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第十四話 春の風に溶ける
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東風解凍――こち(はるかぜ)氷を解く。
そんな言葉もあるが、まだまだ朝晩は冷え込み、雨上がりの水たまりは凍り、風呂に入れば体はじわりと温もりに溶けるように心地良い早春の頃。
ことりの台所の店の前には、休みを知らせる貼り紙をした看板が立ててある。
「あらぁ、あかりちゃん。お手伝いに来たの?えらいねぇ。小さいのに働きもんだあ」
「お兄ちゃんがあかりの為に作ってくれてるイチゴだもん。お手伝いするよ」
今朝は千鶴お婆ちゃんと葛原さんにも来てもらって、畑仕事をすることになった。
「隼人君は明日から本州に帰るんだってね。寂しくなるねぇ」
「あかりも寂しい」
千鶴お婆ちゃんのもんぺの端を摘まみながら、上唇を鳥の嘴みたいに尖らせた。
「すぐ帰って来るんですよ。ほら、あかりちゃん言ったろ。一週間だよ。あっという間じゃん」
「ちゃんと帰って来る?」
見上げた瞳の奥が僅かに揺れた気がした。
あかりちゃんはお母さんが小さい時に帰って来なくなったんだ。
ふとその事を思い出して大丈夫だよ、と口を開きかけた私より先に、隼人が小さな頭に手を置いた。
「この島が好きだもん、帰って来るよ。当たり前じゃん。それに俺、約束破ったこと無いでしょ」
「そうだけどぉ」
まだ不安そうな少女の背中を軽く叩いて立ち上がり、ほら、と裏庭を指さす。
「イチゴ狩りするんだから。はい、軍手を着ける」
勢いに圧されたのか、あかりちゃんは思い出したように「はいっ」と差し出された小さな軍手に指を突っ込んだ。
「いやあ、偉いねぇ、小さいのに偉いねぇ」
終始目を垂れさせて褒める千鶴お婆ちゃんだが、そうかと思うと
「ほら、何ぼさっとしてんのさ。藁、トラックから下ろしといで」
葛原さんには相変わらず厳しいのだった。
裏庭の隅に並べた白いプランターの前にしゃがむ小さな背中が可愛い。
「これを乗せるの?」
千鶴お婆ちゃんから渡された藁を小さな手で掴んで顔の前に掲げる。
「そうだよ。土の上にまんべんなく乗せてごらん。ほれ、こうやって」
手本を見せるお婆ちゃんと、それを興味津々で見るあかりちゃんは、まるで祖母と孫だ。
赤の他人のはずなのに、こういうところがこの島ならではなのかもしれない。
「イチゴのお布団だね」
「おや、あかりちゃんは賢いねぇ。そうだよ、これは寒さから守ってくれるからね。他にも実が土で汚れないようにもしてくれる」
「イチゴ狩り楽しみだなぁ。いっぱいできると良いな」
「できるよ。婆ちゃんが教えて、あかりちゃんが一生懸命世話するんだもん。ぽんぽんできるよ。とびきり甘くて美味しいのがねぇ」
微笑ましい光景に気を取られていると、
「もしもーし」
突然耳元に息が掛かって飛び上がった。
「ちょっと、何すんのよっ」
「何すんのよじゃねーの。ことりと俺の仕事はこっち」
視線を投げた先では、葛原さんが新聞紙を広げているところだった。
「小さいじゃが芋?」
手に取って見るとあちこちにから芽が出ている。
これは種イモというらしい。
食べる為の物ではなく、これを土に植えてじゃがいもが出来るのだそうだ。
「この芋を切っていくんだけど、大体一つ四十グラムくらいになるようにね。その時に、この芽を三つか四つ残して切るようにするんだ。できたら干してね。ただ雨は困るから、その時は屋根のある所に入れた方が良いよ」
葛原さんのお手本を見ながら、隼人と二人で種イモを切り分けていく。
「……隼人。それ芽がひとつしか無いよ」
「げ、しまった。忘れてた」
「まあまあ。良いよ、次から気を付けてやってみて」
それにしても、と葛原さんは千鶴お婆ちゃんたちを振り返って笑みを零す。
ふたりはスナップエンドウの周りに立てていた風よけの笹を抜き、支柱を立てているところだ。
お婆ちゃんの説明を熱心に聞くあかりちゃんの頭が何度も上下に動いては、わかった、と破顔する。
そうして二人で手際よく支柱に紐を渡していく姿は、小さいながらも立派なお姉さんだ。
私なんかより、よほどしっかりしていると思う。
「義姉さんも随分元気になったものだよ。正直、もうあのまま老いて何もできなくなるものだと思っていたけど」
「あのままって、前に転んだ時ですか?元気そうに見えたんですけど」
千鶴お婆ちゃんが転んだ時、隼人は時々家まで様子を見に行っていた。
行くときは私が作った料理を持って行き、必ず空のタッパーが返ってきたものだ。
「いや、この店を始める前だよ。ここに来てる時は普通に見えるかもしれないけど、物忘れが酷くてね。認知症ってやつだよ。日常生活にも影響が出るようになって、本人も落ち込んじゃって」
支柱に紐を張り終えた二人は、今度は短い紐で茎を誘引するようだ。
お婆ちゃんが結び方を教え、あかりちゃんが何度か失敗しながら、嬉しそうに「できた」と歓喜する。
「それが、君たちに畑仕事を教えるようになってから、みるみる元気になってね」
もちろん治ったわけじゃない。
だが、ここに来ている時は病気になる前と同様、寧ろそれ以上なのだと言う。
まるで、まだ旦那だった俺の兄貴が生きていた頃のように心の底から笑っているように見える。葛原さんは懐かしむように言いながら立ち上がり、軍手を外した。
「義姉さん、玉ねぎも追肥しないといけないんじゃない」
「こっちのスナップエンドウもだよ。わかってんなら道具持ってきな」
「はいよ。ことりちゃん、それ済んだらそこに並べといて。隼人君、追肥と土寄せするから。トラックから肥料取りに行こう」
「了解っす。じゃ、ことり頼むな」
僕を使う時の荒さだけは、元通りになんなくても良かったんだけどね。葛原さんがこっそり隼人に聞こえるように言ったはずの言葉に
「悪口なんて、良い歳した爺さんが嫌だねぇ」
千鶴お婆ちゃんは、ねーえ、とわざとらしくあかりちゃんに言って見せる。
「ねーえ」
お婆ちゃんを真似するあかりちゃんが不自然に大人びていて、吹き出すように笑ってしまった。
種イモの準備を終え、隼人と葛原さんが作業している間、あかりちゃんと私は台所に立っていた。
時刻は十時過ぎ。
小さなオレンジ色のエプロンをあかりちゃんに着させて、うっかり目尻が下がる。
「可愛い。似合うね」
「へへ、ありがとー。いっぱいお手伝いするね。お昼ご飯、美味しいの作ろう」
気合いを入れるようにクマさん柄のトレーナーの袖を捲し上げた。
お餅にも負けない柔らかそうな子供の腕が露わになって、私の顔は終始とろけっぱなしだったように思う。
「それ、ほうれん草だよね」
「そうだよ。食べれる?」
今朝早く、隼人が収穫したほうれん草だ。
「食べれるよ。お父さんがよくお料理で使うもん。お味噌汁に入ってる時もあるし、ごまのやつも好き」
「ごま和え?」
あかりちゃんはほうれん草を洗いながら「そうだよ」と頷いた。
それにしても五歳とは思えない手際の良さだ。
私が五歳の頃なんて何ができただろう。
野菜も食べられて、料理まで手慣れていて、おまけに可愛い(いや、おまけどころでは無いのだが)なんて、完璧にもほどがある。
