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晴れやかに恋 2

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「弥生の『弥』は、いよいよ、って言う意味だよ。そして『生』は、生い茂る。いよいよ草木が茂る季節だね、ってことだ。ほら、桜の枝も真っ赤じゃないか」
 彼女が指さした窓の向こうには、正面玄関にある桜の木が見えた。もうすぐ桜の季節。淡いピンクの花を満開に咲かせるために、この時期の桜の木はその赤い色素を木の枝にためている。だから枝が先に行くほど赤く見えるんだ。それはものすごく力強く見えた。生きてる、って言ってるみたいに。
「春、だろ? 弥生はまさに」
「……はい」
 あの桜は、俺が初めて江嶋先生に出会った時に咲いていた桜。あれからもう、一年になるんだ。一目惚れしてからずっとずっと、今日に至ってもまだ俺はあの人に惚れたまま。
 この恋に、桜は咲かないのかな。
 どうやったら咲くのかな。
 そうやって胸に溜まるのは、抱えきれない燃える思い。
【信頼】を得たいと思ってるけど、でも結局俺は、信頼って言葉にヨコシマな気持ち隠してるだけ。

 はあ、とため息をまた吐き出して、赤く燃える桜の木から目をはずし、味気ない廊下を日高先生とトボトボ歩く。
「日高先生」
「なんだ?」
「俺、まだ可能性ゼロ、ですか」
「……それ、私に聞く?」
「だって、他に聞ける人なんて」
「ゼロかどうかはお前が誰よりわかってると思うけどな」
「わかんないから聞いてんですっ」
 全然わかんないよ、だって先生なんにも変わらないし、俺のこと、無視しないだけすごいと思ってるくらいだし。つーか、無視しないってことは、やっぱり俺のこと全然意識してないからどうでもいい、って思ってるからじゃないの? とか最悪な事だって考えちゃうくらいなんだもんっ。
「そのうち、あいつから聞けると思うよ」
「そのうちっていつですか、俺、何回あの人に告白したら聞けるんですかっ」
「お前が聞きたいのは可能性あるか無いかじゃなくて、『好きだ篠原』だろ?」
 図星刺されて、俯いてしまった俺。そうだよ、俺はあの人に好きになってほしいんだ。俺のこと好きになって、俺に笑いかけてほしい。抱きしめたい、触れたい。
 何よりあの人と、見つめ合いたい。
 唇をかみしめた俺の耳に、日高先生の、少しあきれたような、ふぅと吐き出す静かな息が聞こえた。
「せっぱ詰まってるなぁ、篠原。まあ、そんなお前超かわいいから私は好きだけどな」
「あなたに好きって言ってほしい訳じゃないですからっ」
 キッとにらんだけど、日高先生はニヤニヤして言った。
「つれないなあ、んじゃ、今日、私があいつの前で『篠原に惚れたから私がもらっていいか』って言ってやろうか?」
「なっ、なんて心ないことをっ!」
 まさかそんなこと言われるなんて想像もしてなくて、思わず真っ赤になってしまった。
「くく、ほら純情少年。かわいいな。安心しろ、言ってやるから待ってな。放課後美術準備室集合。来なかったら『江嶋先生に振られた篠原君を探しています』って校内放送するからな」
 開いた口がふさがらない俺に手をヒラヒラさせて「じゃあな」と言い彼女はさっさと書道準備室に入ってしまった。
 マジかよあの人、なに考えてんだ。
 てかまず最初になんで俺をもらうとかそんな思考になる訳よ。俺、江嶋先生のものじゃねぇし。と言うところまで思いついた瞬間、かぁっ、と頭が熱くなってしまった。
 うわぁ……俺、江嶋先生のものになりたいわけ?
 ちょっと待て。ちょっと待て俺っ!
 その瞬間、予鈴が鳴り響いた。しまったっ、生物室にまだたどり着いてないっ。
 大慌てになった俺は廊下を駆けだした。

