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86内側の真理とは。
しおりを挟むその華奢な身体を彩る朱を目にしたとき、俺は再び覚醒した。
現人神の奥底でただ、眠るように過ごしていた己の意識を、再び揺り起こしたのは、他でもない彼女だった。
現人神が、人間の姿で、何度彼女に呼びかけようと、彼女はピクリとも反応を示さない。
彼女を発見してすぐ、治癒の魔術を掛けていたので、今現在は、恐らく傷も塞がっているだろう。
しかし、朱で彩られた彼女の肌は、いくら、ここが日の光の届かない場所だとはいえ、白すぎる。
一体、どれ程の朱を失ったのだろうか。
――っ、!
ふと、彼女を包むローブが目にとまる。
漆黒をそのまま切り取ったような色で、相対する現人神が纏うローブと揃いのそれ。
いつだったか、己が彼女の屋敷に置き忘れたものだ。
なぜ、今、彼女がそれを身につけているのか、わからない。
それでも、この期に及んでもまだ、彼女が己を求めてくれているようで……
胸が、締め付けられる。
--逢いたい。
心から、心の底から、願う。
もう一度、逢って、言葉を交わしたい。
あの、心地よい温もりに、触れたい。
声が聞きたい。
--名を、呼んで欲しい。
表に出ようとしても、神具の所為で力が思うように入らない。
--俺なら、フリアを、連れて帰って来れるのにっ!
--このまま、彼女が冷たくなっていく様を、ただ、眺めているなんてできるものか。
強く、願う。
--彼女のもとへ、行きたいと。
--彼女を、繋ぎ止めたい、と。
「--グレン……」
――っ!?
今、声が……
己の名を呼ぶ、彼女の声が聞こえた。
どこだ、どこに居る…?
声が届く場所に居るのだ、きっと近くに……
「グレン……グレン、……どこに、居るの――、あなたが、いないと、私……」
――フリアっ、俺は、俺はここに居る!
声のする方へと、少しでも近くへ。
無駄だとわかっていても、足掻かずにはいられない。
だって、彼女が喚んでいるから。
その瞬間、ふ、と身体が軽くなった。
驚いて振り返ると、そこには壁にもたれ掛かったままの、己の姿。
どうやら、本格的に“気配”だけの存在になりかけているようだ。
それでも、これで、彼女のもとへといける。
そして、やっと目にした彼女は、力なく地面に座り込んでいた。
「――フリア!! こんなところで、何してるの! ほら、早く、こっちに!」
「っ、……グレン……」
己の声に、反応して、こちらを向いた彼女へと手を伸ばす。
「おや、お迎えが来たようですね。」
彼女のすぐ隣で、興味が無いとばかりに呟く執事。
モスグレーの髪に同色の瞳。
かつて、相まみえたことなど無いというのに、なぜか、懐かしく思って、胸に込み上げるものがある。
しかし、彼を見たのも一瞬で、すぐにフリアに向き直る。
「フリア、なにしてるの! 早く!」
「……グレン……私……動け、ない――」
一刻を争うというのに、彼女は座り込んだまま、今にも泣き出しそうな、情けない表情を晒して、己を見る。
そんな醜態ともとれる様を、己に曝け出してくれることが、心から嬉しい。
表情が緩まないように意識しながら、さも、しょうがないとばかりに溜め息を吐く。
そして、親が子をその腕に抱くような体勢で、片腕に乗せる。
「--はぁ、もう……。まったく、手が、かかるんだから……」
「--――っ!」
「ちょ、グレン、これはこれで、恥ずかしいのだけど……」
己の腕の中。
焦がれた温もりが、ここにある。
「あー、はいはい。小言なら後で聞いてあげるから、疲れたって駄々捏ねてるフリアを、この場所から連れ出すのが先決なの、わかる?」
「……うっ……」
彼女に、触れて、名を、呼んで。
彼女の声を聞いて、名を呼ばれる。
たったこれだけの事が、今は何にも替え難い。
「これはなかなか、仲睦まじいようで」
モスグレーの執事が、口の端を上げながら、こちらに言葉を投げてくる。
その男をキ、と一瞥する。
「フリアは帰してもらうから。そっちはちゃんと、望む場所に還りなよ」
「えぇ、もちろん。では、主が喚んでおりますので、わたくしは、これで」
そう言って彼は踵を返して去って行く。
そして、彼はいくつかの言葉を残して、靄の中に消えた。
きっと、あちら側が、彼の望む場所なのだろう。
「フリア、帰るよ」
「えぇ、帰りましょう、グレン」
呼べば答えてくれる。
この手が届く範囲に、かけがえのない温もりが、ある。
それでも、彼女を“現実”に帰さなければいけない。
彼女が目を覚ますとき、その前には人間の姿をした現人神がいるのだ。
「さぁ、俺はここまで。後は、もう、大丈夫だから。」
「--フリア、ありがとう」
--最後に、言葉を交わすことが、できて……
フリアが言おうとした、言葉の続きは気になるけれど、聞いてしまったら、もう、戻れないような、気がして。
--ただ、君の、幸せを、願う。
「ごめんね、フリア嬢。彼は、わたしなんだ。ずっと、伝えようと、思っていたのだけど、……本当に、ごめんなさい」
現人神の声が告げる。
終わりの時を、粛々と。
彼女が、“仮の姿”に、未練を残さないように、はっきりと。
黒が白に変わるその様を目の当たりにした彼女は、しばし目を見開いて固まった。
そして、
「なんだぁ、そうだったんですねぇ。私ったら、ぜんっぜん、気がつかなくて――ふふっ、あははっ……。そーですよねぇ、ありえないですよ、ねぇ。見た目はほとんどおんなじ、ですもんねぇ。髪の長さも、声だって、ほとんど、--いいえ、……まったく、おなじ、なのですもの、ねぇ……ははっ、私ったら、鈍すぎですよねぇ--ふふっ、殿下にさぞかし気を遣わせてしまったんですねぇ……」
「そんなことは――」
「あー、いいんです。私があまりにも気付かないから、気を遣って“別人”を演じてくれていたのでしょう? それにしても、数々の醜態を晒してしまったこと、申し訳ありませんでした」
す、と腰を折るその彼女。
その、華奢な背が、僅かに震えているような、気がして。
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