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惑い
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「失礼致します。お食事のご用意が整いました」
食らいついた直後に響いた声にぴたりと彰久の動きが止まる。その隙に彼の下から逃げおおせて、幸菜は慌てて身繕いした。
「す、すぐ行きますのでっ」
やや口早な返事をすると、衣擦れの音が遠ざかっていった。
だが胸を撫で下ろしたのも束の間のことで、背後から肩を掴まれ一気に血の気が引いていく。
「お前というやつは……」
おどろおどろしい声に、ひいっと情けない声が上がる。
怨念にも近い、恨みのこもった眼差し。その奥には溶岩のような怒りが滾っている。
歯軋りの音まで聞こえてきそうなほどの苦い顔で睨まれて、ひくりと喉が痙攣した。
あんなあからさまな逃げ方、怒らないはずがない。火に油を注いでしまったことに今更ながら気がついた。
「あ、あの……」
「いい。行け」
弁明の余地もなく、ぴしゃりと遮られる。
青ざめて身を震わせる幸菜の頭には悪い未来ばかりが過っていた。
逃げてはいけないとわかっていたはずなのに、咄嗟に自制の効かなかった自分が情けない。何とかしなければと思うのにどうしていいのか見当もつかず、焦りばかりが生まれ出る。
腹の底から吐き出された息に大きく体が跳ねた。彼の一挙一動が恐ろしくて堪らなかった。
これ以上、彼の意に反してはいけない。取り返しのつかないことになる。
何を言われても甘んじて受け入れる覚悟で沙汰を待っていると、もう一度、今度は軽い溜息が聞こえた。
「行けと言ったはずだが」
「あの……でもっ、」
「でも、なんだ。奉仕するわけでもないのだろう?」
じろりと見られても、それが何を指すのか知らない幸菜には是とも否とも答えられない。
おろおろするばかりの彼女をそれみたことかと小さく笑って、彼は手をひらつかせた。
あれほど怖かった表情が、瞬きの間に挑発的で蠱惑的なものに豹変した。危うげな光を宿す黒い瞳が意識を攫う。
「次があると思うな」
それは脅迫とも威圧とも違う、けれど従わずにはいられない迫力を孕んでいた。
こくりと喉が鳴る。
きっと、その言葉に偽りは無い。今度こそ逃してもらえないと本能的に理解した。
ぎらりと熱のこもった眼差しに抗えず降伏すると、彼は立ち上がり、渡殿へと足を向けた。
「え、何処に…」
尋ねるよりも早く、彼は一言「湯殿」とだけ言い置いて座敷を出た。
荒い足取りで渡殿へと向かう後ろ姿を、途方に暮れた顔で見送る。
無事逃げられたことを安堵すべきなのに、本当にこれでいいのかと胸が疼いて落ち着かない。
彼の姿が見えなくなっても、幸菜は座敷へと戻れずしばらく立ち尽くした。
食らいついた直後に響いた声にぴたりと彰久の動きが止まる。その隙に彼の下から逃げおおせて、幸菜は慌てて身繕いした。
「す、すぐ行きますのでっ」
やや口早な返事をすると、衣擦れの音が遠ざかっていった。
だが胸を撫で下ろしたのも束の間のことで、背後から肩を掴まれ一気に血の気が引いていく。
「お前というやつは……」
おどろおどろしい声に、ひいっと情けない声が上がる。
怨念にも近い、恨みのこもった眼差し。その奥には溶岩のような怒りが滾っている。
歯軋りの音まで聞こえてきそうなほどの苦い顔で睨まれて、ひくりと喉が痙攣した。
あんなあからさまな逃げ方、怒らないはずがない。火に油を注いでしまったことに今更ながら気がついた。
「あ、あの……」
「いい。行け」
弁明の余地もなく、ぴしゃりと遮られる。
青ざめて身を震わせる幸菜の頭には悪い未来ばかりが過っていた。
逃げてはいけないとわかっていたはずなのに、咄嗟に自制の効かなかった自分が情けない。何とかしなければと思うのにどうしていいのか見当もつかず、焦りばかりが生まれ出る。
腹の底から吐き出された息に大きく体が跳ねた。彼の一挙一動が恐ろしくて堪らなかった。
これ以上、彼の意に反してはいけない。取り返しのつかないことになる。
何を言われても甘んじて受け入れる覚悟で沙汰を待っていると、もう一度、今度は軽い溜息が聞こえた。
「行けと言ったはずだが」
「あの……でもっ、」
「でも、なんだ。奉仕するわけでもないのだろう?」
じろりと見られても、それが何を指すのか知らない幸菜には是とも否とも答えられない。
おろおろするばかりの彼女をそれみたことかと小さく笑って、彼は手をひらつかせた。
あれほど怖かった表情が、瞬きの間に挑発的で蠱惑的なものに豹変した。危うげな光を宿す黒い瞳が意識を攫う。
「次があると思うな」
それは脅迫とも威圧とも違う、けれど従わずにはいられない迫力を孕んでいた。
こくりと喉が鳴る。
きっと、その言葉に偽りは無い。今度こそ逃してもらえないと本能的に理解した。
ぎらりと熱のこもった眼差しに抗えず降伏すると、彼は立ち上がり、渡殿へと足を向けた。
「え、何処に…」
尋ねるよりも早く、彼は一言「湯殿」とだけ言い置いて座敷を出た。
荒い足取りで渡殿へと向かう後ろ姿を、途方に暮れた顔で見送る。
無事逃げられたことを安堵すべきなのに、本当にこれでいいのかと胸が疼いて落ち着かない。
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