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 30分遅刻でようやく目的の職場にたどりついた俺は、バックヤードでメチャクチャに店長から怒鳴られた。
「お前、舐めとんのか!! 仕事なんだと思ってる!?」
「スミマセン、次からは気をつけます……っ」
 俺の職場はラーメン屋だ。
 パリには日本人の経営する日本食料理店が結構あって、中でもラーメン屋はリーズナブルなせいか、結構繁盛している。
 俺の働く店「風楽」はパリ・オペラ座の大きな通りから一本入った裏道で開店して、今年で丸30年。
 五十過ぎの店長は、剃りあげた頭にバンダナを巻き、「風になれ」っていう日本語の入った店員全員お揃いのTシャツ姿だ。
「これだから現地育ちの日本人なんぞ雇うのは嫌だったんだ。人畜無害な日本人の顔して、中身はフランスかぶれしやがって」
 冷たく言い放たれて、俺は自分より背の低い店長に深々と頭を下げた――なるべく、日本人らしく。
「本当にすみません、次は気をつけます」
「さっさと着替えろ。お前、今日は閉店まで洗い場やれ」
「はいっ!」
 大きな声で返事をしながら靴を脱ぎ、逃げるように着替えスペースのカーテンの奥に飛び込んだ。
 散々なこと言われてるけど、店長は見た目ほど悪い人じゃない。
 アジア人で、しかも大学の授業の合間にしか働けない学生の俺を雇ってくれる所なんて、本当にこの店くらいで……感謝しなくちゃいけないと思ってる。
 まかない付きだし、時々賞味期限切れの冷凍餃子がタダで手に入るし、家計的な意味でも今、クビになる訳にはいかないんだ。
 それに、みんなお揃いの黒いTシャツを着てラーメンを運んでいると、俺も母さんの国、日本の一員になれたようで嬉しい。
 普段、自分がどこの国の人なんだか分からなくなるような感じだから……。
 着替えた後、洗い場で汚れた皿の残滓の処理をしながら、俺は今日の出来事を思い出していた。
 あのおばあさん、最後まで俺のこと中国人だと思っていたなぁ。
 仕方のないことだけど。
『この先素晴らしい幸運がありますように』……。
 そんな風に言ってくれて、本当に幸運があるといいな。
 ……俺、今週に入ってからおかしいほど運が悪いんだ。
 メトロの駅で物乞いの女性に突き飛ばされて、ホームから落ちそうになったり、頭の上から観葉植物の鉢植えが降ってきたり、どれも間一髪の危うい所で助かったけど――死んでてもおかしくなかった。
 まるで、誰かに命でも狙われてるのか? ってくらい。
 それで昨日久々に、死んだ母さんの最期の言葉をおもいだしたりして……。
 ――今から五年前、たった一人の家族だった母さんは、すい臓がんでこの世を去ったんだ。
 もともと持病があってあまり身体が強くなくて、気がついた時には手術も出来ない状態だった。
 息をひきとる時、泣きじゃくる俺に、母さんは必死な顔で言ったっけ。

『私が死んでも、一人で強く生きてね。出来れば、18歳になったらフランスを出なさい』

 そう言われて、何故なの、と訊いた俺に、母さんは言った。

『本当はね、あなたのお父さんは、あなたが生まれてすぐに殺されたのよ……。あの国の人たちは、あなたが大人になったことを知ったら、あなたまで殺しに来るかもしれない……だから、お願い』

 今思うと、母さんは錯乱してたのかもしれない。
 だって、会ったこともない父さんが、実は誰かに殺されてただなんて。
 しかも、俺まで殺されるとか。
 それまで彼女は一度も父さんの死んだ時の事を喋らなかったのに、余りにも話が唐突すぎて、とても信じられなかった。
 だけど母さんが余りにも必死だったから、その時は、大人になったらフランスを出るよって約束したけど……。
 その後、一人きりになった俺は結局この国の手厚い教育政策に頼るしかなくて、21になる今もフランスに住んだままだ。
 幸い、誰かに殺されそうになった事もない……と、思う。
 父さんの事は、気にならないと言ったら嘘になるけど、名前も分からないんじゃ探りようがない。
 俺が父さんについて知っていることといえば、日本からフランスに留学してきた母さんが、この国で同じく留学生だった父さんと出会い、俺が生まれた、という事だけ。
 どこの何人かってことすら、最後まで母の口からは出たことがなくて。
 だから母さんのあの言葉は、今でも謎だ。
 今になってみると、あれは死ぬ間際の妄想とか、そういうものだったのかもしれないと思っている。
 だって、俺は単なる平凡なアジア人の大学生で、殺される理由なんかサッパリ思いつかないし……。
「おい、ボンヤリしてんじゃねえ! どんぶりよこせ、どんぶり!」
「あっ……はい!」
 調理場でラーメンを茹でていた店長にどやされ、俺は慌てて手を洗い、業務用食洗機のレバーに飛びついた。
 レバーを上げて洗いあがった沢山のどんぶりをカゴから出して運び、また洗い場に戻り、僅かな間に山積みになっている食器を掴み取る。
 素早く生ゴミを捨て、汁を排水溝に流し、器は漬け洗いしては食洗機のカゴへ――と、絶え間なく積み上がる器との格闘を繰り返していると、店内の熱気もあいまって汗が大量に吹き出し始めた。
「おい、メンマ出せ、遅ぇぞ!」
「ナルトの仕込みしたか!?」
「はいっ、今やります!」
 先輩たちに次々と怒鳴られながら、お客さんのいなくなる真夜中の閉店まで、狭い厨房を走り回る。
 ――最後にひどい臭いのする油水分離槽の掃除をして、退勤する頃にはもう、他の店員は誰も残っていなかった。
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