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ヴィクトル・シェンクの受難
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開け放した木枠の窓から、涼しい夜風が吹いている。
王都の夏は短い。
近頃は夜が随分と長くなってきた。
ヴィクトルは窓辺に置かれた椅子の背板から体を起こしつつ、古びた本を閉じた。
このこじんまりとした鍛冶屋の二階の屋根裏部屋は、主人の好意により格安の家賃で借りている彼の住処だ。
路地に面する側に窓が一つきりあり、壁際には古びた暖炉が備え付けられている。
家具らしいものはもとから置いてあった、樫の木を薄く切り出した素朴なテーブルと椅子が一つ、それから狭い藁敷きのベッドだけ。
質素な部屋だが、寝に帰るだけの場所なので特に問題はない。
つい数か月前まで住んでいた神殿裏の兵舎では、鼾のうるさいほかの荒くれ男達と大部屋に雑魚寝だった。
その時も特に居心地など気にしたことはなかったヴィクトルが、何故に兵舎を出、一人暮らしを始めたのかというと、そうせざるを得ない事情があったからに他ならない。
「みゅっ、みゅ~」
床の上でリンゴを齧って食い散らかしている、白い十本の触手を持った謎の生物。
円筒型の身体に大きな紫のつぶらな瞳を二つ持ち、タコのような形状の腕を器用に使いながら夢中で果実を咀嚼しているこの物体は、巷ではヴィクトルのペットと認識されている。
その正体は、この国の主神バアル・アミュールだ。
一部の人間だけが知るその事実は勿論、王都の最高機密である。
「お前なあ……それ俺の分だからもう食うなって昨日言っただろうが。穀潰しの癖に何で人並み以上に食うんだよ」
「みゅう」
ギクッとアミュが動きを止め、赤い口の中に入れていた腕をヌルリと取り出す。
涎まみれのリンゴのカケラを差し出され、ヴィクトルは呆れて首を振った。
「いらねーよ、そんな汚ねえの」
断ると、リンゴは一瞬でアミュの赤い口の中に消えた。
神という存在は霞のようなものしか食べないものかと思っていたが、どうやらこの生物は違うらしい。
「ちょっと俺は出掛けてくる。お前のせいで、夕飯の材料も何もねえし。……絶対、付いてくんなよ」
厳しい口調で釘を刺し、ヴィクトルは椅子を立ち上がった。
アミュが瞳をパチパチ瞬かせながら『抱っこ』とでも言うように腕を二本伸ばしてくる。
「みゅ?」
「だから、連れてかねえって言ってんだろ!? 養ってやってんだから少しぐらい我慢しろ」
「みゅぅ……」
白い胴がくの字に曲がり、しょんぼりと俯いた。
つい情が移りそうになるその姿をなるべく見ないよう、急いで部屋の扉を開けて出る。
ギシギシと不快な音を立てる急な階段を下り、一階で剣を磨いている鍛冶屋の親爺に一声掛けて、広い石畳の通りへと足を踏み出した。
この界隈は王都でも一番賑わいのある中心地で、夜でも店々の灯りが客を誘っている。
そのうちの一つ、馴染みの酒場の扉を開けた。
中に入った途端、暖炉の熱気と強い酒精の香り、それから賑やかなイーリアン・パイプの音色がヴィクトルを出迎える。
「よう、ヴィクトル! 珍しいじゃねぇか」
奥の卓を囲んでいた二人の男がすぐにこちらに気付き、手を振った。
ヴィクトルと同じ青い軍服を身に纏った、刈り上げた金髪の人相の悪い男と、茶色の巻き毛の軽薄そうな男。
山賊をやっていた頃からの腐れ縁の同僚、エリクとフレディだ。
(――あいつら、一人でゆっくり飲みてえ気分の時に限って現れやがる……)
ヴィクトルは小さく舌打ちし、彼らに気付かないフリで引き返そうとした。
だが、
「おーい、ヴィクトル!! 無視してんじゃねえよぉ!!」
客がみな此方を振り返るほどの大声で名前を叫ばれ、退路を断たれてしまった。
「ちっくしょう……」
仕方なく二人の方へ重い足を向ける。
金髪のエリクがニヤニヤしながら自分の椅子を端に寄せた。
「最近お前、夜勤がねえ日はお天道様が沈んだ途端にすぐ家に帰っちまうもんだから、つまんねぇなって噂してたんだよ。さあさあ、こっちに座れ」
他所の卓から椅子が一つ持ってこられて、目の前に席が用意される。
テーブルの上には既に空になった木製のジョッキと、食い散らかしたパンや魚の骨の残骸が汚らしく散らばっていた。
今は給料日前だ。飲み屋のツケが溜まりに溜まっているだろう二人なので、恐らくこちらに会計をたかるつもりに違いない。
