ことりの台所

如月つばさ

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第二話 津久茂島・風の丘地区

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津久茂島。

本州から橋一本で繋がる島だ。

土地面積はおよそ二十五平方キロメートル。人口は五千人弱。年齢層は高齢者が半数を占めている。

ここで生まれた子供は高校からは本州の学校に通う事になる。
実際、私も本州の高校で寮に入った。

小学校は島全体で三校。中学は一校しかない。

昨今の田舎ブームの波に乗って、移住者は増えてきているものの、定年後の夫婦だったり、単身者が多く、子供の数は伸び悩んでいるようだ。

船の甲板の手すりにもたれ、次第に近づいていく港に目を細める。

この船の乗客の家族や友人だろう。津久茂港の堤防に人影が見える。
遠い記憶の片隅にあるような顔も二人ほどいる。
 
と言うのも、私がこの島で暮らしたのは中学三年間だ。

それまでは、両親の離婚後に母子生活支援施設で小学校四年生まで暮らし、施設を出てからは大阪で二年。

その後、母が地方移住支援というものを知り、介護に従事する事を条件に津久茂島にやって来た。

母が地元の人たちと懸命に親交を深めようとしているのを横目に、思春期の私はとてもそんな気になれず、殆ど家と学校の往復で島暮らしを終えていたので、挨拶程度しか記憶に無いのが正直なところだ。
 
次第にスピードを緩めながらも、船の浮遊感に飲まれないように足を踏ん張った。

船酔いをする体質じゃなくて良かった。

少し離れたベンチに座る女性が、前のめりになって、足元の大きなリュックに顔を埋めていた。

その隣では、日焼けで真っ黒の若い船員が付き添っている。

「あっ、お――」
 
うっかり「お母さん」と手を振りかけて、我に返って辞めた。胸の前まで上げた手は、意味も無く襟元を掴む。
 
母だ。
 
介護の夜勤中にぎっくり腰になったと嘆いていた母が、迎えの人たちの輪から一歩離れた後ろからこちらを見ていた。

何となく、猫背になっているような。

「おかえり、ことり」

一番最後に船から降りた私を迎えに、母が亀のような歩速でやってきた。

「ただいま。ねえ、腰痛いんでしょ」

「大丈夫よ。バスで来たし。痛み止めも飲んできたから」
 
声は電話で聞いていたし、母からの写真も昔は携帯で――今はスマホで送ってもらっていたから何となくわかってはいたものの、実物の母は写真で見るよりもしっかり老けていた。

今年で四十八歳になる母のほうれい線は化粧気の無い頬にくっきりと刻まれ、元々のたれ目は筋肉が落ちたせいか更に垂れ目に。

乾燥気味のショートカットの髪には白髪が目立っていた。

白い半そでのワンピースシャツに、靴下履きの茶色いつっかけ。

ワンピースのポケットからスマホを取り出した母は「一時間に一本しかバスが無いのよ。タクシーを呼ばないと」と、人差し指で画面をスライドし、タップする。

その手元は不自然な動きで胸の前で前後していて、私は思わず

「老眼?」
 
と聞いてしまった。母は画面を見たまま顔をしかめて苦笑した。

「そうよ。本当、人間って駄目になる時は一瞬よ」

母が呼んだタクシーが港に着いたのは十分後だった。

タクシーに乗り込むやいなや、運転手のおじさんが「森野さん、こんにちは」とルームミラー越しに会釈をし、そのまま視線を左にずらして私を見た。

「娘さん、帰って来たの。久しぶりだねえ」

とまるでよく知った間柄の様に言われ、私は運転手さんと自分がどこで会ったのか思い出せないまま「お久しぶりです」と返した。

助手席側に立てられた名札には、ちょっとわざとらしいような黒々とした七三分けヘアのタヌキ顔のおじさんの写真と、丸山幹夫という名前が記されていた。やっぱり覚えていない。
 
