ことりの台所

如月つばさ

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第四話 清夏のサイダー

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夏は暑い。
 
七月ももう半ばに差し掛かろうとする頃なのだから、当然と言えば当然なのだろう。
 
閉め切った窓と遮光カーテンの向こうからも存在を主張しまくるアブラゼミ。

だが、この暑さは、彼らのせいだとは言い切れない。

きっともうすぐ現れるであろうあの男が、暑さをまき散らしに来るから。
 
かろうじてお腹に掛かっていたタオルケットをはがし、額の汗を腕で拭いながら半身を起こした。

中学の頃から使っている目覚まし時計の長針が僅かに動く。

午前七時三十二分。

母は早番でとっくに出勤している。そして、あの男が現れるのは――

「こーとーりー」

「はやっ……」
 
脱力するように布団に背中から倒れ込んだ。

ことりー、おはよー、と聞こえたかと思うと、ああツバキさん、今日も暑いですね、昨日はありがとうございました、ウォーキングですか、良いですね。

「いつのまに仲良くなってんのよ」

さっきまで鳴いていた鳩の声も、一瞬であの男――水島隼人の声にかき消された。

窓から顔を出すと、気付いた隼人が人懐こい笑顔を向けてきた。

これじゃあ、飼い主を見つけた迷子の子犬みたいだ。

手を振る仕草が、子犬の尻尾みたいに見えてしまって思わず苦笑した。

そんな私の、どう見ても引き攣った笑顔を見た隼人がまた嬉しそうに「おはよ」と軽くその場で飛び跳ねるものだから、私は仕方なく玄関に出向いてしまう。

「ちょっと、なんでこんな早いのよ。聞いてないんだけど」
 
部屋の真下に立っていた隼人が「来た来た」と太陽にも負けない笑顔を向けてきた。

そんな彼の格好が、どこで買ったのかエメラルドグリーンにパイナップルという、やたら浮かれたアロハシャツと半ズボンにサンダル履きだったので、朝早くから家に突撃された事への文句や不満はあっという間にどこかへ押し流されてしまった。

「だってことり、スマホ持ってないじゃん。家の電話番号も教えてくんねぇし。もう来るしかないでしょ。ちなみに、早い理由は、これ」

「なにそれ。クーラーボックス?」
 
隼人が肩から下ろしたクーラーボックスには、名前もわからない魚が四尾入っていた。

「釣って来たの?」

「まさか」
 
隼人は、俺はまだまだこんな立派なのは釣れないって、と笑う。

そう言う隼人は、釣り道具などは持っている様子が無い。

背中には相変わらず楽器ケースがくっついているが。

「海、海行こうぜ」

「は?ちょっと、朝ごはんもまだなんだけど」

「だから、その朝ごはんだよ」 
 
何がよ、と顔をしかめると、隼人は身体の向きを変えて「ん」と肩に掛けたクーラーボックスを私の方に見せてきた。

「これ、焼いて食うの」





「うん。無理だな!」

「ちょっと、噓でしょ」
 
白鷺地区の端まで連れてこられた私が、なんとも原始的な火起こしに挑戦する隼人を眺めて三十分程経った頃、さっきまでせっせと手のひらで回転させていた木の棒を放り出して立ち上がった。

「魚、焼いて食べるんでしょ。諦めるの?」
 
まさか、こんな方法だとは思っていなかったが。

「んなわけねえじゃん。ほら、こっちも貰って来たんだよね」
 
じゃーん、と取り出したのはライターだった。

「え、じゃあそっちでやれば良かったんじゃないの」

「最初から頼っちゃ、つまんないじゃん」

「つまんないって――」
 
さっきの原始的な火起こしで使う予定だった木くずにライターであっさりと火を点け、クーラーボックスに入っていた魚(キスという魚らしい)にビニール袋入りの塩を塗り、串に刺して焼いた。

