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おやすみの夕

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 騒いだことを叱られた大人たちはそのまま部屋を出ていくのかと思ったら、まだ何か用があるらしく背を向ける気配がない。
 他に話すことがあるか、それともこちらに何か問いたいことでもあるのだろうか。
 柔らかさの減ったヘッドボードに背を預け、聞く姿勢を見せる。すると、ファラムンドが再び手を握ってきた。皮の厚い手のひらは、先ほどよりも少し冷えているような気がする。

「リリアーナ、その、体調のことなんだが」

「うん? 医師の診察以外にまだ何か?」

「いや……。ちょっと、ちょっとだけ確認なんだけどね。あの、……お腹は、痛くないかい?」

 その問いが発せられた瞬間、なぜか部屋の中に名状しがたい緊張が走った。
 カミロとトマサの表情は何も変わらないが、纏う気配がどこか張りつめている。ファラムンドの手が少し冷たいのも、彼が緊張しているせいなのかもしれない。
 腹に痛みなどないし、最近よく腹が減る以外はとりたてて異常を感じたことはない。医師も風邪と疲れと言っていたのに、ファラムンドたちは何か病の心当たりでもあるのだろうか。内臓に問題があると、アマダの料理やこれからの食事を楽しむのにも支障が出てしまう、それはとても困る。

「いや、痛みなんてないが。何か……不審な点でも?」

「そ、そうか、うん、それならいいんだ」

 三人の張りつめていた気配がとたんに緩んだ。何だ。一体何なのだろう。
 トマサの方を見ると、なぜか目が泳ぐ。その隣にいるカミロを見ても、同様に視線が重ならない。ふたりとも今までにない反応だ。

「……?」

「カリナに暇を出したのは時期尚早だったなぁ……」

「父上、カリナにはそんなに長く休暇を出しているのか?」

「ああ。リリアーナのお付きには、もうひとり新しい侍女を用意しているから。そちらは日を改めて紹介しよう」

 ここのところさっぱり姿を見せなかった侍女は、どうやら当面の間戻ってこないらしい。幼い頃から何かと世話になってきたから少し寂しいような気もするが、彼女にも事情や生活があるだろう。
 了承にうなずきを返すと、三人揃って表情に安堵の色が見られた。
 ……どうも、様子がおかしい。感情の機微に疎いと自信のある自分でも察せられるほど、大人たちはあからさまに何か隠している。腹痛の確認もそうだし、侍女のカリナにも何かあったのだろうか。

「カリナは元気なのか?」

「ああ、今は街へ戻って家族と暮らしているよ。新しい侍女も彼女と同じくらい仕事のできる女性だから、安心しておくれ」

「……そうか。それならいいんだ」

 ファラムンドもカミロもトマサも、いつだってリリアーナのためを思って行動してくれている。それがわかるからこそ、何を隠しているんだと、真っ正面から問い正すのは躊躇われた。
 あえて言わないでいることがあるのなら、それはリリアーナが知らないでいた方が良いと、彼らが判断したような事柄だ。無理を言ってそれを詳らかにしたところで、要らぬ好奇心が満たされるだけ。他に得るものは何もない。
 胸の内でそう結論付けて視線を落とすと、手を包む力が強められた。

