様の声が響く。怒鳴られているわけでもないのに、心臓が絞られたように痛い。手の先がじんじんとして、感覚がなくなっていく。私はフローリングの模様を穴のあくほど見つめた。

「わ、わたくし…」

「もう、いい。次だ」

 何度やり直しさせられたか分からない。唐突に冷たく切り捨てられ、よろよろと一歩下がって列にもどる。

 がんがんと脈打つ頭の片隅で、受付嬢の自己紹介と、俊光様が軽い挨拶をされているのを聞いていた。1日のスケジュール確認も終わり、皆ばらばらと解散して自分のデスクへ別れていく。

「渡辺千尋」

 自分も早く自分のデスクへ向かわなければと、固まった足をなんとか動かしたとき、低い声がざわめきの中を打ち破って私の耳に届く。

「私の部屋まで来い」

 息がとまる。吐き気は最高潮に達した。







 社長室には日に何度も出入りしていたのに、こんなに緊張しているのは新人のとき以来だ。

 物の多かった前社長のときに比べてシンプルに模様替えされていたが、前はなかった大きな本棚が壁に沿っていくつも出現していた。俊光様の私物らしく、背表紙を見る限り洋書が多く並んでいる。

「渡辺。なんで呼ばれたかわかるか?」

 私は部屋の真ん中に立ち、俊光様は大きなデスクに軽く寄りかかるようにして立っていた。

「あの。こ、コーヒーの、件…でしょうか…」

「それは、もういいと言っただろ。謝るなら佐久間に余計な仕事を増やしたことを 謝っておけ。そうではなく…お前の挨拶の仕方があまりにも、なっていないことについてに決まっているだろう。もう一度、ここでやってみろ」

 私は戸惑いながらも、挨拶をする。さっきみたいに止められることはなく、「よろしくお願いします」まで言いきって、俊光様の顔色をうかがうために、目線を上げる。黒い瞳は私をまっすぐに見つめていて、心臓がまた一気に跳ね上がった。無言で見つめられるほど、気詰まりなものはない…。

「あ、あの…これでよろしいですか…?」

 俊光様は無言のまま、私との距離を詰めた。目の前に立たれて、背中を汗がつたう。

「いいわけないだろ。……なんでやり直しさせられてるか、わかるか?」

「わ、かりません…」

 伏せた顔の顎を持たれて、ぐっと顔をあげられる。至近距離で俊光様に射すくめられて、涙がこぼれてしまいそうになる。


「人と話をするときは、目を見ろ。こんなもの、常識だろう。そんなんで、大切な顧客の応対など務まるのか?」

 掴んだ顎を勢いよく離されて、身体がよろめく。こんな惨めな思いをしたのは初めだ。

「わたしを、取引先の社長だと思って名刺を出して挨拶してみろ」

「はいっ…!」

 名刺交換なら、慣れている。目を見たままそう返事をしてから、名刺入れが鞄の中に入っていることを思い出す。

「あ、…あの…名刺入れを取りにいっても宜しいですか…」

 俊光様は、私の申し出に深いため息をつく。

「名刺を数枚ポケットに準備しておくのも、ビジネスマンとしての常識じゃないのか?」

 そんなこと…っ…交換する予定があるときは、いつもちゃんとポケットに用意している。ただ今日は…!そんな、言葉をぐっと飲み込む。

「駆け足で、取って来い」

 俊光様はそう言って、私の尻をバシンッと決して軽くとはいえない力で叩いて急かした。




 私が挨拶を繰り返すたび、俊光様は「違う、そうじゃない」と、そのたびに私の両手から名刺を叩き落としていった。社長室の床にはもう数十枚の私の名刺が散らばっている。

「この私が、わざわざ相手をしてやっているというのに、お前は全くやる気がないな」

「そんなことは…っ」

 やる気なら有り余るほどある。一刻も早く終わらせて、この部屋から退出したいと願っている。

「それならばなぜ全く、進歩がない?」

 自分なりにいつもやっているように挨拶はできているし、頑張って俊光様の黒い瞳も見ている。

「わ、わたくしは…精一杯…」

「しかたがない。私が指導してやるしかないようだ」

 俊光様は私の言い訳など耳にかさず踵を返して、なぜかデスクに向かい、引き出しを開けた。俊光様が引き出しから取り出したのは、木製の30センチ定規だった。

「イギリスの学校では、昔は教育のために細長い鞭が使われていたのを知っているか?」

 俊光様は、右手で定規を握ってしならせながらパシンッと軽く左手に当てた。

「ズボンをおろせ」

 俊光様に静かに命じられて、逆らうという選択肢など私にはなかった。みっともなく震える手でベルトをとって、ズボンのボタンをはずす。そろそろとズボンをおろすと、足が涼しくなって頬は熱くなる。

