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兄妹談義①
しおりを挟む前の晩までは厚く覆っていた雲が薄くなり、その日は珍しく空が青色を取り戻して太陽が顔をのぞかせた。
まだ雨の季が明けるまではしばらくあるため、これで雨が止むというわけでもないのだろう。たまの晴れ間ということで、屋敷の侍女たちは朝から総出で洗濯に精を出しているようだ。
雨の季の終わりには強い乾風が吹き、それが収まると次第に気温が冷えだして冬の季がやってくる。その短い期間を指してこの地方では、「乾きの巨人がやってくる」と言うらしい。
旅の巨人が北の方角から訪れて、喉が乾いたと空を覆う雲も雨もすべて飲み干し、満足すると足早に去っていく。その過ぎ去る際の風が寒い冬を呼び込む。……そういった古いおとぎ話があるのだと、幼い頃にフェリバが聞かせてくれた。街や村では親から子へ、ずっと昔から語り継がれている話だという。
何か逸話の元になるもの、モチーフとなった実話があるのではと考えたこともあるのだが、北の巨人と聞いてもすぐに思い浮かぶものはなかった。厚い雲が海の方向へ去るのを見て想起された寓話かもしれない。
リリアーナはそんなことを思い出しながら廊下を歩き、ガラス窓越しに顔ぶれを変えた中庭の緑を眺めていた。
この長雨が止んで寒くなれば、また生い茂る草花も様相を変える。冬の季の植生は見目の彩りこそ落ちるものの、香りの良い花が咲く。
甘く香るそれらを楽しみながら、のんびりと庭を散策するのも冬の楽しみのひとつだった。
<リリアーナ様、書斎には先客がいるようです>
「ふむ、当ててみようか。……アダルベルト兄上だな?」
<あ、正解です。他には誰もいませんから、久しぶりにゆっくりお話ができるのでは?>
「そうしたいのは山々だが、読書の邪魔をするわけにもいくまい」
長兄がいると先にわかっていれば彼に返却したい物があったのだが、中々タイミングが合わない。自室から持ってきたのは、書斎から借りていた農耕に関する本だけだ。
目的地に到着し、鍵を差すことなくドアノブを回して書斎の中をのぞく。すぐに見える範囲にその姿はない、書架の奥で本を選んでいるのだろうか。後ろ手にそっと扉を閉める。
読書机を回り込んで窓側まで行くと、最奥にアダルベルトの横顔を見つけることができた。図録などの大型図書が収められた棚の前に立ったまま本を開いている。
「アダルベルト兄上、ごきげんよう。何か調べ物か?」
「ああ、リリアーナ。そろそろ来る頃だろうと思っていた」
そう言うと長兄は開いていた本を閉じて下段へと戻す。微妙な挿絵がリリアーナも気に入っている図鑑のシリーズだ。
「もしかして、わたしを待っていたのか?」
「調べ物もあったから、もし会えなくても無駄足ではないさ。何か、今日のうちに読みたい本があるなら、そちらを優先してくれても構わないが……」
「いや、そういうものはないぞ。久しぶりに兄上と話ができるのはわたしも嬉しい」
素直にそう応えれば、長兄はいつもため込んでいる眉間のしわをいくらか和らげた。
それから手で促され、先に読書机の椅子へと腰掛ける。
「もうすっかり体調は良いみたいだな。朝晩の食卓がまた賑やかになったお陰で、父上の顔色も良くなった」
「父上もどこか加減を悪くしていたと?」
「いや……。お前たちが臥せている間は、心配のためだろう、表情がひどく暗かったものだから。皆が元気になったのは何よりだが、これから寒くなるし一層体には気をつけてくれ」
アダルベルトは言葉を探すようにしながらそう言うと、こちらへ案ずる視線を向けてくる。自分の不注意から家族の皆に心配をかけてしまったことを、何重にも反省する思いだ。
かといって、もうインベントリへの穴は両方とも閉じたから体力の維持に問題はない、なんて答えることもできず、神妙な顔でうなずき返すことしかできない。
「まぁ快復したならそれでいい。……それで、リリアーナと話がしたかったのは、先日ここで受け取った手紙の件だ」
「あの手紙か。書きたいことを並べていたら筆が進んでずいぶんと長くなってしまった。読むのにも時間がかかっただろう、忙しい中に申し訳ないことをした」
「いや。感想を聞きたがったのはこちらのほうだし、とても興味深く読ませてもらった。リリアーナの文章は理路整然としていて読みやすいな」
体調が快復してすぐに、長兄へ宛てしたためた手紙を添えて、読了した『或る剣士の物語』をこの机に置いていた。内容は読み終えた本の感想と、ある授業についての質問が主なものだ。
最近書斎へ出入りしているのは自分と長兄くらいなものだと聞いていたこともあり、食堂で手渡すより適しているだろうとあえて兄と同じ方法をとってみた。
もっとも、ちゃんと宛名を書いていたから、もし侍従長やレオカディオの目に入ったしても勝手に読まれることはなかっただろう。別に後ろ暗い内容ではないが、他者に読まれるといくらか問題も発生しそうだから、無事に長兄の元へ届いて良かった。
「あの本、リリアーナにも楽しんでもらえたようで何よりだ。俺も語りたいことはたくさんあるんだが、話し出すと長くなりそうだから、その件については改めて返信を書かせてもらおう」
「む? 話というのは、そのことではないのか?」