着火まで五秒。

さっきの時間はなんだったのかと、呆れながら帽子の鍔を摘まんで深くかぶった私をよそに、隼人は子供みたいな目で、ぱちぱちと皮が弾けて焼けていく魚を見つめていた。

私たち以外、誰もいない浜辺に魚の焼ける香りが漂い、青い空へと昇っていく。
 
境界線が曖昧な空と海の間に、ぼんやりと淡い水平線が緩やかな弧を描いていた。

「この魚どうしたの?それに、その塩とかライターとか。煙草吸うんだっけ」
 
隼人は、口の端から零れ落ちそうになったキスの白身を中指で口に押し込みながら「いや」と首を横に振った。

「ここで知り合った人に貰った。俺はウクレレ弾いてたんだけど、兄ちゃん相変わらずへったくそだなあって仲良くなって」

「へたくそって言われて仲良くなれるんだ」

「だって本当のことじゃん」
 
ひひっ、と笑うと脇に置いた楽器ケースをぽん、と叩いた。

「俺、嘘とか苦手だからさ。ほら、基本的に馬鹿だから嘘を嘘って見抜けないっていうか。だから正直に言ってくれる方が安心するんだよね」
 
妙に納得してしまって、でもそこで頷くのも隼人の言う「馬鹿」を肯定する気がして「そうなんだ」と薄く笑うしかできなかった。

「ことりはもうバイトとかやってんの?」

「ううん……何も」

言いながら、虚しくなった。

良い歳して働きもせずに、実家で時間の感覚も無く暮らしているなんて、世間的には印象は最悪だろう。

島だからって働き口が無いわけじゃない。

小さいがスーパーもコンビニも、ホームセンターだってあるのだ。
チェーン店は無いが、一応飲食店もある。

店の入り口に従業員募集の張り紙も見かけるが、そこに電話をかける勇気は無かった。

「ことりは、こっちに来てから楽しいか?」
 
楽しい?楽しいわけない。
 
普通はみんな、あのビジネス街を行きかう人たちのように働いているのだ。
 
それが当たり前。みんなが社会を動かす歯車となっていて、そんな人たちが作り出した世の中の仕組みに、私はただ甘えて生きている。
 
みんなが当たり前にしている事を、私はしていないのだ。

ここ最近は、取り残されたような気さえ覚える。

「まあ、ね」
 
ツネさんの弁当屋が懐かしい。

忙しいビジネス街の人たちは、店員の私にあまり深く関わってこないし、ツネさんも優しい。

私の唯一の居場所だった。あんな職場、この島にはあると思えない。

人との関りなんて、こちらが逃げても勝手に追いかけてくる。

私が母の娘で、こうして島に帰ってきている事だって、翌日にはあっさり知れ渡っているのだ。
 
父だって、いつこの場所を探し当てるかわからない。

私と母と父との事、この島ではどれ程の人が知っているのだろう。
 
私が母を守れず、母の足かせにしかならず、母の人生においてお荷物でしか無かった私を。

なおかつ、何も恩を返す事すらできないでいる情けない娘の私を、この島の人たちはどう見ているのだろう。
 
怖い。私は人の目が怖い――。
 
隼人は「そっか」とあっさりした反応を示しただけで、キスにかぶりついた。

「俺もさ、朝起きてツネさんの所行ったり、日雇いのバイトで一日終わってるわ」

「ツネさんの所って……家?隼人、家に行ってるの?」

「おう。でもヘルパーさんも来てもらってるし、もう俺が手伝う事なんてないんだけどさ」
 
今度は私が「へえ」と返して、キスの背にかぶりついた。骨が頬に当たって、指でつまんで捨てた。
 
自分が何をするべきか、ちゃんとわかっていて動ける隼人は偉い。
 
