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甘く降る雨
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春の天気は気まぐれで、昨日は晴れていたのに今日はもう雨。朝からしとしと降り続く雨は、6時限目になってもまだやまない。入学してから2週間が過ぎて、教室の雰囲気にもだいぶ慣れた俺。友達も出来たし、勉強もつつがなく進む。
そして席は出席番号順でたまたま一番後ろになり、教室の様子がよく見渡せるから結構お気に入り。ノートも取りやすいし言うことない。俺、視力だけはいいんだ。
静かに降る春雨を教室の窓外に見つつ、今受けている授業は江嶋先生の数学。緑なのに黒い板と呼ばれるそこに白いチョークでカツカツと公式を書き連ねていくその後ろ姿。背が低いせいで(166センチらしい)上の方に字を書くときは背伸びしている彼がほほえましい。
上がった腕にひきつられて、ジャケットの裾も上がり細い腰と小さく綺麗な形のお尻が見える。ズボン越しでも分かるほどに引き締まってる感じ。身体の均整が凄く取れていい形なのはダンス部副顧問だからかな、なんて思ってにやけたのを慌てて消してノートを取った。
「まず昨日の復習。因数分解できない問題は、解の公式を使えば答えがでる。コレだけ覚えときゃ、因数分解の公式を覚えなくても解けるけど、時間かかる。受験は時間との勝負だからどっちもちゃんと覚えろよ、中間テストに出すからな。じゃ、昨日の宿題わかんなかった奴いるか? ……大丈夫みたいだな。では次の不等式に進む。この不等式もさっきのに毛が生えた程度だから大したことない」
相変わらず口の悪い江嶋先生の授業は最初の20分がすべてだ。残りの時間は全部問題を解くことだけに使われる。今日も変わらず20分で不等式の説明を終え、先生自作の練習プリントが配られた。俺たち生徒は黙々とそれを解いていく。
先生は机の間をゆっくりと散歩するように歩き、ときたま止まっては生徒の間違いを指摘したり、アドバイスをしたりしている。
「篠原、ケアレスミス」
5個目の問題を解いていたら、すっと目の前に綺麗過ぎる手が伸びて、人差し指で4問目の間違いをトントンと示された。そして彼はすぐに離れて俺の前方にいる生徒たちのプリントを次々と覗き見していく。
彼の指先の触れたこの数字を消したくないだなんて思う俺の精神はどうかしていると思う。でもこんな些細なことでドキドキしてしまうんだ。男の人に、しかも30過ぎのオヤジだ、ちょっとあり得ない。クラスには可愛い女の子も沢山いるのに、どうして俺はあの人ばかり目で追ってしまうんだろうか。
「先生わかりません」
前の方に座っているクラスメイトが手を挙げた。江嶋先生は流れる様になめらかに移動して、その生徒の所で丁寧に指導している。
先生は美術部とダンス部の顧問とを掛け持ちしてるんだ。ダンス部は現在女子生徒しかいないらしくて男の江嶋先生は副、女の先生(確か3年のクラス担任)が顧問としてメインで動いてるからぜんぜんお呼びじゃないらしい。でも踊らしたら凄く上手いって聞いた。だから今年は美術部専門で活動してる先生なんだけど、絵もすっごく上手なんだって。俺は見たことないけんだけどね。美術2以上取ったことない俺からしたら、想像できないくらいうまいんだろうな。
部活だけじゃなく美術の授業も担当してる江嶋先生。ホントは数学教師だけど、4月の年度明け早々に美術担当教師が入院しちゃったらしく、急遽江嶋先生に白羽の矢が立ったらしい。
