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ユアン side

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 夜中、それは突然に起こった。
 
 辺りに充満する血の匂い。俺は誰よりも耳が良い。何十……いや、何百人もの人間達の怒号、叫び声、剣のぶつかり合う音が響いていた。それからかすかに雨の降る音。ここは地下室だから音は遠くで響いている感じだが、これが異常事態だということは理解できた。

『……ユアン』

 イルがこの時を待ってましたとばかりに目を爛々とさせながら声を抑えて頷く。さっそく計画通りに二人で部屋を抜け出す。地下にある研究室から地下通路に出て、そこでイルの番と落ち合う算段だ。
 檻の中で丸くなって震えていた三人を抱き上げて裏の出口に向かおうとしたその時──。

『おいっ、お前ら何をやっている!』

 白衣を着た人間が血相を変えて俺たちを捕まえにきた。
 くそ、雨の音が邪魔でこちらに向かってくる足音を正確に聞き取れなかった。でも良かった、殺し屋の奴らじゃない。これなら逃げられる。
 それが油断に繋がったのもあるけど、両手にソロとジオを抱えていたせいでこちらに向かってくる男を避けることが出来なかった。
 どんっと衝撃の後に、腕に何かを注射されたのだと悟る。
 やばい、と思う間もなくふらりと後ろに一歩下がった。両手から力が抜けて、二人がべしゃりと地面に投げ出されるのが見えた。

『ユアンっ!』

 イルがこちらに走ってくる姿が二重にぼやけて見える。こっちに来ちゃダメだ、今の弱ったイルじゃ人間にすら勝てない。

『イルっ、逃げてぇ』
『駄目だ、ユアンを置いてなんていかないっ』
『こいつら連れて逃げてっ……ぐっっ』

 がっと後ろから首にロープを巻かれる。そのまま引き倒されて息ができずにもがいた。

『ユアンっユアンっ』

 イルが俺にしがみついて離れない。必死でイルを押しやって逃げてと目だけで伝えるけど、首を振ってしがみつくばかりで埒があかない。

『おい、まだこんな所にいるのか』

 ああ、最悪だ。殺し屋の男共が集まって来てしまった。もうダメだ、イルが逃げられなくなる。
 そう思った刹那、嗅いだことのある匂いがした。一度だけ挨拶にと地下まで忍んで来てくれた、イルの番の匂いだ。

『イル』

 イルの番がイルを呼ぶ。びくりと肩を震わせたイルがゆっくりと顔を上げてその姿をとらえた。絶望に染まったイルの目が、光を取り戻していくのがわかる。やっぱり番って特別なんだなぁ。すごいなぁ。場違いにそんなことを思いながら、俺はイルの番に向かって叫んだ。

『イルを連れて逃げてぇ!』

 お願い、どうかイルと逃げて。
 イルは俺の命より大切な人なんだ。この施設でただ死ぬのを待っていた俺の家族になってくれた。
 本当は知ってたんだ。白衣の奴らは幼体の俺が成長したら子供を産ませる予定だったって。それをイルが代わりに自分が産むから俺には手を出さないでくれって頼みこんだこと。新薬の実験も全部イルが代わりに引き受けて、だからイルの目と耳が悪くなったこと。そうやっていつもいつも俺の知らない所で俺を守ってくれて、微笑んでいてくれたこと。
 その話を白衣の人間から聞かされた時、俺がどれほど自分のことを憎んだかわかる?こんな命、いつ捨てたってかまわなかったのに。だけどもうそれもできない。イルが必死で守ってくれたのに、俺がそれを自ら手離してしまったらイルの優しさが全部無駄になる。

 だからどうか、もうイルを自由にしてあげて。
 俺から自由にしてあげてくれ。

『てめぇ、よくも裏切りやがったな』
『お前はこっちに来い!あとでたっぷりお仕置きしてやるから楽しみに待ってな』

 イルの体温が離れていく。ダメだ、イルを連れて行かないでくれ。

『あ、待ちやがれ!おい暴れんな。先生その薬もう無いのかよ』
『これは獣人を無効化する毒薬ですがまだ実験段階で──』
『毒薬?じゃあこっちはもう駄目か』
『頭!裏も突破されました!』
『チッ、ずらかるぞ。それは始末しておけ』