そんな言葉が頭に浮かんで、また私の心に虫食いみたいな小さな空洞ができたような気がした。

自分の価値を、生きている意味を感じられなくなるたびに空くこの穴が、そのうち一つに繋がって、大きな空洞になったら私はどうなるのだろう。
 
そこに父という底なしの恐怖が降りかかってきたら、その時、自分の足で立っていられるのだろうか。

今度はちゃんと大切な人を、私をずっと守ってくれた母を、守る事ができるのだろうか。
 
社会から外れてしまった今の自分。
 
父への恐怖が拭えない、そして母を守る自信の無い情けない自分。
 
自分の自信の無さから生まれる、他人の目が怖い自分。
 
様々な不安の壁が日に日に私に迫り、息苦しくなってしまう。


キスは文句無しに美味しかった。

淡白な白身の甘みを塩が引き出す。

ぱりっと焼けた皮が芳ばしくて、ふたりであっという間にキス四尾をたいらげた。

「おーい、ウクレレ君。魚は食えたかあ」
 
起こした火の後始末をしている私たちに声を掛けてきたのは、どこかで見た事のあるような男性だ。

歳は私たちと変わらないくらいだろうか。

古い長屋の玄関前に立つ男性の隣には、彼の腰ほどにも満たない身長の、鮮やかな赤いワンピースを着た女の子が小さな手を振っている。

「食えたー、美味かった、ありがとー」
 
隼人がそう能天気に答えると、男性は満面の笑みで親指を立てて見せた。

女の子が男性を見上げて何か言って――私たちを指さした。

あっちに行きたいとでも言ったのだろうか。手を繋いで砂浜を歩いてくる。

「おはようございます。君はえっと……あぁ、森野さんの娘さんだ。俺んとこの船に乗ってたよね。確か三月か四月くらいだっけ」
 
ああ、もしかして船酔いしてた女性に付き添ってた船員さんでしたか。と私が答えようとすると、隼人が先に「なんだ、知ってたんだ」と目を丸くして私と男性を交互に見た。

「小さい島だからね。特に森野さんはよそから越してきた家だから、耳に入ってきやすいんだよ」

「そうですか」
 
ああ、こういうのが中学生の頃は嫌だったんだ。

男性が「俺は戸波って言います。こっちは娘のあかりです」と、大きな骨ばった手の平で、少女の柔らかな艶のあるおかっぱ頭を撫でた。

あかりちゃんの無垢な笑顔に、私も「よろしくね」と笑みを返しながら、この人たちは私のどこまでを知っているのだろう、と灰色の感情が心の中に不穏な波音を立ててたゆたっていた。

「じゃあ戸波さん、また」

「またね。ことりちゃんも、いつでも遊びに来てね。あかりも、俺と二人の暮らしで退屈だろうから喜ぶし」

「はい。またね、あかりちゃん」
 
二人が暮らす長屋の前で別れ、隼人とふたりで住宅地を歩く。

白鷺地区はまだ回ったことが無いから散策したいという隼人の要望で、ぐるりと一周して帰ろうという事になった。

正直そんなに乗り気では無かったが、何となく断るのも心苦しかった。

上手い具合に隼人の人柄に飲まれている気がする。

「ねえ、その服こっちで買ったの?」
 
民宿や古い家が立ち並ぶ海辺の通りを抜け、恐らくこの地区で一番広い、田んぼに挟まれた道を歩きながら訊ねた。

私の前を歩く隼人のアロハシャツのエメラルドグリーンの背中が、青空の下で海風にはためく。

「ん?あぁ、これ。港近くにある古着屋で貰ったんだ。古着屋だけど、手作りTシャツも作ってるんだって。君、背が高いし歩いてるだけで目立つから、宣伝代わりに着てくれないかってさ。でも気に入ったから何着か買ったんだ」
 