(適当な所で消えるか)
密かに決意しながら、ワインの注がれたゴブレットを黙って飲み干していると、左隣に座ったフレディに横腹を肘で突っつかれた。
「なあ、ヴィクトル、お前絶対、女が出来たんだろう」
口の中の液体を吹きそうになり、ヴィクトルはしかめ面になった。
何とかワインを飲み下し、擦り寄ってくるフレディの身体を拳で押し退ける。
「出来てねえよ。あの変な生き物に懐かれてて、それどころじゃねえ」
「本当かあ? あの変なタコも案外、女の持ってきたペットだったりして」
「下衆な勘ぐりしてんじゃねえよ。……おい、親父! ソーセージをくれ。あと、つまみの豆」
「あいよ」
背後の店主に向かって注文を済ませた後で、いやいや二人の方へ向き直る。
「フレディ、お前こそこの間まで娼館の女を身請けして所帯を持つとか言ってたじゃねえか。なんでこんなとこでクダ巻いてるんだ」
反撃してやると、フレディはバツが悪そうにはにかみながら巻き毛をクシャクシャと指で掻いた。
「それがさあ、あの女よりももっといい、とびっきりの美女が最近、王都に現れたんだ。踊り子ミランダこそ俺の運命の相手さ。あのエキゾチックな肌と黒髪、豊満な胸……」
「……あんなに入れ込んでたのに、随分な変わり身だな」
呆れて肩を竦める。
それにしても、ミランダというのは聞いたことのない女の名だ。
踊り子ということは流浪の民なのだろうか。
以前なら興味の一つも湧いただろうが、最近めっきり、そっちの関心が湧かなくなっている。
あまり考えたくないが、毎晩、あの忌まわしい生き物に精を貪り尽くされているせいかもしれない――。
つい昨日の夜にも繰り広げられた悪夢のような淫靡な記憶に、下腹の奥がゾクリと震える。
記憶をかき消すように、ヴィクトルはゴブレットを呷った。
「ヴィクトル、お前だってミランダに会ってみれば分かるぜ。なぁ、エリク!」
「俺はどっちかいうと清楚系好きだからなぁ~」
騒がしい二人を無視して黙って飲み続けていると、横で突然、フレディが素っ頓狂な声を上げた。
「噂をすれば、だ。――ミランダ! 俺の女神!」
それまで奏でられていた音楽が止む。
客がざわつきながら店の一角の広く開けられた空間に注目した。
「ミランダ!」
「南国バルドルの女神!」
そのかけ声にハッとして視線を移したその先に、ヴィクトルは目を疑うようなものを見た。
王都の夏は短い。
近頃は夜が随分と長くなってきた。
ヴィクトルは窓辺に置かれた椅子の背板から体を起こしつつ、古びた本を閉じた。
このこじんまりとした鍛冶屋の二階の屋根裏部屋は、主人の好意により格安の家賃で借りている彼の住処だ。
路地に面する側に窓が一つきりあり、壁際には古びた暖炉が備え付けられている。
家具らしいものはもとから置いてあった、樫の木を薄く切り出した素朴なテーブルと椅子が一つ、それから狭い藁敷きのベッドだけ。
質素な部屋だが、寝に帰るだけの場所なので特に問題はない。
つい数か月前まで住んでいた神殿裏の兵舎では、鼾のうるさいほかの荒くれ男達と大部屋に雑魚寝だった。
その時も特に居心地など気にしたことはなかったヴィクトルが、何故に兵舎を出、一人暮らしを始めたのかというと、そうせざるを得ない事情があったからに他ならない。
「みゅっ、みゅ~」
床の上でリンゴを齧って食い散らかしている、白い十本の触手を持った謎の生物。
円筒型の身体に大きな紫のつぶらな瞳を二つ持ち、タコのような形状の腕を器用に使いながら夢中で果実を咀嚼しているこの物体は、巷ではヴィクトルのペットと認識されている。
その正体は、この国の主神バアル・アミュールだ。
一部の人間だけが知るその事実は勿論、王都の最高機密である。
「お前なあ……それ俺の分だからもう食うなって昨日言っただろうが。穀潰しの癖に何で人並み以上に食うんだよ」
「みゅう」
ギクッとアミュが動きを止め、赤い口の中に入れていた腕をヌルリと取り出す。
涎まみれのリンゴのカケラを差し出され、ヴィクトルは呆れて首を振った。
「いらねーよ、そんな汚ねえの」
断ると、リンゴは一瞬でアミュの赤い口の中に消えた。
神という存在は霞のようなものしか食べないものかと思っていたが、どうやらこの生物は違うらしい。
「ちょっと俺は出掛けてくる。お前のせいで、夕飯の材料も何もねえし。……絶対、付いてくんなよ」
厳しい口調で釘を刺し、ヴィクトルは椅子を立ち上がった。
