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仮交際始めました

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 クラシカルな内装の喫茶店にコーヒーの湯気が上がる。
 壁際の古時計がカチカチと鳴り、トンボ柄のガラスランプがぼんやりと灯る店内は、さっきまでいた都会の街中とは別世界だ。
 夕飯時なせいか俺たちの他には客が居なくて、シンとした店内に、オペラ歌手の歌ってる微かなBGMだけが聞こえてくる。
 流石、都会に住んでると家の近くにこんな洒落た喫茶店があったりすんだな……と感心してる俺の前で、金髪の美少女が俯きながら長い睫毛を瞬かせた。
 強引に連れて来られたものの、さっきから彼女は静かに黙ったままだ。
 その表情からは感情が読めない。
 犬塚さんと似ているーーと思った。
 犬の時は分かりやすいぐらいの感情を感じたのに、今は彼女が何を考えてるのか全くわからねぇ。
 分からなくて、恐ろしい。
「あの、話したいことって何?」
 沈黙に耐えられず、とうとう俺の方から切り出す。
 夏美さんは華奢な肩をビクンと震わせ、こぼれ落ちそうな大きな目をゆっくりと見開いて俺を見た。
 小さなピンク色の唇が震えながら開く。
「渚お兄ちゃんと……別れてください……」
 目が点になった。
 なんかこの展開テレビの再現ドラマとかで見た事あるぞ。
 アレだ。正妻の女の人が愛人を喫茶店に呼び出して、最後には「この泥棒猫ッ! あの人を返しなさいよぉ!」って叫ぶヤツ……って、ちょい待て!
 俺は不倫の愛人じゃねぇーし!
 それ以前にまだ付き合ってすらねーわ!
「そ、それはちょっとどうにも……そもそも、まだ付き合ってないよ、今はまだ仮交際中だし……?」
「じゃあこれ以上、お兄ちゃんと交際するのはやめてください」
 声は可愛いけど、その言葉尻がハッキリとキツくなった。この子、すげぇ気が強い。確かにあの時唸って来た犬と同一人物だってことを確信した。
 唖然としている内に、金色の睫毛で縁取られた瞳にみるみる大粒の涙が浮かぶ。
「私……物心ついた時から、ずっと渚お兄ちゃんと結婚するつもりで生きて来たんです」
 そのフワフワの髪の毛の中に見える垂れ耳がプルプル震えてるのに気付いてしまった。
 この人、なんて可愛い子なんだろう……と、こんな状況なのに思う。俺、やっぱり犬に弱い……。
「お兄ちゃんだってずっとそのつもりで、小さな時から何度も私に言ってくれてたんです。お前が僕のお嫁さんだからね、って……」
 脳裏に、一対の天使みたいに可愛い、そっくりな顔の少年と少女の姿が浮かぶ。
 犬塚さん……この子の中では、結婚するって話、全然昔のことになってねぇじゃん……。
「でも、最近になって急に、お兄ちゃんが言い出して。もっと色んな人に会ってみたいっ、婚活するって……」
 嗚咽を上げながら夏美さんが両手で涙を拭う。
「最初は本気だなんて思ってなかった。でも、本当にお兄ちゃんが婚活相談所に登録し出して……。初めてお見合いするって言うから、私……、前の日の夜、私との約束、忘れたの!?って、聞いたんです」
 初めてお見合いした日……初めて俺が犬塚さんに会った日の、前の日か。
「そしたらお兄ちゃんは、ごめんね、それは親が決めた事だし、昔のことだから、って……。でも、私どうしても諦められなかった。だから、もし婚活でいい人が見つからなかったら、その時は私と結婚してって言ったの。そしたら、お兄ちゃん、いいよって言ってくれた」
 頭を殴られたようなショックを受けて、俺は奥歯を無意識に噛み締めた。
 犬塚さん……。いや、俺と会う前だったし仕方ねぇけど……。そんな事約束したらこの子がこんな風に必死になんの、目に見えて分かるじゃねぇか。
 俺も大概鈍感だけど……犬塚さんもかなり天然過ぎるだろ……。
「あたし、オメガだし、獣人だし、……アルファと結婚するチャンスは血族婚くらいしか無いんです。一族の独身のアルファで年齢が合うの、渚お兄ちゃんしかいなくて。勿論、私は小さい時からお兄ちゃんのことしか見てないし、そんな事がなくたって他の人となんか結婚したくないけど……っ」
 泣きじゃくりながら夏美さんが俺を見つめる。
 堪らなく可愛い顔してる。けど、彼女を見れば見るほど、どんどん胸の中が苦しく、鉛を呑んだように重くなっていく。
「私ね……、お兄ちゃんに首を噛んでつがいにして貰って、普通になって生きるのが夢だった……ずっとずっと、その日を待って生きてきたの……」
 つがい、という言葉にどきりと心臓が跳ねた。
 アルファと結婚して、首の後ろを噛まれてつがいになったオメガは、もう二度と伴侶のアルファ以外には発情しなくなる。
 発情期に怯えて閉じこもることもなく、普通の人間として生きていけるようになる。
 この子は俺と同じようにオメガとしての自分の人生に苦しみながら、「その日」をずっと、楽しみに待ってたんだ。
 その気持ちは、犬塚さんみたいなアルファには到底分からないだろう。
 そして俺には……痛いほど分かる。
 俺は俯いたまま、冷たくなり震える指でコーヒーカップを取り、一度口を付けた。
 全く味がしない。
 目の前の夏美さんに、一瞬昔の俺の彼女が重なって見えて、頭がグラグラした。
 ここから逃げ出したい。そのぐらい苦しい。
「それに……私、あなたのことお兄ちゃんから聞いたんです。子供……産めないんですよね? 私だったら渚お兄ちゃんに、可愛い純血の子を何十人でも産んであげられます。だから」
 グシャグシャに泣いても綺麗な泣き顔。
 この子が子犬を産んだら、きっと完璧に可愛い子供しか生まれない。
 あの結婚式の時の集合写真に似つかわしい、金髪の可愛い男の子や女の子しか。
「私の夢を、奪わないで……っ。大好きな人の、お嫁さんになるのが子供の頃からの夢だったんです……」
 ああ。
 なんかもう、ダメだ……と思った。
 俺の子供の頃からの夢は、幸せな結婚して、子供を持って、可愛い犬も飼って、温かい家を持つことだった。でも俺の夢を叶えたら、この子の夢が消えてしまう。
 俺は犬塚さんに会ってまだひと月で、交際の覚悟が決まったのだって今日のさっきだ。
 でもこの子はもう20年以上も一番そばにいて、ずっと彼を見てきた。彼と結ばれる日の為に生きてきた。
 犬塚さんだって、まんざらじゃなかったからこそ、婚活でいい人に会えなかったら……と彼女に約束したんだと思う。こんな可愛い子だから。
 何より、この一途な子に一生恨まれながら、平気な顔であの人と幸せな結婚をできる気が、ーーしない。
 もしも俺が女だったら違ってたのかな。
 もしかしたらこの場で掴み合いしてでも張り合ったのかもしれねぇけど……。
 決めたはずの覚悟が萎んでいく。
 壁際の古時計が6時の鐘を打ち始め、俺は夏美さんの顔を見て、……乾いた唇で、無理矢理笑顔を作った。
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