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オーランド side
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暗い部屋の中に、獣のような荒い息遣いが響いている。それが自分のものだとわかったのは、ぼんやりとした視界の中に私を静かに見下ろす侍従がいたからだ。この侍従が運んでくる食事にはときどき毒が入っている。
父上のハーレムの中の誰かが、この侍従を使って嫌がらせをしてくるのだ。
死なない程度の、だが確実に苦しむくらいの量の毒。ご苦労なことだ。毒を盛られていると気づいたときは思わず笑いがもれた。
こんな忘れ去られた異形の第二王子に、毒を盛るものがいるなど笑止千万。
体中の痛みと息苦しさに耐えながら、幼い私はそれをどこか他人事のように感じていた。
無表情で自分の生命の危機にすら心が動かない子どもなど、醜くなくとも不気味だろう。
だけど心が動かないのではなく、正しくは何事にも動揺しないように我慢していただけだ。誰も味方のいない王宮で、小さな動揺はそのまま死に繋がる。隙など、誰にも見せてやるものか。それは当時の私が出来うる最大の防御であった。
ぎょろりと大きくこぼれ落ちそうな目、異物のように高い鼻、唇は思わず目を背けたくなるほど大きく、顔面の骨はでこぼこと堀が深い。
侯爵令息として蝶よ花よと甘やかされて育った母は、産み落としてすぐの赤子の顔を見て投げ捨てたそうだ。まだ年若い世間知らずの母にとっては、異形の赤子は恐怖以外のなにものでもなかったのだろう。
幼い私にとって、実母からの拒絶は世界の終わりと同義だ。
後ろ盾のなくなった私に待っていたのは、暗く誰も立ち寄りたがらない王宮の端にある離宮での孤独な生活。
その離宮は罪を犯した王族を閉じ込める目的で建てられた幽閉塔と呼ばれるものだった。
母親は無条件に子どもを慈しみ愛するなど、御伽話の中の話だと思っていた。兄上が母親に抱きしめられている姿を見て、本当に母親とは我が子が可愛いのだなと衝撃を受けたのを覚えている。
父上のハーレムには八人の妻がいたが、子どもは兄上と私しかできなかった。
もともと子どもの宿りにくい世界だからそれは珍しくない。
だが、父上やそのハーレムの男達にとって、子は一人という認識であったろう。
父や実母に触れられたこともない、乳母にすら必要最低限の世話しかされない、存在すら忘れ去られた第二王子。そんな存在は必要だろうかと、本人である私ですら思っていたほどだ。
そうして部屋で一人で過ごす生活が変わったのは、十歳の頃。
兄上の取り巻きだったキティルが、気まぐれで離宮を訪れるようになってからだ。
『こんなところで一人でいるの?』
『…誰?』
『僕はキティルだよ。君のお兄様の婚約者候補』
兄上が十五歳になり王立学園へ通いはじめると、兄上のそばには常に側近候補やハーレム候補が侍るようになった。
彼は確か、と頭の中の貴族名鑑の上級貴族要覧を思い浮かべる。そうか、彼があの有名なナザロフ侯爵家の水の精霊様か。
キティルの美貌は有名で、艶やかに手入れされたアイスブルーの髪も小さな桃色の瞳もなるほど確かに美しかったけれど、実際会ってみるとこんなものかという印象だった。
キティルは他の取り巻きの令息達とは違い、私を邪険に扱ったりはしなかった。特別優しいということもなかったが、私と普通に言葉を交わす人間がいるということは、当時の私にとって何よりの衝撃だった。
『…兄上の婚約者はもういるよね。伯爵家のルーチェ・オリーブル様だよ。彼はハーレム反対派だと聞いたけれど』
『知ってるよ。でも今時ハーレムを作らない王族なんていないでしょ』
君の場合は…とこちらを見る。
『作らないというより、作れないかもしれないけど』
ずいぶんと、あけすけにものを言う男だ。侍従たちが陰で嘲笑しているのは知っていたが、意外にも直接言葉を投げつけられたのはこれが初めてかもしれない。仮にも王族ということか、とそんな事にも諦めにも似た苦笑いがもれる。
『君も兄上の妻にはなれないよ。オリーブル伯爵家は王家に大金を援助してくれている。強固な後ろ盾となってくれるオリーブル伯爵家との縁を、兄上は無碍にできないはずだよ』