 俺、何の薬打たれたんだろう。体がまったく動かないし、もう目も鼻も耳も機能していない。息することさえ困難だ。
 逃げて、逃げて、と息も絶え絶え繰り返すことしかできない。気を失う直前、イルの叫び声が聞こえた気がした。




 大きな手に体を揺さぶられて目を開けると、ぼんやりと滲んだ視界の向こうから心配そうにこちらを見下ろす二つの碧眼と目があった。
 何か言ってるけど、耳鳴りがひどくて声がうまく聞き取れない。起き上がって周囲を見渡せば、辺りは血だらけで人間の死体がごろごろ転がっている。最初の違和感は血の匂いがしないことだった。血の匂いだけじゃない、何の匂いもしない。何だこれ?

 じんじんと痛む耳鳴りの向こうから、男が叫んでるいる声がかすかに聞こえた。

『言葉は……通じるのか?』

 言葉?うん、わかるよ。俺が頷くと、安心したように息を吐き出した。

『すまない、獣人に会うのは初めてなものだから』
『……別にいいよぉ』

 俺が返事をすると、男は丁寧に頭を下げた。

『遅くなってすまなかった。君たちを保護しに来たんだ。私は青竜騎士団団長のロイス・オーウェンだ。君の名前を聞いてもいいか?』

 ロイス・オーウェンと名乗った男はまるで俺が普通の人間みたいに話しかけてきた。こんな風に言葉をかけられるのは初めてのことだし、名前を尋ねられたのも初めてだ。いつもお前とかおいとか呼ばれてたから。
 ずっと昔にイルがつけてくれた名前を口にする。

『……ユアン』
『ユアン、名前を教えてくれてありがとう。ところでその子達も獣人なんだろうか?』

 問いかけられて、やっと俺に身を寄せて震えているソロとジオとそれからそんな二人を守るように威嚇しているユウシャに気がついた。モヤがかかったようだった頭が晴れていく。はっと周りを見渡すと、そこに見たくない姿を見つけてしまった。
 そこには、イルの番の死体が転がっていたのだ。イルは?イルは無事なのか?必死で見渡すけど、イルの姿はない。くそ、鼻が効かないせいでイルの匂いを辿れない。

 俺の様子にただならぬ気配を感じたのか、ロイスが俺の肩に触れた。

『大丈夫か?何があったか説明できるか?』
『イルがっ、イルを助けてっ!』

 まだ薬でぼんやりした頭を必死で働かせる。俺が気を失ってからどれくらい時間が経った?殺し屋の奴らは?白衣の奴らは?どこへ逃げた?

『落ち着いてくれ。表でひどい乱戦になって、ここへ来た時にはもうこの惨状だったんだ。すまない』

 ひどい乱戦?よくよく目の前の男を観察すると、青い騎士服は返り血で黒く染まっている。
 何故だろう。人間なんて信用したことなかったのに、この時俺はこの人に縋り付いて叫んでいた。

『イルがぁっ!ロイス助けて!イルを助けてぇ!』
『イル?それはこの施設に囚われていた他の獣人か?』

 俺が必死で何度も頷くと、ロイスは厳しい顔つきになって部下だと思われる男達に指示を飛ばしはじめた。
 薬のせいで動けない体が恨めしい。嫌な予感がひしひしと体の芯を冷やしていく。
 しばらくすると、散り散りに走って行った騎士達が戻ってくる。『団長』とロイスに何やら耳打ちしているけど、今は耳が利かないから何を話しているのか聞き取れない。どくどくと鳴る心臓の音だけがやけに大きく響いて聞こえた。

 ロイスがこちらを見て、その青い瞳を痛ましげに俯けた。

『周辺を捜索させているが、獣人の姿は見当たらないそうだ。遺体も確認させているが、人間ばかりだと……』
『そんな……じゃあ……』

 じゃあ、イルはどこへ行ったんだ?あいつらは、イルを捕まえて逃げたのか?