だから、ただ教室を歩いているだけなのに綺麗な動きに見えるのはきっとダンスやってるからで、そしてあの手にドキドキするのは絵を描いてるからで。俺の変な色眼鏡の所為じゃないんだ、絶対。
ああ、俺も「わかりません」って言ったら教えてくれるんだろうな。でも、そんなことしたら俺、顔が赤くなっちゃいそうだし、綺麗な手から目が離せなくなりそうだし、せっかくの指導も上の空では先生に失礼だから。
と妄想したところで、
「10分後に答え合わせするからそれまでに解いとけ」
と言う声が聞こえて、さっき指摘された間違いをようやく消した俺だった。
重症だ……
*
授業が終わり、後はホームルームを待つだけになった。俺たち特進は部活がないから、ホームルームの後は帰るだけ。基本勉強が優先。もちろん部活に入ることも許されているけれど、俺たちみたいなのが部活にいても、普通科の部活命な奴から結構嫌な顔されるんだよね。だから、特進の奴はほとんど部活やってない。俺もそのうちの1人。でも一応サッカー同好会って言うのには入ってて、部活ほどじゃないけど体は動かしてるよ。それに、せっかく学年首席で入ったんだからちゃんと勉強して出来れば卒業まで首席でいたいな、なんて小さな夢もあったりして。
でも、俺文系だから江嶋先生の授業が難しくて既にちょっと凹み気味。と思った時、俺の後ろに座っている女子に声をかけられた。
「篠原君もミスするんだぁ」って。
彼女は世良沙耶香さん。直毛の髪を胸くらいまで伸ばしてて、目もおっきいし肌も色白ですべすべな美人さん。でもそれより胸が超でかい、目の保養過ぎて困る。
「なに? 世良さん、俺は機械ちゃ、じゃないよ?」と
胸を凝視しないように注意しつつ言えば噛んじゃった。
「あはは、滑舌悪すぎ~。てか篠原君首席入学でめっちゃ頭いいじゃん、みんな注目してるよ」
俺のしゃべりをさらりけなして笑った彼女。もういいけどさ。
入学式の挨拶で既にめっちゃ噛んじゃってるから俺。みんな俺のこと笑い物にしてるし。(もちろん、母さんも)
実は人前で挨拶するから緊張したんじゃなくて、江嶋先生が俺のことジーって見てたからドキドキしてしまって噛んだっていう、誰にも言えない理由なんだけどホントは。
まあ、滑舌の悪さのおかげで、一気にクラスのみんなと仲良くなれたんだけどね。俺はそんな風にちょっと抜けてるって言う別の意味で注目されてる。
でか、この世良さんはすでにクラスの男子が「俺、ねらってんの」と陰で話しているほどの巨乳美女なんだよ。俺より絶対注目度はかなり高いはずだ。
「俺数学苦手なんだよね。江嶋先生進むの早いし心配だよ。付いていけるかな」
「教えてあげよっか? あたし国語は苦手だけど数学は得意なの」
「えーっ、俺と逆じゃんっ。いいなあー」
「良くないよ。今だって先生に質問することがないから授業つまんないし」
「それ、確実に頭いい人の発言じゃね?」
「あはは、そうかも」
あっけらかんと笑った世良さんはやっぱり美人で可愛い。気さくな人だし、モテて当たり前。
オカシいなぁ。俺、ちゃんと女の子も可愛いって思えるし、こうやってしゃべるとちょっとドキドキするから、健全な男子な筈なんだ。
ふと顔を上げれば、教壇から降りて教室を出て行く先生が見えた。先生も男のくせに、そんでけっこう日に焼けてるくせにあの人、肌がすげえ綺麗なんだよなあ。ああ、教えてもらうなら世良さんより江嶋先生がいいな、近くで顔みれるじゃん。もちろん上の空になっちゃうけど。と思ってしまったのはやっぱり健全じゃないかもしれない、と落ち込んだ瞬間、彼と目があった。
その瞬間、ドクンッて心臓がはねたのは、俺の中で『こ』と『い』の文字が手を繋いでる所為だろうか?
