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「昨日、怒ってただろ、マコト。だから、俺が居ないうちに居なくなったりしないか不安になって――それで早く帰ってきたんだ」
 強く抱きしめられながら優しくそう言われて、涙が頬に溢れて落ちた。
「怒ってなんかいないよ、……ほんとに、ごめん」
 絞り出すように掠れた声で、俺はやっとそれだけを伝えた。
 ミーシャが俺の顔を真剣に見つめる。
「マコト、あいつ多分アジア系のマフィアだよな? 何であんなやつに命を狙われたんだ……何か事情があるのか?」
「……っ、分からない……、分からないんだ……。多分、俺の父親に関わることだと思うんだけど、もう何が起こってるのかっ、何で俺なんかがこんな目に遭うのか全然分からなくて……っ」
 泣きじゃくりながら、俺は今まで心の中でつかえていたことを吐き出すように訴えた。
 こんなこと彼に言ったって戸惑うだけだろうに、でもミーシャは落ち着いた様子で、俺の背中を何度も撫でて宥めてくれた。
「マコト、……分かった、分かったから。落ち着いてから話して、一緒に考えよう。ここに居たら、あいつが仲間を呼んで来るかもしれない。別の場所に行った方がいい……。いいか?」
「う、うん……」
 啜り上げながら、夜空色の瞳を呆然と見つめる。
(ミーシャ……?)
 ミーシャは美貌にうっすらと微笑みを浮かべ、まるで大天使のように堂々としていた。
 彼はこんなに落ち着いた人間だっただろうか。
 昨日のかなり頼りなげだった彼とのギャップに驚いて、恐怖や、友人に裏切られたショックすらも薄れてしまいそうになる。
 まさか、記憶が戻って……?
 いや、でも口調や雰囲気はどこか幼いままだし、今までの彼だ。
「マコト、行こう。もう戻らないつもりで用意するんだ、早く」
 強い口調で急かされて、俺は戸惑いながらも、その言葉に頷くしかなかった。


 俺たちは短い時間で、少ない荷を出来るだけ纏めた。
 早く準備のできたミーシャが先に階段を下りて行ったけど、俺は流石に持っていくものが多くて、少し手間がかかった。
 リュックに服と、何かあった時の為の日本のパスポートと、母の遺品の手紙や写真を入れて――最後に、ミーシャの銃をマットレスの穴から取り出し、分からないよう、リュックの一番底にある、ジッパーの独立している部分にこっそりと入れる。
 置いて行こうかとも思ったけど、いつかはミーシャにこれを返さなくちゃならなくなる気がして……。
 マットレスの穴には、代わりにヤンミンの銃を押し込んだ。
 ヤンミンはミーシャのことを仲間扱いしてたんだよな……だからあいつは、ミーシャが銃を向けてきたときにあんなに戸惑っていた。
 ヤンミンは逃げたけど、ミーシャはあんなどう見てもカタギじゃない人を敵に回して、タダで済むんだろうか。
 俺、ミーシャに凄く迷惑を掛けることになってるのかも……。
 悩みながら重い足取りでアパルトマンの地階に降りると、何故か、アパルトマン前の路上にぽつんと黒いシトロエンのセダンが駐車してあった。
「後ろの座席に荷物入れて、乗って」
 車の前に立っていたミーシャにそう言われ、面食らう。
「え……っ、あれ、ミーシャの車……!?」
「いや? 多分さっきの男のだ」
 さらっとそう言われて面食らった。
 えっ、ヤンミン、車を置いてったの……!?
「さっき帰るとき、怪しい車が止まってると思って、マフラーに細工して動けないようにしといた」
 なっ、なんてことを……。
 呆然とする俺の前で、ミーシャが車の後ろに回り、マフラーに詰めていたらしきボロボロの新聞紙を地面から拾い、公共の大きな路上ゴミ箱に投げ込む。
「そ、そんな悪戯のやり方、よく知ってたね……」
 悪事に感心してしまった俺の目の前で、ニヤッとミーシャが笑った。
「……雪でマフラー塞がれてエンストしたり、排気ガス中毒で車の中で死ぬ奴がよくいたからな」
 ひいっ、雪国(?)怖い……。
 ブルブルしている俺の目の前でミーシャが車のドアを開けた。
「ほら、鍵もついたままだ。さっきのあいつ、車を出そうとして動かないもんだから、飛び出して逃げたんだな。よっぽど慌ててたんだ……笑えるな。行こう、マコト」
 俺を車内に促しながら、ミーシャが悪戯っぽく唇の端を引いて笑う。
 その顔はいつものどこか幼い彼のものだ。
 本当にこの車に乗っていいものかと――乗れば二人して地獄に行くことになる予感もするのに、俺はつい助手席に乗っていた。
 ミーシャもまた違和感なく反対側から運転席に乗り込む。
 そこでやっと、俺はハッとして叫んだ。
「ミーシャ、まって、12歳だよね……!? 運転なんて無理じゃない!?」
「大丈夫だ、カード入れに免許が入ってたし、多分身体が覚えてる。マコトに技をかけられた時も、さっき銃を向けられた時も、勝手に身体が動いたし、車もどうにかなるだろ」
 ええっ……!
 そんな、免許証だって偽名かもしれないのにっ!?
「そ、それと車の運転とは別だよ! やっぱり普通に電車とかバスでっ」
「ダメだ。尾行されやすいし、行き先を予測されやすい。グズグズしてると山ほどあいつらが来るぞ」
 きつく言い放たれて、チクリと違和感を感じる。
 けど、言われた事はもっともで、俺は渋々と頷いた。
「だ、ダメそうだったらすぐ止まって……俺、運転代わったりできないから……」
 ――お金がなくて18歳になっても自動車の運転免許を取らなかったことを、今日ほど後悔したことはない。
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ミーシャはどこか上機嫌でエンジンをふかした。
 大胆な感じでクラッチを切ってシフトアップして、その雰囲気だけは頼れる感じなんだけど、車体が凄くガクガクしながら動き出して、ヒイっとなった。
 不安にかられて隣を見るけど、鼻歌でも歌いそうな顔でハンドルを操作している。
 人気のない道をどうにか走り出したけど、時々ガックン、となったり、エンストしたりして、どうやらほぼ、身体で運転を思い出す、というか学びながら走っているっぽかった。
(や、やっぱり、記憶が戻ったわけじゃないんだな……)
 助手席で身を縮こまらせながら、ふっと不安が心の中で湧いた。
 俺はこれからどうなるんだろう?
 今は休暇中だけれど、大学は?
 ラーメン屋もしばらく休むって電話しなきゃ……店長、これだからフランスかぶれはってまた言うだろうな。
 それにミーシャは、どこへ行くつもりなのか。
 隣に話しかけたいけれど、相当集中してるみたいだから、話しかけたら事故りそうだ。
 俺も舌を噛みそうだし。
 ただただ、綺麗で完璧な横顔を見つめていると、横目でにこりと微笑まれて、ドキンとした。
「……そういえば……マコト、俺のこと、嫌いになったんじゃなかったんだな。さっき俺が帰った時すごく嬉しそうだった。抱き締めても嫌がらなかったし」
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