「何作るの?」
鼻から上だけをテーブルの縁から出して、ちくわの袋に手を伸ばす。
上から見たら口元がつんと飛び出していて、嘴みたいだ。
丸い頬と小さな嘴はずっと見ていられる。
「ちくわも使うの?」
「え、あぁ。うん、ほうれん草は白和えにしようかと思ってたんだけど」
「白和え、食べた事あるよ。あかり、作り方もわかるもん」
「本当?助かるなぁ。じゃ、一緒に作ろう」
おー、とあかりちゃんが拳を突き上げる。
西郷さんが台所の暖簾の下から「何やってんだ?」と怪訝な目で覗いていた。
あかりちゃんの言う通り、こちらが教えなくても調理の手順を理解しているようだ。
ほうれん草と人参を茹で、豆腐を水切りし、ちくわを切る――子供用の包丁が無いので、ここだけ私も手伝ったが、完璧にこなした。
「お父さんに教えてもらったの?」
「うん。サンタさんに子供用のお料理の本を貰ったから。ひらがなは読めるようになったから、お勉強したんだぁ。ひとりではお料理しないけど、一緒に作ったりするよ」
えらいっ。
力いっぱい撫でまわしたいのを抑え、優しく頭を撫でた。
恥ずかしいのか、口をもごつかせながらはにかむ姿もまた堪らない。
「お姉ちゃん、いっぱい笑うようになったね」
「そ、そうかな」
タコを切る私の隣で、炊き込みご飯用の調味料を準備していたあかりちゃんが、私を見上げるように言う。
「前はずっと困ってたよ」
「困ってた?」
「うん。お話するの苦手なのかなって思ってた。保育園のお友達にもお話するの苦手な子がいるから。でもお姉ちゃん、最近すごくあかりに話しかけてくれるようになった」
嬉しい。言いながら、丸い頬を押し上げて笑う。
私はコミュニケーションをとるのが苦手だった。
今だって得意とは言えないけれど。
ツネさんの店で働いていた時は、隼人に店頭を任せて、私は調理担当として台所に逃げていただけだ。
正直、隼人が店に来てお客さんと上手くやってくれている後姿に感謝したこともある。
「あかりちゃんとか、みんなのおかげかも」
今もひとりで店番をするときは少し不安もある。
やはり隼人ほど会話を広げられないからだ。
相手はどう思っているだろう。
話そうとしてくれているのに、私はちゃんと見合った反応が出来ているのだろうか。
不快な思いをさせていないのだろうか。
そんなことが頭を過ってしまって上手く話せず、愛想笑いだけを浮かべてしまう事もある。
だけど、この島の人たちはそんな私に対して嫌な顔ひとつせず、また話しかけてくれるのだ。
ことりちゃん、おはよう。お店はどう?またご飯食べに行くね。今日も美味しかったよ、ごちそうさま。
普通にお店をやっていれば日常の会話かもしれないが、最近の私にとってはそのひとつひとつに心が温かくなる。
引っ越してきた頃は嫌悪感すら抱いたこの津久茂島の人たち。
大人になって戻って来てみれば、その人たちに心を溶かされているのだ。
それはもちろん、
「隼人のおかげも、ちょっとあるけど」
本当は、ちょっとどころでは無いのだが。
特別感も出さず、さらっと口にしたつもりだったが、あかりちゃんはそう捉えてくれなかったらしい。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんは恋人なんでしょ」
ずばり、と人差し指を立てる。
ちょっぴり悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて。
女子だ。高校生くらいの女子みたいな好奇心の眼差しが私を逃がさない。
「違うよ。ほら、ご飯炊かなきゃ。ね」
手を叩いて空気を変える。
あかりちゃんは「えー」と不服を口にしながらも、五歳児の興味はテーブルの上のシジミに向けられた。
今朝から水に浸けて砂抜き中だ。
そろそろ砂を吐いた頃だろう。これはお味噌汁にする。
「今日はタコ飯もするよ。美味しいよ」
「お醤油とか、あかりが入れて良い?」
「もちろん」
恋人疑惑の目から逃れられて、ほっとしながら飯蛸をまな板に乗せた。
タコ飯が炊きあがり、白和えの盛り付けも済ませ、あかりちゃんのエプロンを脱がせていると、何やら外が騒がしくなった。
ふたりで裏口の隙間からそっと覗く。
辺りに響き渡る声に、あかりちゃんと私の肩が同時に上下した。
「あんた聞いたよ。ここの二人に意地悪してたんだってね。なーにが偉いんだい。人を虐めて喜ぶような人間に育っちまって。小さい時からもっと厳しくしとくんだったねっ」
千鶴お婆ちゃんの金属音にも似た怒鳴り声に、困ったように後頭部を掻いた大男の背中があった。
その右手には大きなビニール袋がぶら下がっていて、袋の口からネギの頭が覗いている。
「十分厳しかったって。それに別に喜んでたなんてこたぁねえ。俺はこの島の為に忠告として色々言ってきたってだけで……」
「なにが島の為だ。誰かがやってくれって頼んだかい。そうやっていつも独りよがりで自分の意見だけで押し通そうとするのがあんたの悪い所だよ。そんなだからツバキちゃんにだって愛想尽かされちまうんだ」
「あ、ああ、あれは俺から出て行ったんだ。愛想尽かされたんじゃないぞ」
「はん、強がっちまってねぇ。ほら、あんたそれ。届けに来たんじゃないの」
ビニール袋を顎で指すお婆ちゃんとふと目が合ってしまった。
これじゃ盗み聞きだ。
怒られるかも――。
だが、お婆ちゃんは「あらぁあかりちゃん見てたの」と目を垂れさせた。
「駄目だよぉ。あんなおじさんのお尻眺めて、教育に悪いよ」
「義姉さん、もうその辺にしてやりなよ。ほら、チョーさんごめんね」
葛原さんに引きはがされた千鶴お婆ちゃんが今度は怒りの矛先を彼に向けて、チョーさんは心底ほっとしたように私たちの元へ大股でやってきた。
「これ、やるよ。売り物にならない、いわゆる訳あり品ってやつでな。味は変りないから送ってもらうんだが」
「こんなに貰ってしまって良いんですか」
立派な太ネギだ。
規格外品という事はサイズ的に小ぶりになるのだろうか。
そんなの気にもならないくらい美味しそうなネギだが。
「この前、うまいうまいって食ってただろう」
「はい」
「その……だからだ。食べるかと思ってな」
「仲直りの印だね、おじちゃん」
あかりちゃんの一言に、チョーさんの顔がみるみる真っ赤になる。
追い打ちを掛けるように「ちがうの?」と無垢な瞳で見上げられて、観念したように「そうでもないような。そうとも言えるような」と鼻の横を掻いた。
「んもう、親子そろって素直じゃないんだから。仲直りしたいならさっさと言えば良いのにね。不器用な寂しがり屋は今も昔も変わらないのねぇ」
突然湧いた声の主は、いつのまにかそこに立っていた。
ピンクとブラウンで色が分かれた髪をなびかせる、懐かしの三角錐のチョコレート菓子みたいなマリーさんがいた。
ちょっと不服そうに唇を尖らせた月子さんもいる。
「だ、大体、こんな人前でいちいち他人の離婚の話なんて言いふらすんじゃない。お喋り婆さんめ」
お前もな、とマリーさんを睨みつける。
チョーさんこそ島一番の大男だと思っていたが、どうやらそうでも無いらしい。
寧ろ、重力に逆らうようにスプレーで固め上げたど派手な髪のせいもあって、マリーさんの方が大きく見えるくらいだ。
