おにぎり食堂『そよかぜ』

如月つばさ

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蛍の季節

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 午前6時。

 シトシトと雨が奏でる音を聴きながら、お鍋の中の小豆を丁寧にかき混ぜています。

 深みのある赤紫の小豆がトロトロになり、やがて溶けたら四角い型に移します。

「あとは冷やすだけね」

 冷蔵庫で固めたら、滑らかな口当たりのとても美味しい水羊羹の完成です。

 嘉祥の日は過ぎましたけれど、お客様のご要望で用意しています。

 いらっしゃるのはお昼です。

 あとは、天ぷらとおにぎりは梅干しが良いとも仰っていました。

 ふふっ。お客様がどなたか、もうわかった方もいますでしょうか?


「ぽんすけ。これを頂いてから、もう1年も経つのね」

 店先で丸まっているぽんすけの側に立って、入り口の柱に掛けてある写真を眺めます。

 得意気な表情でお座りをする、ぽんすけの写真。

 とっても可愛らしいそれは、私にとってもお気に入りの物です。

「この食堂を始めてからも1年が経ったのよね」

 ゆっくりとした時間の流れを感じられるこの場所ですが、やっぱり過ぎてみればあっという間。

 色々な想い出に耽っていると、階段を降りてくる足音が聞こえてきました。

「おはようございますー。あれ、甘い匂いがする」

「あら、葉子さん。おはようございます。水羊羹を作っていたんですよ」

 不思議そうにキッチンできょろきょろする葉子さんにそう言いました。

「ひゃーっ。まだこんな時間なのに、畑の世話もしてから作ってたんですか?」

「えぇ。でも雨も降ってますから、畑の世話は少しだけですよ。今日のお料理に使う大葉も収穫しなきゃいけませんでしたし」

 私はキッチンに戻り、炊いておいたご飯ときゅうりのぬか漬け、お味噌汁、卵焼きをお皿に取り分けていきました。

 葉子さんは「手伝いもせずにすみません」と申し訳無さそうに手早くエプロンを着け、お茶を淹れたりテーブルを拭いたりとしてくださいました。


 午前9時。

「晴れてきましたねぇ。久々の青空!」

 窓際の植木にお水をあげながら、葉子さんが窓を開けて嬉しそうに仰います。

「五月晴れですね。今夜は沢山ホタルが飛ぶんじゃないかしら」

「ゲンさんですね!良いタイミングで良かったですねっ」

 そう。今朝の羊羮を予約して下さっていたのは、写真家のゲンさんこと、野上源さんです。

 昨年、初めていらして召し上がった羊羮や天ぷらを気に入って下さったようで、是非今年もとお電話をいただいていました。

「お昼に来るんですよね?じゃあせっかくのお天気だし、ぽんすけのお散歩でも行ってこようかな」

 お散歩道具の入ったバッグを手に取ると、ぽんすけも気が付いたようで、嬉しそうに葉子さんの周りを走り回っていました。

 葉子さんがぽんすけをお散歩に連れ出して、残された私は、少しだけ休憩です。

 静かなキッチンの丸椅子に腰掛けて、窓から見える紫陽花を眺めながら、温かい珈琲を飲んでいます。

 青やピンクの紫陽花。

 アナベルという、白い紫陽花。

 雨に濡れて、太陽の光に反射した雨粒がキラキラといっそう輝いています。

 あの中のどこかに、カタツムリもいるのかしら?