アミュが瞳をパチパチ瞬かせながら『抱っこ』とでも言うように腕を二本伸ばしてくる。
「みゅ?」
「だから、連れてかねえって言ってんだろ!? 養ってやってんだから少しぐらい我慢しろ」
「みゅぅ……」
白い胴がくの字に曲がり、しょんぼりと俯いた。
つい情が移りそうになるその姿をなるべく見ないよう、急いで部屋の扉を開けて出る。
ギシギシと不快な音を立てる急な階段を下り、一階で剣を磨いている鍛冶屋の親爺に一声掛けて、広い石畳の通りへと足を踏み出した。
この界隈は王都でも一番賑わいのある中心地で、夜でも店々の灯りが客を誘っている。
そのうちの一つ、馴染みの酒場の扉を開けた。
中に入った途端、暖炉の熱気と強い酒精の香り、それから賑やかなイーリアン・パイプの音色がヴィクトルを出迎える。
「よう、ヴィクトル! 珍しいじゃねぇか」
奥の卓を囲んでいた二人の男がすぐにこちらに気付き、手を振った。
ヴィクトルと同じ青い軍服を身に纏った、刈り上げた金髪の人相の悪い男と、茶色の巻き毛の軽薄そうな男。
山賊をやっていた頃からの腐れ縁の同僚、エリクとフレディだ。
(――あいつら、一人でゆっくり飲みてえ気分の時に限って現れやがる……)
ヴィクトルは小さく舌打ちし、彼らに気付かないフリで引き返そうとした。
だが、
「おーい、ヴィクトル!! 無視してんじゃねえよぉ!!」
客がみな此方を振り返るほどの大声で名前を叫ばれ、退路を断たれてしまった。
「ちっくしょう……」
仕方なく二人の方へ重い足を向ける。
金髪のエリクがニヤニヤしながら自分の椅子を端に寄せた。
「最近お前、夜勤がねえ日はお天道様が沈んだ途端にすぐ家に帰っちまうもんだから、つまんねぇなって噂してたんだよ。さあさあ、こっちに座れ」
他所の卓から椅子が一つ持ってこられて、目の前に席が用意される。
テーブルの上には既に空になった木製のジョッキと、食い散らかしたパンや魚の骨の残骸が汚らしく散らばっていた。
今は給料日前だ。飲み屋のツケが溜まりに溜まっているだろう二人なので、恐らくこちらに会計をたかるつもりに違いない。
(適当な所で消えるか)
密かに決意しながら、ワインの注がれたゴブレットを黙って飲み干していると、左隣に座ったフレディに横腹を肘で突っつかれた。
「なあ、ヴィクトル、お前絶対、女が出来たんだろう」
口の中の液体を吹きそうになり、ヴィクトルはしかめ面になった。
何とかワインを飲み下し、擦り寄ってくるフレディの身体を拳で押し退ける。
「出来てねえよ。あの変な生き物に懐かれてて、それどころじゃねえ」
「本当かあ? あの変なタコも案外、女の持ってきたペットだったりして」
「下衆な勘ぐりしてんじゃねえよ。……おい、親父! ソーセージをくれ。あと、つまみの豆」
「あいよ」
背後の店主に向かって注文を済ませた後で、いやいや二人の方へ向き直る。
「フレディ、お前こそこの間まで娼館の女を身請けして所帯を持つとか言ってたじゃねえか。なんでこんなとこでクダ巻いてるんだ」
反撃してやると、フレディはバツが悪そうにはにかみながら巻き毛をクシャクシャと指で掻いた。
「それがさあ、あの女よりももっといい、とびっきりの美女が最近、王都に現れたんだ。踊り子ミランダこそ俺の運命の相手さ。あのエキゾチックな肌と黒髪、豊満な胸……」
「……あんなに入れ込んでたのに、随分な変わり身だな」
呆れて肩を竦める。
それにしても、ミランダというのは聞いたことのない女の名だ。
踊り子ということは流浪の民なのだろうか。
以前なら興味の一つも湧いただろうが、最近めっきり、そっちの関心が湧かなくなっている。
あまり考えたくないが、毎晩、あの忌まわしい生き物に精を貪り尽くされているせいかもしれない――。
つい昨日の夜にも繰り広げられた悪夢のような淫靡な記憶に、下腹の奥がゾクリと震える。
記憶をかき消すように、ヴィクトルはゴブレットを呷った。
「ヴィクトル、お前だってミランダに会ってみれば分かるぜ。なぁ、エリク!」
「俺はどっちかいうと清楚系好きだからなぁ~」
騒がしい二人を無視して黙って飲み続けていると、横で突然、フレディが素っ頓狂な声を上げた。
「噂をすれば、だ。――ミランダ! 俺の女神!」
それまで奏でられていた音楽が止む。
客がざわつきながら店の一角の広く開けられた空間に注目した。
「ミランダ!」
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