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第6話

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 心配させたルカの母親へ事情を説明したのち、ルカは再びゲストルームへ戻った。メイク直しと着替えのためだ。
 そのあと別の衣装に着替えたルカがゲストルームからスタジオへ戻るなり、みなが彼の姿を認めて安堵の空気が広がった。
 ちなみにいまのルカは、ダブルボタンが特徴の濃いワインレッドのジャケットに同色のハーフパンツ、その胸元には勝色(かついろ)の大きなリボンがついた衣装を着ている。さらに、リボンと同色の花飾りがついたシルクハットをかぶっていた。
 すぐに編集長が飛んできて、ルカの様子を確認する。

「ルカくん、撮影は続けられそうですか」
「はい。大丈夫です」

 ルカはその問いかけへ、しっかりとうなずいた。ほんのわずかな時間、ルカと見つめ合っていた編集長だったが、彼の雰囲気から強がりでないと察したようだ。

「わかりました。撮影を再開します」
「はい。お願いします」

 ぺこっと頭を下げるルカ。

「では、中断したところから。市ヶ瀬さんもそれで構いませんか」

 少し離れていたカメラマンへ編集長が確認を入れると、彼はうなずいてみせた。

「ああ。俺はいつでも撮影に入れる」
「わかりました。ではみなさんも撮影の準備に入ってください」

 その声かけで、周囲の人間は自分の役割のため動きだす。
 ルカはセットとして用意されていたアンティーク調の椅子へ腰かけた。そしてカメラを構えた市ヶ瀬と向き合う。

「……へえ」

 わずかな声量でもれた市ヶ瀬のつぶやき。それは、離れた位置で見守る千穂の心胆を寒からしめるにはじゅうぶんな効力を発揮していた。
 ぞわり、と身体の内側を撫でさすられたような、ありえない錯覚すら引き起こすほどだ。

(なんて雰囲気……まるで猛獣のような気配を放つひとだ)

 ……怖い。脚が震えそうになる。
 おそらく、真正面で対面するルカのほうがさらに感じていることだろうと思う。
 案の定、ルカは気圧されそうになっている。だがぐっと唇を噛みしめて、市ヶ瀬を見返した。その様子は、まるで睥睨することで自分を鼓舞しているようだ。
 そんな子どもの必死な抵抗に、獣が舌舐めずりした気配すらうかがわせる。こちらからは市ヶ瀬の背中しか見えないというのに、そう錯覚させるほどの雰囲気が彼から伝わってくるのだから、やはり怖い大人だと思った。

(負けるな、ルカくん)

 もう千穂には、心の中で応援するしかできない。声が届くことなどあるはずないのに、無駄だと思いたくなかった。

(負けるな)

 そうしてみなが固唾を飲んで見守る中、撮影は再開された。


 結果だけ先に言おう。撮影は無事に終わることができた。
 薄暗いスタジオの中に響くのは、シャッター音と指示を出す市ヶ瀬の声のみ。
 周囲のスタッフは、はじめ再開前の光景をだれしもが想像したと思う。千穂でさえルカを信じてはいても、やはり無理な要求だったかもしれない。そう頭をよぎらなかったとは、うそでも言えなかった。
 だがそんな想像を笑い飛ばすかのように、そこにいたのは変貌を遂げたルカであった。
 先ほどまでの撮影が見間違いだったかのようだ。ルカの表情や仕草に、役を連想させる要素を感じ取ることがなかった。最初こそ市ヶ瀬を敵のように睨むことで自分らしさを保っていたが、次第に別の表情を滲ませるようになる。
 たとえば笑顔ひとつとっても、別人だ。
 皮肉げに弧を描いた唇は、どこか子どもらしさが欠けていた。芸能界という欲と嫉妬にまみれた世界に身を置く子役らしさがある。
 照れを隠すように少し尖らせた口元は、無理して大人びた子どもが持つ幼稚さがちらちら見え隠れしていた。
 ふふんと言いたげに細められた眼差しは、小賢しい十歳というやっかいさが垣間見える。
 遠くを見通すガラス玉のような涼しげな目元と、薄い唇の端をちょこんと引き上げただけの酷薄な笑みは、まるで精巧な人形のようだ。ルカの日本人離れした容貌をさらに引き立たせている。
 そのどれも、種別は笑顔であるのにまったく異なっていた。演技で作った笑みとは違う、ルカらしさが溢れている。
 すごい、としか表現できない。そんな安直な感想しか出てこないほど、ルカはこの撮影中に成長していた。
 一枚、皮を脱ぎ捨てたような進歩だ。
 千穂のアドバイスもたしかに彼の背中を押したと思う。しかし市ヶ瀬に煽られ、わかっていながらも挑発に乗るしかなかった流れが、ルカの反抗心に火をつけたのだ。