キティルの父親であるナザロフ侯爵は随分な浪費家だと聞く。夜な夜な懇意にしている貴族を家に呼び、男娼を侍らせてパーティーを開いているとか。
とてもじゃないが、オリーブル伯爵家には太刀打ちできないだろう。
『君…そんなことよく知ってるね』
それらは全て使用人達の噂話や家庭教師が私を罵るついでに語る言葉で推測している。だがそれを言うと『…君、可愛くない子どもだね』とキティルは眉を顰めた。
『私が可愛くないのは見ればわかるだろ?』
『容姿のことじゃないよ。まぁ、容姿もひどいものだけど。男は愛嬌が大切なんだ。お母様がそう言ってた』
『ああ、君は愛嬌だけはありそうだもんね』
『なっ!』
暗にそれしか取り柄がないと言われ、キティルはその言葉に顔を真っ赤にして怒った。もうここへ来ることもないだろうとその時は思っていた。
こんな場所に、わざわざ私に会いに来る人などいないのだから。
しかし、どんな思惑があるのかは知らないが、キティルはたびたび離宮を訪れるようになった。
『ねぇ、僕と一緒にご本を読まない?』
『また来たの?』
『相変わらず可愛げがないね』
後ろからついてきていた護衛騎士や侍従達が明らかに嫌そうな顔をしているが、お構いなしに部屋へと入ってくる。
『ほら、君ってこういう本は読まないだろ?』
そう言ってキティルが目の前に差し出したのは、一冊の絵本だった。
この国で今大流行しているという、王子と落ち人の物語。
『私はこういったものには興味がない』
『いいから、読んでみなよ。そんな難しそうな本ばかり読んでいては、ますます可愛げがなくなるよ』
『いらない』
読みたくて読んでいるわけではない。私は出来て当たり前、出来なければひどい折檻が待っているから必死で勉学に励んでいるに過ぎない。
私につけられた家庭教師はいつも兄上と私を比べてひどい暴言を吐く男だった。問題を間違えたり、ひどい時は理由などなく、持っている指示棒を鞭のようにしならせて手を打つのだ。
私の両手は常に青黒く腫れていたが、それに気づく者は一人もいなかった。まあ気づいていたとしても、誰もこの家庭教師に抗議などしなかっただろうが。
『これ、君にプレゼントだよ。気が向いたら読んで』
キティルが置いて行った絵本を手に取る。
今まで私に与えられてきた勉学の本とは違い、表紙に華美な装飾が施されている。
本を開いて、次々と読み進めていく。項を操る手が止まらない。絵本とは、物語とは、こうも心が躍るものなのか。
これが、私の記憶の中で最初の子どもらしい体験であったと言える。
キティルとはいつも本を読んだり、ときどき誰もいないのを確認して庭園で駆けたりした。
私はこの頃にはすっかりキティルに心を許し、もしかしたら、と期待してしまっていたのかもしれない。
もしかしたら、友人になってくれるかもしれない、と。
それはある日のことだった。図書室で調べものをした帰り道、いつも通り誰もいないことを確認してから庭園の木陰で本を読んでいた。その本は、キティルがくれた王子と落ち人の物語の絵本だ。それはもう何度も読んで擦り切れていた。
この絵本が気に入ってから色々と調べて、この王子と落ち人の物語がシリーズ化されていることを知ったが、当時の私にそれを入手するすべなどなかった。兄上が望めば周りがなんでも叶えてくれるが、私にはそういった相手はいない。
もう何度も読み諳んじることができる物語を、はじめの項から目で追っていく。その時ふと、近くで知っている声が聞こえた。
『キティルさ、ネヴィオ様の弟と仲良くしてるんだろ?あの異形を見ても平気なんてすごいよなぁ。俺この前のお茶会で見かけたとき吐き気がしたもん』
『僕もむりぃ。同じ空気吸ってるだけで、うぇって感じぃ』
『たまにさ、ネヴィオ様や俺達のこと羨ましそうに見てるだろ。こっち見んなって何度思ったことか』
『そうそう、あのぎょろっとした目!思い出すだけで寒気がする』
兄上の取り巻き達の言葉が聞こえる。何を言われても平気だ。こんなことには慣れている。
そのとき、ぷっとキティルが吹き出した。
『あはは!平気なわけないじゃん。気持ち悪いなっていつも思ってるよ。でもあいつと仲良くしてると、周りの評判がどんどん上がるんだよね。この前なんてあいつの侍従から、キティル様は顔だけじゃなくて心まで美しいんですねなんて言われちゃって』
