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 気を取り直して、俺はかなり久しぶりな気がする料理を始めた。
 オリーブオイルと酢と塩で食べるシンプルなサラダと、ホワイトソースのシチュー、それに、ちょっとでもクリスマスっぽくなればと思って、骨つきのとりを備え付けのオーブンで焼いた。
 前に住んでいた屋根裏部屋のキッチンでは、とても出来なかった料理だ。
 焼いているうちに匂いが漂って、ドアの向こうにいるミーシャが時々こっちをチラチラ見に来るのが可愛かった。
 本当に、美味しそうなものに弱いんだなぁ、って思って。
 でも、俺が振り向いて目を合わせようとすると、ぷいっとそっぽを向いて帰って行って、それが可愛くて……そして、切なかった。
 こんな無邪気な人が、たくさん人間を殺してきた人だなんて、やっぱり信じられない。
 殺人を厭わず、感情を持たない、冷酷な元スパイ……。あの元同僚の人が言っていたことが真実なら、いつかミーシャが記憶を取り戻したその時、俺は間違いなく殺されるんだろう。
 俺を、好きでい続けてくれるなんて、そんな虫のいいことがあるはずがなかった。
 分かってたのに……俺は考えが甘かったんだ。
 あれから一昼夜、落ち着いて考えてみると……悲劇を避ける為には結局、道は一つしか思い浮かばない。
 彼が記憶を取り戻さないうちに、彼と別れることだ。
 ここまで守ってもらって申し訳ないけど、日本には俺一人で行くしかない。
 そもそも、ミーシャは俺と一緒に逃げているせいで、治療がちゃんと受けられていない状況だし……。
 苦しくて辛い決断を前に、俺は唇を強く噛んだ。
 別れを告げるなら、いつ、どんな風にすればいいんだろう?
 いや、無理だ……。
 絶対彼は俺を離さないし、追いかけてくると思う。
 今日だって、俺が少しの間出かけただけであんなに怒っていたんだから。
 やっぱり、黙って出て行くしかない。
 ミーシャの眠っている間に。


 料理が食卓に並ぶ頃になっても、ミーシャはほとんど口を利いてくれなかった。
 でも、食卓にはちゃんと座ってくれたし、ご飯を食べるスピードだけは凄く速くて、美味しいと思ってはくれているらしかった。
 拗ねてて可愛いなぁ、なんて思うと同時に、初めて、彼と一緒にサンドイッチを食べた時の事を思い出してしまった。
 あの時も、凄く美味しそうに食べてくれたっけ。
 ただ、切って挟んだだけのバゲットのサンドイッチを……。
 色んなことを、思い出したり考えたりしすぎて、あまり食欲がわかない。
 半分くらい残ったまま、いつまでも手付かずの皿を、向かい側に座っているミーシャが黙って自分の方に引き寄せ、食べ始めた。
 色んな思いが溢れて、危うく泣きそうになって俯く。
 ダメだな、俺。
 離れなきゃって思うのに、覚悟が追いつかないんだ。
 今までだって何度か決心しかけたけど、いつも挫折してたもんな。
 ……ミーシャのことが、好きになりすぎたんだ。
「……ごめんね、ありがとう」
 そう言って席を外して、リビングの方へ逃げた。
 ソファの右端に座り、テレビをつけて、ニュースを見る。
 画面では、核保有を疑われ、アメリカや隣国と一触即発になっているらしいアジアの独裁国家の映像が流れていた。
 フランスにいた時に気になっていたニュースだったけど、流石にイタリア語だと内容なんか全然頭に入らない。
 そのうちに、ミーシャがどさりと俺の横に腰を下ろしてきた。
 膝を開いて前屈み気味にテレビを見る横顔はブスッとしていて、こっちを見ようともしない。
 でも、温かな体温が体の側面に伝わってくる。
 ソファは広いしまだ余裕があるのに、身体が触れるくらい近くに来るなんて。
「ミーシャ……? 狭くない?」
 聞いたけど、無視された。
 仕方なくソファの端っこに偏って座ったまま、二人で黙ってイタリアのテレビを見る。
 画面はニュースから、いつのまにかコメディ番組に変わっていた。
 俺は何を喋ってるのかさっぱり分からなかったけど、ミーシャが時々クスリと笑い始めた。
 内容が、ちゃんと分かってるみたいだ。
「ミーシャは凄いね。色んな言葉が出来て」
 思わずそう話しかけたら、彼はぷいと視線を外しながら、それでもやっと答えてくれた。
「どうやって覚えたのかはさっぱり思い出せないけどな……」
 やっと口を開いてくれたその言葉に、心臓がドクンと不穏に高鳴った。
 ロシアのスパイ。殺し屋……。
 思わず胸を手で押さえる。
 呼吸が苦しくなり、耐えられずに立ち上がった。
「お風呂、入れてくる……」
 ミーシャの前を通り、風呂の方へ行こうとして、肘下をぐいと掴まれて無言で引き戻された。
「えっ、ちょっと……」
 戸惑いながら再びソファに腰を下ろした。
 今度は、少し離れたところに。
 すると、ミーシャが上背のある上半身を傾け、俺の膝にとすんと後頭部を置き、寝転んだ。
 金色の髪が流れ落ちて、天使みたいに綺麗な顔が無言で俺を見上げる。
 仲直り、したかったのかな?
 不器用で凄く可愛い……。
 その完璧な美貌を見つめていると、愛おしくて胸が締め付けられる。
 あの男が言ったことが、全て嘘だったらどれだけ良かったろう。
 手を伸ばし、黙って指で髪をすく。
 ミーシャのことが好きだ。
 どうしようもないほど。
 想いが溢れそうになるのを耐えながら、ただ撫で続けていると、高い額が影を落としている瞼が、心地よさそうに閉じた。
 あ、このまま眠ってしまうのかも……。
 いいよ、眠って……。
 その安らかな顔を、見ていられるだけ、ずっと見ていたいような気がする。
 かつて、眠る俺の顔をずっと見ていたって言ってた彼の気持ちが少し分かった。
 好きな人の寝顔って、ずっと見てたいんだね。
 出来るだけ見ていたい。
 だって、俺も彼も、明日は一緒にいないかもしれない。
 目を覚まさせてしまわないよう、気をつけながら指先でそっと髪を撫で続けた。
 柔らかくて、気持ちいい……。
 目を閉じてるのをいいことに、一つ一つ観察して、目に焼き付けた。
 白い滑らかな肌についた傷。
 形がよくて男らしい唇と、少しだけ覗く、白くて並びのいい前歯。
 閉じられた彫りの深い瞼。
 睫毛は金色で密生していて、長い。
 初めて会った時も、彼はこうして目を閉じてた……。
 銃を持って倒れていた、俺を殺しにきた男。
 彼はそういう存在だったはずなのに、あの銃を隠したときから、俺の運命は変わってしまった。
 もし、俺が銃を隠さなければ、全然違っていたかもしれない。ミーシャは俺を好きになんてならず、俺はヤンミンに殺されて……。
 俺はずっと、この人を騙したままこんな所にまで来てしまった。
 ――本当にごめん、ミーシャ。
 でも、今だけはこうしてていいだろうか。
 完全に君が眠ってしまったら、クリスマスプレゼントだけ置いて、ちゃんと自分から離れるから。
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