「下着もとって、後ろを向け」

「し、下着は…」

 俊光様は私にぐっと躙り寄ると、腰をつかんで上半身を前に押し倒し、右手の定規をパシィインンッと尻に振り下ろした。

「ぃっ……っ!」

 布一枚ごしで音は軽いが、十分な痛みが走った。

「さっさと、尻を出せ。私に逆らえばそのぶんだけ痛い思いをすることになるぞ」


 私はそうして尻を出したまま、社長室の真ん中に立たされた。後ろを向いたことで俊光様には尻を晒し、目線の先には鍵のかかっていない社長室の扉がみえた。

 我慢できずに、ぽろり、と涙が頬を流れ落ちる。俊光様に見られる前に拭ってしまいたかったのに、漏れでた嗚咽ですぐにばれてしまう。

「まだ泣くのは早い。指導はこれからだ、ほらもう一度挨拶してみろ。ミスするたびに尻叩きだ」

 俊光様は私の真横に来て、尻に定規を添えながら言った。

「はぃ………。わ、わたくし…」

 バシィインンッ!!!と初めの衝撃。下着の上からとは比べ物にならない、ビリビリと張り付くような痛み。

「あぁっ…んんっ…」

「姿勢が悪い。もう一度」 

 俊光様の声は冷たい。



バシィインンッ!!!
「ぁぁっ…!!!」
「顔を下げるなと言っただろ、もう忘れたのか」

バシィインンッ!!!
「ぁんっ……っ」
「もっと堂々と喋るんだ。もう一回」

バシィインンッ!!!
「ひぃっ…ぃっ…!!」
「姿勢!!」

 何度も定規は振り下され、風を切る音と刺すような痛みが尻を襲う。涙はぼろぼろと拭う暇もなく流れ落ちて、目の前は霞んでいく。頭が朦朧としてきたとき、「渡辺」と静かに俊光様が名前を呼んだ。

「……っく…ぃっ…はぃ…」

「今日のところはこのくらいにしてやる」

「は、はぃ…」

「床の名刺を片付けろ。それから、その泣き顔をなんとかしてから戻れ」

 痺れた手で下着とズボンを戻す。多分真っ赤に腫れているだろう尻は布が擦れるだけで、痛みが走った。


 頬の涙をぬぐいながら、床に散らばった名刺を集めているとき、社長室の扉が開いて佐久間さんが入ってきた。

「俊光様。買い物を済ませてきました」

 佐久間さんは一度私を見下ろしたが、目に入らなかったかのように素通りして事務的な口調でそう述べて、俊光様に紙袋を手渡した。

「ありがとう。悪いが、すぐに飲み物を買ってきてもらえると助かる」

「承知しました」

 佐久間さんが部屋を出てすぐに、名刺を拾い終わってしまいこのまま部屋を出れば鉢合わせすると気が重くなった。けれど、社長室でぐずぐずするわけにもいかず「失礼します…」と、呟いて廊下に出ることになった。



 案の定、佐久間さんには、エレベーター前で追いついた。

「さくま、さん」

 エレベーター待ちをしながら、手帳を開いていた佐久間さんは顔を上げて私を見る。

「はい」

 佐久間さんは長い前髪と眼鏡で、瞳が隠れて表情が読み取れない。

「あの、俊光様のスーツの件、佐久間さんにお手間をとらせたと伺いました…申し訳ありませんでした…」

「いえ、大したことでは」

「あの、汚れたスーツは…」

「処分したので、お気遣いなく」

 そこでエレベーターが到着して2人して乗り込んだが、エレベーターの中の空気は重かった。

「渡辺さん」

 一階下にエレベーターがとまり降りようとしたとき、佐久間さんが私を呼び止める。

「はい?」

「せめて、俊光様のお荷物にはならないようにしてくださいね。…それだけです」

 佐久間さんが眼鏡を押し上げ、エレベーターの扉は閉じる。私はエレベーターの前でひとり立ち尽くした。
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