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 俺がようやく顔を上げた時、ミハイルはもう背中を向け、リビングを抜け、ベッドの足側にあるクローゼットを開け始めていた。
 まるで焦ったように自分のコートやシャツを乱暴に引っ張り出している彼に呆然としながら、それでも声をかける。
「あの、ごめんなさい、俺……っ」
 彼は振り向きもせず、独り言のようにつぶやいた。
「気が変わった……俺はこの仕事を降りる。お前はどこへでもいけ……」
「ど、どこへでもって……」
 俺を殺さないってこと……?
 戸惑いながらも、せめて着替えをしようと床に足を付ける。
 昨日、こうしてベッドを出ようとして何度もミーシャに止められたんだ……。
 思い出してしまって胸が苦しくなり、また涙がポタポタ落ちて動けなくなってしまった。
 ああ、くそ、泣いてる場合じゃない。
 ミハイルの気が変わる前に逃げなくちゃ。
 彼がどこへ行こうとしてるかは分からないけど、今度こそ、俺は一人で生きなきゃならない。
 多分だけど、『ミーシャ』が俺を助けてくれたんだ……きっと。
 動け、俺の足!
 ――唇を噛み締めて、立ち上がろうとしたその時――。
 だん、と何かがぶつかったような、足元の床に響くほどの鈍い物音が寝室に上がった。
 驚いてベッドを降り、音のした方――クローゼットのそばに駆け寄る。
「……!?」
 開きっぱなしの扉と、床に落ちたシャツと黒いトレンチコート。
 そしてその上に、ミハイルが上半身裸のまま床にうつ伏せに倒れていた。
「ミーシャ!?」
 そばにしゃがもうと腰を屈めて、ガクンと身体が前につんのめる。
 セックスのし過ぎで、俺の体はすっかりバカになっていたらしい。
 それでも、どうにか堪えてミーシャの肩を掴んで揺らした。
「ミーシャ、ミーシャ! 大丈夫!?」
 横を向いているその顔の色は真っ青で、完全に意識を失っている。
 三日前、トンネルを抜けた後に倒れた時と全く同じだ……。
「ミーシャ……!」
 抱き起こしても、起きる気配がない。
 渾身の力で重い身体を持ち上げ、ベッドに運ぶ。
 身体中の筋肉――特に腰が悲鳴を上げたけど、そんなことに構ってる暇は無かった。
 吐いたりしても大丈夫なように横を向かせて、呼吸をもう一度確かめる。
 ああ、今度こそ絶対救急車だ! ……くそっ、でもイタリアの救急が何番なのか分からないっ。
 こうなったら、外で英語かフランス語の分かる人を捕まえて、助けてもらうしかない!
 俺は急いで下着とズボンを穿き、パーカーを頭から被って、リュックに最低限の荷物をまとめた。
 そして玄関ホールの靴箱に置いていたアパルタメントの鍵を掴んだ瞬間――玄関のインターホンがジリリと鳴り、ハッとした。
 誰だろう……。
 普段ここに住んでいる住人だろうか。
 こんな時に……?
 ドアの前まで行き、ドアスコープにかかっているカバーをよけて外を見る。
 誰もいない。
 気のせい?
 助けを求めて焦り過ぎて、となりの部屋のインターホンを聞き間違えたのかもしれない。
 ――止せばいいのに、その時余りにも焦っていた俺はドアノブを掴み、開けてしまった。
 途端、半端に開いたドアが無理やりガッとこじ開けられて、黒服の男達が壁際の方から俺に襲いかかって来た。
「なん……!」
 口を布で塞がれ、独特の臭気のする気体を嗅がされる。
 世界が一瞬で暗転し、体の力が抜け――俺は気を失ってしまった。



 ……目が覚めた時にまず聞こえて来たのは、鉄道の線路の鳴る音だった。
 意識が朦朧とする中、周囲の状況に視線を巡らせる。
 俺の右側にある、大きな窓の外から光が差していた。
 その光には揺らぎがあり、時には暗くなり、時には明るくなり、走り去るように影が通り過ぎる。
 左側は扉になっていて、小さな窓越しに薄暗い通路が見えた。
 ……ああ、電車か……、と気付く。
 俺は走ってる電車に乗っているんだ。
 パリの地下鉄じゃない、地上を走る鉄道に。
 ようやく、周りの状況が分かるようになったものの、身体が何かでガチガチに固定されていて、さっぱり動かない。
 おかしいなと思って足元を見下ろすと、足首が白い布でがっちりと縛られていた。
 恐らく、背中に回っている手も同じ状況に違いない。
 車内なのに妙に寒いと思ったら、外は雪が降っていた。
 俺は、妙にレトロな列車のコンパートメントの、向かい合った座席の一つに座っているらしい。
 座席といっても、ごく狭い二段ベッドの下の段を兼ねていて、見上げると、ベッドの上の段が真上と、向かいの席の上に付いていた。
 寝台があるということは、長距離列車だ。
 内装に使われている布類はあちこちにシミがついていて、いかにも古い。
 こんな古ぼけた内装の電車はフランスじゃ見たことがなかった。
 どこを走っているんだろう……。
 誰か、と声を上げようとして、口が猿轡で戒められていることにも気付いた。
「ンン……っ」
 どうにかならないかと全力で身悶えながら、次第に記憶が蘇る。
 そうだ、ミーシャが倒れて……俺は彼を助けようと思ったのに、玄関の外に変な男達が現れて……。
 ミーシャはどうなったんだろう!?
 いてもたってもいられず、座席の上から通路側の窓を覗き込もうともがいていると、目の前の扉がすっと開いた。
 入ってきたのは黒いスーツを着た、かっちりとしたツーブロックの真ん中分けの髪型で、サングラスの男だ。
 年齢は30代後半ぐらいだろうか。
 肌の色と顔立ちからして、黄色人種だとは思うけど、何人なのかまではわからない。
「ンっ!」
 俺が抗議の声を上げると、相手は向かい側の座席にスッと座り、開いた脚の間で手を組みながら俺に話しかけて来た。
「……すまないね。目が覚めた時に暴れ出したら困ると思って、少しの間だけ縛らせてもらうことにした」
 相手の口から飛び出して来たのは流暢な日本語で、驚きに目を見開く。
 この人、日本人……?
 でも、なんだか雰囲気が……ラーメン屋によく来てた日本人のお客さんとは全然違うような――。
 訝しむ俺の前で、男は穏やかな口調で言葉を続けた。
「――岡野誠くん。我々は、君を殺しに来た人間とは違う。むしろ、君を殺そうとする人間から君を守る為に来たんだよ」
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