上 下
19 / 25

5.ジョッキーになりたい女性

しおりを挟む
 貴方はある程度人生が過ぎたときに、しまったと思ったことはあるかな?
 ミライにはある。どんなことを後悔しているのかと言えば、23歳になった時だった。

 この日、私ことミライは競馬場に来ていたんだ。
 女友達に誘われて、ただ何となくついてきただけだったんだけど……ここで初めて競走馬というウマがいることとか、それに乗るジョッキーという職業があることを知った。
「でも、男の人ばかりだよ?」
「ううん、そんなことないよ。少ないけど女性騎手もちゃんといるから」

 元々が動物好きだった私は、すぐにジョッキーという仕事に興味を持った。
 何というか、この仕事が私に合っていると直感しちゃったんだよね。私は学生時代から好き嫌いははっきりした女だったけれど、好きだと一度思ったモノは必ず出来た。
 だから私のテストの成績って、常に30点ギリギリか90点以上かと極端だった。その今までの勘で……ジョッキという仕事はミライに合っていると感じたワケ。


 家に帰って調べてみたけれど、このジョッキーという仕事って、思い立ったらなれるほど簡単なモノじゃなかった。
 普段なら、そっか……ならしょうがないと諦めてお終いだったんだけど、今回ばかりは諦めきれなかった。それくらいウマの乗り手という仕事が私に合っていると思ってしまったの。

 でも、これだけ歳を重ねてしまったことだけはどうしようもない。
 私にとっての天職だと思うけれど、この歳まで騎手という仕事に会えなかったのは、結局は縁がなかったんだと諦めることにしたんだ。
 だけど……諦めようとすればするほど、ジョッキーになりたいという気持ちが出てくる。競馬場に行ってから2週間もすると、夢にまで私がウマの背に乗って競馬場のレースに出ている光景を見るまでになってしまった。

「私……精神科にでも行った方がいいのかなぁ?」
 ベッドから起き上がりながら呟くと、横から声が聞こえてきた。
「どうしたんだい? 何か困りごと?」
 まず男の人の声だったので驚いたけれど、横を見ると心臓が飛び出すくらい驚いていた。
 何とそこには、黒毛のサラブレッドのようなウマが座っていたの。

 私って独り暮らしをしているから、自分以外の人間がいることがまず信じられないし、そのうえにウマが喋るなんて普通じゃない。そもそも、私も色々とウマについても調べているけれど、人と同じように喋るウマなんて話……聞いたことないよ。
「ああ、驚かせてしまってごめんね。表を歩いていたらさ……君がうなされている声が聞こえて来てね」
「……そうだったの。心配かけてごめんなさい」

 そう答えながらも、私は生唾を呑んだ。
 目の前には憧れの生き物であるサラブレッドがいる。競馬場とか動物園に行けば見ることくらいはできるけど、こんなに目の前にいて、増しては喋れる個体なんて……一生に一度の奇跡だと思う。
「ちょっと、触らせてもらっていい?」
「構わないよ」
「…………」
 手を伸ばして黒毛ウマを触ると、凄く暖かいし体中の筋肉をしっかりと感じた。
 毛並みは手入れされているかのようにフサフサだし、ウマの顔ってとても大きいし長い。それにウマの目って人間と比べても横についているんだね。これなら確かに広い範囲を見える。

 大好きなウマに触った私は、心臓が高鳴っていた。
 実は今まで彼氏がいたことはないけれど、実際にお付き合いしている男性に触ると、こんな気持ちになるのかもしれない。
「ありがとう……触れただけでも満足だよ」
「どういたしまして! 何だか……深刻そうな悩みがありそうだね?」

 ウマがとても心配そうな顔をしてきたので、私は言おうかどうか迷ったけれど、この際だから言ってしまうことにした。
「実は私……ジョッキーになりたいと思ったの。だけど……競馬の騎手という仕事を知ったのが最近でね……」
「ああ、憧れの職業に出逢うのが遅すぎたんだね」
「うん。だから何度も諦めようとしたけれど……諦めきれなくて……」
 ウマはじっと私を眺めてきた。
「なるほど。因みに競馬の騎手以外に……まだ間に合いそうな仕事は?」
「それも……いろいろと……考えたんだけど……やっぱり、夢に出て来るのってジョッキーばかりで……」
「…………」

 自分で言っていて、何だか恥ずかしくなってきた。
 こんなこと言ったところで、このお馬さんを困らせるだけだと思う。もしかしたらおウマの神様かもしれないのに、私に付き合ってくれている存在なのに……。
「ごめんなさい。仕事とかでノイローゼになっているのかも。今度心療内科にでも行ってくるよ」
「うーん……そうだね。試しに……ちょっとだけ乗ってみるかい?」
「え……?」

 私は驚いていたけれど、そのウマはにっこりと笑ってくれた。
「君と小生の姿を見えないように配慮するから、実際にやってみようよ……案外こんなものかと思うかもしれないし」
「い、いいの……? ありがとう」

 こうして私は、不思議なウマの背に乗ってアパートの近くを1周した。
 ウマは自分の脚では、原動機付自転車にも勝てないと苦笑いしながら話してくれたけど、私はウマの背中ってこんなに視野が高くなるんだって、とても嬉しく思っていた。

 こんなに素敵な乗り心地だと……夜も寝られなくなっちゃうよ!
 
しおりを挟む

処理中です...