「あーら、やだ。可愛い愛娘が幼稚園の頃に描いた絵が原因で家出したことくらい、この島の人ならみーんな知ってるわよ」
マリーさんが視線を投げかけたのは隼人だ。
「知ってたの?」
それまでずっと見守っていた隼人が気まずそうに苦笑した。
「ちょーっと、やばい、駄目。美味しすぎる。タコ飯、一生食べれるわ」
あんたたち天才よ。マリーさんが私とあかりちゃんを抱き寄せた。
ボリュームたっぷりの毛先が鼻を刺激してくすぐったい。
「白和えって簡単なようで難しいのにねぇ。ちょうどいい味付けで美味しいよ」
千鶴お婆ちゃんが白和えの小鉢を手に味わいながら言う。
「それ、あかりが作ったんだよ」
「あれま。凄いじゃない。あとで婆ちゃんにも作り方教えてよ」
「うん、良いよ」
得意気な表情で胸を張るあかりちゃん。
その後ろで縁側に寝そべりながら西郷さんが「ぶにゃあ」と呑気に鳴いた。
「あとでツバキ屋でお菓子見繕って父ちゃんに渡しといてやるからな。夕方にうちの店に寄るって言ってたから」
チョーさんの店ではテイクアウトもやっているらしい。
戸波さんも時々買いにくるのだそうだ。
「ほんと、この島の人は皆さん優しいですよね」
シジミを殻から外していた隼人がチョーさんたちに視線を巡らせた。
「娘に出来なかった分、余計にね」
マリーさんが真っ赤な唇を釣り上げて笑った。
「おじちゃんはどうして家出なんてしちゃったの?」
あかりちゃんの視線がチョーさんに向けられる。
「えっと、それは」
「……おじちゃんも疲れちゃったの?」
一瞬、空気が張りつめたのが分かった。
気まずい空気を破ったのはチョーさんだ。
「違うさ。おじちゃんは、その。大人げなかったんだよ」
「おとなげない?」
どういう意味?と首を傾げる。
「良い?あかりちゃん。チョーさんはね。月ちゃんが幼稚園の時に描いた絵を、これは自分だって譲らなかったのよ」
家出の理由にしてはあまりにも拍子抜けな内容に、私もマリーさんを見上げた。
「月ちゃん、その頃はまだまだ絵が上手く無くてね。顔面から毛が生えたサツマイモみたいな人間の絵を描いて持って帰ったんだけど、それをこれは自分だって言い張ってね。彼女が描いた絵の中で唯一鼻と目と口が揃って人間らしく描けたものだから、余計に自分だと思いたかったんでしょ」
チョーさんは聞こえていないふりをして味噌汁の椀を煽った。
「絵を描いた本人も今より更にぼけーっとした子供だったから、自分でも誰を描いたか覚えて無くてね。持ち帰ったのが母の日の前日だったから、これは私に決まってるじゃないって言ったツバキさんの一言でもうノックアウト。拗ねちゃって家を飛び出して、それっきりね」
あかりちゃんに「そうなの?」と訊ねられて、チョーさんは「ま、まあな」と恥ずかしそうに目を逸らした。
「お姉ちゃん、寂しかった?」
少女の視線は、西郷さんと一緒に縁側に寝そべる月子さんに向けられた。
うつ伏せからごろん、と仰向けになった月子さんが、んー、と天井を見上げ、頭をごろごろと床に擦るように横に振った。
「時々面倒に思う時もあるけど。みんながいるから寂しく無かったよ」
そう言うと、ハッとしたように機敏な動作で身体を起こした。
「ネギ」
ぶん、と音が鳴りそうな勢いで私に顔を向けた。
「ネギ、焼こう。ことりちゃん。お父さんが持って来たやつ」
「あ、はい。焼くのね」
私を追いかけるように月子さんが立ち上がる。
「焼いて、鰹節乗せて、お醤油垂らすの」
台所に入った私は月子さんの見守りという名の見張りの元、丁寧にネギを焼いた。
「あかりもみんながいるから寂しくないよ」
居間から聞こえてきた声に、月子さんと顔を見合わせてほほ笑んだ。
その日の夜は雨が降った。
ざあっと吹き付ける雨風が雨戸を大きく鳴らす。
西郷さんは音がうるさいからか、鬱陶しそうにこたつの中に籠っていた。
夕飯はみんなで食べた残りだ。
白和えは無くなってしまったので、代わりにネギを天ぷらにした。
タコがごろごろと入ったタコ飯に舌鼓を打ち、シジミの味噌汁に冷えた身体を温める。
ネギの天ぷらは塩を少し散らして食べる。
チョーさんの店で食べたときのように、とろりと甘みが溶けだして、僅かな塩気がそれを引き立たせる。
会話も忘れて黙々と天ぷらを頬張る私たち。
やがてお腹が満たされた頃、ようやく視線を交わした。
「美味かったなあ」
「うん。すごく」
なんて幸せな時間なんだろう。
そう思うと同時に、明日からの事が頭を過った。
「暫くひとりで食べるんだなぁ」
明日から、隼人はツネさんの所に行ってしまう。
暫く私ひとりで店を回しながら、畑の方も世話をしないといけない。――とはいえ、畑は草むしりと種イモの管理くらいなのだけれど。
「寂しい?」
隼人が悪戯っぽく私を指さす。
「寂しくないよ。みんながいるから」
あかりちゃんと月子さんの言葉を借りて言ってみた。
「ほぉん」
「ちょっとやだ。今鼻くそほじったでしょ」
「ほじってませーん。ほら、引っ掛かったー」
へへん、と鼻の脇に人差し指をこすり付けて、腹立たしい表情で笑った。
「ガキかっ」
したり顔の目の前のお調子者に、思わず顔を引きつらせてしまう。
隼人はさっさと私の分も食器を重ねると台所の暖簾を潜った。
「俺は寂しいけどねぇ」
まるで歌でも歌うみたいに自作のメロディに乗せながら言う。
その夜、眠りにつこうとした頃。
激しい雨音すらも忘れてしまいそうなほど、優しいウクレレの音色が聞こえていた。
隼人がツネさんに会いに行って数日が経った。
最初に帰る予定をしていた日の前日、あと五日だけ遅れるという連絡が入った。
私はと言うと、ひとり店を開け、居間と台所を行ったり来たりの日々だ。
ただ、営業時間を短くしているのと、お客さんの誰もがそんな私をあたたかく見守ってくれているのが何よりも救いだ。
あかりちゃんは少し不安そうにしていたが、電話で声を聞いてからは「待ってるね」と笑顔になってくれた。
ちなみに、西郷さんは自由気ままに散歩に出て、戻って来たかと思うと縁側で気持ち良さそうに居眠りをする始末だった。
猫の手なんて貸す気もないらしい。
そして、冬の間はあんなにも静かだった鳥たちが庭で囀り、ケヤキから空に飛び立つようになった先週末。
家中の窓の結露を拭いてまわっていると、母から電話があった。
約束の午後三時。
予定通り早めに店を閉め、近付いてくるタクシーのエンジン音を合図に家を後にした。
「いらっしゃいませ。あ、森野さん。窓際の奥の席にいらしてるよ」
珈琲の香りが満ちる店の奥から出迎えてくれた浩二君が、母の背中を見遣る。
「こんにちは。ありがとう」
ちょうどティータイム時の喫茶クラウンは、五つあるテーブルの四つが埋まっていた。
カウンター席は白髪交じりの女性客が肩を並べて談笑している。
「先に珈琲頼んじゃった。良いお店ね。インテリアもお洒落で落ち着いてて。ほら、そこのショーケースのケーキも浩二君が作ってるだって」
店の中央の三段のショーケースには、シフォンケーキや様々な飾り付けのケーキが陳列されている。
ラズベリーやイチゴ、ブルーベリーやチョコケーキなど、店に入って真っ先にこのケーキたちに目が惹かれて心躍ってしまう。
