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本来のSMと愛のあるSMと
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とある場所で...
本来のSMには愛だの恋だのはない!そんな事をいう奴は偽物。何もわかってない!
ぐらいの勢いで書いている方がおりました。
ああ~そうなのねえ...と流し読みしたんですが。
私はこの意見に半分同意です...
なぜ半分なのかと言いますとそれは...
ということで、
私の考える本来のSM
と
私が唱える愛のSM
を改めて語ってみようと思います。
あくまでも私の考えでマゾ目線として、聞いてくださいね。
まず、本来のSMですが...
愛や恋などそこには無いですね。
うん、ない。
これは私も思います。
いつもツイッターでSMは愛だ!って言ってるじゃないか!!と怒られそうだけど...苦笑
けどね、私も本来のSMとは純粋な加虐被虐の世界だと思ってるんです。
SがMをボロボロにして痣だらけにして、骨折させて傷だらけにさせて血でぐちゃぐちゃにさせて、人間の尊厳を全て捨てさせて...ただのマゾにさせる。あるのはひたすら残酷なまでの救いようのない被虐ですよ。
これこそ、SMじゃないでしょうか?
それこそ、マゾが望んでるものだと私は思います。現に私も望んでる。
人間を捨てたい。
パートナーにただボロボロにされるために飼われたい。鞭で打たれるだけの、絶望を味わいたい。
それだけですよ。本来、望んでるのは。
それこそSMだと思います。
でもね、
それ...本当にできますか?
Sが社会的な立場を捨ててまで
それを実行できますか...?
Mの同意があったとしても、
Mがボロボロぐちゃぐちゃにされて
瀕死の状態になったときに、
死んでしまったときに、
Sは逮捕されないと言えますか?
刑務所に入れられて、服役して、、
それをSは...受け入れられますか?
そんなことできますか?
もちろんできる人もいると思うけど
多くの人は無理でしょう。
また、M自身も全てを捨ててそこまでボロボロになれるかと言ったら難しい。
結局ね、、
本来のSMはファンタジーに近いんですよ。
でも、サディストやマゾヒストであれば
そんな破壊願望、破滅願望は心に秘めていますし、欲求を満たすことで、実際に性的快感につながります。
と、いう前提のもとで
愛のあるSMとは何か?を改めて書いてみますね。
さて...人は恋人同士、愛し合う者同士になると大抵の人はSEXをしますよね。SEXをするのは特別な相手同士の特権といえます。
(ただの快感を求めてSEXする人は別として)
SEXをする意味って、
この人なら愛せる。もっと深く知りたい、もっと愛し合いたい、裸を見せられる、許せる、と思って抱き合うと思うんですよね。
言わば、ほかの人には決して見せることのない本能的な自分を曝け出すことだと思うです。ただの男と女になり、性的な行為を行うのです。
そこで、、
ノーマルの性癖なら普通に抱き合って挿入すれば成り立つのかもしれないのですけど
サディストとマゾヒストはそうはいきません。
加虐被虐の本能が間違いなく湧き上がります。それが性的に感じるからです。
だから苦しみます。
ノーマルSEXでは満足がいきません。満たされません。常に演技する羽目になります。
本来の自分を曝け出して本能で愛し合うはずのSEXが演技でしかなくなるから、苦痛でしかなくなるんですよね。
....わたしは、愛し合うというのは
お互いの全てを受け止めて全てを認めることだと思っています。
ですから、
サディストはその加虐的欲求を
マゾヒストはその被虐的欲求を
相手に許諾されることに愛を感じるのだと思ってるのです。
ただサディストやマゾヒストが望む行為は、実際には残酷すぎて全ての欲求は叶えられないかもしれません。いや、ほんと無理だと思います。
しかし、その心だけでも受けとめ合える。理解し合える。
その認め合い分かち合うことが、愛のあるSMだと私は思うのです。
一方的にやりたいことをやって、ある程度の行為で妥協して....とりあえずの快感を得るのではなく、
お互いの本能を心によって交えて、精神的な満足を得る...そんなSM。それが愛のあるSM。
だから相手がサディストでなければなりませんし、マゾヒストでなければなりません。
そうじゃないとお互いが理解できないから。
ただ、
サディスやマゾヒストと一言にいってもそれぞれに異なる感性や嗜好性があるのだと思いますから、同じ感性を持っていればいるほど
深く愛し合える...
己が望むSMに精神的に堕ちることができるのです。
だから、感性がぴったりのパートナーと出会えたことはほんとに奇跡なんですよ。
単に性癖を満たすために加虐被虐をするじゃなくて...
マゾに生まれてしまった自分を受け入れてもらえる、存在から認めてもらえる。
私の望む被虐行為を深く理解して、また相手もそれを望んでいる。
その上で人を保ちながらSMをする。
これって愛以外になにかあるんでしょうか?