港から山沿いに進み、島の中心部でもある津久茂商店街を抜け、私の母校でもある津久茂中学を横切る。大通りを走り、道路標識が現れた。

直進すると白鷺地区、右に曲がれば風の丘地区だ。

タクシーは右に曲がり、住宅街を抜け、田舎ならではな広すぎる坂道を進むと、母の住む――私が中学三年間を過ごした集落が見えた。
 
ここ風の丘地区は、集落の周りに緩やかな丘や山々が連なり、人々が住む村は窪地になっていて、私たちが今いる丘の道から見ると、大きなお椀のなかに広大な畑と、ぽつぽつと民家が並んでいる。
 
さっき標識に見た白鷺地区は、水田が広がり米作りが盛んな集落だ。

この島で一番栄えている、商店街と津久茂港のある陽ノ江地区。

陽ノ江地区の隣にあるのが、大きな津久茂川が流れる星野地区で、あそこは牛や鶏なんかを育てていて、中学の校外学習の一環でアイスクリーム作り体験をした記憶がある。

そんな津久茂島は車で一周するなら一時間程度でできてしまう。

狭い島での暮らしは、人と人との関りも密接だと、島に来る前の施設での生活で聞かされていた。

施設で唯一仲の良かった子が、施設に来る前に住んでいた場所がそうだったと言っていたのだ。

本人はそれをネガティブな事としては捉えていない様子だったが、思春期の私はそれが煩わしいと思ってしまった。

島に来ても、やっぱり大人どころか同級生ともあまり上手く馴染めなかった。

子供同士で話しているつもりでも、あっという間に大人にも広がって、知らない人にまで私の事を知られてしまう。

探られたくない事まで根掘り葉掘り聞かれるのかと思うとぞっとした。
 
私がタクシー代を支払い、お釣りを受け取る際に振り返った丸山さんの顔を正面から確認したが、やっぱり記憶に無い。

毛虫みたいな太い眉毛も、どうみてもカツラに見える七三分けの丸いタヌキ顔も、やっぱり覚えていなかった。

自分の家の前に立っても「懐かしい」という感情は抱けなかった。

地方移住者支援で紹介された中古の二階建て一軒家はまるであの頃と変わっていない。

甲高い音で軋む錆びた門扉も、そこに針金で括り付けただけの赤い郵便受けも、丸い石が玄関まで蛇行する狭い庭も、玄関の引き戸の音も、どれを聞いてもまるで「他人の家」だ。

普通であれば、こういう時は何とも言えない郷愁を感じたり、しみじみ思ったりするのだろう。

自分自身がいかに無感情に三年間を過ごしていたかを改めて確認したようで、同時に自分の子供時代が酷く空虚に思えた。
 
二階にある私の部屋は、中学時代で時が止まっていた。

掃除や空気の入れ替えで母が立ち入った形跡はあるものの、箪笥の上の技術の授業で作った木材加工のオルゴールは、一音も欠けることのないSMAPのライオンハートを奏でていたし、修学旅行のお土産で買った柴犬の博多人形がテーブルの上に、ひよこ饅頭の上蓋が壁に飾ってある。
 
