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最悪な出会い

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「渡辺さん、いらっしゃいませ。いつもの、ブラックコーヒー、テイクアウトですね」
「はい、お願いします」

 私は財布から340円を取り出して、手渡す。

出社前、駅から少し歩いた小さなコーヒーショップに寄って、ブラックコーヒーを頼むのは数ヶ月前から習慣になっている。

スーツ姿のサラリーマンが溢れかえった満員電車での疲れを癒し、頭を今日1日の仕事モードに切り替える。


 と、いうのは、もっともらしい建前で、本当はそのコーヒーショップで働く、自分よりも5歳は若いように見えるお兄さんが目当てだ。

白いシャツに、コーヒーショップのロゴの入った焦げ茶色のエプロンがよく似合うその店員は、毎日のようにレジに立っている。

「渡辺さん、今日はいつもと髪型が違いますね」

 渡辺、と彼に名前を覚えられているのは、一度会社の昼休憩中にここのコーヒーが飲みたくなって買いに来た時、うっかり社員証を首からぶら下げたまま来てしまってからだ。

それ以来、こうしてコーヒーが出来上がってくるのを待つ間、気軽に話しかけられるようになった。…と、言っても、私の方は彼の名前も知らないのだけど。

「今日から、新しい上司の方がいらっしゃるので、いつもより身支度に時間をかけたので…」

「新しい上司ですか。そういうの無駄に緊張しますよね」

 彼が同情たっぷりに頷いてくれたところで、コーヒーが出来上がってくる。

「ブラックコーヒーおひとつ、お待たせしました」

 私に差し出されるコーヒーカップをつかむ長い指先。

 彼のこの爽やかな笑顔のまま、
 この指で、
 首を絞められたら…!

 ぞくぞくっと内側から震える身体を悟られないように、平静を装ってカップを受け取る。

「新しい上司さんとのお仕事、頑張ってくださいね!」





 お兄さんに図らずも「頑張ってください」と言ってもらい、軽い足どりで会社までの道をいく。彼のおかげで今朝の緊張も少しほぐれた気がする。

 広告業を大手に扱う会社で秘書として働いている私は、今日「新しい上司」即ち「新しい社長」と初めてお会いすることになっていた。前社長の、河野春道様がご隠居なさることになり、海外支部の支部長をされていた息子の河野俊光様が跡を継がれることになった。

 前社長は社長という立場にありながら、一般的想像される威張り散らすようなタイプではなく、私たち秘書たちにまで丁寧に気を遣ってくださるような方だった。何代も前から続くこの大会社を受け継がれ、古くからお世話になっている顧客を大切にしながら淡々と社長業をこなされていた。

 けれど、息子の俊光様はといえば彼が支部長に就任されてから、元は細々とやっていたヨーロッパ支部は新規開拓に積極的に手をのばし、飛躍的に業績を伸ばしていったという。

 秘書たちの間では、そんな俊光様が社長になられると決まってから、今日この日まで妙な緊張感が漂っていたのだ。

 せめて、地味に平穏に…仕事ができればそれでいい…。

 そんなことをぼんやりと考えながら会社の社員口を抜けると、ちょうどエレベーターが1階に到着したようで、エレベーターの扉が開いているところだった。秘書室は、最上階である社長室の一階下の41階にある。一回、エレベーターを逃すと随分と時間がかかってしまう。

「そのエレベーター、乗りま…っ」

 咄嗟に駆け出した私は、何につまずいたわけでもないのに、足がもつれて走りながらバランスを大きく崩してしまう。

 仕事の資料の詰まった重い鞄に身体が持っていかれ、右手のコーヒーカップがするりと指から離れ落ちていく。目の前には男性社員が1人。



「あっ……っ!!」



 ばしゃんっと不快な水音と、私が床にダイナミックに転ける音が、エレベーター前に響きわたる。


「…っ………」



 気がつくとぶざまに床に両手と膝をついていた私は慌てて顔をあげる。そうして、最悪な状況を一瞬で飲みこんだ。私の真横で私を見下ろし立っている男の紺色のスーツには、コーヒーが盛大にぶちまけられていた。

「も、申し訳ありません!!!!!」

 男は感情の読めない無表情で、私を見つめる。私が立ち上がってもまだ見上げなければ長身の男で、襟足の短い黒髪は綺麗に整えられ、その髪と同じ真っ黒な瞳をしていた。おそらく私よりもすこし年上。襟の形の綺麗な白いシャツに、身体に馴染んだ清潔感のある紺色のスーツを着こなしていた。ただそのスーツには私のコーヒーのシミが…。

「く、クリーニング代を……」

 クリーニング代…は出すとしても、今日1日のこの人にコーヒーまみれのスーツを着てもらうわけにはいかないではないか…。

「…ど、どうすれば…」

 慌てる私と、いまだ無言の男との気まずい空間に、いきなり灰色スーツの男性が駆け込んでくる。

「俊光様、お待たせしました。いま、確認が…」

 早口で話しかけてきた灰色スーツの男性は、状況を目にして一瞬固まり、黒いふちの眼鏡の奥で片眉をあげて私と、床に転がるコーヒーカップを眺めたあと、何事もなかったかのように、

「…いま、確認がとれました。俊光様、あとで資料をお持ちします。…それから、早急に代わりのお召し物をご用意致します」

 と、言った。私は一気に冷水を浴びせられたような心持ちになる。

 目の前にいる私がコーヒーをぶちまけた男は、俊光様…つまり、新しい若社長だったのだ。

「あ、あああの、誠に、申し訳ございません…!」

「もういい」

 勢いよく頭を下げた私の頭上から、初めて俊光様の低い声が降りかかる。私の両手は冷たい汗でぐっしょり濡れている。

 いっそこのまま消えてしまいたいと、本気で願った。
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