「フィナンシェとかクッキーとか、オープンサンドとかもあってね。メニューにも色んな紅茶があったり、アフタヌーンティーセットもあるのよ。朝、何時に起きて準備してるんだろうね」
「お母さん、テンション上がり過ぎだよ」
思わず笑みがこぼれる。こんな風に無邪気に喜ぶんだ。
こうして親子で喫茶店に来るなんて初めてだった。
「お待たせしました。ベリーショートとシナモンミルクティーです」
「まあ、シナモンスティック。お洒落ねぇ」
母は私がシナモンスティックをカップの中でくるくる回すのを、まるで初めて見た子供のように無邪気な視線を注いでいる。
ずっとここに住んでいるにも関わらず、母は一度も来たことが無かったようだ。
「仕事、忙しいんだね。仕事の友達とお茶したりしないの?」
「なかなかね。お母さん、あまり人づきあいも上手じゃないし。一番仲良かった人は腰を痛めて辞めちゃったし」
でも初めてがことりと一緒で嬉しい、なんて恥かしげもなく微笑む。
「元気そうで良かった。色々あったから、心配してたんだよ」
カップにそっと口を付ける。
シナモンの香りがふわりと口の中に広がって、寒空の下を歩いて来た身体も、芯からぽかぽかしてくるような気がした。
「大丈夫よ。今までだって何とかなってきたんだもの。お父さんが亡くなってからは、確かに思うところはあったけれど」
母は、フォークでケーキの先をすくいとった。
美味しい、と口角を上げる母の頬はまた一段とくたびれて見えた。
「正直、もうちょっと気が楽になるかなって思ったの。でも違った。本当にただ寂しかっただけなんじゃないかって思ってね。私も逃げるばかりじゃなくて、もう少しやりようがあったんじゃないかって。あの人の人生ってなんだったのかなって思ったら、何だかやるせなくなっちゃって」
あの人の人生?何よそれ。
「じゃあ、私たちの人生はどうなのよ」
感情的に置いたフォークが冷たい音を立てた。
「あの人の人生って何?今までお母さんがどれだけ苦しんできたか、一緒に暮らしていた時、どれだけ怖い思いしてたか。あの人はわかろうともしないまま死んだんだよ」
母の背中越しに、カウンター席の女性と目が合った。
すみません。肩をすぼめて会釈した。
そんな私に対し、母は一向に穏やかな表情を崩さず「そうね」と薄い笑みを浮かべていた。
「でも、お母さんにはことりがいたから」
近くを通りかかった浩二君に珈琲のお代わりを頼むと、大きな窓の向こうの商店街に流れる人の波に目を向ける。
「お父さんが言ってた事は本当。まだ小さかったことりの眠る顔を見て、世界で一番可哀想な子にしてしまったって思ってた。毎日毎日、怒鳴り声や大きな物音でイライラをぶつけられて。私に向けてくる言葉や感情が、いつかことりに向けられたらって思ったら。こんな生活、終わらせてあげなきゃってね。でも、できなかった」
珈琲が運ばれてきて、母と私の間に柔らかな香りが立ち上る。
「ことりがいない人生が考えられなかった。苦しむ顔より、夜が明けて朝になって、またおはようって笑うことりが見たかったの」
その後は、父が仕事の間に夜逃げも同然で家を飛び出したのだと話してくれた。
今はこうして過去の事として話しているが、当時はどれほど怖く不安だったのだろう。
珈琲を飲み、ひとつゆっくりと息を吐きながら母は「あのね」と目を細めた。
「昔は確かに苦しい事もあったけど、今のお母さんは全然不幸じゃないの。人生は長いから、時にはつらい時期もあるんだけど、でもその道の先にはまた笑顔になれる事があると思う。その為の一歩を踏み出すために、お母さんはことりと一緒にここに引っ越したの」
「その為に?お父さんから逃げる為じゃないの?」
母はゆっくりと頭を振り、左手で右手をそっと包む。
「テレビでこの島の事がやってたの。その時にインタビューを受けた島の人たちがみんなとても穏やかで温かくてね」
でも噂話は怖いくらいすぐ広まるよ。
私が言うと、そのおかげでよそ者のお母さんたちをみんなが知ってくれて暮らし方を教えてもらえたりしたのよ。と笑った。
「海があって、山があって、広い空があって。そこにことりがいて、お母さんがいて。そんな想像をしたら、幸せだなって思ったの。だから引っ越しを決めた。介護の仕事を始めて苦労もあったけど、それでもここに来て良かったって思う事の方が多かった」
母が見たテレビでインタビューを受けていたのはツバキさんと月子さんだったらしい。
それを見て、風の丘に住むことを決めたのだそうだ。
「どうしても苦しい事って心に残りやすいから、過去を振り返ると悲しくなることもあるかもしれないけれど。でも、ことりが産まれたことがお母さんの過去では一番の幸せで、これからの暮らしを想像すると、それだけでわくわくするの」
母はベリーショートを子供のように口いっぱいに頬張り、満足そうに笑ってみせた。
「そう考えられるようになったのは、隼人君のおかげだけどね」
「隼人?」
「彼が来てくれてから、ことりの笑顔が増えたもの。それを見てたら、過去ばかりじゃなくて、今と未来を見て生きていくことが大切なんだって気付いたのよ。あの子、何をするにも一生懸命。全力なんだもの」
その後、ちょうど商店街を通りかかったツバキさんがやってきて、私は店を出ることにした。
「ごめんねぇ、せっかくの親子水入らずなのに」
「いえ。私もこれから用事もあるので。お母さんもツバキさんが来てくれて良かったね。美味しいお菓子もあるし、ゆっくりしてね」
浩二君に挨拶を済ませ店を出ようとする私を、母が呼び止める。
ちょっと来て、と手招きされると、母は私の耳もとに顔を寄せた。
「今まで過保護になりすぎてごめんね」
「なに、急に。別になんとも思ってないよ」
思ってない事も無いけど。
母の言葉に動揺しつつ心の中で呟く。
表情には出さないよう笑顔を作った。ツバキさんはメニューに釘付けだ。
こっちも美味しそう、いやこっちも良いわねと随分と悩んでいるようだ。
「ことり、手を出して」
母が私の手のひらを両手でそっと包み込んだ。
手のひらから伝わる母の温もり。最後に手を繋いだのはいつだっただろう。
「大きくなったわねぇ。あの頃は想像もできなかったのに」
ぽつりと呟いた母の目尻にあるものが、窓から射す夕日に照らされて、ひらりと反射する。
「ことりの手は、みんなの笑顔を作る手ね」
ごめんね、引き留めて。軽く笑いながら手を離した。
ツバキさんが「これに決めた」とようやく顔を上げた。
店を出て、一度振り返った。
恥ずかしくて面と向かって言えなかった言葉を、唇の形で伝えた。
母はにっこり微笑んで、手を振っていた。
商店街で買い物を済ませてもう一度クラウンの前を通るとき、大きなアフタヌーンティーセットを前にした母とツバキさんの楽し気な横顔があった。
二月の西日はとても眩しくて。
思わず目を細めると、道の先で誰かが手を振っているのが見えた。
「ことりー」
夕日を背に、商店街の通りの向こうで隼人が手を振っていた。
「買い物して帰るって言ってたから、そろそろかなって迎えに来た。今来たところだよ。俺、やるぅ」
「駐車場に車停めてあるから行こう。買い物袋、貸して」
差し出された隼人と私の手の甲が触れる。私よりもずっと冷え切っている手だ。
「私、スマホ買おうかな」
「なんで?」
「なんとなく」