キャリーケースを部屋の隅に置き、窓を開けた。
爽やかな青い風が部屋を巡った。

つい今朝までいた町とは随分と違う爽快な風が、私の前髪をかき分けて額を露わにした。
 
風の丘地区を囲う低い山々は、所々が淡いピンク色に染まっていた。

家の裏側に当たる眼下に広がる畑には、もんぺ姿の人の丸い背中からお尻にかけてが見える。

作業の合間に何度も背中を反らして伸びをして、また丸くなる。
見る限り高齢女性のようだ。

畑の脇には自転車が止めてあるから、少し離れた住宅地の人だろう。

この家は風の丘地区の入り口に位置し、向かいの大きな日本家屋と、徒歩二分くらいの距離に二軒の家が点在している。

この場所から畑沿いに十分ほど進んだ向こうは住宅がここよりも密になって建っていて、個人経営の居酒屋や商店なんかがあったはずだ。

こことあちらの住宅地の間には、ただひたすらに道の左手に畑が広がっていた。

反対側は土手があり、道の途中からは桜並木になっている。

土手の向こう側は、津久茂川の支流となるとても穏やかで浅い川が村を縦断している。
 
この地区は土の匂いがとても濃い。

そしてその畑に実る作物や花で、彩り豊かな地域だ。

見える景色は、十年前と何ら変わっていなかった。
 
そんな、土のツンとする匂いを打ち消すように、カレーの匂いが漂ってきた。

一階に降りると、母が昼間に作ったというカレーを、夕飯には少し早いけど、と温めてくれているところだった。

流し台と反対側の壁に掛けてある時計は五時を指していた。

「私がやるよ。お母さんは向こうで休んでて」

「良いの、これくらい出来るから」

椅子に座ったまま鍋をかき混ぜていた母の手から、少し抵抗されながらもお玉を取り上げ、隣の十二畳の居間に連れて行った。

私の記憶にあるよりもしっかり老けて、そしてしっかり脂肪もためこんだ母の二の腕は、萎みかけた水風船みたいだなと思った。

「ねえ、明日どこ行こうか」

「いや、どこ行こうって……」
 
まるで幼稚園児くらいの子供に訊ねるみたいに、母はスプーン片手にテーブルに身を乗り出した。

私はスプーンにすくったカレーに息を吹きかけて、ゆっくりと口に運んだ。

私が好きなとろとろカレーだ。とろとろ、というか最早どろどろカレー。

大きくてところどころが煮崩れたじゃがいもが入ったポークカレーだ。

あぁ、お母さんのカレーだな、と味わいながら次のカレーをスプーンにすくう。

「商店街にちょっと洒落たカフェが出来たのよ。二カ月前だったかな。ほら、うちの地区の田所さんのお孫さんがやってるのよ。浩二君。覚えてない?ことりと同級生よ」

「へえ……」

田所、田所、と頭の中で唱えてみたけど出てこない。

浩二君という名前にも覚えがない。女子の輪にすら入れない私が男子の名前なんて覚えているわけ無いのだが。

「いや、その腰で行けないでしょ。治ってからで良いよ」
 
どうせ覚えてないし、と心の中で独り言ちてまたカレーを頬張る。

美味しい。カレーは飲み物だなんて言う人がいるけど、私もそうかも。
 
母はどうしても私とどこかへ出かけたいのか「じゃあもう少し近場でお散歩とか」などと食い下がって来たが、どうせ私はもうここに住むのだから、と説得すると諦めて「そうね」と、散歩を断られた犬みたいにしょんぼりしながら再びカレーを食べ始めた。

てっきり母の肉付きの良さを見ていると沢山食べるのかと思っていたけど、そうでも無いらしい。

結局その後おかわりした私とは対照的に、お皿に残っていた一杯のカレーすら「お腹いっぱいになっちゃった」と言い出したので、それも貰う事にした。

私は二杯半食べた事になる。

別に嫁に行く予定も無いのだから、私の身体など私がどうしようと勝手だ。

今のところ平均体重だが、まあ増えたってどうでも良いから気楽なものだ。

夜になると、ちょっと外に出てみようかという気も起きたが、あの様子だと母まで「私も」とか言い出しそうな気がして、やっぱり止めた。
 
十年も前で時が止まったままの自室の窓辺に座る。

お腹は満腹。風が気持ち良い。

昼間はあんなにも青々としていた風景も、今はすっかり夜の闇に沈んでいた。

黒い山々の稜線が村を囲み、遠景には民家の明かりが黄色く灯っている。

民家の裏手の山の中腹あたりには、赤い灯火が浮かんでいる。

確かあそこは神社があり、母と初詣に行った記憶がある。

こぢんまりとした神社ながらも、歴史は古い。

寺社仏閣に興味がある観光客がぽつぽつと訪れる、マニアックに分類される神社だという事を、私は何年か前に本屋で手にした世界の隠れ絶景写真集という本で知った。

実際に絶景だったかどうかは、初詣という夜中にしか行っていない上に、寒すぎて足元しか見ていなかった私にはわからない。
 
今朝まではコンクリートだらけの町にいて、昨日まではオフィスビルの群れの中で働いていたのに、今は海に囲まれた小さな島で、こうしてひと気のない田舎の風景を眺めている。