俺は今だこの気持ちがホントなのか分かんなくて戸惑ってる。というのに彼は容赦なく俺のとこに進入してくるんだ。
「篠原、ちょっと職員室まで来い」
ほら、コレもいつもの事。
俺のドキドキなんて知りもしないんだ。ていうかバレたらホント困るけど、いろんな意味で。
「ごめん、俺行かなきゃ」
「学級委員だものね。がんばってね」
世良さんに謝って俺は彼のそばまで急ぐ。別に学級委員なんてなりたかったわけじゃない。勝手に江嶋先生が決めたんだ。入学式初日、委員決めを始めるときに『目があったから篠原、お前が学級委員だ。前に来て司会進行しろ』と有無をいわさず名指し。
横暴だと思ったけど入学初日に先生と喧嘩するのも穏やかじゃないからおとなしく勤めている俺。おかげでちょくちょく先生と接点を持てるから嬉しいと言えば嬉しいのは確かな訳で、なんか悔しい。俺のこの感情を見透かされてるみたいで。
「悪いな、篠原、HRに配る書類が結構多くて」
「雑用は学級委員の仕事ですから何なりとどうぞ」
先生の横で歩きつつ、視線を行く先へ巡らせると、渡り廊下のドアが珍しく閉まっていた。きっと雨避けのためだろう。両手が教材でふさがっている先生の為に俺はサッとドアを開ける。
「それも雑用か?」
「いいえ、気遣いです」
「上手いこと言うな」と笑った彼と俺は、薄雲から日の光がほんのり届いてる明るい春雨の中、湿気で少しヒヤとした空気の渡り廊下を歩き始める。
廊下すぐ横の中庭から、濡れた土独特の匂いがして、雨だなぁ、なんて当たり前のことを思った。でも隣の江嶋先生からの甘い匂いの方がくすぐったい気がする。
どんな香水使ってるんだろう……
匂いに誘われて先生を見れば、彼は屋根があるというにもかかわらず、腕の中の教材を庇うようにしながら歩いていた。なんか、丸くなっててかわいい。
「そんな濡れませんよ、先生。風もないし」
と笑いながら俺が言うと、
「何言ってんだ『春雨じゃ、濡れてまいろう』だろ?」
て呟いた江嶋先生。
それは『行友李風』 作の新国劇で、主人公の『月形』が舞妓の雛菊に差し出された傘を断る際に言った、有名な台詞だ。
「先生なに粋な台詞言ってんですか? 雨の時だって傘なんていらねぇよってこと? カッコつけてるんですか? 教材庇ってんのに?」
とニヤリ笑うと、先生は馬鹿にしたみたいな表情で、
「粋でもなんでもねぇよ。春雨は霧みたいなもんだから、そよ風でも雨が舞い上がって結局濡れる。傘差す意味ねえって事、俺が言ってんのはただの事実だよ」
コレまたさらりと言いました。彼はカッコつけというより現実主義のよう。『かっこつけてねぇ』って照れた顔が見れると思ったのに残念だ。
「先生、解釈が合理的すぎませんか?」と言ったら「数学教師らしいだろ?」と笑われた。
でもその後に「篠原は、文系だもんな」と言った彼が少しだけ残念そうに見えたのは、気のせいだろうか。
「先生みたくスラスラ問題を解きたいんですけど」
「それはお前に数学的体力がないだけだよ。共通テストレベルの高校数学なんてただの体力勝負だ。数こなしたら解けるようになるから心配するな。でも文学の寂やら粋やらを理解する才能だけは数こなしても無理だと思う。お前が文系なのはそういう感性があるからだろ?」
フォローもちゃんとしてくれる。ああ、やっぱり先生は教師で大人。舞妓の傘を断った『月形』より全然カッコいいよ。
雨をかばう姿にかわいいなんて思ったけど、この人、やっぱマジでカッコいい。日本人形みたく綺麗な顔して教師らしからぬ口調だけど、カッコいいなんて、犯罪級じゃね?
どうしよう
俺、またドキドキしてきた
いやいやっ、これは尊敬って気持ちのはずだっ!