「リリアーナ。……考えすぎなくて良いと言っても、お前はあれこれ考えてしまうのだろうね。要らぬ心配ばかりかけてしまうのは、我々大人の至らなさゆえだ」

「それは、……父上。わたしが歳を重ねたら、大人になったら何でも話してくれるようになるということか?」

「何でもというわけにはいかないけれど、そうだね。お前が自身の行動の責任をすべて持てるような年齢になったら、話せることも増えるだろう」

 ベッドのそばへ膝をつき、重ねた手に額をつけて、ファラムンドはまるで祈るような体勢で言葉を続けた。

「だから今は、もうしばらくは子どものままでいておくれ。俺の可愛いリリアーナ、そんなに急いで大人になる必要なんてないんだ」

 その嘆願が滲んだ父の言葉は、リリアーナの胸の奥深くへと突き刺さった。

 早く成長したいと思い続け、大人になれば自由が増えるものと思っていた。だが、目の前の男にとって自分は『娘』なのだ。それをわかったつもりで、きっとどこか忘れかけていた。
 与えられた立場に甘えていたのかもしれない。きちんと話を聞いてくれるから、言葉を介して理解を深められるから、同じものを目指す同志として対等な関係が築けるものと勘違いをしてしまった。
 自分はもうデスタリオラではない。その精神がどれだけ成熟していようと、今はヒトの子として生まれた八歳の娘でしかないのに。
 ファラムンドから見ても、カミロやトマサから見ても、目の前にいるのはただの八歳の子ども。中身に何を宿していようが、彼らが見ているのは『リリアーナ』だ。
 だからこそ言動や行動にどれだけ不自然な点があっても、ずっと彼らはファラムンドの娘として慈しんでくれた。そんなふうに愛してもらっておきながら、自分は一体何をしてきたのだろう。リリアーナとして新たに生を受けたのにも関わらず、自分はこれまでという意識で生きてきたのではないだろうか。

 胸に突き刺さった槍から、心臓と思考が一度に冷却されていく。
 どれもこれも当たり前のことばかりで、自分が何に対しそこまでショックを受けているのかわからなくなってくる。

「リリアーナ?」

「……うん、すまない。父上から見たら、わたしはずいぶん、おかしな娘に見えるだろう?」

「お、おかしくなんてないぞ!?」

「父上に相応しい娘になりたい、……それは本心だ。そのためなら礼儀作法の授業だって何だって頑張れる。だがきっと、これから先も、……わたしはであることを変えられない」

 子どもらしくない様を反省し、これからの生き方や考えを改めることができれば、きっとそれが一番なのだろう。
 リリアーナ=イバニェスとして生きていくなら、デスタリオラとしての個我など殺して、ちゃんと望まれる『リリアーナ』であるべきだ。

 ――頭ではそれがわかっているのに、どうしてもその生き方は選べそうにない。
 口調を変えても、身振り手振りを装っても、中身の『デスタリオラ』を消すことができない以上、この先も自分は『魔王デスタリオラの精神を持ったリリアーナ』としてしか生きられない。
 とんだ不純物の混ざる娘を得てしまったファラムンドには、本当に申し訳なく思う。

「すまない、父上。対外的な態度や口調は今後きちんと改める。それでも……おそらくわたしは自身の在り方を変えられない。思考も性格も、次に死ぬまでずっとこのままだろう」

 こう生まれてしまった以上、もうデスタリオラの精神を持たないリリアーナを返してやることもできない。彼の娘の、体と人生を全て奪ってしまったに等しい。
 今こそ全て打ち明けて、きちんと謝罪をするべきなのだろうか。
 ……自分は、リリアーナと呼ばれるこの体以外はお前の娘ではないのだと。本当は三十八年も前に死んだ魔王であり、生まれてからずっと娘の体を乗っ取っていたのだという、真実を。

 体温の混ざった手をすり合わせられる。どちらの方が冷えているのか、もうわからない。自分の手を包み込むファラムンドの大きな手、じっと見つめていたそこから視線を上げた。
 すぐ正面に父の顔がある。ひたと向けられる藍色の瞳はどこまでも真摯で、この男には嘘をつきたくはないという思いが湧きあがる。
 その道行きを手伝いたい、願いの達成をともに悦び分かち合いたい、……親子として同志として、これから先を共に生きたいのなら、正体を隠し続けるなどフェアではないのではないか。

 固まりかけた口を開こうとした時、ファラムンドが表情を綻ばせた。
 感情の一番柔らかな部分を映す温かな眼差し。それが愛しい者を見る目だということはもう知っていた。自分は、父に愛されているのだと。

「リリアーナがちょっとお勉強が得意で、物覚えが良くて、魔法を扱えて、本を読むのが大好きで、ぬいぐるみを大事にしてくれていて、侍女や従者にも丁寧に接するくらい礼儀正しくて、字も綺麗で赤い目もお顔も声も小さなおてても足もさらさらの髪もめちゃくちゃ可愛くて食べ方は綺麗なのにぱくぱく食べるものだからほっぺたをちょっと膨らませながらにこにこしちゃう癖があることはお父さんよく知っているよ」