愛のあるSMができることを、
私はパートナーに毎日、感謝しています。
本来のSMには愛だの恋だのはない!そんな事をいう奴は偽物。何もわかってない!
ぐらいの勢いで書いている方がおりました。
ああ~そうなのねえ...と流し読みしたんですが。
私はこの意見に半分同意です...
なぜ半分なのかと言いますとそれは...
ということで、
私の考える本来のSM
と
私が唱える愛のSM
を改めて語ってみようと思います。
あくまでも私の考えでマゾ目線として、聞いてくださいね。
まず、本来のSMですが...
愛や恋などそこには無いですね。
うん、ない。
これは私も思います。
いつもツイッターでSMは愛だ!って言ってるじゃないか!!と怒られそうだけど...苦笑
けどね、私も本来のSMとは純粋な加虐被虐の世界だと思ってるんです。
SがMをボロボロにして痣だらけにして、骨折させて傷だらけにさせて血でぐちゃぐちゃにさせて、人間の尊厳を全て捨てさせて...ただのマゾにさせる。あるのはひたすら残酷なまでの救いようのない被虐ですよ。
これこそ、SMじゃないでしょうか?
それこそ、マゾが望んでるものだと私は思います。現に私も望んでる。
人間を捨てたい。
パートナーにただボロボロにされるために飼われたい。鞭で打たれるだけの、絶望を味わいたい。
それだけですよ。本来、望んでるのは。
それこそSMだと思います。
でもね、
それ...本当にできますか?
Sが社会的な立場を捨ててまで
それを実行できますか...?
Mの同意があったとしても、
Mがボロボロぐちゃぐちゃにされて
瀕死の状態になったときに、
死んでしまったときに、
Sは逮捕されないと言えますか?
刑務所に入れられて、服役して、、
それをSは...受け入れられますか?
そんなことできますか?
もちろんできる人もいると思うけど
多くの人は無理でしょう。
また、M自身も全てを捨ててそこまでボロボロになれるかと言ったら難しい。
結局ね、、
本来のSMはファンタジーに近いんですよ。
でも、サディストやマゾヒストであれば
そんな破壊願望、破滅願望は心に秘めていますし、欲求を満たすことで、実際に性的快感につながります。
と、いう前提のもとで
愛のあるSMとは何か?を改めて書いてみますね。
さて...人は恋人同士、愛し合う者同士になると大抵の人はSEXをしますよね。SEXをするのは特別な相手同士の特権といえます。
(ただの快感を求めてSEXする人は別として)
SEXをする意味って、
この人なら愛せる。もっと深く知りたい、もっと愛し合いたい、裸を見せられる、許せる、と思って抱き合うと思うんですよね。
言わば、ほかの人には決して見せることのない本能的な自分を曝け出すことだと思うです。ただの男と女になり、性的な行為を行うのです。
そこで、、
ノーマルの性癖なら普通に抱き合って挿入すれば成り立つのかもしれないのですけど
サディストとマゾヒストはそうはいきません。
加虐被虐の本能が間違いなく湧き上がります。それが性的に感じるからです。
だから苦しみます。
ノーマルSEXでは満足がいきません。満たされません。常に演技する羽目になります。
本来の自分を曝け出して本能で愛し合うはずのSEXが演技でしかなくなるから、苦痛でしかなくなるんですよね。
....わたしは、愛し合うというのは
お互いの全てを受け止めて全てを認めることだと思っています。
ですから、
サディストはその加虐的欲求を
マゾヒストはその被虐的欲求を
相手に許諾されることに愛を感じるのだと思ってるのです。
ただサディストやマゾヒストが望む行為は、実際には残酷すぎて全ての欲求は叶えられないかもしれません。いや、ほんと無理だと思います。
しかし、その心だけでも受けとめ合える。理解し合える。
その認め合い分かち合うことが、愛のあるSMだと私は思うのです。
一方的にやりたいことをやって、ある程度の行為で妥協して....とりあえずの快感を得るのではなく、
お互いの本能を心によって交えて、精神的な満足を得る...そんなSM。それが愛のあるSM。
だから相手がサディストでなければなりませんし、マゾヒストでなければなりません。
そうじゃないとお互いが理解できないから。
ただ、
サディスやマゾヒストと一言にいってもそれぞれに異なる感性や嗜好性があるのだと思いますから、同じ感性を持っていればいるほど
深く愛し合える...
己が望むSMに精神的に堕ちることができるのです。
だから、感性がぴったりのパートナーと出会えたことはほんとに奇跡なんですよ。
単に性癖を満たすために加虐被虐をするじゃなくて...
マゾに生まれてしまった自分を受け入れてもらえる、存在から認めてもらえる。
私の望む被虐行為を深く理解して、また相手もそれを望んでいる。
その上で人を保ちながらSMをする。
これって愛以外になにかあるんでしょうか?
愛のあるSMができることを、
私はパートナーに毎日、感謝しています。
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