びょうと吹いた風に、小さく身震いする。
「ねぇ、隼人。ごめん」
「なに?なんで謝ってんの」
「たまねぎ、病気かも」
なんだかこのところ、葉の様子がおかしいのだ。
黄色く変色していて、日ごと範囲が広がり始めている。
「まじか」
「やっぱり私は生き物とか植物とか駄目なんだよ。ごめん」
この島に来る直前に豆苗が再生したのは偶然だったのだ。
もしくは、あの豆苗が特別丈夫で、生きる力が他より漲っていただけかも。
それまでは失敗続きだったのを忘れて、たった一度の成功で私はできるかもと自負したのは大間違いだった。
隼人が頑張って育ててきた野菜を駄目にしてしまうかもしれない。
口元が歪む。
泣きだしそうな顔を見られたくなくてマフラーに顔を埋める私の背中を隼人が軽く叩いた。
「何言ってんだよ。俺なんてこれまでどれだけ失敗したか。そら豆も植え付け時期を間違って駄目にするし、ことりには言ってなかったけど、イチゴはうどんこ病になってたんだよ。婆ちゃんと葛原さんがいなかったら、あのまま全滅だったかも」
知らなかった。器用な隼人はきっと問題なくやってきていると思っていた。
「失敗したって良いじゃん。人生は百点じゃ無くて良いんだよ。それに――」
買い物袋を持ったまま両手を空に向かって掲げ、うんと伸びをする。
「人間は、欠点がある方が愛されるんだぜ」
欠点がある方が愛される。
その言葉は私にも当てはまるのだろうか。
私は愛されるような人間なんだろうか。
そうだと良いな――。
「隼人」
ん?と隼人が前を向いたまま応える。
「おかえり」
「おう。ただいま」
今度はさっきと違って、まるい風が吹いた。
まだ梅も桜も咲くには早いはずなのに、少しだけ甘く優しい香りがした。
そんな言葉もあるが、まだまだ朝晩は冷え込み、雨上がりの水たまりは凍り、風呂に入れば体はじわりと温もりに溶けるように心地良い早春の頃。
ことりの台所の店の前には、休みを知らせる貼り紙をした看板が立ててある。
「あらぁ、あかりちゃん。お手伝いに来たの?えらいねぇ。小さいのに働きもんだあ」
「お兄ちゃんがあかりの為に作ってくれてるイチゴだもん。お手伝いするよ」
今朝は千鶴お婆ちゃんと葛原さんにも来てもらって、畑仕事をすることになった。
「隼人君は明日から本州に帰るんだってね。寂しくなるねぇ」
「あかりも寂しい」
千鶴お婆ちゃんのもんぺの端を摘まみながら、上唇を鳥の嘴みたいに尖らせた。
「すぐ帰って来るんですよ。ほら、あかりちゃん言ったろ。一週間だよ。あっという間じゃん」
「ちゃんと帰って来る?」
見上げた瞳の奥が僅かに揺れた気がした。
あかりちゃんはお母さんが小さい時に帰って来なくなったんだ。
ふとその事を思い出して大丈夫だよ、と口を開きかけた私より先に、隼人が小さな頭に手を置いた。
「この島が好きだもん、帰って来るよ。当たり前じゃん。それに俺、約束破ったこと無いでしょ」
「そうだけどぉ」
まだ不安そうな少女の背中を軽く叩いて立ち上がり、ほら、と裏庭を指さす。
「イチゴ狩りするんだから。はい、軍手を着ける」
勢いに圧されたのか、あかりちゃんは思い出したように「はいっ」と差し出された小さな軍手に指を突っ込んだ。
「いやあ、偉いねぇ、小さいのに偉いねぇ」
終始目を垂れさせて褒める千鶴お婆ちゃんだが、そうかと思うと
「ほら、何ぼさっとしてんのさ。藁、トラックから下ろしといで」
葛原さんには相変わらず厳しいのだった。
裏庭の隅に並べた白いプランターの前にしゃがむ小さな背中が可愛い。
「これを乗せるの?」
千鶴お婆ちゃんから渡された藁を小さな手で掴んで顔の前に掲げる。
「そうだよ。土の上にまんべんなく乗せてごらん。ほれ、こうやって」
手本を見せるお婆ちゃんと、それを興味津々で見るあかりちゃんは、まるで祖母と孫だ。
赤の他人のはずなのに、こういうところがこの島ならではなのかもしれない。
「イチゴのお布団だね」
「おや、あかりちゃんは賢いねぇ。そうだよ、これは寒さから守ってくれるからね。他にも実が土で汚れないようにもしてくれる」
「イチゴ狩り楽しみだなぁ。いっぱいできると良いな」
「できるよ。婆ちゃんが教えて、あかりちゃんが一生懸命世話するんだもん。ぽんぽんできるよ。とびきり甘くて美味しいのがねぇ」
微笑ましい光景に気を取られていると、
「もしもーし」
突然耳元に息が掛かって飛び上がった。
「ちょっと、何すんのよっ」
「何すんのよじゃねーの。ことりと俺の仕事はこっち」
視線を投げた先では、葛原さんが新聞紙を広げているところだった。
「小さいじゃが芋?」
手に取って見るとあちこちにから芽が出ている。
これは種イモというらしい。
食べる為の物ではなく、これを土に植えてじゃがいもが出来るのだそうだ。
「この芋を切っていくんだけど、大体一つ四十グラムくらいになるようにね。その時に、この芽を三つか四つ残して切るようにするんだ。できたら干してね。ただ雨は困るから、その時は屋根のある所に入れた方が良いよ」
葛原さんのお手本を見ながら、隼人と二人で種イモを切り分けていく。
「……隼人。それ芽がひとつしか無いよ」
「げ、しまった。忘れてた」
「まあまあ。良いよ、次から気を付けてやってみて」
それにしても、と葛原さんは千鶴お婆ちゃんたちを振り返って笑みを零す。
ふたりはスナップエンドウの周りに立てていた風よけの笹を抜き、支柱を立てているところだ。
お婆ちゃんの説明を熱心に聞くあかりちゃんの頭が何度も上下に動いては、わかった、と破顔する。
そうして二人で手際よく支柱に紐を渡していく姿は、小さいながらも立派なお姉さんだ。
私なんかより、よほどしっかりしていると思う。
「義姉さんも随分元気になったものだよ。正直、もうあのまま老いて何もできなくなるものだと思っていたけど」
「あのままって、前に転んだ時ですか?元気そうに見えたんですけど」
千鶴お婆ちゃんが転んだ時、隼人は時々家まで様子を見に行っていた。
行くときは私が作った料理を持って行き、必ず空のタッパーが返ってきたものだ。
「いや、この店を始める前だよ。ここに来てる時は普通に見えるかもしれないけど、物忘れが酷くてね。認知症ってやつだよ。日常生活にも影響が出るようになって、本人も落ち込んじゃって」
支柱に紐を張り終えた二人は、今度は短い紐で茎を誘引するようだ。
お婆ちゃんが結び方を教え、あかりちゃんが何度か失敗しながら、嬉しそうに「できた」と歓喜する。
「それが、君たちに畑仕事を教えるようになってから、みるみる元気になってね」
もちろん治ったわけじゃない。
だが、ここに来ている時は病気になる前と同様、寧ろそれ以上なのだと言う。
まるで、まだ旦那だった俺の兄貴が生きていた頃のように心の底から笑っているように見える。葛原さんは懐かしむように言いながら立ち上がり、軍手を外した。
「義姉さん、玉ねぎも追肥しないといけないんじゃない」
「こっちのスナップエンドウもだよ。わかってんなら道具持ってきな」
「はいよ。ことりちゃん、それ済んだらそこに並べといて。隼人君、追肥と土寄せするから。トラックから肥料取りに行こう」
「了解っす。じゃ、ことり頼むな」