なんか顔が赤くなってるような気がして、俺は自分の頬をスリスリ撫でた。するとそこがしっとり濡れてることに気付いた俺。
渡り廊下には屋根もついてて、風も今日は穏やかな筈なのに春雨が当たってるんだと実感。ほんと傘差しても意味ないんだな、先生の言ったとおりだ、さすが教師。
すると、明るい雨の中、なぜか足を止めた先生。彼は中庭に生える木々を見ていて、そしていつも潤んでいる黒い瞳がキランとより光を増した。
良いものを見つけたと言った表情の先生が、なんだか綺麗すぎて、俺は生唾を飲み込んでしまったんだ。
「っ……ど、どうち、どうしたんですか?」
無理矢理さりげなさを装ったあげく噛んだ俺だったけど、彼はそんなの意識の外みたいで、その頬は笑みにほころぶ。
「絵に描きてぇなって思ったんだ。この時期の雨は草花にとって恵みの雨だし。あの白樺も桜もちょうど若葉を出して濡れて光ってんの、すげぇ綺麗」
俺に感性がどうのと言ったけど、この人の方がずっと繊細な感性を持ってると思う。
「先生美術部顧問でしたよね、今度先生の描いた絵、見せてくださいよ」
「ああ、最近は描けてねぇけどな」
仄かに微笑む彼は、生き生きと葉を光らせる木々に視線を離せないみたい。
彼の濡れた瞳に見つめられる木に嫉妬した、俺も見てほしいだなんて。
だけど綺麗な彼から目が離せなくて、ドクンドクンと響く心音がもし彼に届いてしまったらどうしようと馬鹿なことを考えてしまう。
そして、柔らかい日差しを含んだけぶるような春雨の中に佇む江嶋先生が、呟いた。
「そういや春雨のこと、甘い雨って書いて『かんう』って言うんだ。植物にとっちゃ栄養満点そうだし、ぴったりだな」
その言葉にゾクと肌が泡だった。
木々の生命力を満たす甘やかな雨。
その細かな水の粒は彼の茶色い髪の毛だけでなく、滑らかな頬の産毛にまで絡まって、春の淡い光を湛えて揺れる。
それは、先生の匂いよりも、何故かあまりにも甘くて。
甘い雨に濡れるあの頬に、触れたい
あなたの濡れた黒く甘い瞳に、俺を映してほしい
俺は、やっぱり先生が……
主張する様に速まった鼓動が苦しくて、そしてそれは彼の存在を俺の奥により深く植え付けていく。
「篠原? いつまで止まってんだ? 急がねえと休み時間終わるぞ?」
渡り廊下の真ん中で、足を止めてしまったままの俺に、いつの間にかもう渡り終えそうな彼からあきれ声が流れてきた。
「あ、す、すみませんっ」
慌てて彼のそばまで駆けると、
「篠原、寝不足か? 首席維持のため勉強励み過ぎなんじゃね? まあ、俺みたく年寄りじゃねぇからいくらでも無理したらいいと思うけど、授業は寝んなよ」
彼はやんわり釘刺しつつ笑った。
甘く降る雨に否応なく教えられた。
やっぱり俺は、彼のことが好きなんだ。
重症どころじゃない。
もう一度渡り廊下のドアを開けて甘雨から逃れた俺たちは、職員室のある隣の校舎へ入る。
「先生の授業は寝ませんよ」
「数学苦手なんだから、目ぇかっぽじって勉強しろよ」
「耳かっぽじるでしょ。使い方間違ってますよ。数学専門なんだから適当な日本語使わないで、ちゃんと数学だけ教えて下さい」
「だから言ってんだろ。体力勝負だよ。教えられるより、問題解いて基礎学力上げろ」
「そう言ってまた宿題馬鹿みたいに出すんでしょ」
「寝不足になるってか?」
「先生の所為ですよ」
「それは大いに結構。いくらでも俺を恨め。そのうちそれも感謝に変わる」
「……ほかのものにも変わりますかね?」
「なんにしても後悔には変えんなよ」
男前に勉強しろと言った彼はどう見ても進学クラスの先生で。
俺はたぶん恨むだろう。彼のことを。
そして、後悔もするかもしれない。感謝なんて出来そうにない。
好きになっちゃうなんて、そんなのまさか過ぎて。
こんなにドキドキするなんて。
今のは甘い雨が見せた幻影だと誰か言ってくれたら、この気持ちから逃げ出せるかな?
