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仮交際始めました

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「もしかして、思い込みだけで俺がこんな事言ってると思ってる?」
 握られてる手がじっとりと汗ばんでくる。
 その体温に、さっきキスされた時に絡めた舌の熱さが蘇って来た。
 相手の唇にどうしても視線が吸い寄せられる。喋るたびに見え隠れする牙にも。
 ……噛まれてぇ。
 うわダメだ、俺またおかしくなってる。これ以上触られてるとまた発情してワケ分かんなくなりそう。
 早く解放して欲しいのに、犬塚さんが引き続き強い視線と言葉で俺を包囲していく。
「オメガのフェロモンに惑わされてるだけだとしたら、従姉妹だってオメガだから、そっちととっくに結婚してるよ。でも、湊さんが俺を好きなのかよく分からないと言うなら……次会う時までは、答えを待つ」
 期限を区切られた……!?
「わ、分かった……」
 固唾を呑んで俺は頷いた。
 次会うときまで……多分そうしないといつまでも結論出さねぇタイプだと思ったんだろうな。
 その通りだよ、知り合って1ヶ月経たねぇのによく分かってるな俺の事。
 なんて感心してる場合じゃねえ。
 嫁になる覚悟して本交際行くのか、犬塚さんを婚活市場にリリースすんのか、今度こそ決めないと。
「次までには決めるから、手、離してくれ……またおかしくなる……」
 ついに口に出して懇願したのに、相手は握った手を全く緩めずに笑顔を返してきた。
「俺はおかしくなって欲しいけど。――発情してる湊さん、可愛くていやらしくて、二度と離したくなかった」
「わぁぁっ! でかい声でそんなこと言うなよぉ……!」
 無理矢理に手をもぎ離しながら、涙目で抗議した。
 オメガはみんなそうだと思うけどさ、ああなってる時の俺は、俺だけど俺じゃねぇんだってば……!
「ごめん。でも俺があなたを好きだってこと分かって欲しくて。――そうだ、この後まだ少し時間もらっていい?」
「特に予定はねぇけど……」
 うう……正直なところ、俺もう午前中と今の出来事だけで気分的にはイッパイイッパイだぜ……。
 こういう所がヒキ気味って思われちまうんだろうな。
「うちに遊びに来ませんか。近くなので」
 言われた言葉に目が点になった。
「はい!? 犬塚さんこのへんに住んでんの!?」
 丸の内の近くってどういうセレブだよ。確かこの辺、商業施設とオフィスしかなくて人口が一人しかいないっていうの聞いたことあるぞ。
「流石に丸の内には住んでないよ。電車で少し行った先」
 なーんだ……って、そういえば確か子犬も含めて大家族で住んでるんだよな、犬塚さんち。
「あ、遊びに行く……!」
 カワイイ犬会いたさに、俺はまんまと誘いに乗ってしまった。


 だいぶ空気も温まってきた昼下がり、犬塚さんに連れられてたどり着いたのは東京駅から驚きのたった二駅……彼の職場だという浜町にも近い隅田川沿いに面した高級マンションだった。
 職場まで徒歩とか自転車で行ける距離って。この東京ではあり得ねぇセレブだぞ。
 ううっ、俺の職場にもメチャクチャ近くて魅力的だなぁ……! つい結婚したくなりそう……って、犬塚さんのマンション目当ての人みたいになってどうすんだ、しっかりしろ。大体俺にはお袋がいるだろが。
 高級感溢れる素材で出来た入り口の自動ドアをおっかなびっくり潜ると、天井の高い開放感溢れるエントランス・ラウンジがガラス戸の向こうに広がっている。
 犬塚さんがキーをポケットから出し、黒いプラスチック素材で覆われたその頭部分を壁際のドアセンサーに近付けると、ガラス戸がシュッと左右に開いた。
 こ、これが憧れのオートロック……!
「俺のうちは12階だよ」
 そう言って振り返った犬塚さんの顔が突然モフモフの犬顔になってて、ギャッと叫びそうになった。
 変わる時は声かけてくれビックリするから。
「う、うん」
 動悸を抑えて相槌を打ち、壁やら扉がくすんだ金色でやたらピカピカしたエレベーターの前に案内された。
「来たよ。どうぞ」
 オヒメサマみたいにエスコートされ、内壁がスベスベの木目調な箱の中に乗り込む。
 ボタンを見たら12が一番上だった。
「最上階……!? 家賃死ぬほど高そうだな……」
 恐れおののくと、相手はサラッと首を横に振った。
「祖父のマンションだから、家賃は無いよ」
 ウワア……ドン引きする程セレブー……。
 犬塚さんとこれから本交際して結婚したとして、この格差感は拭えるんだろうか。
 金銭的な価値観も随分と違うんじゃ……。っていうかこの立地、そもそもスーパーとかあんの……?
 金持ちもここまで来ると不安になる……。
 部外者の俺なんかが長男の嫁に来ちまったら、親戚一同から『男でオメガ~!? お前など犬塚家の嫁だとは認めん!』とか言われた挙句、一族の遺産を巡って隅田川に脚が二本突き出す事になったりしそうじゃん……。
 とかしょうもない古典妄想をしてしまったトコでエレベーターが着いた。
 やたら眺めのいい共用廊下を左に曲がり、すぐ目の前のドアに案内される。
 最上階の上に角部屋かい……。最早これ以上驚くことはあるまいと思ってたが、犬塚さんが鍵を差し込んだ瞬間に隣の部屋のドアがパッと開いた。
 凄く可愛い顔のでっかいゴールデンレトリバーが、ドアの横から顔だけ出して俺をジッと見ている。
「母さん、何してんの」
 犬塚さんが呆れたように肩を竦めた。
 お母様!? あの可愛い覗き見してる犬が!?
「あっち隣の家じゃねえの……!?」
「ビックリさせてごめん。ワンフロア分しきいの壁を取り払って住んでるから、ドアは違っててもこの階は全部うちなんだ。――母さん、覗き見は失礼だろ。挨拶したいならちゃんと人身になって着替えてきてくれ」
 お母様犬が引っ込んで、隣のドアが閉まる。
 同時に犬塚さんが目の前の扉を開けると、中はもっととんでもない事になっていた。
 広い大理石張りの玄関いっぱいに集まった、犬、犬、犬。
 小さいのも大きいのもみんな千切れんばかりに尻尾振って、前足でジャンプしながら一斉に飛び掛かってくる。
「わーっ!」
 重みに耐えかねて尻餅をついた途端、一斉に群がられてあらゆる角度から顔をベロンベロン舐められた。
 何だこの状況! 天国か!
「だ、大丈夫!? みんなお客さん大好きなもんだから……コラッ、失礼だろ。離れなさい」
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