(モデルをのせるのがうまいひとだ)

 撮影の最中、市ヶ瀬を観察して感じた感想である。

「へえ。少しはましになったじゃねえか、坊主」

 散々にこき下ろされた記憶が新しいというのに、不意にそんな台詞を挟んでくるのだから、ルカでなくともやる気になるだろう。

「坊主じゃないです。ぼくは葦原ルカという名前があります!」
「呼び方ひとつにこだわっているような余裕はねえだろ、坊主。次、目線はこっちだ」
「……はいっ」

 悔しさを滲ませながら、でも返事だけはしっかり返す。
 撮影のあいだも、そんなやり取りを交わす余裕さえあったことが、にわかに信じがたかったほどだ。
 撮影は順調に進んでいく。再開当初、抱いていた心配は杞憂に終わった。
 けれど、最後まで「坊主」呼びが変わらなかったことが、今後のルカの成長を促す苦い経験となるに違いない。

「――では、ただいまをもちまして撮影終了です! お疲れさまでした!」

 データを確認しながら何度もうなずく編集長。その彼女の声で撮影の終了が告げられた。
 ほっとスタジオ内の空気が緩む。それと同時にあちらこちらから拍手が起きた。

「ルカくん、とてもよかったです! お疲れさまでした」
「ありがとうございました! ありがとうございましたっ!」

 スタッフたちに何度も頭を下げるルカの表情は、やりきったという想いで溢れんばかりである。頬を紅潮させ少し肩で息をする様子から、かなり体力も消耗しているだろうに。
 それでも浮かべる笑みは、スタジオの光りを受けていなくとも輝いていた。

「あ、あのっ」

 周囲のスタッフからのねぎらいに応えていたルカは、背を向けようとした市ヶ瀬を呼び止める。

「なんだ」
「……今日はっ、ありがとうございました!」

 勢いよく腰を深く曲げ、ルカは感謝の言葉を告げた。その姿を見下ろしていた市ヶ瀬だったが、特になんの反応も見せず一言「お疲れさん」とだけ告げて歩きだした。
 その淡泊すぎる態度に周囲の大人のほうがはらはらしていたが、頭を上げたルカの顔はすっきりしたものだった。
 スタッフらに「ありがとうございました」と「お疲れさまでした」を何度も言いながら、ルカが千穂たちのもとへ近づいてきた。すぐに彼の母親が駆け寄る。

「ルカ、お疲れさま! とてもよかったわ。お母さん、見てて感動しちゃった」

 そう言う彼女の目は赤い。撮影中、感極まってルカの母親は何度も目元をハンカチで拭っていた。息子の成長と活躍がとても嬉しかったのだろう。
 その気持ちはよくわかる。隣にいた千穂も、思わず感化されそうになったものだ。

「ありがとう、母さん」

 母親の賛辞に、ルカが照れながらも目を細めた。いつも大人ぶってはいるが、こんなところは年相応である。
 ある程度、親子の会話が済んだところで、千穂もルカへいたわりの言葉をかけた。

「お疲れさま、ルカくん」
「事務い……門倉さん。お疲れさまです」

 事務員、と言いかけて初めて名前で呼ばれた。

(お、名前で呼んでくれるなんて。どんな心境の変化があったのかな)