その茶色い髪の毛に甘雨の名残を煌めかせたまま職員室に入っていく江嶋先生の背中に、「あなたの所為だ」と少しだけ恨みを投げつけた俺だった。
そして席は出席番号順でたまたま一番後ろになり、教室の様子がよく見渡せるから結構お気に入り。ノートも取りやすいし言うことない。俺、視力だけはいいんだ。
静かに降る春雨を教室の窓外に見つつ、今受けている授業は江嶋先生の数学。緑なのに黒い板と呼ばれるそこに白いチョークでカツカツと公式を書き連ねていくその後ろ姿。背が低いせいで(166センチらしい)上の方に字を書くときは背伸びしている彼がほほえましい。
上がった腕にひきつられて、ジャケットの裾も上がり細い腰と小さく綺麗な形のお尻が見える。ズボン越しでも分かるほどに引き締まってる感じ。身体の均整が凄く取れていい形なのはダンス部副顧問だからかな、なんて思ってにやけたのを慌てて消してノートを取った。
「まず昨日の復習。因数分解できない問題は、解の公式を使えば答えがでる。コレだけ覚えときゃ、因数分解の公式を覚えなくても解けるけど、時間かかる。受験は時間との勝負だからどっちもちゃんと覚えろよ、中間テストに出すからな。じゃ、昨日の宿題わかんなかった奴いるか? ……大丈夫みたいだな。では次の不等式に進む。この不等式もさっきのに毛が生えた程度だから大したことない」
相変わらず口の悪い江嶋先生の授業は最初の20分がすべてだ。残りの時間は全部問題を解くことだけに使われる。今日も変わらず20分で不等式の説明を終え、先生自作の練習プリントが配られた。俺たち生徒は黙々とそれを解いていく。
先生は机の間をゆっくりと散歩するように歩き、ときたま止まっては生徒の間違いを指摘したり、アドバイスをしたりしている。
「篠原、ケアレスミス」
5個目の問題を解いていたら、すっと目の前に綺麗過ぎる手が伸びて、人差し指で4問目の間違いをトントンと示された。そして彼はすぐに離れて俺の前方にいる生徒たちのプリントを次々と覗き見していく。
彼の指先の触れたこの数字を消したくないだなんて思う俺の精神はどうかしていると思う。でもこんな些細なことでドキドキしてしまうんだ。男の人に、しかも30過ぎのオヤジだ、ちょっとあり得ない。クラスには可愛い女の子も沢山いるのに、どうして俺はあの人ばかり目で追ってしまうんだろうか。
「先生わかりません」
前の方に座っているクラスメイトが手を挙げた。江嶋先生は流れる様になめらかに移動して、その生徒の所で丁寧に指導している。
先生は美術部とダンス部の顧問とを掛け持ちしてるんだ。ダンス部は現在女子生徒しかいないらしくて男の江嶋先生は副、女の先生(確か3年のクラス担任)が顧問としてメインで動いてるからぜんぜんお呼びじゃないらしい。でも踊らしたら凄く上手いって聞いた。だから今年は美術部専門で活動してる先生なんだけど、絵もすっごく上手なんだって。俺は見たことないけんだけどね。美術2以上取ったことない俺からしたら、想像できないくらいうまいんだろうな。
部活だけじゃなく美術の授業も担当してる江嶋先生。ホントは数学教師だけど、4月の年度明け早々に美術担当教師が入院しちゃったらしく、急遽江嶋先生に白羽の矢が立ったらしい。
だから、ただ教室を歩いているだけなのに綺麗な動きに見えるのはきっとダンスやってるからで、そしてあの手にドキドキするのは絵を描いてるからで。俺の変な色眼鏡の所為じゃないんだ、絶対。