『うわ、ひどーい!』
『出たよ、キティルの鬼畜っ』
でもさ、とキティルが続ける。
『あいつって可哀想なんだよ。ちょっと優しくしてやったら嬉しそうな顔しちゃってさ。お父様の取引相手が僕に媚びて絵本持ってきてさ、いらなかったからそれあげたら、宝物にしちゃってんの!しかもしかも、それが王子様と落ち人様の絵本でさ』
『うわぁ、きつー』
『絵本の美しい王子様と自分重ねちゃってる?とか思ったら哀れで笑えちゃって』
聞きたくもないのに、陰口ほどちゃんと聞こえてくるのはなぜなんだろうな。
『でもさ、落ち人様なら、もしかしたら異形の存在でも愛してくれるかもしれないよ?』
キティルの冗談に皆が一斉に吹き出す。
『『『ないない!絶対ない!』』』
キティル達の笑い声が、遠ざかっていく足音が、聞こえなくなっても私はその場を動けずにいた。
ただじっと息を殺し、心臓の音だけがうるさく響く。
ぽたり、と、膝の上に広げた絵本へと雫が落ちる。ぽたり、ぽたり。雨が降っているわけでもないのに。
何度も読み、諳んじることができる物語。
シリーズ化されていて、他の物語だってもちろん読みたい。
だけどシリーズをすべて読めたとしても、私がいちばん好きなのはこの最初の物語だろう。そのはじまりの物語には、王子と落ち人が出会い友情を育む話が書かれている。
私はそれが欲しいのだ。きらきら輝く、永遠に続く友愛。
憧れてやまないのだ。ただ一人でいい。一人だけで…それだけでいいのに。
それからしばらくしたある日、キティルに強引に腕を引かれて兄上の茶会が開かれているという庭園へ連れていかれた。
嫌がる私を側のベンチへ座らせて、じっと私を見つめる。
『僕は幼く見えるだろう?ネヴィオ様には僕のことをもっとちゃんと意識してほしいんだ』
キティルは自分の容姿の魅せ方を心得ているから、幼く見えることも本当は気に入っていることがうかがえた。
ねぇ、とキティルが耳元で囁く。
『ねぇ、僕は将来ネヴィオ様のハーレムに入りたいんだ。協力してくれる?』
『どうしてそんなに兄上のハーレムに入りたいの?』
『だってネヴィオ様はいつか国王様になるでしょ?国王様のハーレムに入れば、一生贅沢して暮らせるじゃん』
眉を寄せて、じっとキティルを見つめ返す。
それが、キティルの望みなのか?
水の精霊などともてはやされてはいたが、当のキティル自身はいつも兄上の気を引こうと必死だった。
おそらく、父親か母親にそう言い含められているのだろう。
『わかった』
『ほんとう?ありがとうっ』
頬を染めて喜ぶキティルを、遠くから兄上やその取り巻きが見ている。見られてるいることに気づいているキティルは、一層私に身を寄せて仲の良さをアピールしだした。
『…なに?』
『さっき協力してくれるって言ったでしょ?オーランドと仲良くしてると、絶対にネヴィオ様が気にしてくれるんだよね。あ、ほら!』
ほら、とキティルが小声で言ったのと同時に、兄上がこちらに歩いてくる。
『キティルは私の弟と本当に仲良しだね?』
『え、あっ…はい。でも僕は本当はネヴィオ様と遊びたいのです。僕と…キティルと、仲良くしてくださいますか?』
桃色の瞳を潤ませながら見上げるその表情は見たことがある。父上に侍る母上達だ。幼いながらもすでに母上達と同じような色香を纏っているキティルを私は『小賢しいな』と感じたが、兄上はそうではなかったらしい。
『キティルはなんと愛らしい…いいよ、こちらへおいで』
そう言ってちらりとこちらを見下ろした兄上の目の奥には、隠しきれない優越感が滲んでいる。
兄上に肩を抱かれて、他の取り巻きの令息達の嫉妬に染まった顔を気分良さげに眺めているキティルが、ちらりとこちらに視線を向けて口の端を上げた。まったく、あれのどこが愛らしいのだろうか。
キティル、と心の中で声をかける。
これは私からの最初で最後のプレゼントだ。
君がどんな思惑であれ私と話をしてくれたこと、誰もいない庭を駆けてくれたこと、それからあの美しい絵本をくれたこと。友人にはなれなかったけれど、感謝している。だけど、もう君とは関わらないよ。
さようなら、と誰にも聞かれることのない言葉を囁く。笑い声の響く明るい庭園を背にして、私は私のいるべき幽閉塔へと足を進めた。
父上のハーレムの中の誰かが、この侍従を使って嫌がらせをしてくるのだ。