『ここにいた奴らは?』
『今捜索しているが、おそらく地下通路から逃げたようだ』
『俺も探すっ……っ』

 体が痙攣しはじめた。ぐっと歯を食いしばると、口の中に鉄の味が広がる。俺はそのまま大量の血を吐いて失神した。

 次に目を覚ました時、そこは見たこともない部屋の中だった。
 体中が痛くて身動きひとつ取れない。肺が潰れているのか、呼吸する度にひゅーひゅーと音がしてひどく苦しい。熱に浮かされながら、ああもうイルには二度と会えないんだと悟った。あいつらが本気で逃げているなら簡単には見つからないだろう。闇組織は特殊な人脈をいくつも持っている。隠れる場所もいくつも存在する。それを今から俺一人でひとつひとつ潰していくのは、体がこんな状態では不可能だ。

『ぐうっ、ぐっ、ぐるっ、ぐっ』

 イル、イル、イル、イル。叫びたいのに声が出ない。声を出そうともがくと血が溢れてくる。今どこにいる?酷いことをされているんじゃないか?ああ、どうしよう。誰かイルを助けてくれ、誰か。

『……ゆっくり話してください』

 不意に横から声が聞こえて、顔だけを何とか動かしてそちらを見る。俺と同じ歳くらいの銀髪の少年が、仏頂面でこちらをじっと見据えていた。

『何か伝えたいことがあるのなら、ゆっくり話してください。私が必ず団長に伝えますから』

 誰だこの子供は。こちらを心配するそぶりは一切なく、淡々と事実確認だけをしていく。俺は今目の前で血を吐きながら一言一言喋ってるのに『知ってる根城はこれで全部ですか?』と真顔で頷くと踵を返した。

 しばらく目を閉じて痛みに耐えていると、さっきの仏頂面した子供が部屋へ戻ってきた。

『団長には伝えました。すぐ隊を向かわせるそうです』

 言いながらもどんどん顔を顰めていく。何なんだこいつは……死にかけの俺の前で不機嫌になるのはやめてもらいたい。
 何でずっとここにいるんだ?
 俺がぜいぜいと息をしながら顔を向けると『団長が』と尖らした口を開いた。

『私も討伐隊に加えてほしいと言ったのに、団長が駄目だって……』

 不満を隠そうともしない態度に、子供かよって心の中でつっこんだ。

『おまえ、あがちゃん』
『は?』
『あがちゃん…みだい』

 あがちゃん?と首を傾げた後、言葉の意味がわかったのか顔を真っ赤にして怒り出した。

『私は赤ちゃんではありません』

 ぷりぷり怒りながら、それでもそいつはずっとそこにいた。ふんっと顔をそらして、そんなに不満ならどこかへ行けば良いのに。変な奴だ。

 時々気を失いながら、ふっと意識が浮上する。その繰り返しの中で知ったのは、そのいけすかない子供がずっと俺の世話をしてくれているようだということ。ガーゼや包帯を変え、血を拭き取り、水差しで水を飲ませて熱に浮かされる俺の頭に氷袋を乗せてくれた。
 何日かそんな風に過ごしていると、少しづつ獣人としての機能が戻ってきた。

『レオンハルト、喉渇いたぁ』
『自分で取ってください』
『動けない。取ってぇ』

 少年はレオンハルトという名前だった。いつも俺の言葉を無視するし、顔を顰めている。どうやら不機嫌顔はこいつの通常装備だったようで、結局ため息を吐きながらも水を手渡してくれる。

『いつも何の本を読んでるの?』
『……無駄口叩かず寝てください』
『ええ、レオンハルトのケチぃ。ねぇねぇ、何の本読んでるのぉ?』

 うるさそうに一度こちらを見て『字が読めないユアンにはわからないでしょう』なんて生意気な口をきく。

『字は読めないけど、物語ってやつは好きだよ』

 よく痛みで眠れない夜なんかに、イルが話して聞かせてくれた。仲間ってやつや親友ってやつと、冒険の旅に出る話。思い出して懐かしくなって、それから苦しくなる。あんな地獄みたいな場所を懐かしむ日が来るなんてな。
 ぐっと呻いて、布団に潜りこむ。
 しばらくすると、ため息の後にレオンハルトの声が聞こえてきた。