隼人は「Tシャツとかは陽ノ江の民宿に置いてきたから、明日着てくるわ」と付け足して、筋張った筋肉質な腕で額の汗を拭った。

サンダルに纏わりついた砂を振り払い、「暑いけど、本州よりマシかもなあ」と前髪をかき上げる。

耳のシルバーピアスが夏の陽を反射して、鋭い光を放っていた。

ざあっと吹き抜けた風に、広がる田んぼの青い絨毯が、大きく、緩やかに波打った。
 
むっとするぬるい風が、緑の匂いを抱いている。
 
田んぼのなかで立ち尽くしていた一羽の白鷺が、翼を大きく羽ばたかせながら、ぎらつく太陽へと向かうように飛び立った。
 
適当に信号を渡り、気ままに角を曲がり、誰もいない森林公園で、蝉時雨を浴びながら瀬音に耳を澄ませて歩いた。

隣を歩く隼人のサンダルがぺたぺたと乾いた音を立てる。

「ことり、あそこって何?」
 
信号機の上できょろきょろと辺りを見渡しては首を傾げていたムクドリから視線を剥がす。

隼人が指したのは、三つ先の信号機を左に入ってすぐのクリーム色の壁の平屋だった。

玄関前のトタンの日よけの下に、何やら十人以上の人だかりができている。

玄関横には《白鷺公民館》と筆で力強く描かれた木の板が掛けられていた。
 
その中から、ひとりふたりと会釈をしてから抜けていく人もいるが、一人一人の顔がうっすらと確認できるくらいまで近寄ってみると、丁度玄関から黒いワンピースを着た母が出てきた。