死なない程度の、だが確実に苦しむくらいの量の毒。ご苦労なことだ。毒を盛られていると気づいたときは思わず笑いがもれた。
こんな忘れ去られた異形の第二王子に、毒を盛るものがいるなど笑止千万。
体中の痛みと息苦しさに耐えながら、幼い私はそれをどこか他人事のように感じていた。
無表情で自分の生命の危機にすら心が動かない子どもなど、醜くなくとも不気味だろう。
だけど心が動かないのではなく、正しくは何事にも動揺しないように我慢していただけだ。誰も味方のいない王宮で、小さな動揺はそのまま死に繋がる。隙など、誰にも見せてやるものか。それは当時の私が出来うる最大の防御であった。
ぎょろりと大きくこぼれ落ちそうな目、異物のように高い鼻、唇は思わず目を背けたくなるほど大きく、顔面の骨はでこぼこと堀が深い。
侯爵令息として蝶よ花よと甘やかされて育った母は、産み落としてすぐの赤子の顔を見て投げ捨てたそうだ。まだ年若い世間知らずの母にとっては、異形の赤子は恐怖以外のなにものでもなかったのだろう。
幼い私にとって、実母からの拒絶は世界の終わりと同義だ。
後ろ盾のなくなった私に待っていたのは、暗く誰も立ち寄りたがらない王宮の端にある離宮での孤独な生活。
その離宮は罪を犯した王族を閉じ込める目的で建てられた幽閉塔と呼ばれるものだった。
母親は無条件に子どもを慈しみ愛するなど、御伽話の中の話だと思っていた。兄上が母親に抱きしめられている姿を見て、本当に母親とは我が子が可愛いのだなと衝撃を受けたのを覚えている。
父上のハーレムには八人の妻がいたが、子どもは兄上と私しかできなかった。
もともと子どもの宿りにくい世界だからそれは珍しくない。
だが、父上やそのハーレムの男達にとって、子は一人という認識であったろう。
父や実母に触れられたこともない、乳母にすら必要最低限の世話しかされない、存在すら忘れ去られた第二王子。そんな存在は必要だろうかと、本人である私ですら思っていたほどだ。
そうして部屋で一人で過ごす生活が変わったのは、十歳の頃。
兄上の取り巻きだったキティルが、気まぐれで離宮を訪れるようになってからだ。
『こんなところで一人でいるの?』
『…誰?』
『僕はキティルだよ。君のお兄様の婚約者候補』
兄上が十五歳になり王立学園へ通いはじめると、兄上のそばには常に側近候補やハーレム候補が侍るようになった。
彼は確か、と頭の中の貴族名鑑の上級貴族要覧を思い浮かべる。そうか、彼があの有名なナザロフ侯爵家の水の精霊様か。
キティルの美貌は有名で、艶やかに手入れされたアイスブルーの髪も小さな桃色の瞳もなるほど確かに美しかったけれど、実際会ってみるとこんなものかという印象だった。
キティルは他の取り巻きの令息達とは違い、私を邪険に扱ったりはしなかった。特別優しいということもなかったが、私と普通に言葉を交わす人間がいるということは、当時の私にとって何よりの衝撃だった。
『…兄上の婚約者はもういるよね。伯爵家のルーチェ・オリーブル様だよ。彼はハーレム反対派だと聞いたけれど』
『知ってるよ。でも今時ハーレムを作らない王族なんていないでしょ』
君の場合は…とこちらを見る。
『作らないというより、作れないかもしれないけど』
ずいぶんと、あけすけにものを言う男だ。侍従たちが陰で嘲笑しているのは知っていたが、意外にも直接言葉を投げつけられたのはこれが初めてかもしれない。仮にも王族ということか、とそんな事にも諦めにも似た苦笑いがもれる。
『君も兄上の妻にはなれないよ。オリーブル伯爵家は王家に大金を援助してくれている。強固な後ろ盾となってくれるオリーブル伯爵家との縁を、兄上は無碍にできないはずだよ』
キティルの父親であるナザロフ侯爵は随分な浪費家だと聞く。夜な夜な懇意にしている貴族を家に呼び、男娼を侍らせてパーティーを開いているとか。
とてもじゃないが、オリーブル伯爵家には太刀打ちできないだろう。
『君…そんなことよく知ってるね』
それらは全て使用人達の噂話や家庭教師が私を罵るついでに語る言葉で推測している。だがそれを言うと『…君、可愛くない子どもだね』とキティルは眉を顰めた。
『私が可愛くないのは見ればわかるだろ?』
『容姿のことじゃないよ。まぁ、容姿もひどいものだけど。男は愛嬌が大切なんだ。お母様がそう言ってた』