僕を使う時の荒さだけは、元通りになんなくても良かったんだけどね。葛原さんがこっそり隼人に聞こえるように言ったはずの言葉に
「悪口なんて、良い歳した爺さんが嫌だねぇ」
千鶴お婆ちゃんは、ねーえ、とわざとらしくあかりちゃんに言って見せる。
「ねーえ」
お婆ちゃんを真似するあかりちゃんが不自然に大人びていて、吹き出すように笑ってしまった。
種イモの準備を終え、隼人と葛原さんが作業している間、あかりちゃんと私は台所に立っていた。
時刻は十時過ぎ。
小さなオレンジ色のエプロンをあかりちゃんに着させて、うっかり目尻が下がる。
「可愛い。似合うね」
「へへ、ありがとー。いっぱいお手伝いするね。お昼ご飯、美味しいの作ろう」
気合いを入れるようにクマさん柄のトレーナーの袖を捲し上げた。
お餅にも負けない柔らかそうな子供の腕が露わになって、私の顔は終始とろけっぱなしだったように思う。
「それ、ほうれん草だよね」
「そうだよ。食べれる?」
今朝早く、隼人が収穫したほうれん草だ。
「食べれるよ。お父さんがよくお料理で使うもん。お味噌汁に入ってる時もあるし、ごまのやつも好き」
「ごま和え?」
あかりちゃんはほうれん草を洗いながら「そうだよ」と頷いた。
それにしても五歳とは思えない手際の良さだ。
私が五歳の頃なんて何ができただろう。
野菜も食べられて、料理まで手慣れていて、おまけに可愛い(いや、おまけどころでは無いのだが)なんて、完璧にもほどがある。
「何作るの?」
鼻から上だけをテーブルの縁から出して、ちくわの袋に手を伸ばす。
上から見たら口元がつんと飛び出していて、嘴みたいだ。
丸い頬と小さな嘴はずっと見ていられる。
「ちくわも使うの?」
「え、あぁ。うん、ほうれん草は白和えにしようかと思ってたんだけど」
「白和え、食べた事あるよ。あかり、作り方もわかるもん」
「本当?助かるなぁ。じゃ、一緒に作ろう」
おー、とあかりちゃんが拳を突き上げる。
西郷さんが台所の暖簾の下から「何やってんだ?」と怪訝な目で覗いていた。
あかりちゃんの言う通り、こちらが教えなくても調理の手順を理解しているようだ。
ほうれん草と人参を茹で、豆腐を水切りし、ちくわを切る――子供用の包丁が無いので、ここだけ私も手伝ったが、完璧にこなした。
「お父さんに教えてもらったの?」
「うん。サンタさんに子供用のお料理の本を貰ったから。ひらがなは読めるようになったから、お勉強したんだぁ。ひとりではお料理しないけど、一緒に作ったりするよ」
えらいっ。
力いっぱい撫でまわしたいのを抑え、優しく頭を撫でた。
恥ずかしいのか、口をもごつかせながらはにかむ姿もまた堪らない。
「お姉ちゃん、いっぱい笑うようになったね」
「そ、そうかな」
タコを切る私の隣で、炊き込みご飯用の調味料を準備していたあかりちゃんが、私を見上げるように言う。
「前はずっと困ってたよ」
「困ってた?」
「うん。お話するの苦手なのかなって思ってた。保育園のお友達にもお話するの苦手な子がいるから。でもお姉ちゃん、最近すごくあかりに話しかけてくれるようになった」
嬉しい。言いながら、丸い頬を押し上げて笑う。
私はコミュニケーションをとるのが苦手だった。
今だって得意とは言えないけれど。
ツネさんの店で働いていた時は、隼人に店頭を任せて、私は調理担当として台所に逃げていただけだ。
正直、隼人が店に来てお客さんと上手くやってくれている後姿に感謝したこともある。
「あかりちゃんとか、みんなのおかげかも」
今もひとりで店番をするときは少し不安もある。
やはり隼人ほど会話を広げられないからだ。
相手はどう思っているだろう。
話そうとしてくれているのに、私はちゃんと見合った反応が出来ているのだろうか。
不快な思いをさせていないのだろうか。
そんなことが頭を過ってしまって上手く話せず、愛想笑いだけを浮かべてしまう事もある。
だけど、この島の人たちはそんな私に対して嫌な顔ひとつせず、また話しかけてくれるのだ。
ことりちゃん、おはよう。お店はどう?またご飯食べに行くね。今日も美味しかったよ、ごちそうさま。
普通にお店をやっていれば日常の会話かもしれないが、最近の私にとってはそのひとつひとつに心が温かくなる。
引っ越してきた頃は嫌悪感すら抱いたこの津久茂島の人たち。
大人になって戻って来てみれば、その人たちに心を溶かされているのだ。
それはもちろん、
「隼人のおかげも、ちょっとあるけど」
本当は、ちょっとどころでは無いのだが。
特別感も出さず、さらっと口にしたつもりだったが、あかりちゃんはそう捉えてくれなかったらしい。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんは恋人なんでしょ」
ずばり、と人差し指を立てる。
ちょっぴり悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて。
女子だ。高校生くらいの女子みたいな好奇心の眼差しが私を逃がさない。
「違うよ。ほら、ご飯炊かなきゃ。ね」
手を叩いて空気を変える。
あかりちゃんは「えー」と不服を口にしながらも、五歳児の興味はテーブルの上のシジミに向けられた。
今朝から水に浸けて砂抜き中だ。
そろそろ砂を吐いた頃だろう。これはお味噌汁にする。
「今日はタコ飯もするよ。美味しいよ」
「お醤油とか、あかりが入れて良い?」
「もちろん」
恋人疑惑の目から逃れられて、ほっとしながら飯蛸をまな板に乗せた。
タコ飯が炊きあがり、白和えの盛り付けも済ませ、あかりちゃんのエプロンを脱がせていると、何やら外が騒がしくなった。
ふたりで裏口の隙間からそっと覗く。
辺りに響き渡る声に、あかりちゃんと私の肩が同時に上下した。
「あんた聞いたよ。ここの二人に意地悪してたんだってね。なーにが偉いんだい。人を虐めて喜ぶような人間に育っちまって。小さい時からもっと厳しくしとくんだったねっ」
千鶴お婆ちゃんの金属音にも似た怒鳴り声に、困ったように後頭部を掻いた大男の背中があった。
その右手には大きなビニール袋がぶら下がっていて、袋の口からネギの頭が覗いている。
「十分厳しかったって。それに別に喜んでたなんてこたぁねえ。俺はこの島の為に忠告として色々言ってきたってだけで……」
「なにが島の為だ。誰かがやってくれって頼んだかい。そうやっていつも独りよがりで自分の意見だけで押し通そうとするのがあんたの悪い所だよ。そんなだからツバキちゃんにだって愛想尽かされちまうんだ」
「あ、ああ、あれは俺から出て行ったんだ。愛想尽かされたんじゃないぞ」
「はん、強がっちまってねぇ。ほら、あんたそれ。届けに来たんじゃないの」
ビニール袋を顎で指すお婆ちゃんとふと目が合ってしまった。
これじゃ盗み聞きだ。
怒られるかも――。
だが、お婆ちゃんは「あらぁあかりちゃん見てたの」と目を垂れさせた。
「駄目だよぉ。あんなおじさんのお尻眺めて、教育に悪いよ」
「義姉さん、もうその辺にしてやりなよ。ほら、チョーさんごめんね」
葛原さんに引きはがされた千鶴お婆ちゃんが今度は怒りの矛先を彼に向けて、チョーさんは心底ほっとしたように私たちの元へ大股でやってきた。
「これ、やるよ。売り物にならない、いわゆる訳あり品ってやつでな。味は変りないから送ってもらうんだが」