ここに戻るつもりはなかったのにな、とひとつため息を吐いた時、部屋の隅にキャリーケースと一緒に放り出していた鞄の中から、スマホの籠った振動音が聞こえてきた。
 
まさか、と思った嫌な予感は的中した。

父だ。

三十秒ほどで留守電に切り替わるが、そのまま電話が切れた。

それでも昨日までの焦燥感は無かった。

アパートは夜明け前に出てきた。
早いうちに少しでも遠くに行って、そこで時間を潰し、津久茂島への船の時間を調整すれば良い。

父に引っ越しを悟られないよう、この数週間気を付けてきた。

引っ越しの荷物は極力最低限に抑え、梱包が大きくなるものは廃棄してきた。

元々テレビを置いていなかったり、衣類も仕事に着ていく数着と部屋着しか無かったのもあって、宅配の荷物は箱ひとつで済んだ。

不動産屋の退去立ち合いも、事情を伝えるとスーツではなく普段着に近い格好で来てくれて、良い人なのも救われた。

父はきっと、もぬけの殻になったアパートを見て愕然として電話をよこしたのだろう。

 スマホ、解約しにいこうかな。
 
母とここに住むのであれば連絡を取る必要も無いし、どうせ友人もいない。

別に調べものがしたければ、陽ノ江地区にある役場に併設された図書館にでも行けば良い。

車は無くても自転車で行けるし、どうせ暇で時間は余りある。

父はこの場所を知らないようだし、恐らく父の目的は私ではなく母だ。

あんなに執拗に追いかけまわしているのなら、母の傍にいた方が良いだろうと思って今回の引っ越しを決めた。
 
その日の夜、久しぶりに夢を見た気がする。

特に何が起こるわけでも無い夢。何気ない、あの弁当屋での日々の夢だった。
 
隼人がお客さんから注文を受けて、私が狭く使い込まれた厨房で総菜を作っていく。

お客さんが「ありがとね」と弁当を持って帰り、仕事終わりにはツネさんに野菜を貰って自転車かごに乗せて帰る。

『一緒に帰らない?』
 
隼人の軽い口調が懐かしい。

夕景に浮かぶ脳天気な笑顔は、オレンジ色の強い西日に包まれて見えなくなった。




「あっつ……」
 
布団の上で仰向け状態の目覚めは最悪だった。

触らなくても背中が湿っているのがわかる。

前髪の生え際をちょっと擦っただけで汗がべっとりと指先についた。

視線だけで頭側の壁掛け時計を見上げる。

十時五十分。

青い遮光カーテンの隙間から漏れる陽の光は、引きこもり中のアラサーの眼球には刺激的過ぎて顔をしかめた。
 
五月に入ってから島の気温はぐんぐん上がり始めた。

まだ夏どころか梅雨前だというのに二十七度を超えている。

津久茂島は海に囲まれているものの、あまり湿度が高くないというのが特徴なのだが、流石に梅雨も近くなると湿度は上がって来る。

特にこの家。母が虫に入られるのが嫌だからと家中の隙間という隙間を埋めたお陰で、虫には入られる頻度が減ったものの、湿気が籠りやすくなったように思う。
 
一階に降りると、母は仕事に出た後だった。

冷蔵庫にオムライスが入ってます、温めて食べてね。ケチャップは冷蔵庫の扉の右側です。

と私よりもずっと丁寧で几帳面な小さな字で書かれたメモが、居間のテーブルにの残されていた。

隅には、にっこりにこちゃんマーク。こういうのも、私が子供の時から変わらない。
 
あれから母の腰はすっかり良くなり、これまで以上に頑張らなくちゃと昨夜も随分と意気込んでいた。

オムライスを食べ、シャワーを浴びてからまた部屋に戻った。

こっちに来てからずっとこれの繰り返しだ。

満腹の二十六歳女は、畳んで積み上げた布団に上半身を乗せるようにして大の字になった。

これぞ食っちゃ寝。

開けた窓の向こうの電線に止まった一羽のカラスが不思議そうにこちらを見ている。

小首を傾げて、カアー。あいつ何やってんだ?とでも言っているのだろうか。

カラスはしばらく私を観察した後、ばさばさと黒い翼を羽ばたかせてどこかへ行ってしまった。
 
その日は午後二時を過ぎると薄雲が掛かり始め、気付けば雨が降り出していた。