『ああ、君は愛嬌だけはありそうだもんね』
『なっ!』
暗にそれしか取り柄がないと言われ、キティルはその言葉に顔を真っ赤にして怒った。もうここへ来ることもないだろうとその時は思っていた。
こんな場所に、わざわざ私に会いに来る人などいないのだから。
しかし、どんな思惑があるのかは知らないが、キティルはたびたび離宮を訪れるようになった。
『ねぇ、僕と一緒にご本を読まない?』
『また来たの?』
『相変わらず可愛げがないね』
後ろからついてきていた護衛騎士や侍従達が明らかに嫌そうな顔をしているが、お構いなしに部屋へと入ってくる。
『ほら、君ってこういう本は読まないだろ?』
そう言ってキティルが目の前に差し出したのは、一冊の絵本だった。
この国で今大流行しているという、王子と落ち人の物語。
『私はこういったものには興味がない』
『いいから、読んでみなよ。そんな難しそうな本ばかり読んでいては、ますます可愛げがなくなるよ』
『いらない』
読みたくて読んでいるわけではない。私は出来て当たり前、出来なければひどい折檻が待っているから必死で勉学に励んでいるに過ぎない。
私につけられた家庭教師はいつも兄上と私を比べてひどい暴言を吐く男だった。問題を間違えたり、ひどい時は理由などなく、持っている指示棒を鞭のようにしならせて手を打つのだ。
私の両手は常に青黒く腫れていたが、それに気づく者は一人もいなかった。まあ気づいていたとしても、誰もこの家庭教師に抗議などしなかっただろうが。
『これ、君にプレゼントだよ。気が向いたら読んで』
キティルが置いて行った絵本を手に取る。
今まで私に与えられてきた勉学の本とは違い、表紙に華美な装飾が施されている。
本を開いて、次々と読み進めていく。項を操る手が止まらない。絵本とは、物語とは、こうも心が躍るものなのか。
これが、私の記憶の中で最初の子どもらしい体験であったと言える。
キティルとはいつも本を読んだり、ときどき誰もいないのを確認して庭園で駆けたりした。
私はこの頃にはすっかりキティルに心を許し、もしかしたら、と期待してしまっていたのかもしれない。
もしかしたら、友人になってくれるかもしれない、と。
それはある日のことだった。図書室で調べものをした帰り道、いつも通り誰もいないことを確認してから庭園の木陰で本を読んでいた。その本は、キティルがくれた王子と落ち人の物語の絵本だ。それはもう何度も読んで擦り切れていた。
この絵本が気に入ってから色々と調べて、この王子と落ち人の物語がシリーズ化されていることを知ったが、当時の私にそれを入手するすべなどなかった。兄上が望めば周りがなんでも叶えてくれるが、私にはそういった相手はいない。
もう何度も読み諳んじることができる物語を、はじめの項から目で追っていく。その時ふと、近くで知っている声が聞こえた。
『キティルさ、ネヴィオ様の弟と仲良くしてるんだろ?あの異形を見ても平気なんてすごいよなぁ。俺この前のお茶会で見かけたとき吐き気がしたもん』
『僕もむりぃ。同じ空気吸ってるだけで、うぇって感じぃ』
『たまにさ、ネヴィオ様や俺達のこと羨ましそうに見てるだろ。こっち見んなって何度思ったことか』
『そうそう、あのぎょろっとした目!思い出すだけで寒気がする』
兄上の取り巻き達の言葉が聞こえる。何を言われても平気だ。こんなことには慣れている。
そのとき、ぷっとキティルが吹き出した。
『あはは!平気なわけないじゃん。気持ち悪いなっていつも思ってるよ。でもあいつと仲良くしてると、周りの評判がどんどん上がるんだよね。この前なんてあいつの侍従から、キティル様は顔だけじゃなくて心まで美しいんですねなんて言われちゃって』
『うわ、ひどーい!』
『出たよ、キティルの鬼畜っ』
でもさ、とキティルが続ける。
『あいつって可哀想なんだよ。ちょっと優しくしてやったら嬉しそうな顔しちゃってさ。お父様の取引相手が僕に媚びて絵本持ってきてさ、いらなかったからそれあげたら、宝物にしちゃってんの!しかもしかも、それが王子様と落ち人様の絵本でさ』
『うわぁ、きつー』
『絵本の美しい王子様と自分重ねちゃってる?とか思ったら哀れで笑えちゃって』
聞きたくもないのに、陰口ほどちゃんと聞こえてくるのはなぜなんだろうな。