『……常に意識しなければならないのは状況を見極める際の──』
『え、待って……なに?』

 思わず顔だけ出してレオンハルトを見ると、不機嫌そうに顔を顰めた。

『ユアンが何を読んでるのか聞いてきたんでしょう』

 え、それで読んでくれてるの?俺が字を読めないから?何それ……ぷぷ。変な奴。
 俺は目を閉じてレオンハルトのよくわからない戦術理念におけるなんちゃらって本を子守唄に眠った。イルと離れてから、初めてちゃんと眠ることができたんだ。

 ロイスの説明によれば、俺が教えた根城は全てもぬけの殻だったらしい。おそらく他国に逃げただろうと言われて、目の前が真っ暗になった。イルのいない日々は半身を失ったように虚無で、俺は突然与えられた自由というものにひどく馴染めずにいた。
 綺麗な服は落ち着かないし、ふかふかのベッドも落ち着かない。明るい部屋も苦手だ。俺は一日の大半を部屋の隅で丸くなって過ごした。ユウシャ達も俺にひっついて寝てばかりいる。俺の感情がうつってしまったんだろうか。

『ここは落ち着かないか?』

 声の主を見上げると、ロイスが心配げにこちらを見下ろしていた。俺と目が合うと、優しげに目を細める。

『別にぃ。でもこいつらはどうだろう……わからない』

 ユウシャ達はロイスに尻尾を振って大興奮している。こいつらはロイスのことがすごく好きみたいだ。ロイスはしゃがんでそんなユウシャ達をわしわしと撫でてやった後、こちらを見て手を伸ばした。
 ふわりと頭を撫でられる。俺はそいつらとは違うぞ、もう赤ちゃんじゃない。
 でもそれはいつもイルがしてくれたみたいな優しい手つきで、この温かくて大きな手は嫌いじゃないと思った。
 イルのことを思い出して思わず耳をぺたりと垂らしてしまう。そんな俺の様子に、ロイスがまた頭を撫でてきた。

『ここまでよく頑張ったな』

 ぐっと感情が喉に詰まる。
 ロイスが俺達を見渡してひとつ頷くと『提案があるんだが』と言った。

『なにぃ?』
『この屋敷の側に、森がある。そこで暮らしてみるか?広く美しい森だ』
『……森』
『ああ、その子達も、狭い部屋の中にいるよりずっといいだろう。森に新しく見張り小屋を建てるから、そこを拠点に使えばいい。もちろんこの部屋もいつでも使っていい』

 信じられなほどの待遇に、思わずどうしてと疑問が溢れる。
 
『どうして、そんなに優しくしてくれるのぉ』
『どうしてか……そうだな。ただ優しくしてやりたいと思うんだ。それだけでは駄目か?』

 駄目じゃないよ。駄目じゃないけど、慣れないんだ。優しくされることも、普通の人みたいに扱われることも、名前を呼ばれて話しかけられることも、それから撫でてもらうことも。今までイルしかしてくれなかったことを、ロイスは当たり前のようにしてくれる。それが何故か嬉しいのに苦しいんだ。この感情をうまく説明することができない。
 だから俺は頷いて、それからイル以外の人に初めてありがとうって言ったんだ。

 青竜騎士団に入って、影の仕事は俺が中心になって動く事が多くなっていった。ロイスは俺が危険な仕事を受ける度に渋ってたけど、俺はこっちの方が性に合ってる。それに悪党をちょっとやり過ぎかなって思う程度に懲らしめる事はあっても、殺しはしてない。
 一緒に過ごしてわかってきた事がある。ロイスもレオンハルトもすこぶるお人好しなんだ。オーランドは、ちょっとだけ俺と似た匂いを感じる時があるけどさ。
 そんな風に騎士団の仕事をこなしながら、俺はずっとイルを探し続けていた。自分だけの人脈を作り、包囲網を張り巡らせて、獣人の噂があればどこにでも乗り込んでいった。だけどイルはどこにもいない。
 番を殺されたんだ。生きていても、もうイルは俺の知ってるイルじゃないかもしれない。それでも会いたいんだ。

 ──そんなある日、俺は出会ってしまうんだ。俺の唯一、俺の光。

 リトちゃん。俺は君に出会ってしまったんだよ。
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