 途中にいくつか聞き捨てならないものが含まれていたような気がするが、羅列として耳を通り抜けていった言葉を掴み損ねてしまう。

「そんな可愛い可愛いリリアーナは、賢すぎてお父さんのことまで心配してくれちゃうことも、よくわかっているつもりだ。もちろん、まだまだ知らない部分もあるだろう」

 包まれていた手、その指先に口づけられる。

「女は謎があるほど美しいって、お前のお母さんも言っていたよ。その通りだとも。お前がどれだけ不思議なことを抱えていても、おかしいなんてことはないよ、そのどれもがリリアーナだ。自信を持ちなさい、お前はお前らしく在っていい」

 指にかかる息と言葉が温かい。言葉を失ったまま、包む手をそっと握り返した。
 指につけられていた唇が、前髪の上から額へ落とされる。
 それがくすぐったくて身を引くと、見上げた父の顔には憂慮が浮かんでいた。

「リリアーナが自分らしさに無理をする必要はないんだ。口調も態度も大した問題じゃないとも。だから、もし辛いなら、今やっている礼儀作法の授業だってとりやめてもいい」

「それは……」

「あの夫人はちょっとどころじゃなく頑固だからな。どうしても断ることができなかったとはいえ、お前に無理を強いるつもりはない。急に体調を崩したのだって、無理が祟ったんだ、合わないのなら切り上げさせよう」

「父上……」

 ファラムンドの心遣いは有り難い。確かに苦手としているし、中身との乖離を頓に感じてしまうという部分もある。
 だが、あれは今後のためにも必要な授業だとよく理解している。貴公位の娘らしい作法という性質上、それなりに立場のある女性でないと教師役が務まらないだろうことも。
 それに、苦手だからといって教えられることを避けて通るなんて、それこそ自分らしくない。
 首を横に振って否定を示すと、少し意外そうに片眉が持ち上がった。

「あの授業は大事だから続けさせてほしい。これから先、屋敷外の者と会うようになったら必要になってくる作法だろう? わたしはいずれ、ここを出なくてはいけないのだし」

「えええええ……いやいや、リリアーナが望むならもうずっと一生お父さんと一緒にい、」

 何か鈍い音がして、ファラムンドがベッドに頭を伏せた。
 その向こうには、いつの間に距離を詰めたのか侍従長が立っている。浮かせていた杖を音もなく体の横へ戻し、空いた手を礼の形で胸元へ当てる。

「リリアーナ様。……バレンティン夫人の授業についてなのですが」

「うん?」

 一瞬誰のことかと思ったが、あの礼儀作法について厳しく指導してくれている老婦人が紹介された際に、その名を名乗っていた。
 エドゥアルダ=バレンティン。領主たるイバニェス家の分家筋という以外に詳しいことは教えてもらっていないが、縁戚にあたるなら血が繋がっているということだろう。真っ白な髪に深くしわの刻まれた細面。自分もいつか年を取ったらあんな感じになるのだろうか……。
 逸れかけた思考を目の前に戻す。

「授業の内容まで存じ上げているわけではないのですが。これまでと全く異なる所作や話し方を、教えられた通りに改めなくてはいけないと思うから、自身との齟齬が起きるではないかと」

「そういう、……改めるための授業ではないのか?」

 何もかも駄目だと言われ、このままではファラムンドの娘として失格だと叱られ続けているのは、言われた通りの振る舞いができていないからだ。デスタリオラとしての在り方に染まってしまっている今の自分を、何とか令嬢らしく矯正するための授業。……そう思って今まで挑んできた。
 もしそれが根本から違っているというなら、どうすれば良いのだろう。

「自分らしさを曲げるのは容易ではありません。私も旦那様同様に、リリアーナ様はお好きなように在ればよろしいと思いますので、僭越ながらひとつアドバイスなど」

 そう言うと、カミロは人差し指をひとつ立て、自分の口元へ添える。夫人には内密にということだろうか。
 了承にうなずきを返すと、その唇の端がほんの少しだけ、わかりにくく持ち上がった。

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