   *

 その放課後、嫌だったけど、俺は美術準備室へ向かった。教室を出る直前に目の端に池本が恋人といちゃつく姿を見て苛ついた。超幸せそう、ほんとムカつく。
 しかも廊下で世良さんに「篠原君、江嶋先生が呼んでるよ」と言われちゃったんだよ。「それ、前みたく嘘でしょ」と睨んだら「だまされてさっさと行きなさいよ」とハッパかけられた。この人なんなの。
「頼むからほっといてくれないかな」
「幸せな二人見たら、ほっとくから安心して」
 笑顔で返された。幸せな二人なんていつどこにあらわれるんだよ。そんな見たいなら池本たち見てりゃいいじゃねぇか。
 もう彼女無視して、とりあえず行く。
 だって、日高先生に放送かけられるわけいかないし、あれが冗談かどうかなんて俺には判断つかないし。
 コンコンとノックしてから扉開けると、そこには江嶋先生だけがいた。日高先生はまだ来てないみたい。
「どうした? 篠原」
「あ、いえ、ちょっと、あの……待ち合わせというか」
「待ち合わせ?」
 誰と、とは聞かないけど江嶋先生の眉が少しひそめられた。慌てて「日高先生がっ、ここで待ってろって言ったのでっ」と弁解する。
 すると、先生の眉毛はさらにひそめられて、眉間にしわが出来ちゃった。
 え? 俺なんかダメなこと言ったのかっ?
 びくつく俺を、江嶋先生は「まあとりあえず座れよ」と促す。
 やだ、なんだこれ。
 もうどうでもイイから日高先生早く来てよ。
 こんな居心地悪い美術準備室初めてだよ、と思いつつ、いつも座ってたイスに腰掛ける。江嶋先生は絵を描くでもなく、ただ立ってあのでかいキャンバスをじっと眺めてた。先生の横顔はいつもと変わらず綺麗で、絵を見つめる視線もやっぱりいつもと変わらず真剣で、俺の存在なんて意識の端にも無いみたい。ただ絵を見てるだけなのにさ。この人の集中力はほんとにすごいな、と思った。
 そうして、どのくらい経っただろうか、先生はすっと筆をとり、何かを描き足した。サインかな。そして嬉しそうに笑った。
「出来た」
 彼はその目をきらきらさせて、俺を見た。
「篠原、これ完成したよ」
「ほんとですかっ」
 その巨大なキャンバスに何を描いていたのか、俺は知らないけれど。その絵に向かう彼の真剣な横顔を、ずっと見てきたんだ。彼を虜にしてた絵、それを彼が描き終えたんだって思ったら俺もすごい嬉しくて。
「先生っ、おめでとうございますっ」
「ありがとう」
 ほほえむ先生は、少し照れてた。そして「篠原、お前一度も描き掛けの絵見せろって言わなかったな」と言う。
「邪魔しちゃダメかな、と思っていたんで」
「そうか」
「でも今、すごくすごく見たいです。見せていただけませんか?」
 俺のお願いに返事をするかわり、江嶋先生は手招きした。
 誘われてイスから立ち上がり、彼へと近付く。実は俺、扉近くのこのイスから先には進んだことがなかったんだ。だって、先生はいつも物凄く真剣な顔で絵を描いてた。俺はここを聖域みたいに勝手に感じてて、だから、近付いちゃいけない、って思ってたんだ。
 だからどきどきしながら、彼の隣に、その絵の前に立ったんだ。


 そして俺の視界は1,5メートル四方のキャンバスの絵に釘付けになった。

 それは青い空に回る大きな風車みたいだった。
 風に舞う淡い桜、雨に濡れて生命力はじける緑、黄色や赤に色づいた秋の木の葉、灰色の空から降る極限まで透明さを追求した白雪。それぞれの境目はとろけるように曖昧で、だけどその中心にある色は濃い青で地球みたいに見える。そして、その風車の羽のような四つを包む優しい空の青。
 四季を凝縮したみたいな、そんな絵だった。
「なにこれ……す、げぇ……っ」
 鮮やかで優しい色に、引き込まれていく。
 そして記憶が甦った。春の一目惚れの瞬間に目に焼き付いたピンク。男なのにがあなた好きだと自覚してしまった緑を潤す甘い雨。あなたへの思いが膨らみはじけそうになった秋の文化祭。そして、あなたを苦しめると分かってたのに告白してしまった聖夜の雪。

 俺の目から、涙がこぼれた。
 あなたが好きで、そして振られて。だけどだけど、悔しいくらい、今もこんなに大好きで。ああ、もう、ほんとに、ほんとに……っ。
「ひっ……っ、せんせ、っ、……せんっ」
 ぼろぼろ泣き出した俺を見て、江嶋先生は慌てた。
「篠原っ、ど、どうしたっ、なんで、泣くんだっ」
「だって、……絵が、絵がっ……っ」
 絵のせいだと言うように何とか呟いて、だけどこぼれる涙は止まらなかった。先生は俺の頭を両手で引き寄せ抱きしめてくれた。
 彼のスーツの肩が俺の涙で色を濃く変えていく。
「絵、見て泣かれたのは初めてだよ」
「う、っ……すびませ、んっ……っ」
「いいよ、嬉しい。ありがとな」
 先生はきっと、なんで俺が泣いたのかなんて分かってないだろう。だけど、その声は嫌がってなんていなくて、本当に嬉しそうな声で、俺はそれに救われた。
「篠原、そのままでいいから聞いてくれ。俺、お前に謝らなきゃいけないことがある」
 先生は、俺を抱きしめる腕に少し力を込めて、呟いた。
 謝る? 俺をもう一回振るって事?
 もういいです。こんな素敵な絵、見せてもらったんだ。
 振られても、もういいよ、俺。
 そんな気持ちで、泣きながら彼の言葉を待った。