仲が良い人なのだろうか、並んだ二人の隣に磁石のように引き付けられて母も並んだ。

よく見ると、ひとりはツバキさんだ。

その隣は、田所さん。相変わらず黒い。

「あら、ことり――まあ、隼人君だったわよね、こんにちは」
 
隼人が「こんにちは」と満面の笑みで答えると、田所さんが「なんや兄ちゃん、ことりちゃんの友達やったんかいな」と含み笑いをしながら私と隼人を見やった。

知らない間に、島中の人たちと知り合いになってるんじゃないだろうか。

何となく私の方がよそ者な気さえしてくる。

「ツバキさんも来てたんですね」
 
私よりもずっと慣れた口調で隼人が訊くと、ツバキさんも「先週はお店開けてて来られなかったから」と手のひらを頬に当てた。

「お母さん、もう隼人の名前も知ってたの?」

「一昨日よね?夜勤明けで帰って来る時に道端で会ったのよ。ことりちゃんのお母さんですかって。自己紹介くらいしかできなかったから嬉しいわ。お弁当屋さんの子でしょ」

「そうです。へえ、話してくれてたんだあ」
 
まるでご褒美を貰った子犬みたいな眼差しを向けられて、私はそっと視線を公民館へと逸らした。

「だってこの子から男の子の話を聞くの、隼人君だけだもの」

「ちょ、余計なこと――」

「ったく、結局何にも決まんないんじゃ、来る意味なんて無かったじゃないか」
 
ひと際大きな不満声を上げたのは、公民館から出てきた無精ひげを生やした大男だ。

頭に巻いた紺の手ぬぐいには、荒々しい白文字で《居酒屋 塩梅》と書かれている。

「さっさと取り壊しちまえば良いだろ。置いてたってほら、こういうよそ者のガキの遊び場にされるんだからよ。治安が悪くなっちまう」
 
よそ者のガキとして、無遠慮に無骨な指をさされた隼人が「俺?」と私を見た。

私は小さく首を捻って母を見ると、母は困ったように眉をひそめて笑うだけだ。

「やめぇや、チョーさん。この子はことりちゃんの友達や」
 
田所さんが二十センチは背の高い大男――チョーさんの背中を叩いた。

チョーさんはちらりと私を見ただけで、それでも不満な表情を浮かべたまま「仕込みするから帰るぞ」と大股で去ってしまった。

ツバキさんも「気にしないのよ」と言ってくれたが、私はチョーさんとは全くと言って良いほど面識も無いのだから、ああいう態度になるのも仕方ないのかもしれない。

引っ越してきても三年しか島におらず、居酒屋を経営する彼とは生活する上での活動時間も恐らく真逆だ。

島の行事にも参加しない私の事も、隼人と同じ、よそ者、の括りに入れられてしまうのも無理はない。

「空き家の使い道、決まんなかったの?」
 
私の問いに母が答えるよりも先に、隣にいたツバキさんが「なかなかねえ」と、空き家の状況を教えてくれた。
 
白鷺地区の田園が広がる地域に、もう十年以上使われていない空き家があるらしい。

元は民宿だったらしいが経営していた夫婦の旦那さんが高齢で亡くなり、現在の所有者である奥さんも近いうちに施設に入るのだそうだ。

一時は取り壊す話も進んでいたが、長年営んできた民宿が恋しくて、どうしても残しておきたいと奥さんの強い希望でこういう話になっている。

だから誰かに使って欲しい、と言うのだが、建物は築五十年を超えていて中も荒れ放題。

観光に来た若者が廃墟はSNS映えすると言って荒らして帰るらしい。

なので、使うにしてもまずは大掛かりな片付け、その後は改装して……となると、誰もそんな面倒な事はしたくないと言うのが本音なのだ。

結局、二週連続でこうして集会を開いて利用希望者を募るも、誰も手を上げずにお通夜みたいに頭を垂れる時間が一時間続くだけだったと言う。

「役場の黒猫キッチンの後は、使い道も早く決まったのにねぇ」

「そりゃ、あそこは立地も良いし、何より役場だから」

「そうよ、綺麗だもん。あんなお化け屋敷じゃ――」

「あんた、そんな言い方やめなさいよ。民宿だった頃は人も沢山来て良かったのにね」

「日本一周してる人とか、定年した夫婦ののんびり旅とかね」

「雰囲気も良いってんで、テレビの取材も来たよな」

「まああの頃は、今ほど店も無かったから」

「今となっては、廃墟とか心霊スポットとして有名になっちまって」

「とりあえず、さっさと何とかするなら決めたいもんだね。台風のたびに、屋根やら何やらが、周りの田んぼに飛んできそうだから」

「ほんと、今となってはとんだお荷物よ」

「だから、そんな言い方やめなって……」
 
口々に言いたい放題した人たちが「じゃ、俺はそろそろ失礼するよ」と一人が言ったのをきっかけに「私も」「俺も」と解散しようとしたその時――

「じゃあ、俺やります」
 
は?
 