というのも、私はうたた寝していたのだ。

怠惰な私を起こしたのは雨の音ではなく、古臭いチャイムの音だった。

「あらあ、ことりちゃん?引っ越してきたって聞いてたのに姿を見ないからどうしたのかと思ってたら」
 
玄関に立っていたのは、今どきそんな髪型をどこでして貰うのか気になってしまうような見事な大仏パーマのおばさんだった。

母よりは年上だろう。はっきりした頬骨に、傘を持つ手とは反対の右手の掌を当てながら

「大きくなって。おばさん覚えてる?ほら、お母さんがツバキさんって呼んでるでしょ」

と言われて、ようやくこの島に来て初めて人の名前と記憶の中が一致した。

ただ、私の記憶にあるのは大仏パーマのおばさんではないが。

「ツバキ屋さんの」

私が思い出した、というように声を上げると

「そう、ツバキ屋の椿マサエ。もうおばさんになっちゃって、わかんなかったわよねえ」
 
ツバキ屋は向こうの住宅地にある個人商店だ。

雑貨や文具などを取り扱い、私も学生の頃はノートなどを買いに行ったので、ツバキさんの事は覚えていた。

大らかで声が大きい人というのが印象に残っていて、今はその「大きい」に体のサイズも加わっている。

「ちょうど前を通ったらベランダに洗濯物が出てたから。声かけなきゃと思って」

「ありがとうございます。取り込んでおきます」
 
母が仕事前に干していった物だろう。

ツバキさんが帰った後、洗濯物を取り込んで片付けた私は、またやる事が無くなって部屋に戻った。

しとしとと降る雨音と共に、むっとした湿気と緑の匂いが入り混じる。

正午を告げる音楽が、村に静かに響き渡った。

洗濯物を取り込む以外何もしていない私の腹の虫は完全に息を潜めている。

三月まではこの時間はとても忙しかったな。隼人が次々に注文を受けて、私はひたすら厨房で料理をして。

考えれば考えるほど、心の中まで今日の空みたいな灰色の分厚い雲に覆われてため息が出る。
 
天井の木目が私を見下ろしていた。

何の生産性もないこの時間も嫌いじゃないけれど、こんなに毎日続くと、流石に少し焦りが生まれる。母以外、会話する相手もいない。

「ツネさん、元気にしてるかなあ」
 
私の事も少しずつ忘れてしまうのだろうか。私は忘れないけれど、相手もそうだとは限らない。
 
思えば、両親が離婚してこんなにも年月が経っているのにも関わらず、私は父に振り回されてばかりだ。――なんか悔しい。
 
よいしょ、と少し重くなったような身体を起こし、勉強机の引き出しを開けた。

中学の時、特に相手もいないのに一目惚れで買ったレターセットを机に置いて、椅子のネジを回して座面を下げてから腰を下ろした。
 
手紙を書き、畑沿いの道にポツンと佇む赤いポストに投函した。
それから一週間後に返事が来た。

【ことりちゃん、元気そうで良かったよ。僕も元気だけど、閉店した弁当屋の片付けの時に転んでね。隼人君がよく様子を見に来てくれているよ。ことりちゃんの新しい暮らしはどうですか?確か、津久茂島って言ってたね。いつだったか、テレビ番組で特集していたのを見て、良い所だと思ったのを覚えています】
 
読みながら「へえ、隼人が」と呟いた。

今までの恩もあるとはいえ、辞めた職場の雇い主を気遣って見に行くなんて、誰でも出来る事でもないだろう。

ノリが軽くて能天気な彼なりに良い所もあるんだな、なんてちょっと微笑ましく思って返事を書いた。

良かったですね。安心しました。津久茂島はとても静かで良い所です。

と、ツネさんがそれ以上手紙を書かなくても良さそうな文面で送った。

それでとりあえず終わるつもりだったのに、それから二週間近く経って、また手紙が届いた。

【ことりの親父だって人が店に来たよ。もう辞めたから知らないって言っておいたけど、結構しつこく居場所を聞かれた。大丈夫か?】
 
達筆な文字で書かれた文章の最後には、水島隼人と記されていた。



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