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【続編・神々の祭日】騎士と甘橙(オレンジ)

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「南じゃ一山いくらだが、この地方では結構な値打ちものだ。――お前にやるから、持って帰って使え」
 カインの紅い唇がオレンジに口付ける。
「使う? 食うんじゃなく?」
 意図が分からず聞き返すと、彼は長い睫毛を少し伏せた。
「悩みの種になっている男にだ。謹慎が解けた後に、お前が直接渡してやれ」
 オレンジの実が青白い手に放られ、レオンの胸に投げ渡される。
「……? この実をあいつに渡すと、少しは言う事を聞くようになるのか?」
「考えなくていいから、とにかく俺の言う通りにしてみろ。お前みてえな天然は余計な事教えるとかえって上手くいかねえからな」
「……」
 何だかまた馬鹿にされているような気もするが、どうやら相手がアドバイスをくれたらしいことは分かる。
 きっとカインの事だから、人の心を操るような深い仕掛けがこの橙色の実にあるのかもしれない。
 手にとって顔に近づけると、爽やかな香りが立ちのぼる。
 ――とても心を惑わす罪深い果物には思えない。
「それからもう一つ――本当はすげぇやらせたくねえんだが、……お前、それを持っていく時は軍服脱いで、屋敷で畑仕事してた時のような格好で行け」
「何故だ。部下の前にそんな格好で出て行ったら規律が乱れるじゃないか」
 腑に落ちず首をかしげる。
「いいから。それで、下手に出てやれ。つまり、謝って、お前が居なければ何かと困ると言ってやれ」
「はっ!? 待てっ、何故俺が謝らなければならないんだ。軍規を犯したのはあいつだぞ」
 憤慨して思わずオレンジを握りしめた。
 カインが困ったような笑みを浮かべ、レオンの座るソファの背に肘を置いて寄り掛かる。
「別にお前が悪いとは言ってねえよ。だが、手負いの野良猫にムチだけをくれてやって、言うことを聞くと思うか?」
 レオンは俯いて口を噤んだ。
 それはまさしく今日、深く考えていたことだ。
「いつものお前と真反対の行動取って、躾のなってねえ野良猫を揺さぶってやれ。それでこの飛び道具が初めて役に立つ」
 背後からもう二つこぼれ落とすようにオレンジを渡されながら、つむじにキスされた。
「さあ……疲れているんだろう。今夜は早く寝ろ」
 ソファの後ろからカインが離れて行く。
 振り向くと、彼は既に仕事熱心な貴族の青年の姿に戻っていた。
 今夜は寝室に戻らずに仕事をするというサインだ。
「分かった……」
 寂しく沈んだ顔で立ち上がる。
 寝室に戻るために背を向けたレオンに、オスカーが静かに呟いた。
「ヴィクトル・シェンク……あの男は昔のお前に少し似ている。……手懐けるのはいいが、深入りはするなよ……」


 部屋を出ると、底冷えのする空気と孤独感とがレオンの身体を包み込んだ。
 執務室で借りた、中に小さな蝋燭を入れたランタンをぶら下げ、長い回廊を歩いて寝室へと向かう。
 利き腕にはオレンジを抱え、靴音だけの響くシンとした廊下を歩きながら、カインに言われた事を反芻した。
「謝ってやれ、か……」
 確かに顔を二発も殴りつけてしまったのはやり過ぎだったかもしれない。手加減はしたつもりだったが、今頃腫れ上がっているだろう。
 手当は兵士たちに命じたが、怪我をしたまま真っ暗な地下牢の中に入れられ、相当に恨んでいるに違いない。
(……カインは、謹慎が解けたらと言っていたが……どうせ独り寝だし、気になるから今夜の内に行くか……)
 そんなことを考えながら立ち止まって自室の扉を開ける。火に照らされ、今朝レオンが1人で起きた時のままの寒々しい光景が視界に入った。
 屋敷と違い、昼間作業員たちに部屋の中を見られる可能性もあるので、広い部屋は間仕切りで別れている。仕切りを挟んで主人用の広い寝台と簡易な側仕え用のそれとが置いてあり、最近はただ寝起きするだけの事が多いので、狭い方を常用していた。
 ひしひしと染みる寂しさに耐えながら、オレンジと灯火を腰高の丸テーブルに置き、仄かな明かりの中で剣を置いてマントを脱ぐ。
 軍服の金具を上から解いて前を開き、中に着ているシャツの襟の隙間に見える白い肌に視線を落とした。
 最近恋人が忙しく、あまりベッドを共にしていないせいか、肌に残る痕も特に見当たらない。
 ジャケットを脱いで椅子の背に掛け、防寒の為にリンネルのシャツの上から柔らかな素材のフード付きの肩掛けを羽織る。
 小さな籐籠をベッドの下から出し、オレンジを3つ入れ、壁際にある白い書き物机の引き出しから果物ナイフを出して脇に入れ込んだ。
 左右の手にランタンと籐籠をそれぞれ持ち、準備が整った事を確認する。
(地下牢か……夜行ったことはないな)
 気が進まないながらも、面倒なことは早く終わらせてしまいたかった。
 フードを深くかぶり、寝室の扉をきっちりと閉めた後で、所々が欠けた歴代の王の肖像画の飾られた廊下を歩き始める。
 やがて石造りの冷えた階段室に入ると、手に持った灯火だけが頼りとなる真の暗闇に包まれた。
 下って行く奥底から、時折ぽたりぽたりと夜露の落ちる音がする。
 打ち捨てられた城の不気味な空気が漂い、知らず知らずの内に足がすくんだ。
 何周か螺旋階段を下り、洞穴のような地下へと出て行く。
 牢の床面に染み込んだすえた臭いが微かに漂い、眉を顰めながら足を進めると、左側に鉄格子の並ぶ狭い通路に行き着いた。
 緊張に身を硬くしていたレオンの耳に、そこに閉じ込められている男たちの高イビキが聞こえてくる。
(な、なんて奴らだ……)
 こんな最悪の場所で眠れるとは、図太いと言うか、鈍感というか、むしろ尊敬してしまう。
 兵士としては有望かも知れないが、今までも全く罰になっていなかったのではと気付き始めた。
(よく考えると、つい数年前まで何十年間も野生に返っていたような奴らだったな)
 文字通り野良猫という表現が正しい事を認識し、ため息をついた。
 一つ一つ手前から牢を灯火で照らす。
 牢を確かめながら、以前密かにここに来た時、本物のオスカーがこの内の一室で白骨になっていたことを思い出した。
 あの時、軍服と美しい髪だけはそのままの遺骸を見て、自分の知っている彼が死んでしまったかのようなショックを受け、暫く立ち直る事が出来なかった。
 その時の恐怖と悲しみの記憶を振り払うように唇を結び、目的の人物を探す。
(ヴィクトルはどこだ……)
 手前から4つ目まで来た時に、見覚えのある青い軍服の男が藁だけを敷いた粗末な寝台に腰掛けているのが見えた。
 顔がよく見えないが、闇に溶けるような肌の色と体躯から言って間違いなくヴィクトルだ。
 ――そしてそこは奇しくも、あの貴公子の骸を見つけた牢だった。
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