ああ、俺も「わかりません」って言ったら教えてくれるんだろうな。でも、そんなことしたら俺、顔が赤くなっちゃいそうだし、綺麗な手から目が離せなくなりそうだし、せっかくの指導も上の空では先生に失礼だから。
と妄想したところで、
「10分後に答え合わせするからそれまでに解いとけ」
と言う声が聞こえて、さっき指摘された間違いをようやく消した俺だった。
重症だ……
*
授業が終わり、後はホームルームを待つだけになった。俺たち特進は部活がないから、ホームルームの後は帰るだけ。基本勉強が優先。もちろん部活に入ることも許されているけれど、俺たちみたいなのが部活にいても、普通科の部活命な奴から結構嫌な顔されるんだよね。だから、特進の奴はほとんど部活やってない。俺もそのうちの1人。でも一応サッカー同好会って言うのには入ってて、部活ほどじゃないけど体は動かしてるよ。それに、せっかく学年首席で入ったんだからちゃんと勉強して出来れば卒業まで首席でいたいな、なんて小さな夢もあったりして。
でも、俺文系だから江嶋先生の授業が難しくて既にちょっと凹み気味。と思った時、俺の後ろに座っている女子に声をかけられた。
「篠原君もミスするんだぁ」って。
彼女は世良沙耶香さん。直毛の髪を胸くらいまで伸ばしてて、目もおっきいし肌も色白ですべすべな美人さん。でもそれより胸が超でかい、目の保養過ぎて困る。
「なに? 世良さん、俺は機械ちゃ、じゃないよ?」と
胸を凝視しないように注意しつつ言えば噛んじゃった。
「あはは、滑舌悪すぎ~。てか篠原君首席入学でめっちゃ頭いいじゃん、みんな注目してるよ」
俺のしゃべりをさらりけなして笑った彼女。もういいけどさ。
入学式の挨拶で既にめっちゃ噛んじゃってるから俺。みんな俺のこと笑い物にしてるし。(もちろん、母さんも)
実は人前で挨拶するから緊張したんじゃなくて、江嶋先生が俺のことジーって見てたからドキドキしてしまって噛んだっていう、誰にも言えない理由なんだけどホントは。
まあ、滑舌の悪さのおかげで、一気にクラスのみんなと仲良くなれたんだけどね。俺はそんな風にちょっと抜けてるって言う別の意味で注目されてる。
でか、この世良さんはすでにクラスの男子が「俺、ねらってんの」と陰で話しているほどの巨乳美女なんだよ。俺より絶対注目度はかなり高いはずだ。
「俺数学苦手なんだよね。江嶋先生進むの早いし心配だよ。付いていけるかな」
「教えてあげよっか? あたし国語は苦手だけど数学は得意なの」
「えーっ、俺と逆じゃんっ。いいなあー」
「良くないよ。今だって先生に質問することがないから授業つまんないし」
「それ、確実に頭いい人の発言じゃね?」
「あはは、そうかも」
あっけらかんと笑った世良さんはやっぱり美人で可愛い。気さくな人だし、モテて当たり前。
オカシいなぁ。俺、ちゃんと女の子も可愛いって思えるし、こうやってしゃべるとちょっとドキドキするから、健全な男子な筈なんだ。
ふと顔を上げれば、教壇から降りて教室を出て行く先生が見えた。先生も男のくせに、そんでけっこう日に焼けてるくせにあの人、肌がすげえ綺麗なんだよなあ。ああ、教えてもらうなら世良さんより江嶋先生がいいな、近くで顔みれるじゃん。もちろん上の空になっちゃうけど。と思ってしまったのはやっぱり健全じゃないかもしれない、と落ち込んだ瞬間、彼と目があった。
その瞬間、ドクンッて心臓がはねたのは、俺の中で『こ』と『い』の文字が手を繋いでる所為だろうか?