それまで島民のやりとりを何も考えていなそうな顔で眺めていた隼人が手を上げていた。

いや、あなた完全に部外者でしょう、と心の中で突っ込みながらも、私の口はぽかんと開いたまま呆気に取られてしまう。

「なんや隼人君。君はことりちゃんところに遊びに来とるだけやろ」
 
私と同じように呆気に取られた島民のなかから、最初に声を上げたのは田所さんだった。

「まあ、そうなんですけど。でもこっちに引っ越しても良いかなあって」

「……え?そうなの?」
 
私が訊ねると、隼人は涼しい顔で「まあね」と肩をすくめる。

「使い道があるなら良いけど、あんなの君だけでどうにもできんだろ」

「そうよ、第一何に使うの?あまり変な事に使われると、私たちも困るのよ」

「そうだぞ、一応人様の持ち物だから」

「こういうことは安請け合いしない事よ」

とまあ、当然ながら手放しで喜ぶ人などいない。

みんなの顔を見る限り、苦笑いするか、難しい顔をするか、あきれ顔か。

輪から外れたベンチに座っている私たちくらいの歳の女性なんて、興味がないのか、暑いのか。ぼーっと顔を空に傾けながら、目を瞑っている。

流石の母も「皆さん、すみません。きっと隼人君も気を使って言ってくれただけなんです」と申し訳なさそうにぺこぺこ頭を下げながらフォローした。
 
そんな母を前にしても、隼人は全く変わらない口調で言った。

「そこで店をやります。詳しいことはこれから決めますが」
 
そして、ふいに私と目を合わせたかと思うと

「なあ。ことり」

「は?私?」

「俺、ことりと一緒に店やります」


公民館を離れ、陽ノ江の港まで来た私は、灯台の麓の堤防に腰を下ろした。

「はい、ことりの分」

「ありがと。ねえ、さっきの事だけど」
 
隼人が自動販売機で買ってきてくれたサイダーを受け取った。

火照った頬にペットボトルを当てると、ひんやりとして気持ちが良い。

 たぷん、たぷん
 
コンクリートの堤防に寄せる波が甘やかな音を立てている。

「ああ、空き家の?」
 
隼人も隣に座り、足を海に放り出す。

サンダル履きの足を前後に揺らしながら、ゆっくりと深呼吸した。

「本当にやるの?」

「もちろん」

「私も?」

「当たり前じゃん」
 
隼人がサイダーの蓋を捻った。

 ぷしゅっ

爽快な音と共に、しゅわあと泡が透明なサイダーの中に湧き上がる。

「なんで私まで……」
 
できるわけない、という考えしか浮かばない。

高卒で就職した会社は数年で辞めてしまい、弁当屋の厨房しかやったことが無い私に何が出来ると言うのだろう。

まして空き家、廃墟同然の家を。

「だって、ことり。俺に敬語使わなくなったし」

「へ?」
 
そういえばそうだった。というか、忘れてた。

「そうだけど……それの何が関係あるの」

「あるある。大いにあるね」
 
隼人はサイダーのペットボトルを大きく傾け、一気に飲んでいく。

ごくっ、ごくっ、と上下する喉は、汗を滲ませてきらきらと光っていた。

「敬語が無くなった俺らに出来ないことは無い」

「なにそれ」

「ことりは真面目なんだよ。真面目ってさ、すげえ良い事だけど、そのせいで考えすぎて息苦しくなるなら、そういう時には――」

そう言うと、親指を立てて自分自身の胸の辺りを指して、にっと笑った。

「俺みたいなのが必要なわけよ」

な、と得意気に目を細めて見せた。

「ごめん、意味わかんない」
 
隼人は「えー、ちょっと。俺、ただ滑っただけじゃん」と頭を抱えた。

そして顔を上げて立ち上がったかと思うと「要するにー」と両手をパイナップルのアロハの腰に当てる。

「居場所は俺らで作っちまえば良いじゃんって、は、な、し」
 
語尾に星でも付きそうな口調で言いながら、残っていたサイダーを一気に飲み干して、思い切りむせた。

「強引過ぎでしょ」

「ん?なに?」

「別に」
 
はー、とゆっくり息を吐きながら、両手を後ろについて空を見上げた。
 
白壁の灯台の周りを、のんびりとトンビが旋回していた。
 
できるわけ、ないでしょ。
 
そう思いつつも、隣で「海って良いよなあ」なんてお気楽に呟く隼人の声を聞いていると、そんな考えすらも、柔らかな波音がさらってくれるような気がする。

海風がそっと私の前髪を持ち上げる。
 
何かやるとしたら、何ができるだろう。

「ことりは何がしたい?」

私の心を読んだみたいなタイミングで、隼人がそう言った。

何がしたい、か。
 
自分の居場所を作る。この島に。隼人と二人で――。
 
ツネさんの弁当屋の日々が、雲一つない青い夏空に淡く浮かんだ。
 
またあんな風に料理をして、誰かに食べて貰えたら楽しいだろうか。

誰かにとっての止まり木になれるような、そんなお店は素敵かもしれない。

「まだわかんない、かな」
 
そう空に呟いて、サイダーを飲んだ。
 
ずっと鈍い鉛色の靄が掛かっていた気がする心が、少しだけ晴れて。

隣で隼人が引き始めたウクレレの、お気楽でちょっぴり眠くなるような優しい音色を聞いていると、私の心にも、この清んだ夏の青空が顔を出したような気がした。
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