 ふとそんなことを考えては、頬が緩みます。

 束の間のティータイム。

 音楽もありませんし、お洒落な装飾があるわけでもない食堂ですが、綺麗な空気と、穏やかな時間。

 開けてある窓や、食堂のドアからは、山々や植物達が見えて、それだけで心が休まります。

 とても幸せなひとときですね。


「ただいま戻りましたー。ほら、ぽんすけ。足拭くよ」

 楽しかった!とでも言うように私の方に駆けて来ようとしたぽんすけを引き止め、葉子さんが泥だらけの足を丁寧に拭いてやります。

「ふふっ。おかえりなさい。ぽんすけもよっぽど楽しかったのね」

「帰ろうって言っても全然言うこと聞いてくれなくて!仕方無いから気が済むまで付き合いましたよー。楽しかったですけどねぇ」

 足を拭いた葉子さんは、苦笑いしながら奥の部屋の洗面台へ手を洗いに行きました。


 午前11時30分。

「ハルさん。天ぷらの衣はこんな感じで大丈夫ですか?」

「えぇ。ありがとうございます。アスパラと獅子唐を用意しておいて頂けますか?」

 私はお味噌汁の田舎味噌を溶きつつ、葉子さんの手元にある天ぷらの衣を確認します。

「はい!お任せくださいー」

 そうして、葉子さんは手際よくアスパラと獅子唐の下準備を始めました。

 お味噌汁の懐かしく、心落ち着く優しい香りがふわりと食堂の中を包みます。

 隣のコンロの土鍋ごはんは、蒸らしているところです。

 ふっくらとした甘いごはんで握る、梅干しのおにぎり。

 ゲンさんのお気に入りです。


 あらかた準備ができた頃、「どうもハルさん!こんにちは!」と、食堂に威勢のいい声が響き渡りました。

「ゲンさん、いらっしゃいませ。お待ちしておりました。葉子さん、ごめんなさい。お茶をお願いします」

 私はそろそろ来る頃だと思い、天ぷらを揚げている最中でしたので、葉子さんにお願いすることにしました。

「お!ぽんすけも元気か?」

 足元に駆け寄ってきたぽんすけの頭を豪快にわしゃわしゃと撫でています。

 ぽんすけが嬉しそうに、小さく飛び跳ねながらはしゃいでいる姿を見て、思わずクスリと笑ってしまいました。

 カラカラと、油の心地よい音が食堂に響きます。

 あとは、このお魚が揚がれば完成です。

「やっぱり天ぷらは良いですなぁ。それは何を揚げてるんですか?」

「キスですよ。今が旬なのでご用意させて頂きました」

 サックリとした衣で揚がったキスは、ほくほくと淡白で上品な味のお魚です。

 今朝、私が収穫したばかりの紫蘇と、アスパラガス、獅子唐も天ぷらに。

 旬の美味しい食材を使ったので、どれも味わい深くて、季節を感じられるものばかりです。

 自家製の梅干しを使って、心を込めて握ったおにぎり。

 お豆腐とワカメの、素朴で優しいお味噌汁。

 旬のキスとお野菜の天ぷらは、お塩でいただきます。

 蒸した梅雨には、さっぱりとした、みょうがの甘酢漬けを小鉢に添えて。

 それらをお盆に乗せて、ゲンさんのテーブルにお持ちしました。

「こりゃあ旨そうだ!いただきます!」

 笑顔で手を揃えたゲンさんは、大きな口でおにぎりにかぶり付きます。

「うん、うん!やっぱり旨い!」

「ふふふっ。そうやって豪快に食べてくださるのも、見ていてとても嬉しいです」

「凄いですねー!私たちも作った甲斐がありますねぇ」

 葉子さんも、キッチンで洗い物をしながら笑っています。

「はっはっは!ここの料理は本当に美味しいですから。シンプルで、懐かしい。不思議と故郷を思い出させるんですよ。まぁ、母親はこんなに料理が上手くは無かったですがねっ。ただ、愛情を感じるんですよ。無性にまた食べたくなる味ってやつですな!」

 懐かしむようにそう言いながらお味噌汁を飲み、キスの天ぷらを召し上がりました。

「ほう、これも旨いですなぁ。塩で食べるのがよく合う。軽いからいくらでも食べられますな」

 そうしてゲンさんは、次々と召し上がり「ごちそうさまでした!」と仰いました。

「ハルさん、あれ。ありますかな?」

 ワクワクとした様子でゲンさんが言います。

「水羊羹ですね?えぇ、出来ていますよ。お持ち致しますね」

 葉子さんがお茶のおかわりを注いで下さっているので、水羊羹をゲンさんの元へとお出ししました。

「この時期に、ここの和菓子を食べんと良い写真が撮れない気がするんですよ。いただきます!」

 ひんやり、そしてふわりと甘味の広がる水羊羹を食べ、温かいお茶を一口。

「あぁ、幸せだ」

 そうしてゲンさんは、ご用意していたお料理を全てを召し上がられました。

「さて、行きますかな」

 ゲンさんはカメラを手に取り、重そうな大きな黒いバッグを軽々と肩に掛けました。

「今年はこのまま晴れそうですし、良かったですね。素敵な写真が撮れると良いですね」

「えぇ、去年は雨でしたからね。まぁ翌日には何とか撮れましたが、今年は一発で撮れそうです。とりあえず、この辺りの景色や植物を撮って、日が沈んだらホタルを撮りに行きます。お、そうだ」

 ゲンさんは思い出したかのようにぽんすけを振り返り「お前さんを今年も撮っとかんとな!」と、ぽんすけにボールを投げて、はしゃいでいる姿を何枚か撮っていらっしゃいました。

「わーっ。ぽんすけ良いねぇ。元気いっぱいの写真が撮れてるでしょうねっ」

 葉子さんも嬉しそうに、その様子を見ています。

「よし、また写真が出来たら持ってくるか送るかしますよ。楽しみにしておいてください」

 ゲンさんはそう言うと、ぽんすけの頭を「ありがとな!」と言いながら、力強く撫でました。

「ハルさん、葉子さん、ごちそうさまでした。料理、相変わらず旨かったです。また来ますよ!では!」

 そうしてゲンさんは、私と葉子さん、ぽんすけに見送られながら、店の前の土手沿いを歩いて行きました。

 この先に、色とりどりの紫陽花が群生している所があるので、そこに行くのでしょう。

 雨上がりの青空の下で陽射しに照らされた草花は、とても綺麗でしょう。

 儚くも力強く舞うホタルは、ゲンさんの腕にかかれば、きっと見る人の心を打つような、とても幻想的で美しい写真になるでしょう。


 見せていただける日が、とても楽しみです。

 もちろん、ぽんすけの可愛らしい写真も。

 ふふっ。今度は何処に飾ろうかしら?
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