俺は今だこの気持ちがホントなのか分かんなくて戸惑ってる。というのに彼は容赦なく俺のとこに進入してくるんだ。
「篠原、ちょっと職員室まで来い」
ほら、コレもいつもの事。
俺のドキドキなんて知りもしないんだ。ていうかバレたらホント困るけど、いろんな意味で。
「ごめん、俺行かなきゃ」
「学級委員だものね。がんばってね」
世良さんに謝って俺は彼のそばまで急ぐ。別に学級委員なんてなりたかったわけじゃない。勝手に江嶋先生が決めたんだ。入学式初日、委員決めを始めるときに『目があったから篠原、お前が学級委員だ。前に来て司会進行しろ』と有無をいわさず名指し。
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「悪いな、篠原、HRに配る書類が結構多くて」
「雑用は学級委員の仕事ですから何なりとどうぞ」
先生の横で歩きつつ、視線を行く先へ巡らせると、渡り廊下のドアが珍しく閉まっていた。きっと雨避けのためだろう。両手が教材でふさがっている先生の為に俺はサッとドアを開ける。
「それも雑用か?」
「いいえ、気遣いです」
「上手いこと言うな」と笑った彼と俺は、薄雲から日の光がほんのり届いてる明るい春雨の中、湿気で少しヒヤとした空気の渡り廊下を歩き始める。
廊下すぐ横の中庭から、濡れた土独特の匂いがして、雨だなぁ、なんて当たり前のことを思った。でも隣の江嶋先生からの甘い匂いの方がくすぐったい気がする。
どんな香水使ってるんだろう……
匂いに誘われて先生を見れば、彼は屋根があるというにもかかわらず、腕の中の教材を庇うようにしながら歩いていた。なんか、丸くなっててかわいい。
「そんな濡れませんよ、先生。風もないし」
と笑いながら俺が言うと、
「何言ってんだ『春雨じゃ、濡れてまいろう』だろ?」
て呟いた江嶋先生。
それは『行友李風』 作の新国劇で、主人公の『月形』が舞妓の雛菊に差し出された傘を断る際に言った、有名な台詞だ。
「先生なに粋な台詞言ってんですか? 雨の時だって傘なんていらねぇよってこと? カッコつけてるんですか? 教材庇ってんのに?」
とニヤリ笑うと、先生は馬鹿にしたみたいな表情で、
「粋でもなんでもねぇよ。春雨は霧みたいなもんだから、そよ風でも雨が舞い上がって結局濡れる。傘差す意味ねえって事、俺が言ってんのはただの事実だよ」
コレまたさらりと言いました。彼はカッコつけというより現実主義のよう。『かっこつけてねぇ』って照れた顔が見れると思ったのに残念だ。
「先生、解釈が合理的すぎませんか?」と言ったら「数学教師らしいだろ?」と笑われた。
でもその後に「篠原は、文系だもんな」と言った彼が少しだけ残念そうに見えたのは、気のせいだろうか。
「先生みたくスラスラ問題を解きたいんですけど」
「それはお前に数学的体力がないだけだよ。共通テストレベルの高校数学なんてただの体力勝負だ。数こなしたら解けるようになるから心配するな。でも文学の寂やら粋やらを理解する才能だけは数こなしても無理だと思う。お前が文系なのはそういう感性があるからだろ?」
フォローもちゃんとしてくれる。ああ、やっぱり先生は教師で大人。舞妓の傘を断った『月形』より全然カッコいいよ。
雨をかばう姿にかわいいなんて思ったけど、この人、やっぱマジでカッコいい。日本人形みたく綺麗な顔して教師らしからぬ口調だけど、カッコいいなんて、犯罪級じゃね?
どうしよう
俺、またドキドキしてきた
いやいやっ、これは尊敬って気持ちのはずだっ!