「俺、4月に別の学校に異動する事になったんだ。お前の生徒会長姿を見るっていう約束、守れないんだ。すまん」
 それは、本当に思ってもいなかった告白。つまり俺にとっては先生との決別宣告で。
「うそっ、せんせっ、いなくなっちゃうのっ!?」
 ガバッと先生の肩から顔を上げた。
「お前、顔ヒドいよ。ぐちゃぐちゃ。せっかくのイケメンが台無しだぞ」
「やだ、っ、やだっ、先生と離れるなんて、いやだぁ……っ」
 うわああ、ってまた俺は泣き出してしまった。
「異動だからな、どうしようもないんだよ。悪い」
「せんせ、せんせぇっ」
「だからって訳じゃないけど、この絵、お前にやるよ。これ、お前にやるために、描いたんだ」
 く、れる? なんで? と思った俺に先生は言った。
「この一年、ずっと学級委員として俺の隣いてくれだじゃねぇか。お前のこと考えてたら、結構いろんな景色を二人で見てたんだなぁ、って思ってさ。この絵、お前と過ごした一年の思い出だよ」
「それって……う、うっ。結局、もうさよならって、こと、じゃ、ないですかぁ」
 先生は次の学校へ行っちゃう。もう俺の事なんて、思い出で、過去の生徒で、忘れちゃうんだ。先生に認められようって必死だったのに、だからヨコシマな思い全開で生徒会長がんばるって決めたのに。
 悲しくて悔しくて、嗚咽と涙が止まらない。

「う、ひっ、好きなんですっ、センセ、ッ、っすきっ、ヒッ、さよなら、やだっ……っ」
「ばか、違うよっ」
 先生は俺の両頬をぎゅっとその手で挟む。
「だからお前、泣きすぎだよ」
 そんなこと言われても、サヨナラするなんて考えてもなかった。振られても、担任じゃなくなっても、特進でいる限りあなたのハイレベルな数学講義を受けられるって思ってた。あなたの綺麗な手が黒板に描く公式をノートに写せるって思ってた。

「っ好きっなんっ……ですっ」
 必死になって呟き続ける俺の耳に届いた言葉は。
「ああ、もう、頼む。泣きながら好きとか、俺の理性もたねぇよ」
 次の瞬間、俺の呟きが無理矢理せき止められた。
「んっ……んっ!」
 涙で鼻も詰まってるってのに、目の前に彼の顔が至近距離で、しかもしかも、俺の唇に先生のが触れてて、口ん中なんか入ってきて……っ!
「バカ、篠原、最後まで聞け。この絵はサヨナラの思い出じゃねぇよ」
 俺の唇から離れた彼の唇が、呟いた。
 驚きで涙は止まったけど不細工な顔のまま先生を見つめた俺に、照れながら言ったんだ。
「この絵は、二人の馴れ初めの思い出、ってことにしてくれねぇ?」
「え、え……え?」
 彼の両手が、俺を引き寄せて、また触れ合うか触れ合わないかギリギリの距離で、その唇が動いた。
「好きだよ、篠原。だから、俺と付き合わねえか? 15も年離れてるから、そのうちお前が嫌になんだろうけどさ」

 ……先生が、俺のこと、好きって言った。そんで先生が……。
「せんせ、キス……した」
「好き同士なんだから、いいだろ。何回でもするよ、これから」
 そうして、俺の唇はまた彼のそれでむぎゅと潰された。ハムハムと唇を甘噛みされて、舌で舐められる。そして「好きだ、篠原」と言われた。
 その瞬間、また俺の涙腺は決壊してしまった。
「ひ……っ、センセ、せんせぇっ」
「なんで泣くんだよっ」
 そりゃ泣くよ、この不器用っ、鈍感っ、恋愛音痴っ!って心で叫んだけど、そんなのどうしようもないくらい涙が出た。嬉しくて、信じられなくて。

 結局先生は、俺が泣きやむまで、ずっと俺を抱きしめて頭をなでなでしてくれた。しかも「好きだよ」と耳元で何度も何度も言ってくれたんだ。俺が一人でしてた片思いの切ない時間を埋め合わせてくれるかのように。




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