「こんなに貰ってしまって良いんですか」
立派な太ネギだ。
規格外品という事はサイズ的に小ぶりになるのだろうか。
そんなの気にもならないくらい美味しそうなネギだが。
「この前、うまいうまいって食ってただろう」
「はい」
「その……だからだ。食べるかと思ってな」
「仲直りの印だね、おじちゃん」
あかりちゃんの一言に、チョーさんの顔がみるみる真っ赤になる。
追い打ちを掛けるように「ちがうの?」と無垢な瞳で見上げられて、観念したように「そうでもないような。そうとも言えるような」と鼻の横を掻いた。
「んもう、親子そろって素直じゃないんだから。仲直りしたいならさっさと言えば良いのにね。不器用な寂しがり屋は今も昔も変わらないのねぇ」
突然湧いた声の主は、いつのまにかそこに立っていた。
ピンクとブラウンで色が分かれた髪をなびかせる、懐かしの三角錐のチョコレート菓子みたいなマリーさんがいた。
ちょっと不服そうに唇を尖らせた月子さんもいる。
「だ、大体、こんな人前でいちいち他人の離婚の話なんて言いふらすんじゃない。お喋り婆さんめ」
お前もな、とマリーさんを睨みつける。
チョーさんこそ島一番の大男だと思っていたが、どうやらそうでも無いらしい。
寧ろ、重力に逆らうようにスプレーで固め上げたど派手な髪のせいもあって、マリーさんの方が大きく見えるくらいだ。
「あーら、やだ。可愛い愛娘が幼稚園の頃に描いた絵が原因で家出したことくらい、この島の人ならみーんな知ってるわよ」
マリーさんが視線を投げかけたのは隼人だ。
「知ってたの?」
それまでずっと見守っていた隼人が気まずそうに苦笑した。
「ちょーっと、やばい、駄目。美味しすぎる。タコ飯、一生食べれるわ」
あんたたち天才よ。マリーさんが私とあかりちゃんを抱き寄せた。
ボリュームたっぷりの毛先が鼻を刺激してくすぐったい。
「白和えって簡単なようで難しいのにねぇ。ちょうどいい味付けで美味しいよ」
千鶴お婆ちゃんが白和えの小鉢を手に味わいながら言う。
「それ、あかりが作ったんだよ」
「あれま。凄いじゃない。あとで婆ちゃんにも作り方教えてよ」
「うん、良いよ」
得意気な表情で胸を張るあかりちゃん。
その後ろで縁側に寝そべりながら西郷さんが「ぶにゃあ」と呑気に鳴いた。
「あとでツバキ屋でお菓子見繕って父ちゃんに渡しといてやるからな。夕方にうちの店に寄るって言ってたから」
チョーさんの店ではテイクアウトもやっているらしい。
戸波さんも時々買いにくるのだそうだ。
「ほんと、この島の人は皆さん優しいですよね」
シジミを殻から外していた隼人がチョーさんたちに視線を巡らせた。
「娘に出来なかった分、余計にね」
マリーさんが真っ赤な唇を釣り上げて笑った。
「おじちゃんはどうして家出なんてしちゃったの?」
あかりちゃんの視線がチョーさんに向けられる。
「えっと、それは」
「……おじちゃんも疲れちゃったの?」
一瞬、空気が張りつめたのが分かった。
気まずい空気を破ったのはチョーさんだ。
「違うさ。おじちゃんは、その。大人げなかったんだよ」
「おとなげない?」
どういう意味?と首を傾げる。
「良い?あかりちゃん。チョーさんはね。月ちゃんが幼稚園の時に描いた絵を、これは自分だって譲らなかったのよ」
家出の理由にしてはあまりにも拍子抜けな内容に、私もマリーさんを見上げた。
「月ちゃん、その頃はまだまだ絵が上手く無くてね。顔面から毛が生えたサツマイモみたいな人間の絵を描いて持って帰ったんだけど、それをこれは自分だって言い張ってね。彼女が描いた絵の中で唯一鼻と目と口が揃って人間らしく描けたものだから、余計に自分だと思いたかったんでしょ」
チョーさんは聞こえていないふりをして味噌汁の椀を煽った。
「絵を描いた本人も今より更にぼけーっとした子供だったから、自分でも誰を描いたか覚えて無くてね。持ち帰ったのが母の日の前日だったから、これは私に決まってるじゃないって言ったツバキさんの一言でもうノックアウト。拗ねちゃって家を飛び出して、それっきりね」
あかりちゃんに「そうなの?」と訊ねられて、チョーさんは「ま、まあな」と恥ずかしそうに目を逸らした。
「お姉ちゃん、寂しかった?」
少女の視線は、西郷さんと一緒に縁側に寝そべる月子さんに向けられた。
うつ伏せからごろん、と仰向けになった月子さんが、んー、と天井を見上げ、頭をごろごろと床に擦るように横に振った。
「時々面倒に思う時もあるけど。みんながいるから寂しく無かったよ」
そう言うと、ハッとしたように機敏な動作で身体を起こした。
「ネギ」
ぶん、と音が鳴りそうな勢いで私に顔を向けた。
「ネギ、焼こう。ことりちゃん。お父さんが持って来たやつ」
「あ、はい。焼くのね」
私を追いかけるように月子さんが立ち上がる。
「焼いて、鰹節乗せて、お醤油垂らすの」
台所に入った私は月子さんの見守りという名の見張りの元、丁寧にネギを焼いた。
「あかりもみんながいるから寂しくないよ」
居間から聞こえてきた声に、月子さんと顔を見合わせてほほ笑んだ。
その日の夜は雨が降った。
ざあっと吹き付ける雨風が雨戸を大きく鳴らす。
西郷さんは音がうるさいからか、鬱陶しそうにこたつの中に籠っていた。
夕飯はみんなで食べた残りだ。
白和えは無くなってしまったので、代わりにネギを天ぷらにした。
タコがごろごろと入ったタコ飯に舌鼓を打ち、シジミの味噌汁に冷えた身体を温める。
ネギの天ぷらは塩を少し散らして食べる。
チョーさんの店で食べたときのように、とろりと甘みが溶けだして、僅かな塩気がそれを引き立たせる。
会話も忘れて黙々と天ぷらを頬張る私たち。
やがてお腹が満たされた頃、ようやく視線を交わした。
「美味かったなあ」
「うん。すごく」
なんて幸せな時間なんだろう。
そう思うと同時に、明日からの事が頭を過った。
「暫くひとりで食べるんだなぁ」
明日から、隼人はツネさんの所に行ってしまう。
暫く私ひとりで店を回しながら、畑の方も世話をしないといけない。――とはいえ、畑は草むしりと種イモの管理くらいなのだけれど。
「寂しい?」
隼人が悪戯っぽく私を指さす。
「寂しくないよ。みんながいるから」
あかりちゃんと月子さんの言葉を借りて言ってみた。
「ほぉん」
「ちょっとやだ。今鼻くそほじったでしょ」
「ほじってませーん。ほら、引っ掛かったー」
へへん、と鼻の脇に人差し指をこすり付けて、腹立たしい表情で笑った。
「ガキかっ」
したり顔の目の前のお調子者に、思わず顔を引きつらせてしまう。
隼人はさっさと私の分も食器を重ねると台所の暖簾を潜った。
「俺は寂しいけどねぇ」
まるで歌でも歌うみたいに自作のメロディに乗せながら言う。
その夜、眠りにつこうとした頃。
激しい雨音すらも忘れてしまいそうなほど、優しいウクレレの音色が聞こえていた。
隼人がツネさんに会いに行って数日が経った。
最初に帰る予定をしていた日の前日、あと五日だけ遅れるという連絡が入った。
私はと言うと、ひとり店を開け、居間と台所を行ったり来たりの日々だ。
ただ、営業時間を短くしているのと、お客さんの誰もがそんな私をあたたかく見守ってくれているのが何よりも救いだ。