なんか顔が赤くなってるような気がして、俺は自分の頬をスリスリ撫でた。するとそこがしっとり濡れてることに気付いた俺。
渡り廊下には屋根もついてて、風も今日は穏やかな筈なのに春雨が当たってるんだと実感。ほんと傘差しても意味ないんだな、先生の言ったとおりだ、さすが教師。
すると、明るい雨の中、なぜか足を止めた先生。彼は中庭に生える木々を見ていて、そしていつも潤んでいる黒い瞳がキランとより光を増した。
良いものを見つけたと言った表情の先生が、なんだか綺麗すぎて、俺は生唾を飲み込んでしまったんだ。
「っ……ど、どうち、どうしたんですか?」
無理矢理さりげなさを装ったあげく噛んだ俺だったけど、彼はそんなの意識の外みたいで、その頬は笑みにほころぶ。
「絵に描きてぇなって思ったんだ。この時期の雨は草花にとって恵みの雨だし。あの白樺も桜もちょうど若葉を出して濡れて光ってんの、すげぇ綺麗」
俺に感性がどうのと言ったけど、この人の方がずっと繊細な感性を持ってると思う。
「先生美術部顧問でしたよね、今度先生の描いた絵、見せてくださいよ」
「ああ、最近は描けてねぇけどな」
仄かに微笑む彼は、生き生きと葉を光らせる木々に視線を離せないみたい。
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だけど綺麗な彼から目が離せなくて、ドクンドクンと響く心音がもし彼に届いてしまったらどうしようと馬鹿なことを考えてしまう。
そして、柔らかい日差しを含んだけぶるような春雨の中に佇む江嶋先生が、呟いた。
「そういや春雨のこと、甘い雨って書いて『かんう』って言うんだ。植物にとっちゃ栄養満点そうだし、ぴったりだな」
その言葉にゾクと肌が泡だった。
木々の生命力を満たす甘やかな雨。
その細かな水の粒は彼の茶色い髪の毛だけでなく、滑らかな頬の産毛にまで絡まって、春の淡い光を湛えて揺れる。
それは、先生の匂いよりも、何故かあまりにも甘くて。
甘い雨に濡れるあの頬に、触れたい
あなたの濡れた黒く甘い瞳に、俺を映してほしい
俺は、やっぱり先生が……
主張する様に速まった鼓動が苦しくて、そしてそれは彼の存在を俺の奥により深く植え付けていく。
「篠原? いつまで止まってんだ? 急がねえと休み時間終わるぞ?」
渡り廊下の真ん中で、足を止めてしまったままの俺に、いつの間にかもう渡り終えそうな彼からあきれ声が流れてきた。
「あ、す、すみませんっ」
慌てて彼のそばまで駆けると、
「篠原、寝不足か? 首席維持のため勉強励み過ぎなんじゃね? まあ、俺みたく年寄りじゃねぇからいくらでも無理したらいいと思うけど、授業は寝んなよ」
彼はやんわり釘刺しつつ笑った。
甘く降る雨に否応なく教えられた。
やっぱり俺は、彼のことが好きなんだ。
重症どころじゃない。
もう一度渡り廊下のドアを開けて甘雨から逃れた俺たちは、職員室のある隣の校舎へ入る。
「先生の授業は寝ませんよ」
「数学苦手なんだから、目ぇかっぽじって勉強しろよ」
「耳かっぽじるでしょ。使い方間違ってますよ。数学専門なんだから適当な日本語使わないで、ちゃんと数学だけ教えて下さい」
「だから言ってんだろ。体力勝負だよ。教えられるより、問題解いて基礎学力上げろ」
「そう言ってまた宿題馬鹿みたいに出すんでしょ」
「寝不足になるってか?」
「先生の所為ですよ」
「それは大いに結構。いくらでも俺を恨め。そのうちそれも感謝に変わる」
「……ほかのものにも変わりますかね?」
「なんにしても後悔には変えんなよ」
男前に勉強しろと言った彼はどう見ても進学クラスの先生で。
俺はたぶん恨むだろう。彼のことを。
そして、後悔もするかもしれない。感謝なんて出来そうにない。
好きになっちゃうなんて、そんなのまさか過ぎて。
こんなにドキドキするなんて。
今のは甘い雨が見せた幻影だと誰か言ってくれたら、この気持ちから逃げ出せるかな?
その茶色い髪の毛に甘雨の名残を煌めかせたまま職員室に入っていく江嶋先生の背中に、「あなたの所為だ」と少しだけ恨みを投げつけた俺だった。
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その後、街では聖月は死んだという噂が蔓延していた。しかし、彼の族――Nukesは実際に遺体を見ていないと、その捜索を止めていなかった。
「どうしようかなぁ。……そぉだ。俺を見つけて御覧。そしたら捕まってあげる。これはゲームだよ。俺と君たちとの、ね」
学園と夜の街を巻き込んだ、追いかけっこが始まった。
族、学園、などと言っていますが全く知識がないため完全に想像です。何でも許せる方のみご覧下さい。
何とか完結までこぎつけました……!番外編を投稿完了しました。楽しんでいただけたら幸いです。
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