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仮交際始めました

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 え……何で……?
 何か気に触ることしたか?
 俺が余りにも遅くて待たせたから、嫌になっちまったのかな。
 不安になってグルグル考えてるうちに、フワッとした毛の生えた背中がさっさと横断歩道を渡り始めた。
「待ってくれ……!」
 訳がわからず呼び掛ける。
 彼が行こうとしてるのはフリスビーしようと思ってた芝生とは真反対の方向だ。
 ーーまさか帰ろうとしてる……?
 いつもすごく優しいのに、彼がこんな態度を取るなんて普通じゃねえ。
 もしかしたら体調が悪いのかな……?
 冷えてトイレ行きたいとか。
 あーもう……っ、犬の時は喋れねえから、訊くこともできねぇじゃん。
 困ったなぁ……と思いながらも、ほかにどうする事も出来ずに俺は犬塚さんの後をトボトボ歩いた。
 何だか俺の方が連れられてる犬みてぇだ。
 金色の大型犬が段々スピードを上げ、地下道への入り口をタッタカ降りて行く。
 バテてて足も痛くて、追うのが辛かったけど、俺はその後ろ姿を何とか見失わないように追い掛けた。
 四つ脚でどんどん歩いて行く彼の前方にランニングステーションが見えて来る。
 自動ドアに飛び込むと、店員がお決まりのように「お帰りなさいませー」と挨拶を告げた。
「犬塚さん……!」
 呼びかける俺の目の前で後ろ姿が更衣室に入ってゆく。
 俺も後について飛び込むように足を踏み入れると、既に犬塚さんはそこに居なくて、シャワー室から水音だけがザーッと聞こえて来た。
 ムチャクチャ避けられてる……。
 流石に凄くショックで、かなり落ち込んだ。
 俺がしくじって発情しても怒らないでいてくれた犬塚さんが……。
 俺、何やらかしたんだろう……。
 自分のロッカーを開けながらランニングしてた時のことをイチから思い出す。
 一緒に走った時は普通だった。犬塚さんが消えたのは、確か巨乳美女に話しかけられた時で……。
 犬塚さん放って話してたから?
 でも別にあれだってあっちから話しかけられたから普通に話してただけだよな。
 確かに俺の方はすげぇオッパイ見ちゃってたけど、男なら誰でも見るよな?
 俺別にアレでナンパとかしてねぇし、殆ど相槌打ってただけじゃん。
 でも彼の態度の変わり目はあそこしか思い浮かばない。
(何なんだよ……訳わかんねぇ……)
 泣きそうになりながら汗まみれのTシャツを脱ぎ、ランニングショーツとレギンスと下着をいっしょくたに脚から剥ぎ取った。
 裸になってシャワールームに入ると、五つあるブースのうちの一番奥から水音が聞こえて来る。
 俺はワザとその隣に入り、スライド式の磨りガラスのドアを閉めてシャワーを浴び始めた。
 相手が途中で出るかなーと思って凄くゆっくり髪と身体を洗ってたんだけど、何故か隣は水音がずっと一定で、動いてる気配がない。
 ……まさか、体調悪くて倒れてるとかーー。
 急に心配になり、一度自分のブースを出て隣のドアのガラス部分をコンコンと叩いた。
「犬塚さん……?」
 反応が無い。ちょっ、ほんと死んでねぇだろうな!?
「犬塚さん、大丈夫かーー」
 叫びながらガラリとドアをずらす。
 途端に冷たい水がビチビチと俺の体に跳ねて、驚いた。
 み、水!? 湯じゃなくて!?
 微動だにせずつっ立っている逞しい背中と引き締まった尻が目に飛び込んでくる。
「ちょっ、何やってんの……」
 そっと後ろから肩に触れると、俺の肘にまで冷水が伝い落ちる。
「ギャッ……! こんなん心臓麻痺起こすって」
 余りの冷たさに悲鳴を上げ、俺は強引に横から割って入って水を湯に切り替えた。
 その伸ばした腕が突然冷たい手に握られ、青ざめた人間顔の犬塚さんが俺を振り向く。
 さっき一瞬見ただけじゃ分からなかったけど、その全身にはうっすらと透ける金色の産毛が生え、水の流れに沿って肌に貼り付いている。
 その下の綺麗な筋肉の隆起に一瞬見惚れて、すぐにハッとした。
 いつのまにかシャワールームの仕切り壁に追い詰められるみたいになってて焦る。
(なっ、なんだこのシチュエーション……!)
 流石に俺もヤバイと思い、外に出たかったが握られた腕がガッチリ掴まれてた。
「すみません……俺、あの格好だと感情抑えるのが難しくて。少し頭を冷やしたかったんです」
 近い近い、距離が近い。そんで謝ってるのに目がメチャクチャ怖い。下も怖くて見られない。
 シャワーはとっくに湯になってんのに両脚がガタガタ震える。
 でも、言わなきゃ。訊かねぇと。
 勇気を出して犬塚さんと目を合わせ、俺は口を開いた。
「それって、俺が犬塚さんを、感情抑えられないほど怒らせたって事だろ。別に我慢しなくて良いから言ってほしい」
 犬の時の彼にそうするように、自由な方の手をそっと彼の髪に伸ばして触れた。
「鳩羽さん……」
 その指に懐くように彼が頭を傾ける。
 そして、ちょっと辛そうな表情で呟いた。
「俺、犬じゃ無い……」
 言われて目が点になった。
 え……いやどう考えても犬でしょあなた……。
「なので、あの女性にワンちゃんと言われた時はちゃんと、飼い犬じゃなくて交際相手だって言って欲しかった」
 はいぃ!? そこ!?
「あっ、いや、それはちょっと説明が面倒かなーって思って……っ」
「そうですよね。……だから、俺が悪いんです」
 掴まれていた手首が離され、犬塚さんはふいと横を向いてしまった。
 えええー……走りながら話しかけられた初対面の相手に、いやいや彼は俺のカレシ候補なんですよぉーカッコいいでしょー!? って言うべきだったんかー……言われた方も目が点になるだろうし、俺も変質者として通報されかねんけど……。
 ーーというツッコミが一通り心の中をよぎったけど、多分これは彼の獣人としての尊厳に関わる事なんだと思い直した。
 彼が最初会った時に俺をちゃんとひとりの人間として見てくれたように、俺も彼を、どんな姿であろうと人間として見なくちゃダメだったんだ……。
 もしも俺が犬塚さんの立場で、カワイイワンちゃんですねーなんて言われて、犬塚さんが俺をダシに女にナンパされてたら……うん、やっぱ相当悲しいかも。
 本当に俺は想像力足りてねぇ、救いようの無いバカだった。
「いや、俺がホントに悪かった……ごめん、全然犬塚さんの気持ち考えてなかった。傷付けてほんとにごめん、ごめんな……!」
 寂しそうに丸まった逞しい背中に両腕で強く抱きついて必死に謝る。
 すると一瞬空白があって、腕を解きながら犬塚さんが振り向いた。
 彼の両腕が俺の左右でスライド式のドアをバンと押し閉め、泣いているように見える綺麗な黒い瞳が近付く。
 その黒曜石みたいな瞳孔に吸い込まれるように見惚れた瞬間、彼の冷えきった唇が俺の唇に押し付けられた。
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