『でもさ、落ち人様なら、もしかしたら異形の存在でも愛してくれるかもしれないよ?』
キティルの冗談に皆が一斉に吹き出す。
『『『ないない!絶対ない!』』』
キティル達の笑い声が、遠ざかっていく足音が、聞こえなくなっても私はその場を動けずにいた。
ただじっと息を殺し、心臓の音だけがうるさく響く。
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それからしばらくしたある日、キティルに強引に腕を引かれて兄上の茶会が開かれているという庭園へ連れていかれた。
嫌がる私を側のベンチへ座らせて、じっと私を見つめる。
『僕は幼く見えるだろう?ネヴィオ様には僕のことをもっとちゃんと意識してほしいんだ』
キティルは自分の容姿の魅せ方を心得ているから、幼く見えることも本当は気に入っていることがうかがえた。
ねぇ、とキティルが耳元で囁く。
『ねぇ、僕は将来ネヴィオ様のハーレムに入りたいんだ。協力してくれる?』
『どうしてそんなに兄上のハーレムに入りたいの?』
『だってネヴィオ様はいつか国王様になるでしょ?国王様のハーレムに入れば、一生贅沢して暮らせるじゃん』
眉を寄せて、じっとキティルを見つめ返す。
それが、キティルの望みなのか?
水の精霊などともてはやされてはいたが、当のキティル自身はいつも兄上の気を引こうと必死だった。
おそらく、父親か母親にそう言い含められているのだろう。
『わかった』
『ほんとう?ありがとうっ』
頬を染めて喜ぶキティルを、遠くから兄上やその取り巻きが見ている。見られてるいることに気づいているキティルは、一層私に身を寄せて仲の良さをアピールしだした。
『…なに?』
『さっき協力してくれるって言ったでしょ?オーランドと仲良くしてると、絶対にネヴィオ様が気にしてくれるんだよね。あ、ほら!』
ほら、とキティルが小声で言ったのと同時に、兄上がこちらに歩いてくる。
『キティルは私の弟と本当に仲良しだね?』
『え、あっ…はい。でも僕は本当はネヴィオ様と遊びたいのです。僕と…キティルと、仲良くしてくださいますか?』
桃色の瞳を潤ませながら見上げるその表情は見たことがある。父上に侍る母上達だ。幼いながらもすでに母上達と同じような色香を纏っているキティルを私は『小賢しいな』と感じたが、兄上はそうではなかったらしい。
『キティルはなんと愛らしい…いいよ、こちらへおいで』
そう言ってちらりとこちらを見下ろした兄上の目の奥には、隠しきれない優越感が滲んでいる。
兄上に肩を抱かれて、他の取り巻きの令息達の嫉妬に染まった顔を気分良さげに眺めているキティルが、ちらりとこちらに視線を向けて口の端を上げた。まったく、あれのどこが愛らしいのだろうか。
キティル、と心の中で声をかける。
これは私からの最初で最後のプレゼントだ。
君がどんな思惑であれ私と話をしてくれたこと、誰もいない庭を駆けてくれたこと、それからあの美しい絵本をくれたこと。友人にはなれなかったけれど、感謝している。だけど、もう君とは関わらないよ。
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ちょっとアレなやつには✾←このマークを付けておきます。読む際にお気を付けください☺️
第12回BL小説大賞に参加中!
よろしくお願いします🙇♀️
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王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?
名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。
そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い
ちっちゃくなった俺の異世界攻略
鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた!
精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!
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