 内心、ルカの変化に興味を引かれたが、とりあえず突っ込まない選択をする。

「今日はこれでお仕事は終了です。着替えが済んだら、ここで現地解散となります」
「わかりました」

 保護者である母親がうなずく。

「……、……あ、あの」

 そのそばで、いつも自分の意見をしっかり喋るルカが珍しく口ごもっていた。ちらちらとうかがうような視線まで寄越して。

「どうかした?」

 気になって尋ねた。すると、どこか自信なさげに揺れる瞳が千穂を見上げてきた。

「……門倉さん」
「ん?」
「……ぼく、やり返せてた?」
 ――じゃあやり返しちゃおうか。

 撮影中断の際に、千穂がルカへ提案していた台詞だ。市ヶ瀬にやられっぱなしで落ち込んでいたルカへ、発破をかけるつもりだった。
 けれどこの様子だと、自分の激励がルカの反撃を助けたようだ。見守っている側からしても、これほど嬉しいことはない。
 千穂は安心させるように、にんまり口角を上げた。

「カメラマンさん、びっくりしてたと思うよ。その証拠に、今度は撮影中断するなんてことにはならなかったしね」
「……そっか」

 顎を引き、ルカはそうこぼした。けれど、うつむいた顔から見えるその口元が緩んでいる。ルカよりも身長のある千穂の位置から偶然にも見えてしまった。

(照れてる……。かわいい)

 そう思うと、ついルカの頭に手が伸びていた。無意識の行動である。

「……っさわるな!」

 しかし撫でられたと気づいたルカに、すぐに怒られてしまう。

「あ、ごめんね。ついかわいくて」

 だというのに、千穂の口からはいけしゃあしゃあと本心がもれるのみだ。緩む頬を抑えることができないほどである。
 だが、にこにこ笑う千穂の顔が、ルカの気に障ってしまったようだ。

「……っ、着替えてくる!」

 紅に染まった頬をぷりぷり膨らませながら、ルカは千穂を置いてスタジオを出ていってしまった。慌てて彼の母親が小さな背中を追いかけていく。

(……しまった。やりすぎた、かな。……次からは気をつけよう)

 いけないいけない、と自分の両頬を上に引き上げ軽く反省した。
 とりあえずルカのことは、母親に任せておこう。ここで千穂がまたなにか言えば、彼の感情がおさまらないだろうから。
 そのため、千穂は残されたこの場ですべきことをする。
 編集長に挨拶し、スタッフらにも同様に頭を下げて回りながら、目線はとある人物を探す。

(いない……)

 すでに目的のひとの姿は見つけられなかった。だから、彼が連れてきたアシスタントのもとへ向かう。彼らは持ち込んだ機材を片づけている最中だった。

「あの、すみません」
「はい?」

 まだ年若い青年が千穂の声に作業の手を止めてくれた。

「市ヶ瀬さんはもう帰られましたか」
「えっと……」
「あ、フェアリーキッズプロダクションの門倉と申します。今日は、うちの葦原ルカがお世話になりました」
「……ああ! えーと、イチさんっすか? あのひとなら喫煙所だと思いますよ。すっげえ我慢してたんで。撮影が終了したと同時にスタジオ出ていっちゃいましたし」
「我慢? というと、たばこをですか」
「そうっす」

 彼の話だと、市ヶ瀬錦はかなりのヘビースモーカーだそうだ。
 しかし、普段彼が撮影するモデルの中にはたばこの匂いが苦手なひともいる。簡単な話、モデルが我慢すればいいだけなのだが、市ヶ瀬の考え方は違った。自分の嗜好でモデルに負担をかけ、その後の仕事に少しでも支障が出ることを、彼自身が許さなかったらしい。
 そういう理由もあって、撮影中はたばこを吸わないように、なるべく努めているという。

(こだわりがあるんだな)

 仕事にプライドを持つ人種の考え方だと、千穂は感じた。

「で、今日は子どもが相手っすからねー。イチさん、気を遣ってたばこの匂いさせないように、朝から吸う本数も抑えてたんすよ」
「……そうだったんですか」
「あの顔からは想像できないかもしれないっすけど、意外と優しいところあるんすよ、あのひと」

 くつくつと喉を震わせ語る青年の声に、からかいの色は見当たらない。その言葉とは裏腹に、青年から市ヶ瀬への尊敬の感情が伝わってきた。

「で、解禁ということで、いま至福の時間過ごしてるんじゃないっすか」
「わかりました、行ってみます。ありがとうございます」

 と笑いながら教えてくれた青年に礼を述べて、千穂は喫煙所へ向かった。
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