となると、質問した内容に関する返答だろう。
そちらこそ文章にしたほうが説明しやすいのではと思うのだが、長兄がわざわざ対面で話す必要があると言うなら、それなりの理由も存在するはず。背筋を伸ばして聞く姿勢を取る。
「……少し長くなるから、本当はお茶でも飲みながら落ち着いて話したいところだが。内容的に、他者の耳がある場所では言葉にしにくい」
「兄上とは、ここか食堂でしか話をしたことがないからな……。そのうちフェリバのクッキーでもつまみながら、部屋でゆっくり茶飲み話をしたいものだが」
「ああ、あの硬いやつか」
「兄上もあれを知っていたとは、結構有名なんだな」
庶民の菓子だという話を聞いていたため、アダルベルトが知っているのは少しばかり意外だった。外の情報に明るいレオカディオのように、彼も頻繁に街へ下りているのかもしれない。
じきに十五歳となるのだし、幼いリリアーナよりも外出の自由が許されているのだろう。次期領主ともなれば領民たちの暮らしぶりを耳目で良く知っておく必要もある。そうしたフィールドワークをしっかり行う勤勉さは実にアダルベルトらしい。
そんなことを考えてひとりで感心していたリリアーナは、長兄が不自然に視線をさまよわせていたことに全く気づけなかった。
おや、と思ったアルトもその内心までは読み取れない。
「あのクッキーはカミロも知っていたから、この辺では馴染みの店なんだな。わたしもまた街に行く機会があったら直接寄ってみたいものだが」
「……安価で色々な種類の菓子を並べていると聞く。子どもだけではなく大人の客も多いらしい。ああして硬く焼きしめたものは日持ちもするし、携行食や中期の保存食としても使えるんだ」
「なるほど」
「もっとも、雨の季以外の話だが」
湿度の高いこの時期では、少し放置しておくだけで食べ物は痛んでしまう。密封しておけば日持ちする焼き菓子でも、紙袋に小分けして売っているようなものでは難しいだろう。
他領からの行商も、陽の季からこの時期にかけては食材の行き来が減ると聞く。
湿気った程度なら火で炙れば済む話だが、一度痛んでしまえばそうもいかない。食材の保存や調理のために温度・湿度の管理が必要となる厨房が、屋敷の中で一番精白石が使われていることも納得できる。
アダルベルト宛の手紙へ添えた質問も、元はといえばその精白石に端を発する些細な疑問だった。
キヴィランタにいた頃から精白石のことは知っていても、ヒトの領域でそれが精霊教と結びついてどう扱われているかまでは詳しくない。五歳記の折に、侍従長から雑談混じりで聞いたことが唯一の情報源だ。
「精白石は中央聖堂が製造している」――彼はそう語っていた。
おそらく、それすらも一般には伏せられているのだろう。現に書斎にあるどの本にも、精白石の製造元や作り方なんてものは欠片も載っていなかったし、授業の話題にも出てこない。
ただ、精霊がもたらす加護の結晶なのだと。稀少性と神秘を謳い、そこに実用以上の価値を持たせている。情報を秘匿することで一層の値打ちを演出しているようだ。
聖堂側はそんな石の恩恵に与かり、利益を得ながらも民衆にその仕組みを知られたくはないと見える。
秘密裏に作り出し、極一部にだけ流通させて、富を蓄える特権の漏斗。
……国教の立場にありながら何とも胡散臭い話だ。
石の話はともかく、ちょっとした疑問については、精霊教の授業を受けたことのある相手なら誰に訊いても良かった。
ただレオカディオは途中で切り上げて自習になったというから、おそらく最後まで授業を受けたであろう長兄へ訊ねてみることにしたのだ。
「手紙に書いた質問についてだが、わたしとレオ兄は知っての通り、精霊教の授業を途中から自習に切り替えているのでな。書斎の本に書かれている範囲でしか知り得ない」
「ああ、聞いているよ。ふたりとも物覚えが良いから、何度も講義を聞くより本を読んだほうが手っ取り早いというのも理解できる」
そこで、アダルベルトは物憂げに言葉を切った。視線を向けているのは聖堂関連の資料が詰められた本棚だ。
読書による自習という手前、リリアーナもそこに収められた資料や書籍には一通り目を通したのだが、期待したほどの情報は得られなかった。
精霊教の成り立ちや歴史など、基本的なことはあの官吏が繰り返し語っていた内容と大差なく、精霊女王への賛美が言葉の種類を変えて並べられていることまでそっくりそのまま。
肝心の教義についての記載はぼんやりとしており、精白石どころか聖堂そのものに関する説明もめぼしいものは見当たらない。
だが、揃えてある本に不足があるとは感じない。むしろ、それらの本を読んだことによって、記されていない部分に重要なものがあるのではないかと考えたのだ。
「講義で何度も復唱したし、五歳記で聖堂へ行った際にも唱えるように言われた。だが、その『聖句』が、精霊教関連の本にはどこにも記載されていない。あれはとても重要なものなんだろう、まったく載っていないのはおかしくないか?」
「ああ。『載っていない』ということすら、本にはどこにも書かれていないはずだからな」
リリアーナの問いにそう断言を返すと、アダルベルトは机の上で長い指を組んだ。
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