あかりちゃんは少し不安そうにしていたが、電話で声を聞いてからは「待ってるね」と笑顔になってくれた。
ちなみに、西郷さんは自由気ままに散歩に出て、戻って来たかと思うと縁側で気持ち良さそうに居眠りをする始末だった。
猫の手なんて貸す気もないらしい。
そして、冬の間はあんなにも静かだった鳥たちが庭で囀り、ケヤキから空に飛び立つようになった先週末。
家中の窓の結露を拭いてまわっていると、母から電話があった。
約束の午後三時。
予定通り早めに店を閉め、近付いてくるタクシーのエンジン音を合図に家を後にした。
「いらっしゃいませ。あ、森野さん。窓際の奥の席にいらしてるよ」
珈琲の香りが満ちる店の奥から出迎えてくれた浩二君が、母の背中を見遣る。
「こんにちは。ありがとう」
ちょうどティータイム時の喫茶クラウンは、五つあるテーブルの四つが埋まっていた。
カウンター席は白髪交じりの女性客が肩を並べて談笑している。
「先に珈琲頼んじゃった。良いお店ね。インテリアもお洒落で落ち着いてて。ほら、そこのショーケースのケーキも浩二君が作ってるだって」
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「お母さん、テンション上がり過ぎだよ」
思わず笑みがこぼれる。こんな風に無邪気に喜ぶんだ。
こうして親子で喫茶店に来るなんて初めてだった。
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「その為に?お父さんから逃げる為じゃないの?」
母はゆっくりと頭を振り、左手で右手をそっと包む。
「テレビでこの島の事がやってたの。その時にインタビューを受けた島の人たちがみんなとても穏やかで温かくてね」
でも噂話は怖いくらいすぐ広まるよ。
私が言うと、そのおかげでよそ者のお母さんたちをみんなが知ってくれて暮らし方を教えてもらえたりしたのよ。と笑った。
「海があって、山があって、広い空があって。そこにことりがいて、お母さんがいて。そんな想像をしたら、幸せだなって思ったの。だから引っ越しを決めた。介護の仕事を始めて苦労もあったけど、それでもここに来て良かったって思う事の方が多かった」
母が見たテレビでインタビューを受けていたのはツバキさんと月子さんだったらしい。
それを見て、風の丘に住むことを決めたのだそうだ。
「どうしても苦しい事って心に残りやすいから、過去を振り返ると悲しくなることもあるかもしれないけれど。でも、ことりが産まれたことがお母さんの過去では一番の幸せで、これからの暮らしを想像すると、それだけでわくわくするの」
母はベリーショートを子供のように口いっぱいに頬張り、満足そうに笑ってみせた。
「そう考えられるようになったのは、隼人君のおかげだけどね」
「隼人?」
「彼が来てくれてから、ことりの笑顔が増えたもの。それを見てたら、過去ばかりじゃなくて、今と未来を見て生きていくことが大切なんだって気付いたのよ。あの子、何をするにも一生懸命。全力なんだもの」
その後、ちょうど商店街を通りかかったツバキさんがやってきて、私は店を出ることにした。
「ごめんねぇ、せっかくの親子水入らずなのに」
「いえ。私もこれから用事もあるので。お母さんもツバキさんが来てくれて良かったね。美味しいお菓子もあるし、ゆっくりしてね」
浩二君に挨拶を済ませ店を出ようとする私を、母が呼び止める。
ちょっと来て、と手招きされると、母は私の耳もとに顔を寄せた。
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「なに、急に。別になんとも思ってないよ」
思ってない事も無いけど。
母の言葉に動揺しつつ心の中で呟く。
表情には出さないよう笑顔を作った。ツバキさんはメニューに釘付けだ。
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「ことり、手を出して」
母が私の手のひらを両手でそっと包み込んだ。
手のひらから伝わる母の温もり。最後に手を繋いだのはいつだっただろう。
「大きくなったわねぇ。あの頃は想像もできなかったのに」
ぽつりと呟いた母の目尻にあるものが、窓から射す夕日に照らされて、ひらりと反射する。
「ことりの手は、みんなの笑顔を作る手ね」
ごめんね、引き留めて。軽く笑いながら手を離した。
ツバキさんが「これに決めた」とようやく顔を上げた。
店を出て、一度振り返った。
恥ずかしくて面と向かって言えなかった言葉を、唇の形で伝えた。
母はにっこり微笑んで、手を振っていた。
商店街で買い物を済ませてもう一度クラウンの前を通るとき、大きなアフタヌーンティーセットを前にした母とツバキさんの楽し気な横顔があった。
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「なに?なんで謝ってんの」
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黄色く変色していて、日ごと範囲が広がり始めている。
「まじか」
「やっぱり私は生き物とか植物とか駄目なんだよ。ごめん」
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もしくは、あの豆苗が特別丈夫で、生きる力が他より漲っていただけかも。
それまでは失敗続きだったのを忘れて、たった一度の成功で私はできるかもと自負したのは大間違いだった。
隼人が頑張って育ててきた野菜を駄目にしてしまうかもしれない。
口元が歪む。
泣きだしそうな顔を見られたくなくてマフラーに顔を埋める私の背中を隼人が軽く叩いた。
「何言ってんだよ。俺なんてこれまでどれだけ失敗したか。そら豆も植え付け時期を間違って駄目にするし、ことりには言ってなかったけど、イチゴはうどんこ病になってたんだよ。婆ちゃんと葛原さんがいなかったら、あのまま全滅だったかも」
知らなかった。器用な隼人はきっと問題なくやってきていると思っていた。
「失敗したって良いじゃん。人生は百点じゃ無くて良いんだよ。それに――」
買い物袋を持ったまま両手を空に向かって掲げ、うんと伸びをする。
「人間は、欠点がある方が愛されるんだぜ」
欠点がある方が愛される。
その言葉は私にも当てはまるのだろうか。
私は愛されるような人間なんだろうか。
そうだと良いな――。
「隼人」
ん?と隼人が前を向いたまま応える。
「おかえり」
「おう。ただいま」
今度はさっきと違って、まるい風が吹いた。
まだ梅も桜も咲くには早いはずなのに、少しだけ甘く優しい香りがした。
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・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
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wikipediaなど
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